City That Never Sleeps
リパブリック・ピクチャーズ
1953年
雑誌に書くことと、シナリオを書くことが「違う」とか、私に向かって言わないで欲しい。
私はどちらもやってきた。
もし、自分の書いているものに誇りが持てなかったら、私は最初から書かない。
『湖中の女』についてはやましい気持ちはない
・・・『大いなる別れ』も同じだ。
― スティーブ・フィッシャー
雑誌「Writer’s Digest」の編集長から「ハリウッドの脚本家達が高給をもらいながらも自分たちの仕事を恥じていることについて」寄稿を依頼されたときの返信
Synopsis
眠らない街、シカゴ。今夜も警官たちは夜の街に出かける。そのうちの一人、ジョニー・ケリー(ギグ・ヤング)は、今夜限りで警察を辞めようと考えていた。父親と二代で警察に勤めているが、妻のほうが稼ぎが良く、肩身の狭い生活だ。最後のパトロールに出ようとすると、いつもの相方がいない。代わりにジョーという見たことがない警官が現れ、二人は夜のシカゴにパトロールに出る。ケリーは、ナイト・クラブのダンサー、サリー(マラ・パワーズ)に会いに行き、駆け落ちを持ちかける。駆け落ちの資金稼ぎのあてもある。ケリーは、悪徳弁護士ビデル(エドワード・アーノルド)の仕事を引き受けようとしていた。
Quotes
Chicago’s the big melting pot, and I got melted, but good.
シカゴは大きなるつぼって言うけど、私も溶けちまったわ、それもドロドロに。
サリー(マラ・パワーズ)
Production
「City That Never Sleeps」は一般的にはニューヨークを指すことが多いが、この映画はシカゴが舞台となっている。マーク・ヘリンジャー製作の『裸の町(The Naked City, 1947)』のフォーマットを借りながらも、「シカゴ」そのものがナレーターになる、という仕掛けで映画が始まる。
リパブリック・ピクチャーズは、1935年にハーバート・イエイツが創立したポヴァティ・ロウの映画会社である。イエイツが所有していた現像所に対して多額の借金がある五つの弱小映画会社(モノグラム・ピクチャーズ、マスコット・ピクチャーズ、リバティ・フィルム、チェスターフィールド・ピクチャーズ、インビンシブル・ピクチャーズ)を束ねて一つの会社にした。モノグラムは全国に配給網を持っており、マスコットはキーストーンから受け継いだ一級の設備を備えていた。30年代、40年代を通じてポヴァティ・ロウのなかでも比較的製作費のかかっている作品を手がけ、特にスタジオ撮影の質はメジャー・スタジオと比べても遜色ないレベルであった。しかし、50年代にはTVとの競争やワイドスクリーンの登場により、競争力を少しずつ失い、1958年に閉鎖、フィルム・ライブラリはナショナル・テレヴィジョン・アソシエイツ(NTA)に買い上げられる。
リパブリックのフィルモグラフィには、1940年代の後半から50年代にかけて比較的目立つ作品が多い。オーソン・ウェルズ監督『マクベス(Macbeth, 1948)』、フリッツ・ラング監督『ハウス・バイ・ザ・リバー(House by the River, 1950)』、ジョン・フォード監督『静かなる男(The Quiet Man, 1952)』、ニコラス・レイ監督『大砂塵(Johnny Guitar, 1954)』などである。また、フィルム・ノワールとして数えられる作品にも『ザ・プリテンダー(The Pretender, 1947)』『ムーンライズ(Moonrise, 1948)』などがあるが、ジョン・H・オーアは『眠りなき街』と『ヘルズ・ハーフ・エイカー(Hell’s Half Acre, 1954)』を監督している。
ジョン・H・オーアはブダペスト生まれで、幼少期には子役として映画にも出演していた。成人してから実業家になるが(ハプスブルグ家と取引があったという噂もある)、映画界を諦められず1928年にハリウッドへ渡る。ハリウッドでは仕事が得られず、メキシコの映画界に移って、そこで初めて映画監督となる。メキシコでの作品が興行的にも成功し、ハリウッドに呼び戻された後は、RKOやリパブリックで長い間プログラム・ピクチャーの監督をしていた。『眠りなき街』の頃には、監督作品の製作も兼ねるようになっていた。
この作品の魅力は、シカゴのロケーション撮影にある。これを手掛けたのは撮影監督のジョン・L・ラッセル。1930年代にベンジャミン・H・クラインのもとで助手、カメラ・オペレーターとしてキャリアを始め、数限りない低予算映画で仕事をしていた。オーソン・ウェルズのもとで『マクベス(Macbeth, 1948)』の撮影監督、『黒い罠(Touch of Evil, 1958)』でオペレーターをしている。ウェルズは後年、ハリウッドの優秀な技術陣がいなくなったことの例として、「あの見事なクレーン・ショットのオペレーターのジョン・ラッセルが今じゃ撮影監督をやっている」(ラッセルはその10年前の『マクベス』ですでに撮影監督をやっているのだが)と述懐している。ラッセルのフィルモグラフィを見れば、1950年代から主にTVの仕事をしているのが分かる。なかでもヒッチコックのTV番組での撮影担当は相当な数にのぼる。ヒッチコックが低予算で『サイコ(Psycho, 1960)』を作ることになったとき、このTV番組のスタッフが呼ばれ、ラッセルもその一人だった。当時のハリウッドの典型的な照明のように背景と人物を分離するような照明ではなく、ともすれば背景と人物を渾然一体として映し出す技法で描き出している。ラッセルは低予算で効果的な映像を作り出すことに長けており、『眠りなき街』のロケーション撮影にもそれが表れている。
人生の岐路に立たされた警官、ジョニー・ケリーを演じるのはギグ・ヤング。彼はミネソタ生まれだが、実家はノース・カロライナ、そこで少年~青年期を過している。1940年代から映画に出演、特に「最後に主演男優に女性を持っていかれる助演男優」の役が多かった。『ひとりぼっちの青春(They Shoot Horses, Don’t They, 1969)』のロニー役でアカデミー助演男優賞を受賞。だが、アルコール依存症がひどくなり、『奥様は魔女』で有名なエリザベス・モントゴメリーとの結婚も破局する。メル・ブルックスの『ブレージングサドル(Blazing Saddles, 1974)』では、演技で逆さ吊りにされた際に倒れてしまった。1978年に女優キム・シュミットと結婚するが、この新婚カップルは3週間後にホテルで遺体となって発見される。ヤングがシュミットを射殺した後、自殺したと考えられている。ヤングはサム・ペキンパーの映画に出演(『ガルシアの首(Bring Me the Head of Alfredo Garcia, 1974)』『キラー・エリート(The Killer Elite, 1975)』)した頃から銃器をコレクションしていたという。
サリーを演じたマラ・パワーズはマックス・ラインハルトのジュニア・ワークショップから演劇を目指すようになり、1950年に映画デビュー。ところが朝鮮戦争慰問中に病気に罹患、治療に投与されたクロロマイセチンが原因で骨髄を損傷という事態になる。その後一年近くかけて復帰するが、『眠りなき街』撮影中も治療を受けていた。パワーズはその後TVでの仕事が中心となる。彼女は俳優・演出家のマイケル・チェーホフの下で演技指導を受けており、チェーホフの没後、チェーホフの演技法を教育する活動を続けていた。
シカゴの夜を徘徊する殺人犯を演じるのは、ウィリアム・タルマンである。フィルム・ノワールのファンにはアイダ・ルピノ監督『ヒッチハイカー(The Hitch-hiker, 1953)』の恐怖のヒッチハイカーとして馴染み深いかもしれない。また、TV版「ペリー・メイソン」シリーズで、いつもペリー・メイソンに負けてばかりいるハミルトン・バーガー検事を演じていた。
「Bの女王」と呼ばれたマリー・ウィンザーがタルマンと駆け落ちしようとする弁護士の妻を演じる。ウィンザーは数多くの低予算映画、特にフィルム・ノワール(『悪の力(Force of Evil, 1948)』『スナイパー(The Sniper, 1952)』『その女を殺せ(The Narrow Margin, 1952)』『現金に体を張れ(The Killing, 1956)』に出演している。
この『眠りなき街』のキャストやスタッフの大部分は、50年代後半にTVの仕事にシフトしていった。メジャーのスタジオと契約していなかった映画人のなかには、TVにその活路を見出した者も多い。特にリパブリックのようにハリウッドのビジネスが急速に変化するなかで失速していったスタジオは、その映画ライブラリを含めて、アメリカのTV文化の基盤を築いたとも言える。
Reception
公開当初の反応は賛否入り交じったものだった。
物語の要素はありふれたパターンのものだが、次々と起こる事件のおかげで飽きさせない Motion Picture Daily
ニューヨーク・タイムズは「明らかに『裸の町』が我々の街になし得たようなことを期待していたようだが」と妙な対抗意識を露わにしながら「リパブリックの描くシカゴは随分と平べったい」と辛辣である。そんななかでもラストの追跡シーンのカメラワーク、そしてタルマンの演技は高く評価している。
ジョン・H・オーアの製作と演出は、雰囲気や微妙な陰影にとらわれて、時折混迷している。この作品の公開の最終的なかたちを考慮すれば、もっとストレートな「警官と泥棒」アクション色が強いほうが良かったに違いない。Variety
1953年のリパブリック・ピクチャーズの公開作品の中では『闘う沿岸警備隊(Sea of Lost Ships, 1953)』に次いで第二位の興行収入を記録した。しかし、その後はリパブリックの膨大なライブラリのなかに沈んでしまっていたようだ。「B級ノワール」という観点からも、ずっと見過ごされてきた。エドガー・G・ウルマーやジョセフ・H・ルイスの作品のように、作家主義的な批評から浮かび上がることもなく、またフィルム・ノワールの典型的な特徴からも外れているために、アメリカ本国でも深夜TVやケーブルで時おり放送されるくらいだった。
DVDの普及以後、フィルム・ノワールの全貌が振り返られるなかで、映画評論家のデイブ・カーがジョン・オーアのノワール作品についてフィルム・コメント誌で執筆、注目を浴びるようになってきた。
ちなみに、この作品の唯一現存している35mmプリントはマーチン・スコセッシが所有していると言われている。
Analysis
都市の寓話
この作品はニューヨークを舞台とした『裸の町(The Naked City, 1947)』の人気を受けて、リパブリックにしては珍しく都市部のロケーション撮影を中心に、シカゴ、特に夜のシカゴを舞台として描いた映画である。物語はギグ・ヤング演じる警察官ジョニーと、彼の臨時パートナー、ジョーの二人の夜間パトロールにそって進んでいく。そして二人が出会う人間たちを岐点に物語は分岐し、夜の人々の様々な蠢きが次々と接点を探して伸びていく。ジョニーは、自分の人生が閉塞してしまっていると感じ、社会的に成功している妻との不均衡に嫌気が差して、ナイトクラブのストリッパー、サリーと駆け落ちをしようと考えている。その駆け落ち資金を調達するために、悪徳弁護士ビデルの「仕事」を引き受ける約束をする。ビデルの妻は前科者のヘイズと、やはり駆け落ちしようと相談している。一方、サリーは、同じナイトクラブで客寄せの「機械人間(メカニカルマン)」を演じているグレッグから言い寄られている。サリーは、グレッグの好意を意に介さない様子だが、ジョニーの煮え切らない態度にもさすがに我慢がならなくなっている。そして、ビデルとヘイズの間の緊張が破裂してしまい、そこから連鎖的に都会の夜の悲劇がドミノ倒しのように始まる。
このなかで最も注目を集めるキャラクターは、「機械人間」のグレッグに違いない。顔を銀ペイントで覆い、ナイトクラブのショーウィンドウでロボットのような動きを続ける場末の芸人だ。通行人達が、本当の機械か、人間が演技しているのか、と笑いながら見上げる展示物。通行人に笑われようが、蔑まれようが、彼は無表情に虚空を見つめて演技を続ける。そんな彼にも「心」がある。だが、この行き止まりの深く沈んだナイトクラブで、彼の「心」を見る人間はいない。そして、サリーが彼の「心」を見つけるとき、この銀色のペイントに塗りつぶされた頬に涙が伝う・・・「安っぽい」メロドラマと言ってしまえばおしまいだが、不思議とこの作品の世界 ―――安酒の臭いと煙草の煙にむせ返るナイトクラブ―――に調和している。デイブ・カーはこの機械人間を「(ダグラス・)サークの作品から抜け出してきたようなキャラクター」と評していた。
ジョニーとジョーが漂うなかで出会う人間たちは、『裸の町』とはまったく別の種類の寓話の登場人物たちだ。『裸の町』はマーク・ヘリンジャーとウィージーの描き出すニューヨークの物語だが、それは殺人事件を軸にした進行から逸脱せず、裏道の一本向こうの別の世界に迷い込むことを避けている。『眠りなき街』が興味深いのは、その「一本向こうの裏道」に迷い込むところだろう。警官たちは、産気づいてしまった妊婦を、野次馬たちから離して暗い街角に手際よく連れていき、無事出産させる。人種が入り交じった男たちが裏通りのビルの陰でサイコロ賭博に興じている。そういった描写が、決して十分ではないが、夜のシカゴの「一本向こうの裏道」を想像させる契機にはなっている。こういったネオリアリスモと血縁関係にあるドラマツルギーと「安っぽさ」を係留しているのは、ジョニーの臨時のパートナー、ジョーだ。実は彼は「シカゴ」そのものであり、迷えるジョニーの運命を見守りつつ、この都市の寓話の語り部となる。ロケーション撮影のリアリズムのなかで、このジョーの超自然的キャラクターを絶妙のバランスに保った演出は見事だといえるだろう。
ワイドスクリーンの時代
1953年はハリウッドにとって、トーキーが登場した1927年に次ぐ、転換の年だったといえるかもしれない。3D映画が失速する一方でワイドスクリーンが登場し、配給は劇場側にこの新しいフォーマットを受け入れるように様々なマーケティングを展開していた。シネラマは前年に登場していたが、決定打となったのは20世紀フォックスがシネマスコープを発表したことだった。これを受けて各社がワイドスクリーンで映画製作をすることを相次いで発表した。実際には、パラマウントが『シェーン(Shane, 1953)』で1.66:1のアスペクト比を導入して、シネマスコープよりも早くワイドスクリーン映画の公開に踏み切った。
ワイドスクリーンはスタジオ側が製作の段階で新しいアスペクト比を採用すれば、それで公開できる訳ではもちろんない。劇場側がワイドスクリーンを導入する必要がある。しかも各スタジオが微妙に異なるアスペクト比や技術を提案している状態だった。20世紀フォックスのシネマスコープはアナモルフィック・レンズを用いるシステムで、アスペクト比は様々な変遷を経て2.55:1かそれ以下となった。これはフィルム上の磁気ストリップにサウンドトラックが録音されている。パラマウントは1953年の後半にヴィスタヴィジョンを発表したが、これは従来のフィルムの向きとは90°回転しており、フィルムの幅方向がスクリーンの縦方向に対応、ただし、上映用プリントは像を90°回転してプリントしているので従来の映写機で対応できた。パラマウントはヴィスタヴィジョンのアスペクト比を当初1.85:1で考えていたが、1.37:1~2:1にフレキシブルに対応できた。
いずれにせよ、劇場側は新しくワイドスクリーンを投入しなければならなかったが、様々な問題が浮上してきた。ひとつは、アスペクト比がハッキリと決まらないまま、ワイドスクリーンの噂だけが先行している状態だったことだ。ほとんどの劇場は映写機そのものにはなるべく新規投資せず、アパーチャを変更するだけで対応しようとしていた。一方で、スクリーンが広くなるため、画面が暗くなってしまう問題も浮上してきた。そこで反射率の高いスクリーンが必要となってくる。アルミで表面を処理したものが一般的だったようだが、大きな劇場では客席の位置によっては反射光が少なくなるため、表面に細かいエンボス加工が施されているものが必要だった。さらにシネマスコープでは、新しいレンズを必要とするだけでなく、映写機の消磁(磁気を帯びた部品は、サウンドトラックの磁気記録に影響を及ぼすため)も必要となっていた。
さらにもっと根本的な問題として、各劇場で設置可能なスクリーンサイズの問題があった。インターナショナル・プロジェクトニスト誌(1953年10月号)には、全国の映画館に問い合わせをし、350の映画館から得た回答が掲載されている。
それによれば、これらの劇場で設置可能なスクリーンの高さの平均値は
I群(500席以下) 14フィート8インチ(4.47メートル)
II群(501~1500席)19フィート2インチ(5.84メートル)
III群(1501席~) 21フィート6インチ(6.55メートル)
これと設置可能なスクリーンの幅のデータ(未掲載)から得られるアスペクト比は
I群(500席以下) 1.5:1~1.87:1(平均 1.7:1)
II群(501~1500席)1.81:1~2.16:1(平均 1.9:1)
III群(1501席~) 2.06:1~2.30:1(平均 2.2:1)
となっている。すなわち、規模の小さい映画館では2:1といったアスペクト比の映画を上映することは、その建築上の制限からできないということである。この状況は劇場経営の現場ではかなり深刻にとらえられていた。
当然、配給する側もそのことを考慮しなければならない。何がなんでもワイドスクリーンでなければならない、ではなく、ある程度のフレキシビリティを持たせる必要があった。特にリパブリックのようなマイナーなスタジオでは、弱小映画館での興行も重要だ。リパブリックは1953年の8月にアスペクト比についてアナウンスしている。それによれば、
- リパブリックの映画は従来のスクリーンでもワイドスクリーンでも上映できる。
- リパブリックはアスペクト比を1.66:1とするが、これは1.33:1~1.85:1のいずれのアスペクト比も自由に使って良い。
- リパブリックでは、1.66:1を採用しているものの、撮影は従来のフレームサイズ(1.33:1)で撮影されている。しかし、構図はワイドスクリーンでも頭が切れたり、ものが見えなくなったりしないように、設計されている。
- リパブリックの映画は、ワイドスクリーンでもそうでなくても映写することができる。
そして、このような運用の対象となる映画として、『眠りなき街』を含む14本の映画を挙げている。
『眠りなき街』のアスペクト比は?
『眠りなき街』のBluRayのリリース時に、1.37:1のアスペクト比について疑問が投げかけられている。「リパブリックは公式には、1953年の5月にワイドスクリーンで製作を始め、1953年の8月8日には公式の発表をしている。『眠りなき街』は1953年の6月に公開されているが、1.66であるべきように見える」とウェブサイト”DVD Talk”のグレン・エリクソンは述べている。だが、これは過渡期の作品であって、撮影時には1.33:1が基本のアスペクト比として採用されていた可能性が高い。
確かにエリクソンの指摘するように、オープニングのタイトルは1.66:1のアスペクト比でもかまわないようにタイトルが配置されている。しかし、俳優名のタイトルカードでは、上下が不自然に切れてしまう。実際に1.37:1のアスペクト比のスクリーンをレターボックスで上下をマスクして、1.66:1、1.85:1のアスペクト比を作ってみたのが下の画像である。これを見ても製作期間全体を通して、1.37:1のアスペクト比が想定されていたことが明らかだ。
さらに作品のなかでも、1.66:1のアスペクト比では、不自然な構図になってしまう箇所が数多くある。人物の頭部が切れてしまったり、全体的な構図のバランスが崩れたりしているのだ。それが最も顕著なのはマリー・ウィンザーがナイトクラブの前で殺害されるシーンだろう。1.37:1のアスペクト比の画面では、縦方向への広がりを最大限に利用した、大胆で強烈な構図である。ナイトクラブ「シルバー・フロリックス」の正面が地面すれすれの位置からとらえられ、奥行きだけでなく、高さも感じさせる。ネオンサインの「FROLICS」だけが映ることで、それより上にさらに空間があることが示唆される。そのポスターや看板、サインが猥雑な空間を作り出し、ショーウィンドウにいる「機械人間」が絶え間なく動く。前景にはマリー・ウィンザーが撃たれて地面に倒れている。画面の縦の広がりがそのまま空間の広がりとなって表れ、深夜のナイトクラブとシカゴの暗い空が冷気で連続していることを想像させる。ところが、これが1.66:1にクロップされると、倒れているマリー・ウィンザーが上半分しかフレームに収まらず、このあと現れるジョニーとジョーの二人が遺体を確認するシーンに支障をきたしてしまう。さらにリパブリックが指定しているアスペクト比の上限1.85:1まで広げると「FROLICS」のネオンサインは画面からクロップされてしまい、シカゴの深夜の魔術はすっかり消失してしまう。
これが翌年の1954年に公開されたリパブリック配給のニコラス・レイ監督『大砂塵(Johnny Guitar, 1954)』になると、リパブリックのワイドスクリーンに対する戦略の意図は鮮明になる。『大砂塵』は撮影自体はスタンダード(1.33:1)で行われたが、公開は、上記のリパブリックの方針に従って1.66:1のワイドスクリーンのアスペクト比が推奨されていたと考えられる[注1]。公開当時のVariety誌のレビューでも、アスペクト比は1.66:1と紹介されているが、これは上に挙げたリパブリックの公開方針からすれば不思議ではない。実際、『大砂塵』はいずれのアスペクト比でも構図が不自然になることはなく、明らかに1.37~1.66:1のアスペクト比のいずれを使用してもよいように撮影されている。ところが、1.85:1までアスペクト比を広げると、スターリング・ヘイドンの頭が切れてしまうなど、やや不自然になってくる。『大砂塵』に関して言えば、1.37:1のアスペクト比は「間違い」ではなく、劇場側での選択肢としてあり得るものであり、それを視野に入れて製作されていたのは間違いないだろう。
更にジョン・H・オーアの『レイテ沖海空戦 永遠の海原(The Eternal Sea, 1955)』になると、1.37:1のアスペクト比のプリントが配給されているようだが、全編を通じて、構図としては1.37~1.85までのアスペクト比が網羅されている。
このようにアスペクト比の選択を劇場側に委ねていたのは、リパブリックだけではなかったようだ。パラマウントも、スタンダード(1.37:1)のプリントを配給しつつ、ワイドスクリーンでの上映を奨励する、という形をとっていた。パラマウントの配給部長は1954年に「1.85:1までであれば、どんなアスペクト比で上映してもよい」と劇場側に念を押している。『シェーン』も撮影はスタンダードで行われていたが、1.66:1で上映するよう要請していた。1956年頃にはアメリカ国内の大部分の映画館がワイドスクリーンに対応するために新規スクリーンや設備を導入していたようだが、それでも公共設備(病院など)やアメリカ国外にある米軍基地内の映画館などのなかには、予算や設備の性質の都合上、ワイドスクリーンを導入できていないところもあったらしい。
このように1950年代中盤のワイドスクリーン作品では、先にアスペクト比が厳密に決められているわけではなく、映画館側が選べる範囲のアスペクト比に収まるようにフレキシブルに製作されている作品が多い。
ワイドスクリーンとフィルム・ノワール
1940年代から50年代にかけて現れた、一連のフィルム・ノワール作品は、その大部分がスタンダードのアスペクト比(1.37:1)である。このフィルム・ノワールのサイクルは、1955~56年(『キッスで殺せ(Kiss Me Deadly, 1956)』『黒い罠(Touch of Evil, 1958)』)で一応の終焉を迎えるとする映画史家も多い。これはワイドスクリーンの登場とも重なっている。
ワイドスクリーンの登場は、古典的なフィルム・ノワールの息を止めてしまったのだろうか。もちろん、カラー映画の普及、TVの登場、ハリウッドの映画製作・配給の変革、観客の変化、などが直接的な原因として挙げられるだろうが、ここでは『眠りなき街』を通してワイドスクリーンが与えた(かもしれない)影響を見てみたい。
ワイドスクリーンによる映画演出の変化として、ハーパー・コサーは以下を挙げている。
- カメラの低位置化
- ショットの平均時間の長時間化
- ショット/リバースショットの代わりに二人をフレーム内に収める構図の多用
- クローズアップの頻度低下
他にもミゼンセーヌの重要度が上がったこと、それに伴う美術の果たす役割の変化が挙げられるだろう。しかし、これらはフィルム・ノワールにとって決して必然的な要素ではない。それよりも「アカデミー比率の映画は、垂直、水平いずれの軸に対しても同様に動作することが可能である(コサー)」という指摘が重要だと思われる。なぜなら、多くのノワール作品は「縦」「上下」「垂直」をモチーフに様々なサブテクストを展開しているからだ。
先に挙げたナイトクラブの前での殺人のシーンでも、縦軸に配置されたミゼンセーヌがフレームの外部に拡散していくように収められている。また多くのシーンで人物を切り取る構図において縦方向の線による分割が用いられている。例えば、ウィリアム・タルマンが金庫破りに失敗して夜のビルから逃走するシーンにおいても彼をフレームのなかで孤立させる/追い詰めるのはドアのフレームの縦の線であり、カーテンドレーブの縦の皺である。『眠りなき街』では、閉塞感を強める構造として縦の線は実に効果的に多用されている。
もちろん、横の線が閉塞感をもたらすこともできる。『市民ケーン(Citizen Kane, 1941)』を契機とする「天井」の登場は画面の上部に重なる横の線が人物たちにのしかかることで息詰まるような空間を作り上げている。これは『眠りなき街』でも登場する。これはどちらか一方が優れているというわけではなく、「いずれの軸に対しても同様に動作することができる」という点が重要なのだ。
都市の情景は、水平線よりも垂直線の集合として映る。ビル、電柱、立ち並ぶ建造物、すべて縦の線が反復的に現れることで、カメラのフレームに都市の像が結ばれる。ワイドスクリーンでは、この縦の線の反復を切り取って、「都市」として凝視することが不可能ではないが、困難である。だから、ワイドスクリーンの都市は「ストリートを横方向に俯瞰する」ほうが効果的になるだろう。あるいはビルは「立ちはだかる」ものから「見上げる」ものとなっていった。
また、(これはいささかこじつけかもしれないが)ファム・ファタールのスクリーン上での存在が変貌した。「ワイドスクリーンでは女優を横に寝かせなければならない」というコメントにみられるように、女優を「視る対象」としてスクリーンにおさめる時に、ワイドスクリーンは「立ち姿」の構図を困難にした。「男性視線」を強烈に意識するフィルム・ノワールは、「自分のものにできない(ベッドに横たわっていない、手の届かない)女」を意図する際に、「離れたところから全身を視る」構図を上手く利用することが一つの手段であった。ゆえにスタンダード比率は「立ち姿」を視ることを効果的に実現するには最適だったと言える。例えば『ギルダ(Gilda, 1947)』でリタ・ヘイワースを「視る」上で、「立っている全身が映ること」は重要な役割を果たしている。ワイドスクリーンでも立ち姿を映そうとすれば、立ち姿のヘイワースの全身を切り取って「視る」構図にはなりにくいだろう。
また奥行きを表現するうえでも、スタンダードのアスペクト比はワイドスクリーンに比べて有利に働く場合がある。特に消失点をもつ構図の場合、縦のサイズが十分に大きいことが深い奥行きを演出するうえでは非常に効率的である。
いわゆる「ネオ・ノワール」―――カラーでワイドスクリーン――― におけるアプローチは、スタンダードのアスペクト比が依存していた構図やミゼンセーヌからいったん離れ、もう一度「ノワールの文法」を作り出すことから始めている。それは時代が、「不安」を変貌させ転換してきたからだろう。そして時代はさらに変わり、人々の不安も変貌していく。アスペクト比だけでなく、「画面」が更新されるべき日も近いに違いない。
Links
White City Cinemaでは、シカゴを舞台としたフィルム・ノワールという観点から、都市の情景を中心に論じている。
トロリーカーの専門サイト、thetrollydogder.comでは、映画の舞台となったSilver Frolicsの様子を垣間見ることができる。
またLIFE誌に当時のSilver Frolicsの内部を取材した写真もある。
Data
リパブリック・ピクチャーズ配給 6/12/1953 公開
B&W 1.37:1
製作 | ジョン・H・オーア John H. Auer | 出演 | ギグ・ヤング Gig Young |
監督 | ジョン・H・オーア John H. Auer | マラ・パワーズ Mala Powers |
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脚本 | A・I・ベゼリデス A. I. Bezzerides | ウィリアム・タルマン William Talman |
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脚本 | スティーブ・フィッシャー Steve Fisher | エドワード・アーノルド Edward Arnold |
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撮影 | ジョン・L・ラッセル John L. Russell | チル・ウィリス Chill Willis |
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音楽 | R・デイル・バッツ R. Dale Butts | マリー・ウィンザー Marie Windsor |
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編集 | フレッド・アレン Fred Allen | ポーラ・レイモンド Paula Raymond |
References
(1)オリーブ・フィルムズが2012年にリリースしたブルーレイではアスペクト比は1.35:1だったが、同じくオリーブ・フィルムズが2016年にリリースした「シグナチュア・エディション」では、1.66:1にアスペクト比を変更している。