They Live by Night
RKOピクチャーズ配給
1949
ニックは1930年代の南部についてはよく知っているんだ。ロマックスと仕事をしていた時も、農業省で仕事をしていた時も、あのあたりにいたんだ。大恐慌の時代はニックの得意分野さ。 ── ジョン・ハウスマン
Synopsis
大恐慌時代の南部。ボウイ(ファーリー・グランジャー)、ティーダブ(ジェイ・C・フリッペン)、チカモウ(ハワード・ダ・シルヴァ)の3人が脱獄した。彼らはモーブリー(ウィル・ライト)の家に身を寄せ、銀行襲撃を計画する。ボウイはモーブリーの娘、キーチー(キャシー・オドネル)と出会い、お互い惹かれていく。3人組はゼルトンという小さな町で銀行強盗に成功した。大金を手にしたボウイはキーチーは駆落ちし、2人は未来のない旅に出る。
Quote
お前は運がいいかもね。連中はあいつをまた刑務所に叩き込むとかしないかもね。あいつはそれより先に殺されちまうかもね。マティ
Production
俺たちみたいな泥棒連中
原作はエドワード・アンダーソン(1905 – 1969)の「Thieves Like Us」という小説である。南部がダストボウルに見舞われ、コミュニティが壊滅的な打撃を受けているさなかの1937年に出版されている。この題名は登場人物のティーダブが、警察や銀行も「俺たちみたいな泥棒だ」というところからきている。
この原作は『夜の人々』がボウイとキーチの物語であることから、実在したボニー・パーカーとクライド・バロウ(通称:ボニーとクライド)をモデルにしていると思われがちだが、実際はもっと生々しい。作者のアンダーソンの甥のロイ・ジョンソンは強盗犯、テキサスの刑務所で終身刑に服役していた。実はこの甥は、別名で殺人を犯しており、オクラホマの刑務所から脱走していた。それがばれると死刑が待っているという札付きの犯罪者だったのである。この甥にアンダーソンは面会に行き、1週間にわたって、犯罪者の生活、世界をじかに聞き出した。この甥が語った世界の話をもとに、アンダーソンが編み上げたのが「Thieves Like Us」という小説である。
エドワード・アンダーソンは、生涯に小説を2編しか書いていない。「The Hungry Man」と「Thieves Like Us」である。前作の「The Hungry Man」にも犯罪者視点の世界が描かれている。
I’ve thought that the difference between a bank president and a bank bandit is that the robbery of the banker is legal. The bandits have more guts.
銀行の頭取と銀行強盗の違いは、頭取のやっている盗みは合法だということだと思っていた。強盗のほうがガッツがある。
アンダーソンは、ハリウッドに移り、ワーナーブラザーズで脚本家として雇われるが、良い評価が得られず、結局また新聞記者に戻る。そのうち、ユダヤ人差別を平気で口にするようになり、ロサンジェルスでの職を失った。地方新聞の記者をしながら生計を建てていたが、ファシズムや反ユダヤ主義への共鳴を隠さず、晩年はスヴェーデンボリ主義に傾倒していったと言われている。
崩壊前夜のRKO
1939年、生活に困ったエドワード・アンダーソンは、ローランド・ブラウンという男に「Thieves Like Us」の映画化権をたったの500ドルという信じがたい値段で売ってしまう。このブラウンは1941年にこの映画化権を自分が書いたシナリオと一緒にRKOに持ち込み、10000ドルで売った。映画化権はそのまま忘れ去られて眠っていた。
ジョン・ハウスマンとニコラス・レイ、そしてハーマン・J・マンキヴィッツは、1946年の初めにハリウッドに到着した。ハウスマンは「That Girl from Memphis」という映画のプロデューサーとして雇われていたが、そのアシスタントという名目でニコラス・レイを雇っていたのだ。そのあいだにハウスマンはRKOが版権所有しているこの小説をニコラス・レイに渡し、映画化のための脚色をさせている。1946年の4月、レイは196ページの初稿を書き上げた。ニコラス・レイはそれまで映画監督の経験は全くなかったものの、ハウスマンの心の中では、この作品を監督するのは彼しかいないと決めていた。
レイは、大恐慌の時代に連邦劇場計画(Federal Theater Project)の活動の一環として、そのころヴァーナキュラー・ミュージックの収集と研究にたずさわっていたアラン・ロマックスのもとで、アメリカ全土のフォークソングを集めるというプロジェクトに参加した。1940年にはロマックスが台本を作成したラジオ番組「Back Where I Come From (1940)」でレイは演出を担当している。これは、ウディ・ガスリー、バール・アイヴスらを起用した、アメリカで初めての本格的なフォーク・ミュージックの番組だった。このプロジェクトを通して、レイは恐慌時代の南部の状況を自らの目と耳で体験したのである。それは、「Thieves Like Us」に描かれているボウイとキーチーのおかれた状況そのものだった。
レイはさらに初稿に手を入れた。前書きにはこう書かれていた。
これは犯罪世界の映画ではない。血に汚れたぞっとするような物語ではない。この物語は優しさに満ちていて、シニカルではない。悲劇的かもしれないが、残酷ではない。これはラブ・ストーリーだ。そして道徳の物語だ。私たちの時代の。
この初稿(脚本ではなく、シノプシスを拡大したもの)は、ピーター・ラスヴォン、ウィリアム・ドジャー、ダドリー・ニコルズら当時のRKOの経営陣からは冷ややかな目で見られていた。映画化のための脚本を書いた経験がないレイに対して、ダドリー・ニコルズは「この原稿は小説みたいだ」と皮肉交じりにコメントしている。ハウスマンはRKO内で運動したが、1946年中に製作の承認は下りなかった。さらに12月には、ジョセフ・I・ブリーンが議長となって検閲部門とのミーティングが行われた。結果はさんざんなものだった。「タイトルにも如実に現れている、社会そのものを告発する」姿勢は、この物語をとうてい受け容れることができないものにしている、と結論した。さらに「政治的な検閲という観点からみて非常に危険だ」ともコメントしている。ハウスマンとレイは、ブリーン・オフィスとの攻防にも備えなければならなかった。
1947年の初頭、RKOの製作部門にドア・シャリーがセルズニックから引き抜かれてきた。「メッセージなど犬も食わない」と吠えるプロデューサーやボスが多いハリウッドで、「映画は楽しくなければならないが、やはり何かを伝えるものでもあるべきだ」と言う41歳のフランクリン・D・ルーズベルト支持者である。しかし、彼が一目置かれたのは、やはりヒット作を作ってきたからに他ならない。ハウスマンはさっそくシャリーにレイの原稿を見せ、2月にはレイが「Thieves Like Us」を監督することが決まった。よく知られているように、シャリーは1947年のRKOでジョセフ・ロージー、テッド・テツラフ、ノーマン・パナマ、マーク・ロブソン、メルヴィン・フランク、ロバート・ワイズら多くの若手に、比較的自由な環境下で監督の機会を与えた。ニコラス・レイはそのなかでも成功した筆頭であろう。
検閲の問題に行き詰まっていたハウスマンは、堅実な脚本家を探し始めた。チャールズ・シュニー(1916 – 1963)は決して経験豊富な脚本家というわけではなかったが、パラマウントで『暗黒街の復讐(I Walk Alone, 1947)』に参加するなど、実力が認められ始めていたところだった。ハウスマンは彼に、ニコラス・レイの原稿から逸脱せずに、脚本に翻訳するよう指示、シュニーはレイと共同で脚本の初稿を5月2日に仕上げた。検閲もスタジオも「Thieves Like Us」というあまりに反社会的なタイトルを忌み嫌っていたが、このタイトルの問題もレイが解決策を思いついた。マリー・ブライアントの持ち歌のひとつ「Your Red Wagon」(ニューオーリンズの方言で”It’s Your Business”という意味)を劇中で使うとともに、タイトルにしたのである。
原稿から脚本に仕上げる段階で、プロダクション・コードを意識した様々な変更が加えられているが、その多くは結果的にこの作品に独特の語り口を与える。実在の土地名は架空のものへの変更され、暴力はスクリーン上で描かれず、示唆されるにとどまった。ゼルトンでの銀行強盗は、逃亡用の車で待つボウイの視点からのみで描かれ、焦燥感が増幅された。物語は、ボウイとキーチーの2人の愛情関係により重点が置かれていく。
ブリーン・オフィスは更にいくつか細かい指摘をしてきたが、脚本の完成は見え始めていた。
キャスティング、そして撮影
もちろん、プロデューサーも、監督も、そしてスタジオも、ボウイとキーチーを誰が演じるかが、この作品の成功の鍵を握っていると確信していた。ドア・シャリーは、本気かどうか分からないが、キーチーの役にシャーリー・テンプルを名前を挙げたと言われる。結局、レイが納得のいくように配役がすすめられた。
ニコラス・レイがファーリー・グランジャーを見かけたのは、ジーン・ケリーの家で開かれたパーティー(別の説ではサウル・チャップリンの家)だと言われている。レイはグランジャーを最初からボウイに配役すると決めていたらしい。だが、レイとグランジャーのあいだの会話は弾まず、グランジャーは訝しく思った。後日レイはグランジャーのスクリーンテストを行い、脚本も早くから渡し、RKOが未知数のグランジャーに異論を唱えても、ずるずると時間稼ぎをして、結局スタジオをねじ伏せたかたちになった。キーチーの役はグランジャーが「共演しやすい女優」として名を挙げたキャシー・オドネルに決まった。
チカモウの役を当時RKOで人気上昇中だったロバート・ミッチャムがやりたがったという話がある。ミッチャムは髪の毛を剃って黒髪にし、「インディアンの銀行強盗」の役をとろうとしたと後年のインタビューで語っている(チカモウは原案ではネイティブ・アメリカンだった)。しかし、RKOは売り出し中のスターが悪役を演じることに難色を示した。チカモウの役は手堅い舞台俳優のハワード・ド・シルヴァにおさまり、役自体も片目の白人となった。
1947年6月23日に撮影が開始された。最初の撮影は冒頭のヘリコプターからの空撮である。ハリウッドの劇映画でヘリコプターからの空撮が試みられたのは、これが初めてと言われている。ロサンジェルスの北東にあるカノガ・パークで撮影は行われた。この空撮はポール・イヴァノが担当、全部で4回撮影し、2回目が採用された。全編を通して登場する空撮のショットはこの日に撮影されている。
空撮以外は、まだ撮影監督になったばかりのジョージ・E・ディスカント(1907 – 1965)が担当した。これより前はアンソニー・マン監督の『必死の逃避行(Desparate, 1947)』の他には短編映画などを担当していたきりだが、『夜の人々』のあと、『ニューヨーク港(Port of New York, 1949)』、『危険な場所で(On Dangerous Ground, 1952)』、『その女を殺せ(Narrow Margin, 1952)』、『優しき殺人者(Beware My Lovely, 1952)』、『アリバイなき男(Kansas City Confidential, 1952)』などのフィルム・ノワール作品で撮影監督を担当した。『夜の人々』では、新人監督のレイとともに、失敗を恐れずに野心的な絵作りに取り組んだ。
主役の2人や、撮影監督は新進気鋭の才能が集められたが、編集はベテランのシャーマン・トッド(1904 – 1979)が担当した。彼の編集した作品にはサム・ウッド監督の『我等の町(Our Town, 1940)』、ジョン・フォード監督の『果てなき旅路(Long Voyage Home, 1940)』などがある。トッドは撮影現場に頻繁に現れ、レイのアドバイザーとしても活躍した。
撮影は大部分RKOのスタジオで進められた。撮影の途中から、ジョン・ハウスマンは「これはなにか特別なものができつつある」と確信したという。1947年の8月に撮影は完了、10月に完成した。音楽はリー・ハーライン(1907 – 1969)が担当した。レイはハーラインの音楽とは別にいくつかの曲を使っている。まず、オープニングのタイトル前のシーン(”This boy and this girl were never properly introduced to the world we live in…”)では、アイルランド民謡「I Know Where I’m Going」のアレンジが使用されている。この曲は評判の良くない男に恋をした女性の歌であり、映画で描かれるキーチーとボウイの恋と呼応している。レイとも関係が深いバール・アイヴスもこの曲を1941年に録音している。また、ボウイ、ティーダブ、チカモウたちが銀行強盗のあとに逃走しているシーンでは、車のラジオから「Going Down the Road Feeling Bad」のメロディが流れている。3人は車を乗り捨て、ラジオが鳴り続ける車にチカモウが火を放つ。火がひろがり、ついにラジオが断線して音楽が失われる瞬間は極めて強烈な印象を残す。この「Going Down the Road Feeling Bad」は、多くの人が「ウディ・ガスリーの曲だ」と言っているが、それは若干違う。確かに、ウディ・ガスリーはこの曲を1941年に録音しているが、源流は20世紀初頭にさかのぼる。アラン・ロマックスによれば、恐慌期に「こんな扱いを受けるのは嫌だ」という歌詞が南部の人々の心に共鳴したのだという。
これは恐慌期、ニューディール期の素晴らしいフォークソングだ。黒人のブルースの形をとりながら、何百万人ものオーキーやアーキー、南部のクラッカー、そういった家も仕事もない人々が歌い、この歌は「怒りの葡萄」の人々のブルースとなったのだ。 アラン・ロマックス
1923年にヘンリー・ウィッターが「Lonesome Road Blues」として録音したのが最初と言われている。グレイトフル・デッドの持ち歌としても有名だ。米国国会図書館のサイトには1943年、FSAのアーヴィン・キャンプで録取された録音が保存、公開されている。この録音を聞くと、この曲がまさしく「怒りの葡萄」の人々のブルースであったことが分かる。
ナイトクラブのシーンで歌われるのは「Your Red Wagon」、マリー・ブライアント(1919 – 1978)が歌っている。この曲はリチャード・M・ジョーンズが作曲、ジョージア・ホワイトが歌った「Little Red Wagon(1936年録音)」が原曲である。マリー・ブライアントは、ミシシッピ州メリディアン生まれの歌手、ダンサーで、1934年にルイ・アームストロングのもとでデビューした。デューク・エリントンのミュージカル「Jump For Joy(1941)」や短編映画「ジャミン・ザ・ブルース(Jammin’ the Blues, 1944)」に出演、ブロードウェイのミュージカル「Begger’s Holiday (1946)」に出演をきっかけに演出のニコラス・レイに見込まれて『夜の人々』に出演した。その後もハリウッドで活躍、ジーン・ケリーなどのダンスのインストラクターでもあった。「Your Red Wagon」は「Your Business」、すなわち「あなたの問題だ」という意味である。
公開の延期
『夜の人々』の公開が遅れたのは、RKOを乗っ取ったハワード・ヒューズのせいだ、とよく言われる。RKOにいた才能ある若手映画人の守護天使だったドア・シャリーが、ヒューズとそりが合わず退社、そしてヒューズは『ストロンボリ』をセンセーショナルに宣伝することに熱心でも、若手たちの新しい作品には理解がなかった。ニコラス・レイ、そして『夜の人々』という映画の視点で見ると、それは外れていないだろう。しかし、RKO、そしてその経営の視点から見ると、若干違った様相が見えてくる。
なぜ、RKOはハワード・ヒューズに身売りされてしまったのか。その点を考えないと、『夜の人々』の公開が延期されていった理由も「ヒューズには良い作品を見抜く目がないから」という一面的なとらえ方になってしまう。
『黒い天使』でも述べたが、1946年はハリウッドにとって興行的に最も素晴らしい年だった。RKOも12,187,805ドルの利益を上げて上々だった。このなかでドア・シャリーが引き抜かれてRKOの製作主任に就任する。そして1947年、崖から落ちたかのように、RKOではすべてが一挙に悪化したのだ。
まず、製作費がかさみ始めた。戦時中からメジャー各社は「A級作品」の質をあげるために、本数をしぼってその代わりに一つの映画にかける製作費を増やしていったが、その傾向に拍車がかかった。RKOの株主、フロイド・オドラムは、もっと製作費を削減するようにピーター・ラスヴォンに書き送っている。ラスヴォンはシャリーにその旨を伝えたが、シャリーのもとで製作費の抑制が行われた形跡はない。また、RKOが過去に行った投資が焦げ付き始めた。RKO所有のメキシコのスタジオが何の成果も上げられず、機能停止していた。RKOの撮影スタジオの引っ越しも計画倒れになり、パテ・フィルムのためにニューヨークに準備したスタジオも、パテ・フィルムをワーナー・ブラザーズに売却したためにまったく機能しなくなった。そして、映画の広告費、宣伝費がかなりかさむようになった。
それに加えて、映画業界全体を悪夢が襲った。興行は1946年を境に一気に冷え込み、業界全体で20%の減収、イギリスでの増税が海外市場での収益を逼迫した。そして10月にはHUACの公聴会が始まり、ハリウッドは全身打撲を負う。特にRKOは、HUACの標的だった。エイドリアン・スコットとエドワード・ドミトリクが槍玉に上げられ、公聴会で彼らを公然と断罪しなかったドア・シャーリーは「Pinko」とののしられた。
だが、問題は業績だった。RKOの業績は「悪化した」という表現にありとあらゆる最上級の修飾が必要なほど、ひどかった。普通の神経の経営者ならずっと心臓発作を起こし続けるほどの悪い数字だ。利益は5,085,848ドル、前年の半分以下である。利益が出ているからいいのではないかと思うかもしれないが、この利益はRKOの劇場チェーンからの数字が救済しているに過ぎない。この年、黒字になった映画は『十字砲火(Crossfire. 1947)』を含め4本ほどしかなく、しかも100万ドルを超えたのは『十字砲火』だけだった。大半は赤字、ジョン・ウェイン主演の『タイクーン(Tycoon, 1947)』、ヘンリー・フォンダ主演の『朝はまだ来ない(The Lone Night, 1947)』は100万ドル以上、ロザリンド・ラッセル主演の『喪服の似合うエレクトラ(Mourning Becomes Electra, 1947)』にいたっては230万ドルを超える損失を出した。株価は1946年の26ドルから10ドルにまで下落した。
RKOの強力な株主、フロイド・オドラムは、HUACの公聴会の後でもドア・シャリーの救済のために方策したりするなど、決して冷酷非情な人間ではない。ただ、ビジネスマンである。自分の所有している株がそこまで暴落すれば、何か手を打とうとするだろう。そして、鼻のきくビジネスマンである。映画産業は転換期に来ていると悟っていた。オドラムはハリウッドから手をひこうと考えていた。
ハワード・ヒューズがオドラムからRKOの株を取得したのは1948年の5月である。その後のヒューズとRKOに関しては様々な逸話があり、フリッツ・ラングの話などは眉を唾で浸して聞く必要があるだろう。製作が混乱したのは間違いない。ドア・シャリーがRKOを離れたばかりでなく、ピーター・ラスヴォンも辞職した。ヒューズは自分が承認した脚本でない限り製作を続行させなかった。当然、多くの製作は停止し、公開予定の作品もお蔵入りする。シャリーは「自分が立て直した会社を離れるのはつらかった」と後年のインタビューで語っているが、それは何かの間違いだろう。彼が在籍した1年でRKOの業績は悪化し、シャリーのクレジットのある映画は全部合わせると487万ドルの損失を出している。シャリーとラスヴォンがRKOを離れたとき、10本以上の映画が未公開で棚に残っていた。業績が悪化している会社を引き継いだ者が、前任者が残したもののビジネス的価値について懐疑的になったり、慎重になるのはごく当然のことだ。『夜の人々』はそのなかの1本だった。
『夜の人々』(製作中のタイトルは『Your Red Wagon』)は1947年の前半に公開予定だった。もともとタイトルの変更にこだわったのはドア・シャリーである。シャリーは「Your Red Wagon」というタイトルが気に入らず、数か月を費やして変更を検討、「The Twisted Road」というタイトルに落ち着いて、1948年の6月まで公開予定がずれこむ。このタイトルで業界関係者にはプレビューが行われる。もうこの時にはシャリーはRKOを離れ、ヒューズが実権を握っていた。プレビューでの業界紙の一致した意見は「この出演者では良い興行は難しい」だった。なかでも、Variety誌は、ストーリーの陰鬱さなどよりも、「タイトルが良くないのと出演者が無名」なのが致命傷だとあからさまに指摘している。むしろこのままで公開すれば、誰からも注目されずに独立系映画館で2本立ての添え物になって終わる運命でしかない。
その頃、ファーリー・グランジャーはアルフレッド・ヒッチコック監督の『ロープ(Rope, 1948)』の撮影中だった。誰が考えても、ヒッチコック映画公開という最大のPRを待ってから『夜の人々』の公開に踏み切ったほうが、「無名の出演者」の危険を犯さないで済む。タイトルももう少し考えてみる必要があるだろう。観客投票によって『They Live by Night』というタイトルに決まった。こうやって経緯を追うと、ヒューズが公開を遅らせたのは、業界関係者の反応をもとに興行的な判断を優先させたからに過ぎないことが明白だ。
最終的な製作費は775,000ドルだった。
RKOは『夜の人々』の公開をまずイギリスで模索した。当時、イギリスは国外で製作された映画の上映を制限しており(クォータ制)、そのなかでRKOがあえてイギリスで公開した経緯は明らかではない。それほどまでにアメリカ国内での反応が冷めたものになると危ぶまれていたのかもしれない。イギリスでもウェスト・エンド・シネマズの映画チェーンは上映を見送り、ロンドンのアカデミー劇場というアート映画専門の映画館が取り上げて公開となった。1949年6月のことである。ここでの評判は上々で、RKOは11月にアメリカでの公開に踏み切った。
Reception
『夜の人々』は、1948年6月末に「The Twisted Road」のタイトルで業界関係者向けのプレビューが行われたため、業界紙はそこでレビューを掲載している。Variety誌の評が明快だ。
素晴らしい出来だが、タイトルも無名のキャストも興行の足を引っ張るだろうVariety
他の業界紙も同じ論調である。
この映画の長所はたくさん挙げられるが、結局スターがいないことには変わりがない。Exhibitor
映画として優れた作品であると誰もが認めていた。イギリスの公開時でもFocus誌の批評家は絶賛している。
今年の作品の中で極めて優れた作品の一つだと認めない批評家がいたら会ってみたい。Focus
アメリカでの公開時には、業界紙は1年前のレビューを再掲載もしなかった。残念ながら映画自体は結局注目されずに終わってしまった。New York Timesは、犯罪者の話にはあまり共感を抱けないようだが、それでも物語の運び方がテキパキしている点を評価している。
『夜の人々』は、犯罪を情で上塗りするという間違いを犯してはいるが、切れのいい物語の展開や分かりやすい人物造形で飽きさせない。New York Times
最終的には445,000ドルの損失だった。
公開当初からこの作品を極めて高く評価していたのは、イギリスの批評家サークルである。1950年3月号の「Sight & Sound」では、『忘れじの面影(Letter from an Unknown Woman, 1948)』や『ムーンライズ(Moonrise, 1948)』とともに、興行から締め出された名作として取り上げられ、その数か月後には、国立フィルムライブラリの貸出リストに加えられている。
フランスでは『夜の人々』、さらにはニコラス・レイが本国以上に称賛されたと言われているが、1951年のパリでの公開当初は非常にネガティブな反応だった。ギャング映画として広告をうっていたことが災いしたと、アンドレ・バザンは伝えている。間をおいて、カイエ・デュ・シネマの若い映画人たちがレイを<発見>し、『夜の人々』はニコラス・レイの代表作として認識されるようになる。フランソワ・トリュフォーは、「最もブレッソン的なアメリカ映画」と呼んだ。
ニコラス・レイ、そして『夜の人々』に関するアメリカでの評価は遅れて1970年代に入ってからである。作家主義理論(auteur theory)が広く認知されるようになり、そのなかでもニコラス・レイはオーソン・ウェルズとともに、ハリウッドに忘れられた存在として注目を浴びるようになる。そして『夜の人々』は「レイが自由に監督できた唯一の作品」と喧伝されるようになった。ジョナサン・ローゼンバウムは、1973年の「Sight & Sound」誌に寄せた批評のなかで『夜の人々』の冒頭は、その後のニコラス・レイの作品に見られる<衝動>を予感させるものだと述べている。また、ダグラス・ゴメリーは、ニコラス・レイを19世紀のロマン主義の流れをくむアーティストとして賞揚し、以下のように述べている。
この作品で、ニコラス・レイははじめに、純粋さと愛を持って、反抗する若者を描き出し、腐敗した社会に向かって、彼自身の秩序の概念を発見しようとした。ダグラス・ゴメリー
ポーリーン・ケールは、「舞踏的な演出とクロースアップを多用する構図、そういった<フィルム・ノワール的な>スタイルが技巧的に優れていて、感情に訴える」としながらも、映画自体は単純すぎると批判した。
この映画は、形而上学的なリベラリズム───社会的な不正義が普遍的な運命論になってしまっている───に毒されている。ポーリーン・ケール
特に『俺たちに明日はない(Bonnie and Clyde, 1967)』の以後、「恐慌期の犯罪者カップルのロードムービー」の系譜は繰り返し論じられ、フリッツ・ラング監督の『暗黒街の弾痕(You Live Only Once, 1938)』、『拳銃魔(Gun Crazy, 1949)』などとともに、アウトローというキャラクターがもつロマンティシズムを描いた作品として頻繁に挙げられている。
以来、数多くの批評がこの作品を語ってきたが、ここでは、NYUのフィルム・スクールでニコラス・レイのアシスタントをしたこともあるジム・ジャームッシュの言葉を引用したい。
この作品は古典的、ロマンティックな悲劇だ。ニコラス・レイは形式やジャンルを使いこなしつつ、それらをミックスして、誰も予想しなかったやり方で作り上げた。これはとても美しいと私は思う。ジム・ジャームッシュ
Analysis
オープニングが語るもの
若くて無垢な二人の愛とそれを無慈悲に破壊する大人の社会、ボウイとキーチーの二人だけの幸せの世界と対峙する外部、ヘリコプター・ショットが暗示する運命の手が最後に二人に追いつき、愛を引き裂く。このような、ボウイとキーチーの二人と、それに対立する世界、という構図でこの作品は語られてきた。有名な導入部の言葉が、その構図をはっきりと提示している。
This boy and this girl were never properly introduced to the world we live in …
このオープニング・ショットで、二人はお互いを見つめあい、キスを交わすが、突然、画面の外の何かに怯えた様子を見せる。(画面のなかの)二人と(画面の)外の世界、この対峙をこのオープニングは無駄なく表現している。
ジム・エマーソンは、映画全体がこの導入部を起点としたフラッシュバックととらえることも可能だと述べた。あるいはフラッシュ・フォワードかもしれないとも。
この字幕をよく見てほしい。この二人はすでに過去形(were)で語られている。観客にとって物語はまだ始まっていないにも関わらず、物語の「語り手」はもうすでに過去形で始めているのだ。この時制は様々な解釈を可能にする。映し出されている二人の映像はどう考えればよいのか。前述のエマーソンは、この導入部の映像は映画中盤のシーンの別テイクであっただろうと指摘する。もちろん、それはテクニカルな点に過ぎず、ナラティブとしてどう機能してるかはまた別の話だ。映画の物語全体を通して浮かび上がるボウイとキーチーの象徴的な像と見てもよいだろうし、あるいは、ドアのノックを恐れ続ける二人の逃避行から始まるフラッシュバックの起点とみなしてもよいかもしれない。一義的な機能こそもっていないが、曖昧でありつつも物語全体を力強く開始する、不思議なオープニングだ。
そして「properly introduced to the world we live in」という言葉の解釈はさらに困難だ。これは映画を通して見た後でも、様々に解釈が可能な表現なのである。例えばこの二人は純真なのに、「私たちの住む世界」には血に飢えた犯罪者と「紹介されて」しまった、とも解釈できる一方で、この汚れ切った「私たちの住む世界」に何も知らない子供のような二人が適切な準備もなしに「連れてこられてしまった」とも解釈できる。
物語の序盤で、ボウイはキーチーに「弁護士を雇えば自分も無罪にしてもらえる」と話す。ティーダブが見つけてきた「殺人で服役中の16歳が最高裁で無罪」という新聞記事を後生大事に持って、自分も同じ16歳、殺人罪だから無罪放免にしてもらえる、と自信たっぷりに語るのだ。キーチーは終始心配そうな目でボウイを見つめ「あなたが正しいといいけど」という。ボウイは、新聞記事の少年とその弁護士がどのような法的な手続きを経て無罪を勝ち取ったのかといったこの世界のルールを理解したうえで言っているわけではない。この世界のそういったルールを教えてくれる「大人」が彼にはいないのだ。ティーダブやチカモウは根っからの犯罪者で、ボウイやキーチーをこの世界に導く人間としてはあまりに不適切だ。ボウイの父親は、母親の愛人に殺されてしまい、母親は彼を捨てて出て行ってしまったし、キーチーの父親は救いようのないアルコール中毒である。この世界に住んでいる私たちから見ると、これは絶望的で全く未来の見えない状況なのだが、この二人、特にボウイは、あまりにも未熟でその絶望に気付く様子もない。ボウイは空疎な自信で日々の心のざわつきを埋め、キーチーはボウイの不安げな眼差しで弱弱しく抗議するだけである。
邂逅しない視線
だが、この二人のあいだはどう描かれているのか。
デヴィッド・ホーガンはその著書「Film Noir FAQ」のなかで、彼が『夜の人々』を観たときの体験を述べている。
ニコラス・レイの『夜の人々』を最近観たときのことだ。私と一緒に観ていた女性が、逃亡中の若い二人の恋人、ボウイ(ファーリー・グランジャー)とキーチー(キャシー・オドネル)は「お互いを絶対に見ない」と言ったのだ。彼女は、この若い二人の気持ちがつながっているようには見えなくて、しらけてしまったという。私もその点について考えてみたが、その発言はだいたい正しいのではないかと思うに至った。デヴィッド・ホーガン
ボウイとキーチーのあいだには「気持ちがつながっているように見えない」と感じる人は多いのではないだろうか。実はお互い見つめあうシーンはたくさんあり、「絶対に見ない(never look at each other)」わけではない。だが、どこかボウイとキーチーの気持ちがすれ違っていて、しかもその距離を埋めていこうという心の動きも希薄に見えるかもしれない。もちろん、二人のおかれた状況が愛情の表現や実現を困難にし、そして破滅的なラストが待ち構えているわけだが、ホーガンの記述に登場するこの女性は、映画内での二人の描かれ方に、その印象の原因があると言っているのである。
ボウイとキーチーは、お互いを見つめ合い、語り合う。けれども、儚い夢は不安に変わり、キーチーは目をそらしてしまい、時には会話は激しい外部の力によって中断されてしまう。それが繰り返されている。キーチーが「もし新聞に書いてあったことが本当なら」刑務所に戻って話してみるべきだとボウイに訴えるときも、ティーダブたちが入ってきてしまって会話が途切れてしまう。二人が結婚してランバート・インに着いた時も、「このお金があれば何でも買える」というボウイからキーチーは目をそらす。キーチーは「しっかり抱いて」というが、視線はボウイではなく、不安の淵を見つめている。ナイトクラブでメキシコに逃げて新しい人生を始める夢を語る会話は、倒れこんでくる酔っ払いで中断される。キーチーからの贈り物の時計をボウイが開けるときも、ボウイの視線とキーチーの視線は交わらない。2度目の強盗に失敗して帰ってきたときのボウイとキーチーの喧嘩は、非常に重要だったのだが、それもお互いの心を確かめあう前に中断されてしまう。キーチーは終始、宙を見て、ボウイのほうを見ないようにしている。彼女は怒っているのだから当然だろう。だが、この喧嘩も他人が突然部屋にやってきて、宙に浮いたまま終わってしまう。さらにキーチーの妊娠についての会話も、部屋にやってきた業者にお尋ね者だと気付かれて、中断されてしまう。
映像のコンティニュイティが破られている場面も多く、それがさらに二人のすれ違いを強調している。くしゃくしゃになった新聞記事をボウイが取り出して話をするシーンでは、切り返しでキーチーの視線が微妙にずれていて、その違和感がボウイの話の空虚さを強調している。二人が駆落ちする前、ジャンプカットの前後で視線が不自然に変わっていたり、起き上がっていたボウイが次のショットでは片肘をついていたりする。そういった微妙なショット間のズレが蓄積して彼らの関係に翳を与えているのだ。
こういった「ズレ」は製作中に意図的に作られたものだったのかもしれない。1978年のカイエ・デュ・シネマ掲載のビル・クローンの記事には、シャーマン・トッドのこの映画への関わりについて記されている。『夜の人々』の編集を担当したトッドは、サミュエル・ゴールドウィンやRKO、パラマウントで編集の仕事にたずさわってきたベテランだ。そのトッドが「カットのミスマッチなんか気にするな」とハリウッドのルールを無視するようにレイに言ったという。この作品に頻繁にあらわれる「ミスマッチ」は、ボウイとキーチーの混乱した恋愛、生き方そのものを息づかせるために必要だったのだ。
前述のホーガンは、ボウイとキーチーの「感情的なつながりの希薄さ」について、境遇からの視点からも述べている。二人とも悪辣で貧しい南部の環境のなか、あまりにも無責任な親たちのもとで育った。そして、どちらも情緒的には未熟なまま、「身近」で「お互いを必要としていた」から愛し合うようになったのだ、と論じている。特に物語の中心の立つボウイの捉えどころの無さは際立っている。確かに純真かもしれない。だが、他人に対する共感や、善悪の判断能力が決定的に欠けているこの青年は、キーチーの「どうして人を殺したの?」という問いにはついに答えない。「他の連中みたいに逃げれば良かった」と言う、半ば自白にも近い言葉を投げやりに放つだけである。ボウイの破産した道徳観の源には、彼らのような≪ヒルビリー≫と、彼らをないがしろにしてきた≪普通の社会≫との徹底的な断絶がある。ナイトクラブでギャングがボウイのことを「銃をバンバン撃ちまくるヒルビリー」と罵るのは、非常に象徴的だ。ボウイたちは<普通の社会の犯罪者>でさえないのである。ダブルのスーツを着て格好をつけていても、ただ拳銃を振り回しているだけの、行き場のない田舎の無知な犯罪者にすぎない。チカモウとディーダブの強盗のルール言えば「給油所とかを襲うのはバカ、俺たちは銀行を襲うんだ」くらいなもので、チカモウは最後は酒屋を襲って射殺される。
ボウイとキーチーは、「感情的なつながり」を持つことを知らないまま成長し、≪普通の社会≫がどうして自分たちをはじき出しているのか理解できずにいる。そしてボウイの場合は、その摩擦を暴力的な方法で解決する以外に教わっていないのだ。
この若い二人はお互いを通して「感情的なつながり」のレッスンを学んでいく途中だった。しかし、それは不完全で、不器用で、あまりも時間のないレッスンだった。この映画では、そのレッスンの不完全さを、突然中断される会話や喧嘩、流れていく視線、質問と答えのちぐはぐさで表現しつつ、ショットのミスマッチを挿入して、より不自然に揺らす。そして、それは生まれてくる子供についての二人のやり取りでより決定的になる。特にボウイの他人への共感の薄さ、感情的なつながりの決定的な希薄さは、その子供をめぐる会話にあらわれている。
誰の子供か
ボウイ:水道管が破裂したとき、ここにいなかったって?どこにいたんだ?
キーチー:医者に行ってたの
ボウイ:どうして?
キーチー:私たちの赤ちゃんが生まれるからよ(The baby we’re gonna have.)
ボウイ:こんな時に!(Well, that’s just fine. That’s all I need.)
キーチー:私だって編み物なんかしてないでしょう?(You don’t see me knitting anything, do you?)
この会話は、水道修理の業者が立ち寄っているときに、戸の陰でこそこそと交わされる。
キーチーは「私たち(we)」に子供が生まれると言い、それに対してボウイは「素晴らしいね。それこそ、今の僕に必要なことだ(Well, that’s just fine. That’s all I need)」と「僕(I)」という一人称単数で反語的に答える。もちろん、必要なものではない、まったくもって邪魔だ、という意味だ。それにキーチーは「わたしだって、(子供の服を嬉しそうに)編んだりなんかしていないでしょう?」と反語的に返す。彼女は、本当はしたいのだ。生まれてくる子供のために可愛い服を編んだりしたいのだ。この会話は途中でさえぎられ、このキーチーの痛々しい反語は宙にういたままになる。
最後まで、ボウイは生まれてくる赤ちゃんを「私たちの赤ちゃん」と呼ばない。
キーチー:ボウイ、私たちの子供、大きくなったら何になってもらいたい?
ボウイ:君の息子だね。それでいい。君の息子であればそれでいい。
ここでもキーチーは「私たちの子供」と呼んでいるが、ボウイは「君の息子(your son)」と呼んで、「僕たちの息子(our son)」、「僕の息子(my son)」と呼ばない。「自分の息子が、君の息子でもあってくれて(つまり、自分たち二人の息子であって)うれしい」という意味にとりそうになるが、ボウイがかたくなに「自分たちの子供」と呼ばないことを考えると、この返答は少々グロテスクではないだろうか。
最後の手紙でも、ボウイは「自分たちの子供」と呼ばない。
上手くいったら、君たち二人を迎えにやるよ。どんなに時間がかかろうと。僕はその子に会わないと(I’ve gotta see that kid.)。
その子(that kid)である。対称的なのは、キーチーの父親だ。アル中の、金があればあるだけ飲んでしまうろくでなしだが、キーチーを「俺の娘」と常に呼んで、主張する。みすぼらしい倫理観の持ち主のように見えるが、少なくとも自分の娘が犯罪者と駆落ちすれば、警察に出向いて息巻くだけの愛情はある。
ボウイが「僕の(my)」をつけて呼ぶのは、母親、銃、そして金くらいだというのは、彼の世界の貧しさを哀しいほど象徴している。
裏切者か、助言者か、それとも預言者か
マティ:あんな奴がいいのかい?
キーチー:あんたに関係ないでしょ?
マティ:あいつはロクデナシだよ (He’s jailbait)
キーチー:まだ子供なのよ
マティ:私も昔はそう思ったわ
強盗に向かうボウイたちを見送った後、マティとキーチーのあいだで交わされる会話である。
このセリフのやり取りは、作品を通して使われている「I know Where I’m Going」の歌詞と呼応している。
I know where I’m going
And I know who’s going with me
I know who I love
And the dear knows who I’ll marry.I have stockings of silk
And shoes of bright green leather
Combs to buckle my hair
And a ring for every finger.Some say he’s black
But I say he’s bonnie
The fairest of them all
My handsome winsome Johnny.Feather beds are soft
And painted rooms are bonny
But I would leave them all
To go with my love my Johnny.I know where I’m going
And I know who’s going with me
I know who I love
But the dear knows who I’ll marry.
アイルランドに19世紀から伝わると言われているこの曲は、その謎めいた歌詞ゆえに想像力をかきたてるものがある。裕福な家の娘が、ある男性への愛を歌っている。彼女は彼への愛を確信しているが、結婚する相手は誰かはわからない、と謎めいた歌詞だ。重要なのは特に3段目で、直訳すると「彼のことを”black”という人もいるけれど、私は彼は”bonnie”と言う」となるが、”black”はここでは人種的な意味はなく、「評判が悪い」「地位が低い」といったような意味と言われている。つまり「彼を身分違い/ロクデナシという人もいるけれど、私にとって彼はとても素敵な人」といったところだろうか。
マティのいう「Jailbait」は、「刑務所送りにするための罠」という意味だ。通常、未成年の女性に使われることが多く、性交渉をもった男を刑務所送りにする罠、というスラングである。しかし、ここでは「あんな男と付き合うとお前も刑務所送りになる」という意味だろう。
オープニングでも「I Know Where I’m Going」は使われているが、作品を通してプロットの重要な展開点でも使われている。キーチーが、ボウイと駆落ちを決めるシーン、彼女が「私も一緒に行ってあげてもいいよ」というセリフから、このメロディが静かに流れる。二人でモーテルの部屋に着いた時、キーチーが「主人に忠実な犬」について語ったあと、そして、ラスト、キーチーがボウイの手紙を読むシーン、いずれもキーチーの心が揺さぶられるときに、この曲が寄り添ってくる。
この歌詞を下敷きに考えると、あの「20ドル結婚式」は本当に結婚だったのだろうか、という疑問も浮かんでくる。「あんなのが結婚式か」と蔑んでいたのに、その直後にボウイはキーチーに結婚式を申し込み、その20ドル結婚式で永遠の絆の約束を交わす。突然の思いつき、そして偽名での結婚───二人にとって、その時は<結婚>だったのかもしれないが、それが心の繋がりを育み、<自分たちの>子供を育てる、という長い道のりになるものだという認識はなかっただろう。
その熱病から最初に覚めるのはキーチーである。水道修理の業者に気付かれて、モーテルから逃げ出す車の中で、二人の転回点が訪れる。そして、それは突然訪れる雨で暗示される。
キーチー:ボウイ、何があっても、私にそばにいてほしい?
ボウイ:君がそうしたいなら
キーチー:そうしたいわ
この「君が私にそうしてもらいたなら(if you want me to)」というセリフは、それまで常にキーチーが言い続けていた。彼女はすべての決定をボウイにゆだねていた。しかし、この時にはじめて「そうしたい(I want to)」と言う。その意思は、「やはりこの子を生むわ」という宣言につながっている。キーチーの「意思への目ざめ」は子供を生む、未来を考えることと表裏一体になっている。それは「メキシコに行って会社に勤められるかもしれない」といった愚かな夢想ではなく、命をあずかるという、あまりも重大な未来を背負い込むことだ。彼女がそれまで女性を犬に喩えて「良い犬は主人が死んだら、後を追って死ぬ」と、男性に依存した存在としてとらえていたのが、この後、自分を「猫」と呼んだのも偶然ではない。
マティは、自分の夫の刑期短縮と引き換えにボウイを裏切り、ボウイは警察に射殺される。だが刑務所から解放された夫はきっとマティを恨むだろう。それは顔をそむける夫のショットで明らかだ。そして、マティは自分は周りの人々からも裏切者と呼ばれ続けるだろうと分かっている。彼女は世界中を敵に回してでも自分の愛する人を解放し、自由の身にしたかった。このマティの強い意志は、キーチーの意思の萌芽とつながっている。マティがボウイの居場所を密告したあと、暗闇に消えていくショットと、キーチーがボウイの手紙を読みながら暗闇に消えていくショットは、つながっている。こうして、最初のキーチーとマティの会話が最後に円環を結ぶ。
これはロマンティシズムが勝利する映画だ。それは、世界中を敵に回しても人を愛する二人の女のロマンティシズムである。
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クライテリオン・コレクションのサイトにあるバーナード・アイゼンシッツの評は、この作品の評価を再度アップデートしようとする試みだ。この作品を<フィルム・ノワール>として分類するだけでなく、当時世界の各地で起き始めていた映画の革命の兆しと見ている。
Unbeknownst to one another, a league of more secretive artists were redefining their art on their own terms. At the moment, I can think offhand of Fei Mu’s 1948 Spring in a Small Town and Hasse Ekman’s 1950 Girl with Hyacinths, but the reader will certainly react with his or her own choices. Bernard Eisenschitz
ジム・エマーソンは、別ショットを使ったオープニングについて分析している。『夜の人々』とアンドレ・ド・トス監督の『土曜の正午に襲え(Crime Wave, 1954)』を例に挙げている。
We soon discover that, at the point the title appears, the boy and the girl have yet to meet. So, the whole film could be seen as a flashback — a noir convention that emphasizes the forces of fate, since the ending of “their story” (even if we don’t know what it is) has already been determined from the opening shot. Or perhaps it’s a flash-forward to a memory they’ll cling to for the rest of their lives. Or an imprint of their fugitive state of mind…Jim Emerson
Data
RKOピクチャーズ配給 11/7/1949 公開
B&W 1.37:1
95 min.
製作 | ジョン・ハウスマン John Houseman | 出演 | キャシー・オドネル Cathy O'Donnell |
監督 | ニコラス・レイ Nicholas Ray | ファーリー・グランジャー Farley Granger |
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脚本 | チャールズ・シュニー Charles Schnee | ハワード・ド・シルヴァ Howard de Silva |
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脚本 | ニコラス・レイ Nicholas Ray | ジェイ・C・フリッペン Jay C. Flippen |
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原作 | エドワード・アンダーソン Edward Anderson | ヘレン・クレイグ Helen Craig |
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撮影 | ジョージ・E・ディスカント George E. Diskant | ウィル・ライト Will Wright |
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編集 | シャーマン・トッド Sherman Todd | マリー・ブライアント Marie Bryant |
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音楽 | リー・ハーライン Leigh Harline |