The Narrow Margin
RKO・ピクチャーズ配給
1952
1950年、奇跡が起きた。僕はいい映画を作ったんだ。
リチャード・フライシャー
Synopsis
殺されたシカゴ・マフィアのボスの妻、ニール夫人(マリー・ウィンザー)が、ロサンジェルスで行われる大陪審に証人として立つことになった。ニール夫人をシカゴからロサンジェルスまで警護して連れてくる任にロサンジェルス警察のブラウン刑事(チャールズ・マグロー)があたる。だが、夫人を迎えに行ったシカゴのアパートで、ブラウン刑事の相棒がギャングの手下に撃ち殺されてしまう。ニール夫人に証言してもらいたくない者たちが彼女の命を狙っているのだ。ブラウン刑事は、ニール夫人とともにロサンジェルス行きの列車に乗り込むが、彼女の命を狙っている連中も乗ってくる。ブラウン刑事は、知恵を働かせてニール夫人の個室がわからないように細工をする。ギャングたちと駆け引きをしているなかで、彼はアン・シンクレア(ジャクリーン・ホワイト)という女性と知り合う。
Quote
フォーブス:どんな女なんだ?
ブラウン :定食屋の「今日のおすすめ」みたいな女だ。安い、大盛り。ソースの下は毒だけどな
Production
スタンリー・ルービン
スタンリー・ルービン(1917 – 2014)は、1940年代初頭にユニバーサルで脚本家としてデビューした。どの作品も低予算の映画ですぐに忘れ去られてしまうものが大半だったが、1949年に始まったばかりのテレビ放送でドラマシリーズ「Your Show Time」のプロデュースを任される。そのうちのエピソードの1つ、「Necklace」が好評を博し、ルービンは第1回のエミー賞を受賞した。
ルービンのエージェント、レイ・スタークが、この若いプロデューサーの売り込みにRKOに交渉に行った。エミー賞を片手に「ルービンが書いた脚本を自らプロデュースする」という契約を取り付けてきたのだ。RKOはルービンに「マカオ」の脚本を任せる。しかし、いざ映画製作の準備になると、RKOトップのハワード・ヒューズが干渉してきた。こんな若い、未経験の人物にRKOのA級作品を任せるわけにはいかない。まずはプログラム・ピクチャーで経験を積んでからだ、という話になった。ただ、ストーリーは何でもいいという。ルービンは「話が違うじゃないか」と思ったが、しぶしぶ従った。彼は後年、『マカオ(Macao, 1952)』から外されたのは結果的に良かったと述懐している。『マカオ』をめぐるジョセフ・フォン・スタンバーグ監督とハワード・ヒューズのやり取りを見ると、誰もがそう思うだろう。
マーティン・ゴールドスミスとジャック・レオナードがRKOに持ち込んでいたオリジナルのストーリー、「ターゲット」を、ルービンが気に入り、これを5,000ドルで購入、映画化すると決める。そして「ターゲット」の脚本を、アール・フェルトンに任せた。フェルトンも、10年以上ハリウッドで脚本家としてスタジオを渡り歩いていたプロである。ポリオを患ったせいで足が悪く、常に松葉杖をついていたフェルトンは、酒飲みで怖いもの知らずの豪傑だったと、リチャード・フライシャーは自伝に記している。『替え玉殺人事件(His Kind of Woman, 1951)』の脚本会議で、ヨットのエンジン構造にこだわり始めたハワード・ヒューズに「そんなこと、あなたぐらいの億万長者じゃなきゃ知らないよ」と言い放って、ヒューズを悶絶するほど笑わせた男だ。
リチャード・フライシャー、チャールズ・マクグロー、マリー・ウィンザー
ルービンは、監督にリチャード・フライシャーを抜擢、主演にチャールズ・マクグローを配役した。
当時のリチャード・フライシャーは、ずっと低予算映画ばかり撮らされ続けてさすがに自分のキャリアに疑問を感じ始めていた。ハワード・ヒューズが支配するRKOでは、映画製作が停滞し、人はどんどん辞めていき、そしてさらに映画製作が停滞していた。そんななかで「Bユニット」はヒューズからさして干渉されることもなく、今まで通りに進んでいた。
1949年、RKOでは49本の映画が公開される予定だった。結局、12本しか製作されず、そのうち3本は私の映画だった。わたしはRKOの製作本数の25%を一人で監督したことになる。リチャード・フライシャー
フライシャーは1942年からRKOで短編やドキュメンタリーなどの製作・監督・脚本などに携わっていた。サイレント映画を集めた「フリッカー・フラッシュバックス」などの脚本も手掛けている。1947年にはシド・ロジェルのもとでセオドア・スース・ガイゼル(ドクター・スース)と『デザイン・フォー・デス(Design for Death, 1947)』という日本の文化と帝国主義についてのドキュメンタリーを監督、アカデミー賞も受賞している。この映画は現在見ることが殆どできない。スタンリー・クレーマーとカール・フォアマンの要請でRKOからコロンビアに出張して監督したのが『ニューヨーク大騒動(So This Is New York, 1948)』で、この時以来、クレーマーはフライシャーの才能を高く評価していた。その後、ハワード・ヒューズのRKO買収劇などの余波を受けつつ、スタジオで低予算のプログラム・ピクチャーを作り続けていたのだ。
チャールズ・マクグローは、ロバート・シオドマク監督の『殺人者(The Killers, 1946)』、アンソニー・マン監督の『Tメン(T-Men, 1948)』などで、極めて印象深いギャングを演じ、それ以来、後にフィルム・ノワールと呼ばれるようになるギャング映画やサスペンス映画で<悪役>として数多くの作品に出演していた。『国境事件(Border Incident, 1949)』でも残忍で冷酷な手配師の手下を見事に演じていた。一方で『ダイナマイト夫婦街へゆく(Ma and Pa Kettle Goes to Town, 1950)』などでコメディの才能も試されるものの、すぐに<悪役>に引き戻されてしまう。『その女を殺せ』では同じタフガイでも刑事役だ。その点は彼も気に入っていたようである。
これで、家の近所の子供に会っても、仮釈放中の犯罪者だと思われなくてすむよ。チャールズ・マクグロー
ジャクリーン・ホワイトは、フライシャーがスタジオの食堂に来ているところを見つけ、スカウトした。ホワイトは1940年代にRKOでいくつかの作品で準主役級で出演していたが、結婚とともにワイオミングに引っ越していた。1950年にたまたまハリウッドの友人たちを訪れていたところをフライシャーに見つかったのである。そして彼女はこの映画を最後にハリウッドを去る。
<フィルム・ノワールの女>のイメージを最も体現している女優として、マリー・ウィンザーを挙げる人は多いだろう。『悪の力(Force of Evil, 1948)』のギャングのボスの妻、『ザ・スナイパー(The Sniper, 1952)』で連続殺人犯の餌食になるナイトクラブの女、『眠りなき街(City That Never Sleeps, 1953)』では悪徳弁護士の妻、『現金に体を張れ(The Killing, 1957)』では気弱な夫を裏切る女、と犯罪に染まった世界の住人として頻繁に配役された。<ベッドルーム・アイズ>と皆が呼んだ眠たげな大きな瞳、ジョン・ガーフィルドがりんごの箱に立たないと釣り合いが取れない身長、そして極めて都会的で洗練された佇まいが、都市の暗黒を描く映画にはぴったりだった。ユタの片田舎で生まれ育ち、家族、特に祖母を大事にしたウィンザーだったが、長年の下積み経験と鋭い観察眼から、彼女自身、シニカルでタフな人柄だったようだ。多くの名演にも関わらず、業界でその実力を認められることはほとんどなかった。後年、アラン・ロードに『あの女を殺せ』とリチャード・フライシャーについて尋ねられて、こう答えている。
フライシャーはとてもいい人。彼はこの映画でB級映画を卒業できたのよ。A級映画を監督するようになってから、私のことを思い出してほしかったけど、この映画のあと一緒に仕事はしていない。いい友達だったし、よく会ったし、わたしのことすごく好きだったみたいだけど、彼にとって私はB級女優だったのね。(沈黙)マリー・ウィンザー
撮影は1950年5月27日に開始、6月13日に終了、撮影日数はわずか13日だった。
大部分のシーンはRKOのロットで撮影された。ロケーション撮影は、ユニオン・ステーション、エンチノにあるRKOランチ、そしてサンフェルナンド・ヴァレーのチャツワースで付近で列車のシーンの撮影が行われた。
本編の大部分が列車の車両内で起きる出来事だが、このセットはRKOのロット内のスタジオで撮影された。セットは分解できるようになっており、フライシャーと撮影監督のジョージ・E・ディスカントは、必要に応じてセットを分解しながら撮影を進めていった。
少ない予算を最大限に活用するために、音楽の使用は最小限に抑えられた。大部分のアクションでは列車の走行音が背景音として重要な役割を担っている。
『あの女を殺せ』は、予算通り230,000ドルで製作され、あとは公開を待つばかりであった。しかし、公開されるまで2年間もかかっている。その理由はもちろんハワード・ヒューズだった。
ハワード・ヒューズとの確執
リチャード・フライシャーの自伝によれば、ハワード・ヒューズは『その女を殺せ』を自分の映写室で見てひどく気にいり、A級作品として撮り直すことを検討し始めていたという。チャールズ・マクグローとマリー・ウィンザーの代わりにロバート・ミッチャムとジェーン・ラッセルを起用し、230,000ドルの製作費を1,000,000ドルまで増資するとまで言い始めていた。フライシャーは、自分は監督から外されるだろうと不安に思っていた。この話は、スタンリー・ルービンも後年のインタビューで語っている。
しかし、1940年代からのRKOの没落について”Slow Fade To Black”を著したリチャード・B・ジュエルによれば、RKOの記録にそのようなハワード・ヒューズの指示は残っていないという(ルービンはヒューズと直接会ったことは一度もない、とも言っているので、上記の「A級映画化」の話がどのようにルービンに伝わったのかは不明である)。その代わり、ヒューズは編集主任のジム・ウィルキンソンにあてて13ページにわたる奇妙なメモを送っている。このなかで、ヒューズは後半の展開に不満があり、修正をするように示唆している。例えば、マリー・ウィンザーは、ギャングのボスの妻になりすました刑事ではなく、やはりギャングのボスの妻で、証人台に立つ予定の女であり、一方でジャクリーン・ホワイトは、やはり一連のギャングの裁判とは無関係の一般人にするように、といった具合だ。この指示は何らかの理由で実行されなかった。
このヒューズの指示とは別の部分で実際に変更が行われた。オリジナルの脚本、そしてフライシャーの撮影分では、ブラウン刑事の相棒フォーブスは実はギャングから賄賂を受け取っていた悪徳警官という設定だった。フォーブスはシカゴで殺害されてしまうが、彼自身がニール夫人が持っている賄賂リストに名前が載っていたのである。賄賂リストを持つ(本物の)ニール夫人は、フォーブスとフォーブスから金を借りたブラウン刑事はグルだと怪しみ、自分と子供をわざと危険にさらすだろうと考えたうえで、正体を隠していたというわけなのだ。ギャングの一人、クラークはブラウン刑事に「お前の相棒のフォーブスは付き合いやすかったんだけどな」と言って、<殺害されたLAの刑事、賄賂を受け取っていた>という見出しの新聞を渡すシーンがあった。後半で、ブラウン刑事がニール夫人/アンに「フォーブスが貸してくれた大金がどこから来たかなんて考えないようにしていた」というと、彼女は突き刺さるセリフを言う。
私もギャングのボスと結婚する前は、あの金がどこから来たかなんて、たずねなかったわニール夫人
この腐敗警官のプロットの一切合切を削除され、代わりにピーター・ブロッコ演じるヴィンセントという爬虫類系のギャング・キャラクターが導入される。これらの変更は、ブラウン刑事から見た世界が「見た目通りではない(ニール夫人の正体、相棒の正体)」というどんでん返しの破壊力を弱めてしまった、とアラン・ロードは指摘している。また、(ロサンジェルス)警察の腐敗を描かないという決定は、ロサンジェルス警察との関係を良好に保っておきたいヒューズの意向が働いたものだろうと推測している。RKOのトップスター、ロバート・ミッチャムが度々警察の世話になり(1948年にマリファナの所持で逮捕され留置されている)、ハリウッドでも目に余る問題児だったことを考えると、頷ける話である。
この変更は、フライシャーではなく、ウィリアム・キャメロン・メンジーズによって監督された。1951年の12月18日から21日の間にリテイクが行われ、19のシーンが追加撮影された。
スタンリー・ルービンによると、もう一つ、重要なシーンがカットされた。それは列車がロサンジェルスに到着した際のシーンだそうだ。ルービンとフライシャーは、ブラウン刑事と(本物の)ニール夫人が、ギャングに殺された(偽の)ニール夫人の遺体が運び出される様子を黙って眺めるというシーンを最後に挿入して、払われた犠牲の大きさを強調した。しかし、このシーンはどういうわけか、カットされてしまった。「あれでは、まるで刑事と証人の女が楽しそうに何事もなかったかのように立ち去って終わってしまう」とルービンは不満を述べている。
ハワード・ヒューズは出来上がりにかなり満足しており、サミュエル・ゴールドウィンのスタジオにある彼のオフィスに訪れた人たちに上映して見せていたという。フライシャーは自分でもいい映画を作ったと思っていたので、いつ公開されるのかヤキモキしていたが、『替え玉殺人事件』を成功させたいハワード・ヒューズと取引をする。『替え玉殺人事件』の大幅なリテイクを成功させたら公開する、という約束だ。
ヒューズは約束を果たした。1952年5月に『その女を殺せ』は公開された。撮影終了からほぼ2年が経過していた。
Reception
現在、『その女を殺せ』は公開当時から評判が良かったと記されることが多い。実際はどうだったのだろうか。
ごくまれに、ハリウッドのプロデューサー達が大して騒ぎもしなかった映画が、「こういうのを待っていたんだよ」と観客を興奮させることがある。そういう映画を<スリーパー(sleeper)>というのだが、『その女を殺せ』はまさしくそのスリーパーだ。Kate Cameron, Daily News, New York
ニューヨーク・タイムズの若い映画評論家、ハワード・トンプソンも同意見だ。
アール・フェントンとリチャード・フライシャーの切れの良い脚本と演出は無駄がない。この映画には気取ったところがまったく無いし、観客をずっとハラハラさせ続けて、余計なものがなくても実に充実した作品ができあがるという良い例になるだろう。Howard Thompson, New York Times
しかし、Variety誌は若干手厳しい。
クライマックスでプロットはバラバラに崩壊するものの、ごく普通のサスペンスものとしては良いだろうし、演技も無駄がない。公開の目的は果たすだろう。Variety
だが、もっと厳しかったのは観客の方だった。Motion Picture Herald掲載の映画館の反応は、興行が芳しくない状況を伝えている。映画館からの評価10票のうち、「平均」は1、「平均以下」が5、「悪い」が4である。同時に公開されていたRKOの『零号作戦(One Minute to Zero, 1952)』の評価は「良い」2、「平均以上」31、「平均」11、「平均以下」5、「悪い」0である。今なら『その女を殺せ』に「平均以上」の評価をするのはたやすいが、『零号作戦』を見て同じ評価をする人はほとんどいないだろう。朝鮮戦争の描き方から、絵に描いたようなご都合主義のストーリーまで、『零号作戦』が今日の観客を獲得するのは極めて難しい。だが、ハワード・ヒューズがいかにも好きそうな題材で、それが当時の観客の嗜好と一致していたのだ。『その女を殺せ』は<スリーパー・ヒット>だと言われているが、それはあくまでごく狭い映画愛好家や批評家のあいだで話題になった、くらいの意味に過ぎない。IMDBの”TRIVIA”の項には「RKOの1952年の稼ぎ頭」という記述があるが、公開されている情報を見る限り、そんなことはない。1953年1月7日のVariety誌の発表では、1952年のRKOの稼ぎ頭は、ディズニーとの共同製作の『ロビン・フッド(The Story of Robin Hood, 1952)』で、2,100,00ドルの興行収入である。その他、RKO配給作品で1,00,000ドル以上の興行収入をあげた作品には、前述の『零号作戦』に加えて『果てしなき蒼空(The Big Sky, 1952)』、『突然の恐怖(Sudden Fear, 1952)』、『熱い夜の疼き(Clash by Night, 1952)』などがある。残念ながら『その女を殺せ』は1952年のハリウッド上位100位にも入っておらず、1,000,000ドルの興行収入もあげていないようだ。
『その女を殺せ』が徐々に映画ファンの間で人気を得ていく過程において、TVが果たした役割は大きい。1950年代から米国のTVネットワークで頻繁に放映されており、例えばウィリアム・フリードキンはTV放映でこの映画と初めて接したと言っている。TVでの露出は、RKOのライブラリを所有していたトランスビーコン社が1971年に倒産し、MBI社とユナイテッド・アーチスツ(UA)社がライブラリを購入したことでさらに拍車がかかる。『その女を殺せ』は1986年にターナー・エンターテインメントが購入したUA/MGMのライブラリの中の1本で、ターナーは映画のケーブルTV放映を積極的にすすめ、1988年からTVでの露出は倍増する。1991年にVHSでもリリースされた。
映画批評家たちは、非常に早い時期からリチャード・フライシャーと『その女を殺せ』に注目していた。ボードとショーモンは、フライシャーの<列車の内部>と<外界>の取り扱い方に注目している。
リチャード・フライシャーの関心は、物語がいわば二次元の宇宙で展開していくことにある。外界は、まるで鏡のように機能する窓を通して描かれる。レイモンド・ボード/エティエンヌ・ショーモン
この作品は、走る列車内部という閉ざされた狭い空間で物語が展開する点において、アルフレッド・ヒッチコックの『バルカン超特急(The Lady Vanishes, 1938)』と頻繁に比較される。では、フィルム・ノワールという側面から見たときにはどう捉えるべきだろうか。ブレイク・ルーカスは「Film Noir: An Encyclopedic Reference to the American Style」のなかで、「ノワールという側面においては必ずしも強力ではない」ものの、フライシャーの演出は、彼の後の作品よりも想像力に富んでいてしなやかさがある、と述べている。
『その女を殺せ』の最終的な印象として、隠れた名作と言えるほどではないが、キャラクター達の道徳観は相対的で、その意味において不確かで表面的な現実を欺くノワール的な視野が反映された、真面目な作品だと言えよう。ブレイク・ルーカス
1990年に、ピーター・ハイアムズ監督、アン・アーチャー、ジーン・ハックマン主演でリメイクされた。
Analysis
リチャード・フライシャーがしなかったこと
ハリウッド映画、特にこの1930年代から1960年代までの<黄金期>のハリウッド映画には、一種の<慣習(convention)>がある。例えば、罪を犯した者はその罰を受ける、主人公同士の愛が実を結ぶ、家族の絆は何事にも優先される、といった具合だ。しかし、『その女を殺せ』のように低予算でかつタイトにまとめ上げることを求められている映画では、その<慣習>のすべてに従うことができず、取捨選択をする必要がある。また、スタイルとして<慣習>よりも、物語の語りに必要な要素を優先し、それ以外を抑制する、あるいは全く捨ててしまう、ということもあり得る。『その女を殺せ』では、手持ちカメラを使用したアクションや、窓の反射を利用したシーンのように「監督や脚本家やスタッフがしたこと」は極めて目立ちやすいのだが、一方で「しなかったこと」を見てみると、なぜこの作品が今でも一部のファンを魅了し続けるのか、解く鍵になるかもしれない。
もちろん「しなかったこと」などたくさんある。だが、この映画には特異的に「しなかったこと」がいくつかある。
ひとつは、<恋愛要素を入れること>だ。ハリウッド映画で、このアングルが欠けている物語は極めて珍しい。まずほとんどのハリウッド映画が、主人公には相手の異性がいて、メインの物語と絡み合いながら、その異性との恋愛関係が危機的状況に陥り、だが最後はそれを乗り越えて成就する、という方程式を採用する。ところが、『その女を殺せ』では、この方程式の影が薄い。チャールズ・マクグロー演じるブラウン刑事とジャクリーン・ホワイト演じる本物のニール夫人のあいだで、それらしきものが匂いはするが、キスシーンや告白に発展はしない。最後のシーンで「これからこの二人には関係があるかもしれない」という未来が示唆されるにとどまっている。興味深いのは、二人が出会う最初のシーンでは、「ひょっとすると、この二人は恋愛関係に発展するのではないか」と思わせるようなニュアンスがある点だ。食堂車での出来事だ。目をつけた男を監視するために、ブラウン刑事は無作法にニール夫人の席に着席する。不愉快に思った彼女が立ち去ろうとした時に酒をこぼしてしまい、そこから二人の会話が始まる。こういった<不作法>から関係が始まる展開はヒッチコックがイギリス時代の映画でよく採用した手法だ。ヒッチコックの『39階段(39 Steps, 1935)』は、この手法がサスペンスのプロットを絡み合いながら、男女の関係をもサブプロットに埋め込むことに成功している。『その女を殺せ』では、状況にブラウン刑事自身が没頭しすぎていて、彼女とのあいだに会話らしいものが発展しない。彼女に幼い息子がいることや、更には彼女が本当のニール夫人であることが明らかになっていく過程で、ブラウン刑事との関係が発展する余地がほぼ失われてしまう。
他にもフライシャーたちが従わなかったハリウッドの慣習として、<コメディ・リリーフを入れること>が挙げられる。これはハリウッドでも40年代後半からは必須ではなくなった感があるが、それでもどこかでコメディアン(あるいはギャグを言うキャラクター)を挿し込もうとする傾向は割と多くの作品で見られた。当初、肥満のジェニングスが通路をふさいでいるシーンで、「この男がこれからことあるごとに通路を塞ぐギャグをするのか?」と一瞬思わせるが、その後空き部屋のやり取りのあたりから、油断ならない人物だという印象が全体を覆うようになる。第二次世界大戦後のフィルム・ノワールでは、コメディ・リリーフはめったに使われない。これは題材がシリアスな犯罪映画や心理劇だからというのも一つの理由だが、脚本家たちが自分たちの書くセリフにかなり自信を持っているからだとも思われる。例えば、『ブロンドの殺人者(Murder, My Sweet, 1944)』では、ディック・パウエル演じるフィリップ・マーロウのセリフ(そしてその喋り方)がシニカルでかつユニークで、観客がそのセリフの面白さに思わずニヤッとしてしまう。いわゆる<ワイズクラック(wisecrack)>と言われるもので、それが想像力に富んでいればいるほど、下手なコメディアンのギャグなどよりよっぽど印象深い笑いを取ることができる。
『その女を殺せ』でも、アール・フェルトンの脚本はセリフからシニシズムが溢れ出ている。例えば、映画開始直後、タクシーのなかでフォーブスとブラウンが交わす会話はその典型だろう。
Forbes: What about this dame, Mr. Crystal Ball?
Brown: A dish.
Forbes: What kind of a dish?
Brown: Sixty-cent special. Cheap, flashy. Strictly poison under the gravy.
Forbes: How do you know all this?
Brown: Well, what kind of a dame would marry a hood?
Forbes: All kinds.
英語独特の表現のために訳しにくいが、おおよそこんなところだ。
フォーブス: で、この女はどんなやつなんだ?予言者さんよ。
ブラウン:いい女なんだろ。
フォーブス:どんないい女なんだ?
ブラウン:安定食屋の「本日のおすすめ」だな。安い。派手。グレービーの下は毒だ。
フォーブス:どうして分かるんだ?
ブラウン:どんな女がギャングと結婚すると思ってるんだ?
フォーブス:いろんな女がいるだろ。
いい女(dish)と料理(dish)をかけているわけだが、「Sixty-cent special. Cheap, flashy. Strictly poison under the gravy.」というキレとテンポの良いセリフの毒気が「よくもまあそんなひどいことを言うもんだ」という笑いを誘う。このセリフのやり取りが優れているのは、極めて速いテンポのなかに埋め込まれた「いろんな女がいるだろ」というフォーブスの言葉が、その後のどんでん返しの伏線になっている点だ。彼らが迎えに行った偽のニール夫人(マリー・ウィンザー)は、まさしくブラウン刑事が描写したとおりの人物で、誰もが「ギャングのボスの女」として思い描くイメージにぴったりである。ところが、物語の後半になって明かされる本当のニール夫人(ジャクリーン・ホワイト)は、まさしく「いろんな女がいるだろ」というフォーブスの意見を裏付ける。
コメディ・リリーフから生まれるコミカルなシーンというのは、物語のメイン・プロットとは接点を持たないことが多い。そのコミカルなキャラクターのためだけにシーンが占領されることも多く、場合によっては観客のリアクションをはかった「間」も挿入されている。そういう技法は、公開当時の観客には効果を奏した場合もあるかもしれないが、時代とともに見苦しいものになっていく。フィルム・ノワールの多くの作品が、ユーモアをセリフに押し込んで、コメディ・リリーフを使わなかったために、他の同時代の作品に比べて後世の観客がアクセスしやすくなっている側面はあるだろう。
他にも、「しなかったこと」として二点挙げたい。それは<サブプロットを展開すること>と<コントラストの強い映像にすること>である。そして、これは後のテレビ放映との関係を考えるうえで見逃せない点だと思われるからである。
テレビに適した題材
1950年代初頭のアメリカは、テレビという新しいメディアが登場し、急激に社会のなかに浸透していった時代だった。もちろん、映画もその潮流と無縁でいるわけにはいかなかった。一般的な映画史では、ハリウッドはテレビと対峙し、カラー、ワイドスクリーン、さらには3D映画やシネラマなどの新しいモードを投入してテレビとの差別化をはかろうとしたとされている。これはそのとおりだが、そればかりではない。もう一方では映画スタジオの人材・技術・手法がテレビ業界に流出したり、あるいは共存して、業界の交雑が進んでいた。多くのハリウッド・スターは自分の名前を冠した番組を持ち、映画で築いたイメージを利用して、より広く大衆への浸透を図った。またテレビ業界は、ハリウッド・スタジオの技術者やスタッフを多く雇入れ、彼ら彼女らの知識や想像力を活かして、この未知のメディアの可能性を広げようと躍起になっていた。例えば、前述のディック・パウエルは、1961年から63年まで「ディック・パウエル・ショー」という1時間の番組をNBC系列で持ち、毎回<へらず口のタフガイ>的な役どころで主演している。この番組のカメラマンとして度々起用されていたのが、『その女を殺せ』の撮影監督のジョージ・E・ディスカントだ。
『その女を殺せ』は1957年頃から頻繁にTVで放映された映画のひとつだ。そして、当初から比較的高い評価を与えられていた。ニューヨークの「デイリー・ニュース」紙のテレビ番組欄では★★★1/2の評価だ(★★★★が最高点)。同じ「デイリー・ニュース」のTV番組欄で『三つ数えろ(The Big Sleep, 1945)』、『過去を逃れて(Out of the Past, 1947)』が★★★、『拳銃魔(Gun Crazy, 1949)』や『ビッグ・コンボ(The Big Combo, 1955)』が★★1/2という評価を受けていることを考えると、『その女を殺せ』の高評価は異例である。その理由を推測してみよう。
1952年の「アメリカン・シネマトグラファー」誌に、テレビ用ドラマ番組の製作がどのように映画製作と異なるかを論じた記事がある。そこに挙げられた製作上の注意点は興味深い。①サブプロットを展開させないこと、②登場人物を増やさないこと、③アクションは制限されるため会話を重視すること、④コマーシャルのスロットに合わせたサブクライマックスを用意すること、⑤低予算で効果的なセットを準備すること、⑥ロングショットよりもクローズアップを多用すること、⑦黒や白が画面上で大きな面積を占めないようにすること、と実に細かく分析されている。①、②は番組時間の制限からくる制約だ。⑥はTVの画面では映画のスクリーンで見ることのできるようなディテールが見分けられないからである。⑦は白と黒の間で「ブリーディング」と呼ばれる現象が起こるために避ける必要があったようだ。
『その女を殺せ』は劇場用映画でありつつ、これらの点をほぼすべて満足している。サブプロットは何一つ展開されない。映画の焦点はブラウン刑事とその周辺で起きることに限定されていて、途中から見始めてもストーリーに容易に追いつくことができるし、集中力も削がれない。会話が重視され、上述のように皮肉の効いた印象深いセリフが多い。アクションも狭い空間で起きるため、何が起きたかを把握するのが容易だ。狭い空間での出来事なので、バストショットからクローズアップが多く、俳優たちの表情が読み取りやすい。そして、いわゆるフィルム・ノワールには珍しく、ローキーの照明のシーンが少なく、全体的にグレーの階調が主体の画面で、TVで見た時に「見やすい」画作りになっている。
この「見やすさ」は、現在の家庭での視聴環境からは想像がつきにくいが、当時は重要なポイントだった。人気TV番組『ドラグネット』の撮影を担当していたエドワード・コールマンは、劇中で夜のシーンを撮影した場合、「レイテンシフィケーション(Latensification)」という方法を使っていたという。これは、現像の際にコントラストを調節して、暗い画面でも様々なディテールが浮かび上がるようにするテクニックだ。ここでもローキーの画面を避けて、ソフトなコントラストの仕上げにすることを心がけている。『我が谷は緑なりき(How Green Was My Valley, 1941)』や『紳士協定(Gentleman’s Agreement)』で有名な撮影監督のアーサー・ミラーも、放送局の協力を得て、放送時間終了後に実験を実施、コントラストの強い映像よりもソフトなプリント/映像のほうが、TV受像機では見やすいという結論を導き出している。
「デイリー・ニュース」のTV番組欄では、概してフィルム・ノワールは評価が高めだ。『飾窓の女(A Woman in the Window, 1945)』、『無警察地帯(The Phenix City Story, 1955)』、『ヒッチハイカー(The Hitch-Hiker, 1953)』が★★★1/2の評価を受けている。それに対して『拳銃魔(Gun Crazy, 1949)』や『ビッグ・コンボ(The Big Combo, 1955)』が低評価なのは、スクリーンで見たときに映像がもつインパクトはTVでは評価されにくく、それよりもプロットに埋め込まれたサスペンス性、会話の面白さ、テンポの良さなどのほうが尊重されていたからだろう。
例えば、ジョン・オルトンの映像がフィルム・ノワールの<象徴>として人口に膾炙し始めるのは、1980年代の後半からである。しかし、この時期に彼の作品が状態の良い35mmプリントで映写された機会は極めて少ない。つまりオルトンの映像の評価の始まりは、VHSや高性能のTVが普及した時期と重なり、TVでコントラストの強い映像をある程度評価できるようになったことと無関係ではないはずだ。『その女を殺せ』について、ウィリアム・フリードキンが「昔TVで見て」強い影響を受けたと語っているのは、決して誇張ではない。「フィルム・ノワール」などという用語が使われるようになるはるか前から、映画ファンの間では深夜に放映されるタフガイのマクグローの映画として認知されていたのだ。<純粋な>映画ファンは顔をしかめるかもしれないが、今の映画の受容をかんがえるときにTVが果たした役割を無視するわけにはいかないのだ。
Links
プロデューサーのスタンリー・ルービンのインタビューはここで見ることができる。
監督のリチャード・フライシャーのインタビューはここで見ることができる。
Data
RKOピクチャーズ配給 1952/5/2公開
B&W 1.37:1
71分
製作 | スタンリー・ルービン Stanley Rubin | 出演 | チャールズ・マクグロー Charles McGraw |
監督 | リチャード・フライシャー Richard Fleischer | マリー・ウィンザー Marie Windsor |
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脚本 | アール・フェントン Earl Fenton | ジャクリーン・ホワイト Jacquline White |
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原作 | マーティン・ゴールドスミス Martin Goldsmith | ||
原作 | ジャック・レオナード Jack Leonard | ||
撮影 | ジョージ・E・ディスカント George E. Diskant | ||
編集 | ロバート・スウィンク Robert Swink |