Black Angel
ユニバーサル・ピクチャーズ配給
1946
みんなどう思うだろうか?
役柄が変わってしまうのを嫌がらないだろうか?
それでも私のことを好きでいてくれるだろうか?
ダン・デュリエ
Synopsis
カーク(ジョン・フィリップス)は浮気相手のメイヴィス(コンスタンス・ダウリング)の殺害の容疑で逮捕され、死刑の判決を受けた。カークの無実を信じる妻、キャサリン(ジューン・ヴィンセント)は、メイヴィスの夫でアルコール依存症のピアニスト、マーティン(ダン・デュリエ)と組んで、真犯人を探し出そうと決意する。彼らは、メイヴィスと関係があったナイトクラブの経営者マルコ(ピーター・ローレ)の身辺を探るため、彼のナイトクラブの専属ミュージシャンのオーディションに応募する。
Quote
なぜだ?俺の妻は殺されたほうがマシな女で、あんたのダンナが片付けてくれたからか?マーティン
Production
ユニバーサル・ピクチャーズ
まず、この映画の製作、配給元であるユニバーサル・ピクチャーズの当時の状況についておさらいをしておく必要があるだろう。ユニバーサル・ピクチャーズは、5つのメジャー・スタジオ(MGM、パラマウント、ワーナー・ブラザーズ、二十世紀フォックス、RKO)より格下の中堅スタジオの一つだった。創業者一族のレムリ親子が『ショー・ボート(Show Boat, 1936)』の製作で多額の借金をしたために追い出されたのち、ユニバーサルは、主に低予算の映画に特化して、ドラキュラやフランケンシュタインといった怪物が登場するホラー映画やシャーロック・ホームズのミステリ映画、西部劇、そしてリッツ兄弟のコメディといった作品を量産していた。この製作方針が功を奏し、第二次世界大戦中は順当に利益(年平均約300万ドル)を上げていた。しかしこの間に、ユニバーサルの筆頭株主はイギリスのアーサー・J・ランクになっていた。
実は、ユニバーサルは他のスタジオと比べて海外からの収入の割合が大きかった。1944年には37%にも達しており、その大部分がイギリスからの収入であった。低予算映画と輸出依存の理由は、やはりユニバーサルが映画館のチェーンを持っていなかったことだろう。メジャーはそれぞれ劇場チェーンを持っていて、いわゆるブロックブッキングを行っていた。それが、ユニバーサルのような中堅スタジオが低予算映画から抜け出して市場拡大を目指すのを阻んでいた。それだけではない。海外の映画がアメリカ国内に流れ込むことも阻んでいた。
戦時中からランクはアメリカの市場にイギリス映画を配給する手段を模索していた。彼が目を付けたのは、ウィリアム・ゲッツとレオ・スピッツが立ち上げたインターナショナル・ピクチャーズである。当初、ランクはインターナショナル・ピクチャーズを足場にブロックブッキングのシステムを立ち上げるつもりだった。ユナイテッド・ワールド・ピクチャーズという会社まで設立するが、ほぼ同じ時期にアメリカ司法省がハリウッドのメジャースタジオによる劇場チェーンのコントロールがシャーマン法(反トラスト法)に抵触している疑いがあるとして捜査を始めていた。ブロックブッキングの終焉を察知したランクは、方向転換する。戦争の終結とともに従来の低予算映画の量産戦略では行き詰まると考えたランクとゲッツは製作する映画の本数を減らし(ユニバーサルは年間50本以上製作していたが、それを30本まで減らす)、製作映画の質を向上させるために、ユニバーサルとインターナショナルを合併してユニバーサル・インターナショナルを設立した。1946年7月30日のことである。
『黒い天使』はこの転換期に、ユニバーサル・ピクチャーズによって製作され、1946年8月に公開された。
原作から脚本へ
この映画の原作は、コーネル・ウールリッチの1943年の長編小説「黒い天使(The Black Angel)」である。この長編小説は、ウールリッチが1930年代に発表した2編の短編が下敷きになっているといわれている。ひとつは1935年発表の「Murder in Wax」、もうひとつは1937年発表の「天使の顔(Face Work)」である。いずれの作品も、死刑判決を受けた男の妻/妹が、真犯人を見つけ出すために夜の闇をさまよう話である。興味深いのは「Murder in Wax」での真犯人は、ほかでもない、「真犯人」を探しているはずの妻本人だという点である。
「黒い天使」は「Murder in Wax」と「天使の顔」のハイブリッドのような作品である。夫と妻の関係は「Murder in Wax」の設定だが、ナイトクラブへの潜入のくだりは「天使の顔」に登場する。ウールリッチは、死刑を目前にした夫の無実を証明するために、妻が都会の夜の闇を彷徨する物語が特に好きだったようだ。ウィリアム・アイリッシュ名義で発表した「幻の女(Phantom Lady)」も死刑を宣告された男の妻が真犯人を探す物語だった。
ユニバーサルは「黒い天使」の映画化権を1945年1月に購入、その1週間後にドロシー・ヒューズが脚本を担当することを発表している。ヒューズはのちに「孤独な場所で(In a Lonely Place)」や「桃色の馬に乗れ(Ride a Pink Horse)」などの原作小説で有名になる。前者はニコラス・レイ、後者はロバート・モントゴメリーでよって映画化された。「黒い天使」の脚本化は、この後すぐにベテランの脚本家リン・ルートに交代したが、最終的にはロイ・チャンスラーがクレジットされている。ロイ・チャンスラーは元新聞記者で、トーキーが登場した頃からハリウッドで脚本を担当するようになった。彼の記者時代の経験を活かした『彼の第六感(Hi, Nellie!, 1934)』が映画化されヒットすると、その後は新聞業界の裏事情を題材とした作品を数多く任されるようになる。1940年代にはターザン・シリーズの脚本の担当などをしていたが、1953年に発表した小説「大砂塵(Johnny Guitar)」がリパブリック・ピクチャーズでニコラス・レイの監督で映画化された。チャンスラーの手がける作品では、自立した、強靭な精神をもつ女性が登場するという特徴がある。『彼の第六感』でもグレンダ・ファレルが何ものにもびくともしない女性記者を演じている。これは「大砂塵」などでも通底しているテーマだ。「黒い天使」でも、メイヴィス、キャサリンともに、男の言うなりにならない、強い意志を持った女性が登場する。それと同時に、チャンスラーの脚本はウールリッチの絶望に包まれた世界像を比較的忠実に反映している。
謎に包まれた映画監督の最後の作品
ユニバーサルはこの作品を、トム・マクナイトとロイ・ウィリアム・ニールの製作、そしてロイ・ウィリアム・ニールの監督で開始した。1946年4月のことである。
ロイ・ウィリアム・ニールは、現在では1940年代にヒットしたユニバーサルの一連のシャーロック・ホームズの映画で有名な監督である。だが、その人生については謎が多く、人物像もつかみにくい。ここではシャーロック・ホームズの映画でレスタレード警部を演じたデニス・ホーイの息子、マイケル・ホーイの調査で明らかになっているニールの生涯について紹介しよう。
MPAAのマーガレット・へリック図書館におさめられている文書では、ロイ・ウィリアム・ニールは本名をロラン・ド・ガストリエといい、ダブリン生まれだということになっている。しかし、その後の調査でこの話は眉唾ではないかと言われている。スコット・ゴリングハウスの調査によると、ロイ・ウィリアム・ニールは本名であり、1887年サンフランシスコ生まれだということだ。ロイの父親、ロバート・ニールは確かにアイルランド生まれで、1850年にアメリカに移住してきている。ロバートは船乗りだったようで、ロイは父が船長を務めるロラン・ド・ガストリエ号で生まれたという説もある。
ロイ・ウィリアム・ニールの青年期のことについてはほとんど明らかになっていない。1910年にアルカザール劇場でフレデリック・バレスコの率いるアルカザール劇団の副マネージャーをしていたというのが、記録に残る最初の演劇とのかかわりである。1911年にアングロ=アメリカン・プレイヤーズという劇団と世界ツアーに出るが、ニールはマニラで劇団と別れ、その後エジプト、アフリカ、インドと放浪の旅に出ている。1913年にカルカッタからロンドンに到着、俳優としてグローブ座やストランド座で舞台に立っている。
ニールが映画界と関わりと持ち始めるのは、ロンドンからブロードウェイを経て、カリフォルニアに戻ってからである。トーマス・インスの下でアシスタントとして働き、その後監督を務めるようになった。ニールは、1910年代の後半から、数々のスタジオで映画の監督をしている。ファースト・ナショナルでコンスタンス・タルマッジのロマンチック・コメディ、フォックスでバック・ジョーンズの西部劇、といった具合に実に多彩なジャンルの映画を担当している。1928年には、スリー・ストリップ・テクニカラーの第1作『ヴァイキング(Viking, 1928)』も監督している。
トーキーへ移行したのち、ニールはコロンビア・ピクチャーズで低予算映画を量産するようになる。政治劇から西部劇まで器用にこなしたが、なかでも『9人目の客(The 9th Guest, 1933)』のようなミステリ、あるいは『黒い部屋(The Black Room, 1934)』などのホラー映画の演出は得意だったようだ。ニールはハリウッドで仕事を始めたころから、自らの出自をごまかし始めていたようで、特にダブリン出身であることを強調していた。それが功を奏して、当時のハリウッドのイギリス出身者のコミュニティにすんなり入り、独特の英国/ダブリン訛りで話していた。
イギリス出身者のコミュニティに深くかかわっていたという事実が、一連のシャーロック・ホームズ映画の演出に有利に作用したのは間違いない。主演のベイジル・ラスボーンやナイジェル・ブルースらとは親しかったし、様々な変更がオリジナルから加えられていても、英国出身の監督という切り札があった。『緑の女(The Woman in Green, 1945)』、『闇夜の恐怖(Terror by Night, 1946)』、『殺しのドレス(Dressed to Kill, 1946)』と立て続けにホームズ作品を発表したのち、まったく毛色の違う『黒い天使』にとりかかることになる。
ニールの演出の特徴は、特にホームズ作品に如実にあらわれている。まったく無駄がなく、語り口が絶妙で、ショットを次から次へと重ねて、ストレートに物語を進めていく。『殺しのドレス』のような比較的複雑なプロットが交錯する物語でも、76分でまとめ上げ、ベイジル・ラスボーンとナイジェル・ブルースの掛け合いも適度に組み込んでいる。コロンビアのようなポヴァティ・ロウのスタジオで、それでも楽しめる作品を作り続けてきた手腕が、ここにきて堅実な職人演出として結実していた。
ニールは『黒い天使』を撮り終えた後、イギリスで大作を監督することになっていた。ユニバーサルは、戦時中からかなりの資産をイギリス国内にため込んでしまっており、それをイギリス国外に持ち出すことが禁じられているため、イギリスの会社との共同製作のもとにその資産を使おうというつもりだった。だが、ニールは滞在先のイギリスで病にたおれ、亡くなってしまう。59歳だったが、生涯ですでに107本もの映画を監督していた。
ダン・デュリエの問題とピーター・ローレの問題
フリッツ・ラング監督の『飾り窓の女(The Woman in the Window, 1944)』、そして『スカーレット・ストリート(The Scarlett Street, 1945)』で、卑劣な男をみごとに演じたダン・デュリエはにわかに注目を集めていた。普通ならば、似たような役を繰り返し演じさせるのが、当時のハリウッドのスタジオの典型的な考え方だった(いわゆるタイプキャストである)。しかし、ユニバーサルはデュリエを主演にする映画の方向性を探りはじめていた。つまり「正義漢」、「優しくて強い男性」という当時のハリウッド映画の「主役」の型に、「卑怯者のヒモ」役で話題になったデュリエをどうはめこむか、ということを考えていたのである。もちろん、その当否を決めるのは「客が呼べるか」であった。デュリエは『スカーレット・ストリート』のあとに、RKOでエディ・カンターの恋愛コメディ映画の主人公として出演する話もあった。だが、エディ・カンターが得意としたノスタルジア満載のミュージカル・コメディが果たしてデュリエを期待する観客層に受けるとは思えない。このアイディアが流れたあと、『黒い天使』の主役に抜擢されたのである。
この状況を横で見ていたピーター・ローレはどんな心持であっただろうか。
ピーター・ローレはハリウッドに来てからというもののタイプキャストに悩まされ続けていた。彼にオファーされる役柄といえば、異常者、サディスト、裏切者、マッド・サイエンティスト、そうでなければ、日本人の探偵、国籍不明のギャングといったところばかりだった。その彼が、長年あたためていたストーリーがあった。1930年代にジョン・ヒューストンがイギリスのゴーモン=ブリティッシュに在籍していた時に思いついた「三人の他人」という物語があり、ローレは、この主役───愛すべき飲んだくれ───をぜひとも自分でやりたいと思っていた。ジーン・ネグレスコが監督して、このローレの願いがかなったのが『三人の他人(Three Strangers, 1945)』である。ローレは抑制された演技で、哲学的でさえあるこの主役を見事に演じたが、興行での反応は冷ややかだった。ネグレスコがローレを「人間味のある、ロマンチックな役柄で」つかってみたいと言ったとき、ジャック・ワーナーは笑い飛ばしたといわれているが、それは決して的外れな反応ではなかったのである。残酷だが、人々はローレに人間味を求めてはいなかった。そして次の作品からはまたもとのタイプキャストに戻ってしまう。ローレの伝記の著者、ステファン・D・ヤングキンが述べたように「愛すべき飲んだくれは、異常殺人犯に簡単に入れ替え可能」であった。
作品中、デュリエとヴィンセントの2人が真犯人を探していくなかで、ピーター・ローレ演じるマルコが浮かび上がってくる。このきっかけが「M」のロゴの入ったマッチブックなのは、明らかにフリッツ・ラング監督、ピーター・ローレ主演の『M(1930)』へのオマージュである。殺されたメーヴィス・マーロウはロゴに執着していてすべての持ち物に彼女のイニシャル「M・M」を入れている。デュリエがマッチブックを見ながら「メーヴィスは『M・M』と2文字だ、これは1文字だ」と、わざわざピーター・ローレに1文字の「M」を結びつけるところは、当時の映画ファンへの目くばせだったのだろう。
ベテラン撮影監督
当初はエヴァ・ガードナーがキャサリン役を演じる予定だった。しかし、ガードナーは夫のアーティ・ショー(ジャズ・ミュージシャン)との関係が不安定でニューヨークに行きたがっており、結局スケジュールが合わなかった。代わりにユニバーサルのストック・プレーヤー、ジューン・ヴィンセントが選ばれた。
撮影監督はポール・イヴァノ。サイレント時代からのベテランで、ルドルフ・ヴァレンチノと親友であり、彼の作品のカメラマンもつとめた。ジョセフ・フォン・スタンバーグの幻のデビュー作『A Woman of the Sea』でもカメラを担当しているほか、F・W・ムルナウの『四人の悪魔(Four Devils, 1928)』、エーリッヒ・フォン・シュトロハイムの『クイーン・ケリー(Queen Kelly, 1929)』など、フィルムが失われていたり、お蔵入りになってしまったために、正当な評価を受けられなかった不運の撮影監督である。ユニバーサルの『フランケンシュタイン(Frankenstein, 1931)』でも「幻のテストリール」と呼ばれる、ベラ・ルゴジが怪物を演じたフィルムは彼が撮影したものだった。その後、ハリウッドではイヴァノのことを「芸術家」と揶揄気味に呼ぶような風潮もあり、独立映画やポヴァティ・ロウでの仕事が大半を占めていた。1934年に製作されたジョセフ・バーン監督の『夜明けから夜明けまで(Dawn to Dawn, 1934)』などでは、自然主義的な撮影アプローチでこの作品を救っている。1940年代からは特にクレーンでの撮影を得意としており、スタンバーグの『上海ジェスチャー(Shanghai Gesture, 1941)』でも、カジノのシーンでのクレーン撮影が印象的だ。1944年からはユニバーサル専属のカメラマンとして活躍した。この『黒い天使』はそのなかの一作である。おそらく、今では、ポール・イヴァノの名は『夜の人々(They Live By Night, 1948)』のオープニングのヘリコプターからのショットを撮影した人物として有名であろう。
『黒い天使』の撮影は1946年の4月9日に開始され、5月半ばまで続いた。公開は同年の8月である。
Reception
公開時の業界紙の評は好意的である。
子供向けの映画ではないが、サスペンスと驚きに満ちた物語は、大人の観客を楽しませるであろう。Motion Picture Herald
ダン・デュリエの演技は非常に高く評価されている。
ダン・デュリエの演技の才能はここにきて見事に開花している。Motion Picture Daily
ニューヨーク・タイムズのボズリー・クローザーはミステリとしての出来の悪さに批判を浴びせている。
脚本はほころびだらけで、めちゃくちゃだ。腕に覚えのあるアマチュア探偵なら、我慢がならないだろう。New York Times
劇場での評判は、それ以前の「客が入らない」という身も蓋もないものが多かった。
ハエも寄ってこない。まったくダメ。なんで2日も上映してしまったんだ。ノース・カロライナ州ルイスバーグ、ルイスバーグ劇場支配人 W・F・シェルトン
なかなかいい映画だ。評判もいい。人が入ればの話だが。ルイジアナ州ラストン、テック劇場支配人 W・M・バターフィールド
映画はよくできているが、興行が悪い。アラバマ州フロマトン ジャクソン劇場支配人 S・T・ジャクソン
オクラホマ州のデューイーのパラマウント劇場の支配人、E・M・フライバーガーは、客が入らなかったのは「スターがいないからだ」と断言した。そう、ダン・デュリエでは集客力が足りないのである。
原作者のウールリッチはこの映画を嫌っていたようだ。詩人で英文学研究者でもあるマーク・ヴァン・ドーレンはこの映画を観て感激し、「クレジットに名前があるのを見て」ウールリッチに手紙を書いた。ウールリッチは自ら映画を見に行き、返事を書いた。
映画館を出てきたときには恥ずかしくてたまらなかった。暗闇の中でずっと考えていたのは「私は自分の人生をこんなことのために費やしてきたのか?」だった。コーネル・ウールリッチ、ヴァン・ドーレンへの返事
公開時の不人気、ロイ・ウィリアム・ニールやポール・イヴァノの評価の遅れから、長いあいだフィルム・ノワール批評の中ではマイナーな位置にとどまっていた。レイモンド・ボード/エティエンヌ・ショーモンも、1946年の作品として名を挙げるにとどまっている。映画『黒い天使』は、コーネル・ウールリッチの文学的射程が再確認されていくなかで見直されるようになり、ダン・デュリエの優れた演技力が再発見された。特に、フランシス・M・ネヴィンスやジェームズ・ナレモアが、ウールリッチの文学が1940年代のハリウッドに与えた影響を俯瞰して批評を再構築したことが大きなきっかけとなっている。
Analysis
『黒い天使』を、ウールリッチが原作であるとか、ダン・デュリエが主演であるとかという観点から、フィルム・ノワールだと断言してしまうのは若干強引だろう。この作品は、総じてハイキーな照明で撮影されているし、プロット構造は典型的なフーダニットである。一方で、アムネジアを扱っている点や、隠蔽された性的な暗流などは、確かにフィルム・ノワールの特徴を備えているといえるかもしれない。繰り返し指摘されているように、フィルム・ノワールという概念は後年生まれたものであって、その定義もあいまいだ。
まず、公開当時のハリウッド映画を取り巻く状況を俯瞰して、そのなかに『黒い天使』を位置づけて特徴を明確にしてみたい。ロイ・ウィリアム・ニールが1943年からわずか3年の間に11本も撮り続けてきた『シャーロック・ホームズ』シリーズと『黒い天使』のあいだには、なにか違いはあるのだろうか。あるいは『黒い天使』の後に公開されるユニバーサル・インターナショナルの『殺人者(The Killers, 1946)』と何が違うのか。
この映画が公開された1946年には、ハリウッド映画を取り巻く環境は大きな転回を見せる。その転回を考察するためには、戦時中の映画館の風景から始めなければならない。
日本の南方侵略が変えたハリウッド
戦時中に起きた顕著な変化の一つに、メジャースタジオの製作本数の著しい減少が挙げられる。これはいくつかの要因が複合的に絡んでいるが、その背景にあるのはアメリカ社会のあらゆる局面における軍需の優先である。真珠湾攻撃(1941年12月8日)からアメリカは第二次世界大戦に正式に参戦する。その直後から物資、ユティリティ、人員などあらゆる分野で、軍需が優先されるようになる。
まず、生フィルムの使用量が制限された。この制限はフィルムの原料となるニトロセルロースが火薬の生産に使用されていることも要因のひとつだが、政府や民間が兵士や工員の教育用映画の製作を優先させたことも重要な要因である。1942年には、各スタジオに対して、前年の使用量から25%の削減が課せられた。これは、製作時に使用するネガフィルムの問題もあるが、配給用プリントの本数を減らさなければならないことが大きな痛手であった。
建築用資材の規制も大きな影響を及ぼした。セットの建造には5000ドルの限度が設けられ、「メジャースタジオが釘のリサイクルをしている」と報じられた。興行側の打撃はもっと大きかった。映画館の新築は事実上禁止され、既存の映画館は200ドルしか修繕に使用できなかった。
最も影響が深刻だったのは、運輸の問題である。石油の生産量、備蓄量などについて言えば、アメリカは例え軍事目的の使用が急激に増加したとしても十分に余裕があった。問題はタイヤだった。日本がマレー、そしてオランダ領東インドへ侵攻し、アメリカは天然ゴムの入手ができなくなった。これにともなって、価格管理局(Office of Price Administration)は、民間人がむやみやたらとタイヤの交換をしないようにするために、ガソリンを配給制にしたのである。ガソリンの配給制は民間人の行動様式を変化させたが、映画館に通う慣習も変化させた。都市部ではより近隣の映画館に通うようになる一方で、自動車でのアクセスが必須となる地方の小規模の映画館は経営不振に陥るところも少なくなかった。この運輸への規制はトラック輸送にも及び、ハリウッドのスタジオ/配給チェーンは、上映用プリントを配給網に乗せて流通させる際の問題に直面する。
物資だけでなく、多くの映画人がハリウッドを離れて戦争に直接的に、間接的に関わった。プロデューサー、監督からスタッフ、そして俳優たちが自ら志願したり、あるいは応召して任務に就いた。1942年には2600人がハリウッドを離れたという。その代わりに検査で不適格となった者、高齢者、そして外国籍の者が製作に携わるようになる。いわゆる亡命映画作家達───フリッツ・ラング、ロバート・シオドマクなど───が戦時中に注目される作品を発表するのも、このような要因が背景にある。映画化できる作品、そしてそれを映画化につなげる脚本家の不足も顕著になってきた。Variety誌は、作品にできるストーリーの枯渇と才能のある作家の不足するなか、奇妙だが歯切れのよいセリフを書く、パルプ出身のミステリ作家たちが流れ込んできていることを指摘している(1943年11月)。
映画人だけではない。もちろん一般の市民も戦争に深くかかわる。軍需工場の多くは増産に対応してシフト制となった。工場の所在地の近隣の映画館では、深夜上映、あるいは24時間上映が行われるようになる。
このような環境の変化にともなって、ハリウッド映画業界は製作本数を減らしつつも、結果的に興行収入を増やしたのである。これは一見矛盾するように見えるが、実は「映画興行の都市への集中化」によって利益増大につながったのである。特にメジャー・スタジオは、製作本数を劇的に減らすことになる。MGMは戦争に突入する前は年間50本近く製作していたが、1943年には30本台に減らしている。最も顕著なのはワーナー・ブラザーズで、1941年には年間48本製作していたが、1943年以降20本以下に減らしてしまう。戦争突入後、前述のような様々な規制によって、戦前のような形態の製作や配給に不利な状況が現れる一方で、メイン・フィーチャー作品の封切りからの興行収入が驚異的に伸びていくのを見たメジャー・スタジオとその配下の劇場チェーンは興行の形態を変化させていくのである。
その変化のひとつが、作品の上映期間の延長(ホールドオーバー)である。1つの作品をできるだけ長く封切りとして封切り劇場に滞在させて興行収入を回収する方法が急激に普及していった。最も有名な例がMGM製作の『ミニヴァー夫人(Mrs. Miniver, 1942)』である。ニューヨークのラジオシティ・ミュージックホール劇場(5960席)で10週間の興行を行い、この劇場だけでのべ150万人の観客を動員、製作費の半分を回収したという。製作本数を減らす一方で、それらの作品を都市部の大型劇場でより長い期間にわたって上映する。都市部の大型劇場は入場料を高く設定してあり、公開本数が減少しても興行収入が増加するのである。少ない製作本数で最大の利益をねらえるだけでなく、上映用プリントのロジスティックスの問題や劇場をめぐる環境の変化にも対応できる。
もうひとつの変化が、製作費のシフトである。メジャー・スタジオは製作本数を減らすなかで、二本立て興行の「添え物」の製作本数を減らして、その予算を興行のメイン・フィーチャーにまわすようになった。例えば、20世紀フォックスは1942年5月に総額28万ドルで52本の映画の製作をすることを発表するが、3か月後には、10本の低予算映画の製作を取りやめた。ふたを開けてみると、20世紀フォックスは1942年公開の映画のうち15本のメイン・フィーチャー作品が100万ドルを超える興行を記録していた。ワーナー・ブラザーズは、Bユニットを閉鎖してトップのブライアン・フォイを解雇、メイン・フィーチャーの作品のみ製作する方針に切り替えている。これにともなってブロックブッキングもやめている。
メジャー・スタジオが製作本数を減らし、封切り作品に集中する一方で、ユナイテッド・アーチスツ、コロンビア、ユニバーサルの中堅3社は、戦時中も本数を減らすことなく製作し続けている。特にユニバーサルとコロンビアは製作費50万ドル以下の低予算映画が大半を占めた。メジャー・スタジオの配下にあるチェーンの映画館も、独立系の小規模の映画館も、メジャー・スタジオの封切りメイン・フィーチャー作品と、中堅以下のスタジオの添え物作品の組み合わせで2本立てを組むことが多くなった。ブロックブッキングの見直しが行われたのである。
ブロックブッキングの変化
1930年代から40年代のアメリカの映画興行では、「メイン・フィーチャー」となる作品と「添え物」と呼ばれる作品が組み合わされた2本立て興行が一般的だった。メインとなる封切り作品は「A級映画」、添え物は「B級映画」と総じて呼ばれるが、実際にはそんな単純な話ではない。メジャー・スタジオと中小スタジオの力関係、メジャー・スタジオの配下にある劇場チェーンと独立系映画館、そのうえに地域による観客の嗜好の差が重なってくる。
ハリウッドのブロックブッキングは「力のあるスタジオがA級映画とB級映画を抱き合わせで劇場に配給する」「ヒット作を上映したい映画館に売れない映画も一緒に無理やり押し付ける」システムではない。米国内の興行の実態をデータに基づいて分析したアンドリュー・ハッセンによれば、契約内容を見ても、実際のデータをみても、映画館側が非常に不利な地位に立たされていたとは考えにくいという。ブロックブッキングは、端的に言うと、スタジオが提示する「公開予定の映画の一覧表」の中から映画館側が上映したい映画群(ブロック)を選ぶ仕組みである。そして実際に映画が配給されたのち、他の映画館で成績が悪いと分かるとキャンセルしてもかまわなかった。最低でも全契約本数の10%、パラマウントは50%までキャンセルを認めていた。上映したものの人が入らないとなると上映を打ち切ってもかまわないし、映画館の近隣コミュニティがふさわしくないと思った作品は上映しなくても罰金をとられるわけではなかった。
ではなぜこんな仕組みが存在したのか。どこの映画館もスクリーンに常に上映するだけの数の映画が配給されないと困る。第二次世界大戦に入る前からメジャースタジオだけの製作本数ではスクリーンは埋まらなかった。ブロックブッキングは劇場側も製作側も効率的に大量に映画を取引するために都合が良かったのだ、とアンドリュー・ハッセンは結論している。
第二次世界大戦中には、前述のようにメジャー・スタジオは封切り作品のホールドオーバーで興行収入を伸ばしていたが、この現象はスタジオ配下の劇場チェーンにとっても好ましいことだった。ブロックブッキングでは封切りメイン・フィーチャー作品の収入は「パーセンテージ(歩合)」でスタジオと劇場のあいだで分配していたので、興行収入的には客が入れば入るほど劇場にもメリットがあった。そして、メジャー・スタジオが「添え物」の製作本数を減らしたため、劇場側は中堅スタジオやポヴァティ・ロウが製作した作品を2本立て興行の添え物として使う頻度が多くなった。これらの作品は、定額レンタルで配給されるのが一般的だった。
この他にも、ブロックブッキングをめぐる環境が1940年代の前半には変化し続けていた。1940年には映画を見る前にブッキングをさせるブラインドビディングが禁止され、必ず映画の試写が行われるようになる。戦争に突入すると、トレードショーのように全国から人を集めて会合を開いての試写が困難になり、地域ごとのフィルム・エクスチェンジでの試写が一般的になっていった。これもメジャーの製作本数低下につながった。ワーナー・ブラザーズは、Bユニットの廃止に伴い、スタジオ全体のブロックブッキングから製作ユニットごとの配給契約に切り替えている。ワーナーに限らず、戦時中の税金対策として独立プロデューサーの数が一挙に増えたこともあり、スタジオも対応しなけれなならなかったのだ。
1946年
そして、戦争が終わった。
1946年という年は、ハリウッドにとって転回期の始まりに当たる重要な年である。
この年、興行成績16億9200万ドルでピークを迎え、観客動員数は史上最高の週8500万人から9000万人を記録する。
多くの人が映画館に毎週2回以上行っていたという。この観客動員数の爆発的増加は、第二次世界大戦中、欧州や太平洋で従軍していた兵士たちが帰国した影響が大きい。
1946年6月の地方裁判所の判決でブロックブッキングが違法とみなされ、この年から実質的にブロックブッキングの機能が停止し始める。1948年のパラマウント訴訟の最高裁の判決では、製作スタジオと劇場チェーンの分離が言い渡されているが、その2年前からすでにスタジオと映画館の関係は変わり始めていたのである。
映画館からすれば、1946年は上映できる映画が圧倒的に少なかった。メジャー・スタジオの製作本数は戦前の半分以下でホールドオーバーが前提、ユニバーサルやコロンビアの作品が添え物としてプログラムに組み込まれていた。そういった興行環境のなかで、この『黒い天使』は公開された。
『黒い天使』と『殺しのドレス』
『黒い天使』は1946年の8月に公開が始まっている。全国的に上映している映画館は決して多くはないが、公開当時は2本立て興行のメインの作品という位置づけだった。この映画の興行の実態をロサンジェルスでの上映を見ながら考えたい。
『黒い天使』はロサンジェルスでは、ダウンタウンにあるユナイテッド・アーチスツ劇場(現エース・ホテル劇場)、ウィルシェアのリッツ劇場、ハリウッドのフォンダ劇場(当時はギルド劇場と呼ばれていた)の3劇場で封切られた。添え物としては同じくユニバーサル・ピクチャーズの『Wild Beauty (1946)』があてられていた。これは、ウォレス・フォックス監督、ドン・ポーター主演のわずか61分のアクション/西部劇で、ユニバーサルが最初から2本立ての添え物として製作した映画である。この3劇場はロサンジェルスの中心部にある重要な封切り専門の劇場だが、お互い程よく離れている。『黒い天使』はここで10日ほど上映されたのち、ホールドオーバーなしで2番館に移っていく。
大部分の2番館での上映は、わずか2、3日で打ち切られている。しかも場所はロサンジェルスの中心から離れたグレンデール、スタジオシティ、ヴェニス、パサデナといった地域である。よく見るとこれらの映画館ではケーリー・グラント主演の『夜も昼も(Night and Day, 1946)』の上映までの数日の穴埋めに『黒い天使』を持ってきている。パサデナのUA劇場にいたっては、1日しか上映していない。
そのサイクルが終わると、『黒い天使』は2本立ての添え物に格下げされる。例えば、パラマウント・ピクチャーズでウィリアム・ディターレが監督した『The Searching Wind (1946)』、20世紀フォックスの『アンナとシャム王(Anna and the King of Siam, 1946)』などがメインの興行のときに添えられている。劇場の席数や格は、そのときのメイン興行の作品に合わせて選ばれているようだ。そしてこの状態の興行が10月まで続く。興味深いのは11月に入るとそれまでの配給チェーン配下の劇場を離れ、独立系の劇場に移り、そこでは『黒い天使』は2本立てのメインに戻っているのだ。ただし、添え物には、PRC製作、エドガー・G・ウルマー監督の『モンテ・クリストの妻(Wife of Monte Christo, 1946)』、モノグラム製作の『モントレーの南(South of Monterey, 1946)』といった、ポヴァティ・ロウの作品が入ってくるようになる。劇場のサイズも小さくなっていく。最後はフォックス系列ではあるものの、北ハリウッドの小さな劇場にたどり着く。
では、『殺しのドレス』はどうだろうか。
『殺しのドレス』は公開当初から添え物として扱われている。ユニバーサルのメイン作品だけでなく、ワーナー・ブラザースやMGMの作品にも添えられている。7月に公開された『Easy to Wed』はMGMが売り出し中のヴァン・ジョンソンを主演にした大作で、ロサンジェルスでは、エジプシャンを含む4劇場で同時に封切り単独公開している。この作品が2番館に降りてきたあたりで2本立てになって、その多くの劇場で『殺しのドレス』が添え物として併映されている。9月に入ると独立系の映画館での興行に切り替わり、ここでも添え物として上映されているが、なかにはメインの興行の場合もある。『殺しのドレス』の興行は非常に息が長く、12月に入っても独立系の映画館で頻繁に上映されていた。
この経緯を見ていると、『黒い天使』は封切りの段階では『殺しのドレス』よりは格上の扱いだが、ホールドオーバーができずに興行のポテンシャルが低いとみなされて、最終的には『殺しのドレス』とほぼ同じ扱いになっている。『黒い天使』についてのユニバーサルの思惑は非常に明快だ。ダン・デュリエとジューン・ヴィンセントのスターとしての興行価値を推し量ろうとしている。ダン・デュリエに関しては、『黒い天使』のすぐ後に『White Ties and Tails』でコメディにも挑戦している。これもヒットとはほど遠い結果だった。前述の映画館の支配人たちのコメントがすべてを物語っている。「いい映画だが、人が入らない。」残念ながら、デュリエにはケーリー・グラントのような集客力はなかった。
『殺しのドレス』はわずか$237,000の製作費であるのに対して、『黒い天使』は$600,000と2倍以上の製作費があてられている。『黒い天使』はもちろん二本立て興行のメイン作品として作られているのだが、この製作費の差が映画そのものに如実に現れているかというと、それは微妙である。それは『黒い天使』の問題というよりも『殺しのドレス』が製作費のわりに見栄えがすると言うほうが的確かもしれない。シリーズ化された作品だけあって、セットや小道具は上手く使いまわされているし、ユニバーサルの契約俳優たちが、物語を推し進めるに必要なキャラクターをそつなく演じている。一方で、『黒い天使』ではセットや美術の質が飛躍的に向上してるかというと、それが画面に現れていない。この映画のために組まれたセットのなかで最も大きいものは、マルコ(ピーター・ローレ)のナイトクラブ「リオ」だが、そのポテンシャルが十分に発揮されているかというと疑問が残る。ポール・イヴァノは『上海ジェスチャー』などでも見られるクレーンを使った巧みなショットが得意な撮影監督である。それが、マルコのナイトクラブで使われるかと思いきや、まったく現れない。他のセットは没個性的な印象に残らないものばかりである。さらに、音楽家たちが主人公であるために、楽曲も提供されているし、オーケストラやプロのダンサーたちも出演している。監督のニールは、こういったダンスペアやバンジョー弾きを丁寧に使いつつも観客の興味がフーダニットから脱線しないように注意深く制御している。それがかえって仇になってしまっているようだ。皮肉なことに、この「フーダニットの語りに忠実」な側面は、ニールが監督したシャーロック・ホームズ・シリーズが手堅い添え物として機能した最大の理由でもあった。
しかし、それでも『黒い天使』は、シャーロック・ホームズ・シリーズのような添え物ミステリの「型」から、逸脱しようとしていた。どのように逸脱し、どこに向かっていたのか。それを検証してみたい。
ユニバーサルの低予算映画
ここでは、フィルム・ノワールの観点をより浮き彫りにするために、ユニバーサルが1943年から45年の間に6作製作した「インナー・サンクタム・ミステリー」シリーズ、特にその第1作『コーリング・ドクター・デス(Calling Dr. Death, 1943)』を取り上げたい。この作品を取り上げるのは、この作品がいわゆる「フィルム・ノワールの特徴」として挙げられるものをいくつも備えているからだ。実際、imdbのサイトでは「film noir」のジャンルのタグもつけられている。また、ストーリーが『黒い天使』と酷似している点も、戦時期の経験がいかに企画、物語の性格、演出、演技に影響を与えたかを浮かび上がらせるのに都合がよいかもしれない。
『コーリング・ドクター・デス』は、わずか63分の作品で、「添え物」として製作されている。主演のロン・チェイニー・ジュニアは、ユニバーサルのホラー映画シリーズで狼男として常連だったものの、なかなか「二流怪物映画俳優」のステータスから抜け出すことができないでいた。そのチェイニーがミステリー映画の主役としてイメージチェンジを図ろうとしたのが、「インナー・サンクタム・ミステリー」シリーズである。人気のラジオドラマから翻案されたこのシリーズは1話完結で、シリーズキャラクターはいない。毎回、人間の深層心理に潜む闇の部分が起こすかもしれない犯罪、しかも本人が気付かないうちに起こすかもしれない殺人を題材にしている。主演のチェイニーは、すべての作品で犯罪の真相を深刻な顔をしながら解決していく。『コーリング・ドクター・デス』では、チェイニーは精神科医で、催眠術を使って患者が自ら気付いていない問題を解決するという治療を行っている。そのチェイニーには、不倫し放題の奔放な妻がおり、チェイニーを嘲笑っている。チェイニーにはアシスタントの女性がいてお互い愛し合っているものの、チェイニーが離婚できないためにどうにもならない。そして、チェイニーの妻が別荘で殺され、不倫相手の男が逮捕される。チェイニーは知らない間に自分が殺したのではないかと疑念を抱き始める。そして、アシスタントの助けを得ながら、彼は自分自身を催眠術をかけて真相を探ろうとする。
『コーリング・ドクター・デス』は フィルム・ノワールとして頻繁に挙げられる特徴をいくつも備えている。記憶喪失(アムネジア)、フラッシュバック構造、意識の流れとしての独白/ボイスオーバー・ナレーション、POVショット、男を破滅に追い込む女性、シニカルな法と秩序、そして(表現主義的な)キアロスクーロ、など、実は映画的な仕掛けとしては奇妙なほどに豊かである。特に公開当時より批評家たちから酷評されたのが、「意識の流れ」を取り入れた主人公の内的独白のボイスオーバー・ナレーションだった。
しかし、この主人公の医師による意識の流れのボイスオーバー(ラジオドラマで使われすぎている技法だが)は、つくりもののようで気が散ってしまう。Variety
この評は非常に様々な点において示唆的である。まず、1943年当時には既にラジオドラマで、意識の流れを取り入れた内的独白が陳腐化するほど使用されていたこと、ところが映画で使用されると違和感があると感じられていたことである。実際、1930年代の後半から意識の流れの内的独白はラジオドラマで多用されていた。ダルトン・トランボ原作の「ジョニーは戦場に行った」は1940年にラジオドラマ化されているが、監督のアーク・オボラーが内的独白の手法を大胆に取り入れている(ジョーを演じたのはジェームズ・キャグニー)。ラジオドラマの手法が越境して映画に入り込み、映画の特性を活用しながら独自の手法となっていった。『コーリング・ドクター・デス』はまだその初期段階にある。
このように技法的にはフィルムノワールに近いにも関わらず、一方で『コーリング・ドクター・デス』は1930年代のユニバーサル・ホラー映画や低予算ミステリ映画のスタイルを強く残している。映画の冒頭で登場する正体不明の頭部が語る奇怪なプロローグや、フーダニット特有のレッド・へリングの扱い、コードに馴服した暴力とセックス(あるいはその不在)などは、例えば『深夜の告白』や『殺人者』といった作品のもつ「登場人物たちの度を越えた執着」、「コードからの逸脱」といった特徴とは極めて異なった印象を受ける。「あなたが知らない間に殺人を犯してしまうかもしれない」という触れ込みのわりには、結果的には殺人の動機は深層心理とは関係ない、陳腐ともいえるものだった。これは『コーリング・ドクター・デス』が、典型的なBユニットの製作映画であることが最大の理由であろう。ユニバーサルが1943年5月にストーリーを購入、10月からBユニットでわずか20日で撮影、12月に公開、という超過密スケジュールだ。異常な暴力やセックスの示唆といった、PCAを刺激して無益なやり取りをする時間も能力もこの製作スケジュールの中にはない。
正体不明の頭部が登場するプロローグを見る限り、この映画がターゲットとしていた観客層はかなり若い年齢層だっただろうと思われる。「添え物」映画の大部分が若年層をターゲットにしていたし、「添え物」映画のかなりの割合を占める原作のラジオドラマも「ザ・シャドウ」のように子供たちのあいだで人気のある作品が多かった。『コーリング・ドクター・デス』も、不倫などの要素はあるものの、プロットの中心となっているのは、催眠術による治療法や、記憶喪失時の殺人といった、少しオカルトめいた側面である。つまり、後年フィルム・ノワールのテクニックとして挙げられる「記憶喪失(アムネジア)、フラッシュバック構造、意識の流れとしての独白/ボイスオーバー・ナレーション、POVショット、男を破滅に追い込む女性、シニカルな法と秩序、そして(表現主義的な)キアロスクーロ」といったものは、1943年のユニバーサルの低予算添え物映画製作の段階では、オカルト的な側面を強調するために利用されていたものだったのだ。
そして『黒い天使』
『黒い天使』は、原作とは大きく異なっているが、フランシス・ニヴェンスは、数多くあるコーネル・ウールリッチ原作の映画化作品の中でも、最もウールリッチのエッセンスが忠実に翻訳されていると高く評価している。原作の登場人物たちを結合したり、再定義したりしたうえで、「ウールリッチのサスペンスと感情的な苦悶」を維持しているというのがニヴェンスの意見だ。
これらの(原作からの)変更、そしてそのほかにも多くの変更がなされているが、それにもかかわらず、この素晴らしいフィルム・ノワールは、すべてのフレームにウールリッチの精神が浸透している。フランシス・ニヴェンス
『黒い天使』に「ウールリッチの精神が浸透している」とすれば、マーティン(ダン・デュリエ)の「執着」と「自滅」であろう。マーティンは、妻との復縁に執着しているが、この夫婦関係がほぼ修復不可能であることは誰の目にも明らかである。思い描いている女性とはかけ離れているにも関わらず、マーティンはそのことを納得できない。このずれが、彼を酒に溺れさせている。酩酊状態で度を越した執着から妻を殺害したが、酩酊状態だったため何も覚えていない、というプロット上での仕掛けは、記憶喪失を単に核心を隠蔽する道具として使う仕掛けではない。これは誰が陥ってもおかしくない心理の陥穽から引き起こされる悲劇が主題なのだ。
『黒い天使』は前年に公開された『失われた週末(The Lost Weekend, 1945)』に負うところが大きいのは明らかだろう。『失われた週末』は、トーキー登場以降、ハリウッド映画でアルコール依存症を正面から扱ったほぼ初めての映画である。それまでのハリウッドはアルコール依存症の問題を回避してきた。『チャンプ(The Champ, 1931)』のようにダメな人間を形容する形容詞としての「飲んだくれ」であったり、『影なき男(The Thin Man, 1934)』のように事あるごとにマルティーニグラスを持ち出してくる上流階級の愛すべき悪癖、といった具合に、あくまで物語を動かす仕掛けであって、テーマではなかった。『失われた週末』は、そういったハリウッドが描く文化の傾向を大きく変えた作品である。
その変化を『黒い天使』は受け継いでいる。過去の作品のように、マーティンは決して愛すべき「飲んだくれ」として描かれていない。彼はキャサリンとコンビを組んでいるあいだ、断酒していたにもかかわらず、キャサリンが自分のほうを向いてくれないとわかると一直線に酒にもどってしまう。いったん制御を失うと転落までのスピードが速い。ここでは、この転落をあっけないほどテンポの速いモンタージュで見せている。こういった無駄のない、驚くほど効率的で効果的なアプローチは、監督のニール、編集のサウル・A・グッドキンドら、Bユニットでの長い経験からくるものであろう。そして、マーティンの絶望的な悪癖は最後まで解決を与えられることがない。クライマックスでは、彼を待ち受ける長い刑期が示唆されている。そこでどのようにマーティンが問題を克服し、社会に戻る意思を持つかは、観客が想像するしかない。
ここでは「記憶喪失」が、フーダニットの巧妙な仕掛けとしてではなく、主題の血肉として扱われている。それはレッドへリングやフラッシュバックについても同じである。
フーダニットのミステリにおいて、レッドへリングの扱いは重要だ。レッドへリングは、物語の中で読者の注意を著しく引くものの、結局物語とは何の関係もないということが明かされるプロット上の仕掛けである。ミステリの場合、レッドへリングは登場人物にあてられることが多い。その怪しい言動から犯人と思われる人物が、主人公たちをかき回すが、結局最後にその人物は犯罪とは無関係とわかる。そのような登場人物には、読者や鑑賞者が誤誘導されやすいように、世間の偏見や差別感情を最大限に利用することもある。貧困層、マイノリティ、外国人といった具合に、「こういう人物は事件を起こしかねない」という偏見を利用して誘導するのだ。映画の場合には視覚的にその偏見を利用することが頻繁に行われている。この当時の添え物映画では、ジョージ・ズッコやライオネル・アトウィル、ベラ・ルゴジといった俳優が、薄気味の悪い表情を駆使してレッドへリング役を演じていた。『黒い天使』はこの点においてピーター・ローレという稀有な才能に助けられている。彼の演じるマルコは、常に表に現れているサディズム(ラッキーへの暴力、いじめ)と、奥底に流れていて時折噴出する凶暴さ(キャサリンに対する性的報酬の要求)が同居していて、その統一感が極めて印象深い。特にキャサリンに高価なネックレスをプレゼントし、引き換えにセックスを要求するシーン(もちろん、プロダクション・コードの下では要求とその後に起きたことは暗示されるにとどまる)は、彼が最初からキャサリンとマーティンの狙いを見抜いていたことを考え合わせると、不気味さ、冷酷さが一層際立つ。ピーター・ローレは『3階の見知らぬ男(The Stranger on the Third Floor, 1941)』での平板な演技に比べて『黒い天使』では複雑な人物造形をおこなっている。彼が実はメイヴィスに恐喝されていたことが判明してからも、同情を誘う演技の弊風に流れず、皮肉な状況にただ憔悴しきっている演技でおさめている点も巧みだ。
マーティンが殺人の決定的証拠であるブローチを見て真相を思い出す、そのフラッシュバックも、アルコール依存症と重ね合わせて提示される。『コーリング・ドクター・デス』のように催眠術や暗示といったギミックが契機ではない。フラッシュバックはマーティンの心象であるはずなのだが、ここではPOVショットに依存せず、波打つ画面で酔いを強調しつつ、客観的な視点で事件の真相が明かされる。このフラッシュバックはその視覚的効果から注目されやすいが、それにつづく病院のシーンはさらに秀逸である。ここで、医師や看護師たちは、ダンにとって抑圧的で不条理な存在として現れてくる。だが、医師たちはただ単にアルコールが原因で手が付けられなくなっている患者を鎮静させようとしているに過ぎない。この不条理な存在はマーティンが罪悪感から解放されることを阻む門番のようなものだ。
見ている我々は、マーティンの視界を通して、バランスを欠いた執着と破綻を経験し、キャサリンとの時間の「豊かさ」も後から振り返れば単なる一方的な幻だったと悟る。原作で真犯人を探す女性が主人公だったものを、アルコール依存症の男性に置き換えたのだが、結果的にはウールリッチの精神───絶望的な不条理───が確かに全体に浸透した作品になっているといえるだろう。
ユニバーサルのその後 ── 『殺人者』
前述のようにユニバーサルは、インターナショナル・ピクチャーズとの合併によって、ユニバーサル・インターナショナルとなる。ブロックブッキングが実質的に廃止されることが明らかになった1946年中旬には、ユニバーサルはBユニット──添え物映画からの脱却を図り始める。そして質の高い映画を提供する独立プロデューサーとの作品を優先するようになった。
1946年のユニバーサル・インターナショナル作品の中でその傾向が如実に現れているのは『殺人者(The Killers, 1946)』である。プロデューサーのマーク・へリンジャーは、パルプ出身ではないアーネスト・ヘミングウェイの短編小説を選び、ロバート・シオドマクを監督にすえ、新人だがポテンシャルを感じたバート・ランカスターを主役に抜擢する。製作費は80万ドルと多額ではないが、ターゲットにしている客層が明確に「都市部の成人男性」になっていた。『黒い天使』に比べて、主人公の執着の度合いはひどくなり、絶望感はより深く救いがたいものになっている。ファム・ファタールは、能動的な恐喝犯から受動的な悪女になり、フラッシュバック構造はより複雑になる。ユニバーサルの戦時中の添え物映画から『黒い天使』を通って『殺人者』につなげてみると、戦争を背景に見ながらターゲットの観客が変遷していく様子が見えるだろう。
『殺人者』はロサンジェルスでは5つの劇場で封切り、併映作品なしで1か月間ホールドオーバーした。これは、時代が変わりつつあったことを明確に物語っている。このようなダウンビートな映画がホールドオーバーし250万ドルの興行成績を上げたことは劇場側も敏感に感じ取っていたに違いない。
一般的に「フィルム・ノワール」という言葉は、1946年にフランスの評論家ニーノ・フランクが戦時期の特徴的なハリウッド映画の一群を総称して呼んだのが始まりだとされている。そして、アメリカ国内ではその存在が気付かれていなかったと指摘される。確かにアメリカでは評論家や映画業界の人間が明示的にある種の傾向を認識して言葉を与えたことはないだろう。だが、『殺人者』の興行を追跡していると、あることが見えてくる。
1940年代前半、2本立てはジャンルの違う映画を組みあわせるのが普通だった。例えば、シリアスなドラマと西部劇、ミュージカルコメディとミステリ、といった具合である。しかし、ロサンジェルスの、特に独立系の映画館では『殺人者』と『殺しの名画(Crack-Up, 1946)』の2本立てが非常に多く行われていた。『殺しの名画』は記憶喪失をギミックにしたサスペンスであるが、全体的に陰鬱な作品だ。映像的にはいわゆるフィルム・ノワールと分類されてもよいだろう。これがスケジュールの都合で偶発的に発生したのではなく、明らかに意図的に組み合わされたと思われるのは、複数の映画館で違う時期にこの2本立てが組まれているからである。これが1947年になると、あきらかにフィルム・ノワール同士の2本立てで出てくる。『潜行者(Dark Passage, 1947)』と『死の接吻(Kiss of Death, 1947)』(1947年12月13日、ミッドウェイ劇場)、『T-メン(T-Men, 1947)』と『暗黒街の復讐(I Walk Alone, 1947)』(1948年3月9日、クレンショー劇場)、『T-メン』と『扉の向こうの秘密(Secret Beyond the Door, 1947)』(1948年3月9日、メラルタ劇場)、『モナリザの微笑(A Woman’s Vengence, 1948)』と『T-メン』(1948年4月11日、ヴァラエティ劇場)などはその例である(劇場はいずれもロサンジェルスの独立系映画館)。
実は『黒い天使』にもこのような同種映画の2本立ての上映があった。モノグラムの『サスペンス(Suspense, 1946)』との2本立てである(1946年9月16日、フォックス・ウェスタン劇場)。明らかに1946年中盤、映画の興行が変わり始めていた。
このような2本立て興行の実態は、何を意味するのだろうか。まず、映画館側がこのような映画の「種類」の存在を認識していることを示唆している。そして、それが繰り返し行われていることから、一定の支持をしていた観客層の存在をうかがわせる。それは当然と言えば当然で、ある「種類」の映画が流行しているのだから、それは業界内で認識されていただろうし、観客のなかにファンがいたはずである。その「種類」に名前がたまたまついていなかっただけである。もう一点垣間見えるのは、違った種類の映画の組み合わせでなく、同じ種類の映画の組み合わせを好む層が出現し始めているという側面だろう。映画スターが中心になる興行の仕組みとは別の平面のファン層が見えてくる。これらは仮説にすぎないが、フランスの映画評論家だけが、ハリウッド映画のある傾向に気付いていた、とは考えにくいし、むしろ独立系の映画館でこれらの2本立てが行われていたという事実からも、我々が名前を知ることもないだろう、一般の映画ファン達が、ある種の映画の存在を認め、楽しんでいたという景色が浮かび上がってくる。
Links
TCMのサイトの記事は「最後の最後まで、その物語のもつ抑圧的な運命論が明らかにならない」この物語の特異性について言及している。
Data
ユニバーサル・ピクチャーズ配給 1946/8/2公開
B&W 1.37:1
81分
製作 | トム・マクナイト Tom McKnight | 出演 | ダン・デュリエ Dan Duryea |
製作 | ロイ・ウィリアム・ニール Roy William Neill | ジューン・ヴィンセント June Vincent |
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監督 | ロイ・ウィリアム・ニール Roy William Neill | ピーター・ローレ Peter Lorre |
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脚本 | ロイ・チャンスラー Roy Chanslor | ブローデリック・クロフォード Broderick Crawford |
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原作 | コーネル・ウールリッチ Cornell Woolrich | コンスタンチェ・ダウリング Constance Dowling |
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撮影 | ポール・イヴァノ Paul Ivano | ウォレス・フォード Wallace Ford |
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編集 | サウル・A・グッドキンド Saul A. Goodkind | ホバート・カバノー Hobart Kavanaugh |
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音楽 | フランツ・スキナー Franz Skinner | フレッド・スティール Fred Steele |