Scarlet Street
ユニバーサル・ピクチャーズ配給
1945
クリスは罰を受けている。それもとてつもない罰を。
フリッツ・ラング
Synopsis
グリニッチ・ビレッジの雨の夜。クリス・クロス(エドワード・G・ロビンソン)は25年勤続を祝ってもらっていささか上機嫌だった。帰り道、人気のない深夜の通りで彼は、若い女が男に乱暴されているのを目撃する。クリスは手に持っていた傘で男を撃退した。この若い女、キティ(ジョーン・ベネット)と仲良くなるが、乱暴していた男ジョニー(ダン・デュリエ)が彼女のジゴロとはつゆにも思わなかった。クリスには、顔を見れば口汚く彼を罵る妻アデル(ロザリンド・イヴァン)がおり、彼の唯一の楽しみである絵を描くことにも全く理解を示さない。ジョニーとキティは、クリスが会社の出納係であることを利用して奸計をめぐらす。そのうち、クリスの描く絵に高い金を払う人たちがいると知って、ジョニーとキティはさらに金を稼ぎ出す算段を考え始める。
Quotes
どうしてそんなバカなの?初めて会った時からずっと笑いをこらえてたわ。
この年寄りの醜男が。ああ、キモイ、キモイ、キモイ! キティ
Production
ルノワール、ルビッチ、ラング
原作はジョルジュ・デ・ラ・フシャルディエール(1874 – 1946)が1929年に発表した「La Chienne」。この小説をもとに、ジャン・ルノワールが1931年に映画化している。主人公のモーリスをミシェル・シモン、娼婦のルルをジャニー・マレーズ、そしてジゴロのディディをジョルジュ・フマランが演じた。フランス語の原題はまさしく「牝犬」という意味だが、1930年に英語に翻訳された時には「Poor Sap」というタイトルになっていた。1930年代にパラマウントにいたエルンスト・ルビッチがこの作品に興味を持ち、映画化をする計画を立てている。パラマウントは権利を手に入れたものの、プロダクション・コードの餌食にならずに映画化することはほぼ不可能という結論に至り、計画は頓挫した。
フリッツ・ラングはルノワールの映画を公開時に見ていたが、ハリウッドでも映画化できると考えていた。舞台をパリのモンマルトルからニューヨークのグリニッチビレッジに移せば、独特の雰囲気を作り出すことができるともくろんでいたようだ。
ラングは、『夜霧の港(Moontide, 1942)』で途中降板したのち、『死刑執行人もまた死す(Hangmen Also Die!, 1943)』、『恐怖省(Ministry of Fear, 1944)』、そして『飾窓の女(The Woman of the Window, 1944)』とハリウッドで再び存在感を示し始めていたところだった。特に『飾窓の女』は、エンディングを除いて批評家からの受けもよく、興行的にも成功していた。『飾窓の女』で主演女優をつとめたジョーン・ベネットが積極的に運動し、夫のウォルター・ウェンジャーを説得して、ラングの新作に取り組むことになった。それが、「La Chienne」の映画化である。
ベネット、ウェンジャー、ラング
1945年の初頭、フリッツ・ラング、ジョーン・ベネット、ウォルター・ウェンジャーは新会社の設立に向けて準備を始めた。ウェンジャーは、1941年からユニバーサルで製作を担当していたが、この新会社で製作しユニバーサルで配給すれば、ユニバーサルのジョー・マクドークス・シリーズの映画などよりも名声、収入の両面ではるかに良い結果になると期待していた。当初、この会社は「ニュー・ワールド・プロパティーズ」と呼ばれていたが、ジョーン・ベネット、ウォルター・ウェンジャー夫妻の子供の名前にちなんで「ダイアナ・プロダクションズ」になった。ラング自身の記憶では、この会社の筆頭株主はフリッツ・ラングで全体の55%の株を所有、ジョーン・ベネットは10%を所有、一方ウェンジャーは株を所有しない代わりに映画1本あたり40000ドルの給料を支払われていたという。実際には、総発行株1000株に対し、ラングは506、ジョーン・ベネットは316、ラングの弁護士たちが33株ずつ所有していたらしい。ラングと弁護士はウェンジャーが株を所有することに反対し、結局ウェンジャーは株を所有せずに映画ごとに40000ドルと利益の12.5%を支払われることで合意している。
ウェンジャーが、ラングに筆頭株主を譲ったのは、「こうでもしなければこの男はやる気を出さない」「劣等感でやりにくくなると困る」と考えていたからである。一方で、映画の製作過程で問題が起きた場合には、ラングは必ずウェンジャーに相談しないといけないという条件がついていた。実は、ベネットの株はウェンジャーの資金で購入されていて、そのことをラングは知らなかったようだ。当時、ベネットとラングは不倫関係にあったと多くの関係者が証言しているが、一方でダイアナ・プロダクションズの契約を見てみると、ベネットとウェンジャーが、ラングをうまく操っているようでさえある。『スカーレット・ストリート』のストーリーが屈折的に影を落としているようにさえ見える。
べーメルマンス、ニコルズ、ラング
ラングは1945年3月にまず最初のあらすじを作り上げた。この33ページのあらすじは、まだ深く掘り下げられたものではなく、冒頭部分のアイディアと全体のトーンを決めたものにすぎなかったが、その後この作品の基調となる重要なステップだった。物語の舞台をニューヨークのグリニッチヴィレッジに設定し、実際この時期、ラングはニューヨークに取材に行っている。
ウェンジャーは、脚本にルードヴィッヒ・べーメルマンス(1898 – 1962)を呼んだ。べーメルマンスはオーストリア出身だが、若い頃に渡米しホテルで働きながら漫画や絵画を描いていた。1939年に子供向けの「マドレーヌ」の絵本を執筆して一躍人気作家になっていた。1940年代にべーメルマンスは映画界での活躍を目指してハリウッドでの仕事をいくつか引き受けている。彼が脚本を担当したMGMの『ヨランダと泥棒(Yolanda and the Thief, 1945)』が好評だったのを機にウェンジャーが目を付けたようだ。ウェンジャーは、べーメルマンスはラングと同じオーストリア出身で、二人は気が合うと考えた。これが大きな間違いだった。
もともと、渡米後のラングはドイツ、オーストリア人との交際に関してとりわけ積極的とは言い難かった。ナチスの政権掌握、第二次世界大戦開戦を契機にドイツ語圏からアメリカ、とりわけハリウッドに逃れてきた映画関係者、演劇関係者、作家、芸術家、音楽家たちは数多いが、ラングはどちらかといえばその多くと距離を保ってきた。『死刑執行人もまた死す』の製作段階でのクルト・ワイル(1900 – 1950)、ベルトルト・ブレヒト(1898 – 1956)との確執や、ラングの最初の妻の不可解な死をめぐって、フリッツ・コートナーがラングを「殺人犯」呼ばわりしていたこと、など、オーストリア出身だから、ベルリン時代を知っているから、ということは必ずしもラングにとって心地よい交際を意味しなかった。ラングはむしろ『マン・ハント(Man Hunt, 1941)』で一緒に仕事をしたダドリー・ニコルスのほうが気に入っていたくらいである。
べーメルマンスは、1945年3月後半に脚本担当としてウェンジャーに雇われ、ゴードン・カーンと概要を練ることになった。ニューヨークに取材に行っていたラングが戻ってきてみると、べーメルマンスは行方不明になっていた。見つかった時にべーメルマンスが言った言い訳は「戦争後遺症の執事について色々やることがあった」という不可解なものだった。一度は赦されたものの、その後もトラブルが続く。べーメルマンスはキティやジョニーのようなキャラクターには現実味がないと言い出したり、「スカーレット・ストリート」というタイトルが気に入らない、「プレイボーイ」がいいと文句を言ったりし始めた。ラングは匙を投げる寸前だった。そしてべーメルマンスは再度姿をくらます。今度は電報をラング宛に送ってきた。
親愛なるフリッツ、私はあなたのことが好きだし、これからもずっと知り合いでいたい。いつか二人で物語に取り掛かる時間があるといいと思う。ところで、私は昨日、この物語についてはもう全く興味を失ってしまった。私はあなたのアプローチが嫌いだ。私はこのかわいそうな出納係の男についての君のアイディアが嫌いだ。私はネズミ捕りにじっと座って君のような仰々しい教授先生の講義を聞くのはもうごめんだ。ルードヴィヒ・べーメルマンス
ひどいことに、この電報のあとでさえ、べーメルマンスは再度「酔っぱらっていた」と言い訳をして、脚本の仕事をすると言い出している。激怒したラングはウェンジャーにさすがに我慢の限界であると伝えた。ウェンジャーは「手切れ金」を渡してべーメルマンスに降りてもらったのである。
この騒動のあいだに、ラングはダドリー・ニコルスのスケジュールをおさえることができた。『男の敵(The Informer, 1935)』、『駅馬車(Stagecouch, 1939)』などのジョン・フォード作品や、ジャン・ルノワール監督の『スワンプ・ウォーター(Swamp Water, 1940)』、そしてラング自身が監督した『マン・ハント(Man Hunt, 1942)』など、数多くの優れた作品を手掛けてきた脚本家である。彼は2か月で脚本を書き上げた。
ラングの元のアイディアでは、クリス・クロスの生い立ち、特に父親との関係についての描写が含まれていた。この設定では、クリスの父親は、絵画などには興味がなく、役に立たないものとして軽蔑しており、この父親のもとでクリスは画家になることをあきらめ、経理という実務を身につけたことになっていた。ニコルズはこの背景を一切省略した。また、ラングは、クリスにどこか意地悪な一面があることを匂わせようとしていた。ニコルズはこの部分も削除した。ストーリーをクリス、キティ、ジョニーの3人に絞り、キティの「職業」をできる限りあいまいにした。ラングは、ルノワールの『牝犬』を、この映画の製作中は「影響を受けたくない」と、あえて見なかったと後年語っている。一方で、ロッテ・アイズナーによれば、ラングはわざわざシネマテーク・フランセーズ所有の『牝犬』のプリントを取り寄せて、自分の題材へのアプローチがルノワールと違っていることを確認したといっている。ユニバーサルの記録では、ラングとニコルズが『牝犬』のプリントを方々で探していたことは事実のようだ。結局見ることができたかどうかは不明である。
クラスナー、デッカー、サルター
撮影は1945年7月23日から10月8日まで2か月半、予算は1,228,770ドルだった。
撮影監督は『飾窓の女』と同じミルトン・クラスナーである。サイレント期から助手として長い下積みを積んできたベテランで、ありとあらゆるジャンル、スタイルに対応できる職人だ。1940年代は特にホラー、スリラーのジャンルで活躍していたが、そのなかでも『飾窓の女』と『スカーレット・ストリート』での彼の仕事は特筆すべきものがある。フィルム・ノワールの「濡れた舗道」のイメージは、クラスナーの『スカーレット・ストリート』のオープニングとウッディ・ブレデルの『幻の女(Phatom Lady, 1944)』の夜の尾行のシーンが原型だといってもいいだろう。
映画全編を通して重要なカギとなるクリスの描いた数々の絵画は、ハリウッドの夜の有名人、ジョン・デッカーの作品だ。彼の作品は『真昼の暴動(Brute Force, 1947)』でも登場している。様々なパロディ作品や肖像画でハリウッドの映画人の間で人気のあったデッカーは、ここで「アマチュアの画家が描いた、それでも画商が買いそうな絵」というきわどい注文を受けている。映画の製作中、自身もアマチュアの画家だったラングが、プロフェッショナルの画家であるデッカーに、アマチュアがどんな絵を描くか指示を出していたという、奇妙な光景が見られたという。
音楽を担当したのは、ハンス・サルターである。ラングと比較的良好な関係を保った数少ないドイツ映画人の一人である。サルターはウィーンに生まれ、ウィーン大学、その後ウィーン音楽院でフランツ・シュレーカー、指揮法をフェリックス・ワインガルトナー、作曲をアルヴァン・ベルグに教わっている。ベルリン国立歌劇場で指揮者をしたのち、映画界に転身、UFAのサイレント映画の劇判音楽の指揮を担当していた。ラングの『月世界の女(Frau im Mond, 1929)』がベルリンのウーファ・パラスト・アム・ツォーで上映された時も、サルターが指揮を担当していた。『スカーレット・ストリート』の音楽の作曲は非常に円滑に進んだが、ラングはエンディングについて注文を付けたようだ。サルターの作曲したものは「明るすぎる」ため、もっと暗いトーンにしてほしいというのである。
この映画のテーマは「犯罪は割に合わない」である。君のエンディングはあまりに希望に満ちてしまっている。フリッツ・ラング
納得したサルターは新しいエンディングを作曲した。彼は『スカーレット・ストリート』での仕事が自分の長い作曲家人生のなかでも最も気に入っている仕事の一つだといっている。
セットのデザインはラング自身の想像力に負うところが大きい。美術監督はアレクサンダー・ゴリッツエン。非常に長いあいだハリウッドで仕事をした美術監督で、晩年ではクリント・イーストウッドの『恐怖のメロディ(Play Misty for Me, 1971)』などにもクレジットされている。
結局、撮影は5日間の延長、200,000ドルの予算超過で終了した。
ポストプロダクション、そして検閲
ダイアナ・プロダクションズはユニバーサルとの契約で、撮影終了後60日以内にポストプロダクションを完了してユニバーサルに納めることになっていた。しかし、ラングは編集になるととたんに時間をかけ始める癖があり、ここでも案の定スケジュールに遅れ始めていた。
ラングが後年のインタビューで、あるシーンを編集段階で削除したことを語っている。クリスがジョニーの死刑を見に行くシーンだ。クリスはジョニーの死刑が執行されるシンシン刑務所に行くが、もちろん死刑執行を見学することはできない。そこで彼は、刑務所の外の電柱に登って、その瞬間を待つ。ジョニーの死刑執行の瞬間には、電気椅子に莫大な電流が流れるため、電圧降下を起こす様子が見えるのだ。ラングは悩んだ末このシーンをカットした。結局採用しなかった理由として、インタビューでは「コミカルに見えてしまうかもしれないから」と説明している。公開されたバージョンでは、このシーンがないために、クリスがシンシン刑務所に行く列車に乗っている経緯が説明されないままになっている。
編集作業が遅れ始めたために、それまではラングに干渉しなかったウェンジャーが介入せざるを得ない状況になりつつあった。しかも、11月にはラングは周囲には内緒でプロデューサーのミルトン・スパーリングと次の映画の交渉に入っている。これはワーナー・ブラザーズの配給になる予定だった。これがウェンジャーを怒らせた。まだ最終編集作業が済んでいないにもかかわらず、他社と契約を交わそうとしている───ウェンジャーは、アーサー・ヒルトンの協力を得て、編集をラング抜きで進め、ユニバーサルへ最終編集バージョンを届けた。撮影台本と公開バージョンを比べたマシュー・バーンスタインによれば、主な変更は繰り返しや性格描写の削除だったという。ラングはウェンジャーを裏切り者呼ばわりし、ちょっとした削除を大げさに批判した。
不思議なことに、『スカーレット・ストリート』はプロダクション・コードでは大きな問題にならなかった。ブリーン・オフィスはいくつかの変更を示唆しただけだった。ところが、問題はそのあとに起きる。ナショナル・リージョン・オブ・ディーセンシーがレーティングを「B」 ─── 一部問題あり、としたのである。ネグリジェ姿のキティのクローズアップ、ベッドルームのシーン、特にキティがクリスにペディキュアをさせるシーン、男に殴られるのが好きなことを匂わせるようなキティの発言、等々、数多くのシーンを問題視した。特にクリスがアイスピックでキティを何度も刺すシーンは論外だった。
これを受けて、ニューヨークとアトランタの検閲機関が、『スカーレット・ストリート』は全編上映不許可とした。1946年1月に、ウェンジャーと編集のアーサー・ヒルトンはニューヨークに飛び、ニューヨーク州の検閲機関のトップ、アーウィン・コンロー博士と面会する。このミーティングでは、コンロー博士が問題の箇所を挙げ、どのような削除をすればよいかを示唆してきた。そのたびにウェンジャーはヒルトンにそのような削除が可能か問うと、ヒルトンが別撮りのフィルムの有無、削除によって受ける芸術上の影響について、事細かに答えていくという戦法をとった。結局、このやり方が功を奏して最小限の削除でニューヨーク州での公開にたどりついた。クリスがキティをアイスピックで刺すのは7回から1回になった。
女性を4回刺すのは道徳的に問題で、1回だと問題ないのか?フリッツ・ラング
アトランタでは州の検閲機関の意見が分かれている間に、ユニバーサルが法的手段に訴え出た。結局地方裁判所はユニバーサルに有利な判決を下し、反対派が上告している間に映画館での公開は一通り終わってしまった。
Reception
ハリウッドの業界紙の反応は好意的だった。
この心理殺人劇は、エドワード・G・ロビンソンとジョーン・ベネットの素晴らしい演技が見どころだ。特にベネットは彼女の演技歴のなかでも最高の演技を見せている。The Film Daily
ところが、各地方の新聞での映画評は惨憺たるものだった。
これは、よくある警察ものでしかない。B級映画のレッテルから抜け出すだけの、深みも広さも面白さもなにもない。
エドウィン・シャラート Los Angels Times
ニューヨーク・タイムズのボズリー・クローザーは、「痛々しいほど道徳的な作品だ」としたうえで、映画全体がぎこちないと痛烈に批判している。
この物語は展開がのろくて作り物のにおいがし、登場人物たちの感情よりもプロットの仕掛けで出来上がった感じがする。ボズリー・クローザー New York Times
フィラデルフィアの地方紙でも懐疑的な評が掲載された。
どん底の人々の暮らしぶりについては目も耳も疑うばかりの描写にあふれている。だからと言ってそれが面白いかどうかは果たしてどうだろう。ミルドレッド・マーティン Philadelphia Inquirer
しかし、個々の俳優の演技については注目している批評も数多くみられた。ジョーン・ベネットの演技について、ニューヨーク・デイリー・ミラー紙は「彼女がこんな優れた芝居をするのは見たことがない」と絶賛、ハリウッド・レポーター紙は、出納係の男を奈落の底に突き落とす女の役として魅力的で魅惑に満ちているとほめている。
アンドレ・バザンは決して高く評価していなかった。
1945年の段階で、フリッツ・ラングは、『スカーレット・ストリート』に見られるように、少なくとも映画製作の題材という観点に関して言えば、野心も手段もなく、とるに足らない犯罪ものを撮っていた。アンドレ・バザン
ジャン・ルノワールはラングのリメイクについては否定的なコメントを残している。
ハリウッドで『牝犬』をリメイクするなんて情けない話だね。しかもひどい出来だ。ジャン・ルノワール
公開当時、『スカーレット・ストリート』は、ジャン・ルノワール監督の『小間使の日記(The Diary of a Chambermaid, 1946)』や『キティ(Kitty, 1945)』とともにハリウッドにおいてプロダクション・コードがもつ意味を問う作品として挙げられている。
大人の目から見れば、これらの映画はとりたてて反対するような内容でもないし、悪趣味でさえない。プロダクション・コードや道徳団体から見れば、その題材そのものはとても薦められるものではないが、個々のアプローチ自体はどの部分を切り取っても非難をすることができないものになっている。ハロルド・J・セイレムソン
興味深いことに、『スカーレット・ストリート』は、ハリウッドの業界内で物議を醸していた。PCAがこの映画に対してプロダクション・コードを厳しく運用しなかったのは、ダイアナ・プロダクションズという独立プロダクション会社の映画だからであって、これがメジャー・スタジオ(MPPDAの会員企業)の作品だったら、まずこのような公開は無理だっただろうという指摘が上がっていた。特にダリル・ザナックはPCAのブリーンに手紙まで書いて、ウェンジャーが検閲騒ぎを逆手に利用して宣伝していることに対する怒りをぶちまけている。
ウェンジャーが金儲けするのはかまわない・・・だが、そのうち高い代償を払うことになるだろう ダリル・ザナック
この映画のせいでスタジオ契約の脚本家や監督たちが「自分たちだってこういうものはできる」と息巻き始め、メジャー・スタジオの重役たちの頭痛の種だった、ということもあったようだ。
1940年代から50年代にかけて、フリッツ・ラング作品の再評価が一部の映画評論家のあいだではじまった。その先陣を切ったのがロッテ・アイスナーだったが、当初彼女は主にドイツ時代のラングに焦点をあてていた。イギリスの著述家、ガヴァン・ランバートがサイト・アンド・サウンド誌(1955年10月号)でフリッツ・ラングのアメリカ時代の作品について論評しているが、そのなかで『スカーレット・ストリート』についても言及している。ここで、ランバートはラングのアメリカ時代の作品の中でも最もドイツ的だと評している。そしてしばしば相似性が指摘されるジョセフ・フォン・スタンバーグ監督の『嘆きの天使(Der Blaue Engel, 1930)』との比較にも言及している。
フォン・スタンバーグとちがって、ラングはその時代の国の様子を反映するような雰囲気を作るようなことはしない。『スカーレット・ストリート』は結局のところ、最底辺の人間たちについての習作に過ぎない。ガヴァン・ランバート
1950年代にはフランスのヌーベル・ヴァーグの映画作家たち、特にジャン・リュック・ゴダールがフリッツ・ラングの作品を絶賛、アメリカ時代のラングの作品について新機軸の批評が始まる。その後、ピーター・ボグダノビッチがアメリカ時代に焦点をあてた「Fritz Lang in America」(1967)、アイスナーが「Fritz Lang」(1977)を出版して、『スカーレット・ストリート』はラングのフィルモグラフィのなかでも重要な作品とみなされるようになってきた。
ほとんど非の打ちどころのない作品 ピーター・ボグダノビッチ
1970年代にアメリカでフィルム・ノワールの批評が広がるにつれ、40年代を代表する最も有名な作品の一つとして様々な批評で取り上げられるようになった。
この作品が特に代表作として頻繁に取り上げられるようになった理由の一つに、著作権が切れてパブリック・ドメインに落ちたことが挙げられるだろう。他のラングの作品と比べても、アクセスのしやすさが格段に違った。
年々、この映画の評価は高まる一方である。かつて、「作り物のにおいがする」と言われたが、その作り物に新しい価値が見出されているといえるかもしれない。
『スカーレット・ストリート』は高い密度とお互いが絡み合うディテールにあふれていて、完璧な想像の産物をカメラに流し込むと、あるべき姿として立ち現れた、そんな映画だ。見ていると、驚きのあまり首を振りながら、いったいどうやってこんな映像を作ったんだ、と感嘆するばかりだ。 リチャード・T・ジェイムソン
Analysis
『スカーレット・ストリート』については、フリッツ・ラングの作家性、ファム・ファタールと餌食となる男性の構図、前作『飾窓の女』との対比、キアロスクーロに満ちたビジュアルなど、今まで様々な批評がなされてきた。ここでは、少し違う視点を提供したい。ひとつは高架鉄道の下の空間とそこで起きるドラマについて、もうひとつは、「ドイツ表現主義」的演技についてである。
高架の下を抜けて
『スカーレット・ストリート』の舞台は1934年のニューヨーク、グリニッチ・ビレッジという設定である。物語自体は特にこの時期に限定される話ではないが、この設定が非常に重要な役割を担う箇所がある。冒頭、クリスが雨の街をなかば迷いながら家に帰ろうとしているときに、若い男がレインコートを着た女を殴り倒す様子を目撃する。この事件が起きるのが、鉄道の高架下なのだ。グリニッチ・ビレッジで高架鉄道が走っていたのは1940年までで、映画が公開された1945年にはもうこの風景はなかった。この高架下の閉鎖的な空間が、クリスとキティ、ジョニーのあいだの、窒息しそうになるような鬱屈した関係を作る温床となる。
高架鉄道の下の空間はどのようにして生まれたのか。
19世紀中盤からニューヨーク、特にマンハッタン近辺では道路渋滞が顕著になった。馬車が道を占領し道を渡るのも一苦労であった。それを解消する手段として、公共交通機関、つまり鉄道が考案されたが、工事中の影響が大きい地下鉄ではなく、高架鉄道(エル)が採用された。
これは、例えば地下鉄が敷設されたロンドンと比べて、ニューヨークという都市に先鋭的な外観と音響をもたらすことになった。街路は遠近感を失い、舗道は常に薄暗く、数分おきに巨大な金属の塊が金属構造物の上を転がる轟音が鳴り響く。エルは、煤や油を周辺にまきちらし、通りに面した商店の商品を汚染した。鉄道というものは都市をつなぐ機能だけでなく、分断する機能も持っている。多くの都市を流れる川が、「右岸」「左岸」をつくるように、エルが走る軌道を境に「向こう側」と「こちら側」が生まれるのである。
クリスが、キティとジョニーに初めて遭遇するシーンは、このエルの下の空間を横断して達成される。
クリスが道に迷って深夜のニューヨークの街路を歩いている。彼が遭遇した警官に「地下鉄のイーストサイド線はどっちだ」と道を尋ねると、警官は「エルの向こう4ブロック先だ」と答える。当時、グリニッチビレッジには、6番街高架鉄道と9番街高架鉄道が通っていた(6番街高架鉄道は1938年、9番街高架鉄道は1940年に取り壊されている)。イーストサイド線(レキシントンアヴェニュー)との距離や、高架鉄道の幅(9番街高架鉄道は急行運用のために複々線だった)から考えて、このシーンのモデルは6番街高架鉄道だろう。クリスが再び歩き始めたその直後に、エルの高架の向こう側にキティに乱暴を働いているジョニーを発見する。カメラはロングショットで、キティとジョニーの服装が判別できるくらいである。
背景では高架を走る列車の音がだんだんと大きくなってくる。エルの下の道路は大部分濡れていない。高架の下は雨が降っても濡れないのだ。クリスはエルの高架の下を抜け、ジョニーに傘の一撃を加える。ここまで、カメラはハドソン川を背に東向きでとらえている。反撃されると思ったクリスは、両腕で顔を隠している。このとき、カメラはイースト・リバーを背にして西向きにクリスをとらえている。この一連の動きは通り抜けるエルの列車の騒音と同期している。クリスがジョニーに襲いかかるときに騒音は最大に達し、クリスがゆっくりと腕を下げると列車は遠ざかっていく。
クリスが先ほどすれ違った警官を呼びに行くシーン、そして警官を連れて戻ってくるシーンは、いずれも西向きのカメラになっている。クリスが行くべき道は高架下にも関わらず濡れて光を反射している。
ジョニーが意識を取り戻して起き上がるシーン。ここではキティとジョニーは会話をしない。むしろ、会話がないことで、キティとジョニーはもともと知り合いだということが観客にはわかるのである。
エルの高架の下を潜り抜け、エルの騒音が静けさをかき消したあと、クリスは全く別の世界に踏み込んだのである。
警官とクリスが戻ってくる。キティがあらぬ方向を見ている。今までのアクションの起きている軸(エルをはさんで西と東)ではなく、エルに沿って通りの方向を見ている。見ている私たちには、キティがジョニーを逃がしたことはすぐにわかる。
警官とクリスにはジョニーが単なる強盗だと思わせておいて、逆方向に誘導し、キティはクリスを誘ってその場から立ち去る。私たちはキティの不気味な作り笑顔から、何かを企んでいることを予測する。
このわずかなシーンで、私たちは、クリス、キティ、ジョニーの決定的な関係を把握する。しかもそれはほとんどセリフによって明示されておらず、表情、仕草、構図のみによって達成されているのである。
1934年のニューヨークは、大恐慌のどん底にあった。
ラングは1924年にニューヨークを訪れたときに高層ビル群にインスパイアされて『メトロポリス(Metropolis, 1927)』を作ったとグレッチェン・バーグのインタビューのなかで発言している。ところが、『スカーレット・ストリート』には高層ビルが登場しないばかりか、ほとんどすべてのアクションが水平面で起こる。開放的な空間は現れず、高低差はほとんど利用されない。
これは、ルノワールの『牝犬』と比較すると顕著になる。ルノワールは、上下の空間を巧みに使いながら物語を紡ぐ。例えば、モーリス、ルル、ディディが邂逅する場面、場所は深夜の駅の階段である。ジゴロのディディが娼婦のルルを蹴飛ばしているのを、モーリスが階段の上から見とがめるのだ。これは、ラングの作り出す、エルの高架に押しつぶされそうな空間とは全く異なった役割をしている。他の場面でも、上下、高低差は常に意識され、特にモンマルトルの坂は重要な役割を果たしている。
ラストのシーンにおける二つの映画の空間の違いは、この物語に対する監督、脚本家の態度の違いが如実に表れているといえよう。『牝犬』では、すべてを失ったモーリスが、パリの街をさまよう浮浪者となっている様子が映し出される。しかし、彼は落ちているたばこを拾うことや、金持ちの車のドアをあけてチップをもらうことに精を出しているばかりで、殺人を犯したことへの良心の呵責や、ルルへの未練などは微塵もない。彼がかつて描いた絵が彼の目と鼻の先をかすめていくが、モーリスは(そして我々にとっても)それはもはやどうでもよい別世界のものになっている。このシーンは全体的に開放的で陽光が明るく降り注ぐパリのマティニョン大通りでのロケーション撮影だ。モーリスが中流階級のモラル(そして権力)を放棄し、自由を手に入れたことをまるで祝福するかの如く清々しい。そしてラストショットは明るい大通りをわたっていくモーリスと「軍曹」の姿が人形劇の枠にはめられて終わる。
しかし、『スカーレット・ストリート』のクリスの最後は、まったく違う。クリスはキティとジョニーが永遠に愛し合うという妄想にさいなまれ続け、廃人のようにニューヨークの通りをさまよっている。彼には、拾ったたばこを分け合うような仲間もいなければ、小銭を稼ぐために何かをするといった気力もないようだ。そして、彼の目の前を、かつて彼が描いた絵が通り過ぎていく。クリスの目には涙が浮かんでいる。そして、最後は人ごみのなかを歩いているにもかかわらず、すべての人が彼の周囲から消えて、キティがジョニーを呼ぶ声だけがこだまする。カメラは俯瞰気味に通りを映し出し、閉塞的で、窒息しそうな空間に消えゆくクリスをとらえる。
フリッツ・ラングはロケーション撮影よりも、よりコントロールのきくセット撮影を好んだ、ということがよく言われる。留意しておきたいのは、『スカーレット・ストリート』の撮影時期には、戦時中の制限、技術的な制約によって、ニューヨークでのロケーション撮影そのものが可能ではなかった。ニューヨークでのロケーション撮影が行われるようになるのは、『死の接吻(Kiss of Death, 1947)』からである。そのうえで、『スカーレット・ストリート』は全編セット撮影され、画面全体にラングの意図が行き届いた作品であることは間違いない。
サイレント期の残滓
この時期のハリウッドのフィルム・ノワールに見られる傾向の一つとして、「ドイツ表現主義の影響」が必ず挙げられる。キアロスクーロに支配された画面、歪められた構図やパースペクティブ、現実と悪夢が入り混じった映像、そういった視覚的要素が共通して見受けられる点について、今まで数多くの議論がされてきた。『スカーレット・ストリート』は特に「ドイツ表現主義映画」の大御所フリッツ・ラング自身が監督した作品であり、その視覚的要素について、上記のような特徴は枚挙にいとまないであろう。
「ドイツ表現主義」───もう少し正確に言えば1920年代から1930年代初頭までのドイツ・ワイマール期に製作された特筆すべき作品群───が共通してもっている特徴は、決して視覚的な要素だけではない。その扱うテーマ、心理の闇の部分───恐怖や憎悪、破壊的な衝動や悲壮、絶望───から必然的に導き出される、独特の演技法がある。現在の演技の基準から言えば、ぎごちなく、仰々しく、わざとらしく、メロドラマチックで、かなり「時代がかって」いる演技だ。
これは、この時期の監督たちが好んで扱ったテーマともかかわりがある。ひとつには『カリガリ博士(Das Cabinet des Dr. Caligari, 1920)』のチェザーレ、『ゴーレム(Der Golem, wie er in die Welt kam, 1920)』のゴーレム、『ノスフェラトゥ(Nosferatu, eine Symphonie des Grauens, 1922)』の吸血鬼、『メトロポリス(Metropolis, 1927)』のマリアのように、人間の(似)姿をしているが、人間ではなかったり、その意識は人知れぬ力によって作用されていたりする者たちの物語である。これらのキャラクターは動きが極端に緩慢だったり、異様な形態をとったりするなど、その動作が物語の構造において極めて重要な支柱になっていることが多い。これらはその大半がサイレント映画であることとも深くかかわっている。
その亜流として、主人公(主に男)が絶望の沼にひたすら沈み込み、その尋常ならぬ心の闇を、表面に現す演技が駆動する物語がある。F・W・ムルナウ監督の『最後の人(Der letzte Mann, 1924)』のホテル・ドアマン、E・A・デュポン監督の『ヴァリエテ(Varieté, 1925)』のボス・フラーとその妻、ジョセフ・フォン・スタンバーグ監督の『嘆きの天使(Der blaue Engel, 1930)』の教授、フリッツ・ラング監督の『M(1931)』の連続殺人鬼ハンス・ベッカートなどの演技がそれである。これらの大部分がエミール・ヤニングスという俳優によって演じられているのは偶然ではない。彼のマンネリズム、(悪い意味で)劇場的、荒唐無稽に近い演技は、これらの役にとって奇妙に勘合した。これらの物語、そしてその演技を演出するうえで、特に重要なのは、このキャラクター達をサディスティックに「humiliate」することである。さもなければ、本当に荒唐無稽になりかねない。
「humiliate」は日本語では「恥をかかせる」と訳されるが、ここでは日本の「恥」の概念とは程遠い、サディスティックに「つるし上げ」「笑いものにする」「馬鹿にする」という意味合いが強い。たとえば、『嘆きの天使』の教授の最後などは、その典型だ。かつて地位のあった者が場末のキャバレーで何の芸も持たない「笑いもの」になり、発狂して誰からもかえりみられない死を遂げる。これは1930年のUFAでエミール・ヤニングスが演じ、あの鼻持ちならないスタンバーグが監督しているからこそ成り立つ物語である。
サイレントの後期、1920年代のヨーロッパの監督には、この「humiliation」を好んで映像化する傾向があった。スウェーデンの映画監督、ヴィクトル・シェストレムがハリウッドに渡って監督した『殴られる彼奴(He Who Gets Slapped, 1924)』では、成果を盗まれ、恥をかかされ、地位も名声も失っていく科学者が、サーカスのピエロになり、ただひたすら他の多数のピエロに殴られ続けるという芸で人気者になるという、常軌を逸した話が展開される。こういった風潮のなかでもドイツの監督たちはその傾向が強く、フリッツ・ラングは『M』でピーター・ローレを幼女殺人に快楽をおぼえる殺人犯として描き、最後の裁判で完膚なきまでに「humiliate」する。『スカーレット・ストリート』は、その系譜において、まさしく名人が名人芸をみせたといえるかもしれない。
『スカーレット・ストリート』でエドワード・G・ロビンソン演じるクリストファー・クロス(略すとクリス・クロスとなり「裏切り」の意味の「Criss Cross」と通じる)は、小心者でうだつが上がらず、口やかましい妻にとことん軽蔑されている。会社の出納係として25年勤めてその記念パーティーを開いてもらっているシーンから映画は始まるが、クリスは常にまごつき、気の利いたことを言えるようなタイプの人間ではない。一見すると、物語を通してクリスが食い物にされていく様子を私たちは見ているような気になる。
ラングの『スカーレット・ストリート』の演出は「醒めた、シニカルなユーモア、きわめて諧謔的なトーン、そして重層的な視点(フローレンス・ヤコボウィッツ)」という点において他の同時期の(フィルム・ノワール)作品よりも際立っている。途中で喧嘩別れした脚本のべメルマンスが指摘しているように、ラングは「哀れな」クリスに救いを与えず、徹底的に叩きのめした。
ラングの意図は、ヤコボウィッツも指摘しているように、クリスは決して見た目の印象から受けるような朴訥で純粋な人物ではないということを暴くことだった。自分が持っている「権力」を巧みに利用して、キティを「囲い」、アデルの元夫を欺き、そして裁判で平気な顔をして嘘をついてジョニーを死刑に追いやった人物としてとらえられるべきなのだ。名前の通り、彼はことあるごとに人を裏切っているのである。
一方で、キティとジョニーはクリスを食い物にしているのは間違いない。この世界では、一方が食い物にすると他方が裏切る、そういった不信と権力構造だけが意味を持っている。
ラングは最初に書き上げたあらすじで、クリスに暴力的な側面があることを示唆しようとしていた。直接的に表現していた部分は削られたが、その側面はいくつかの場面で示唆されている。
キティが殺される前にクリスに放つ言葉が印象的だ。
あなたがジョニーを殺す?やれば?あなたなんか全部骨をへし折られて終わりよ!ジョニーこそ男よ!キティ
キティはジョニーの「強さ」をことあるごとにほのめかす。ジョニーとキティのあいだにS&Mの性的関係のあることが疑いようもなく表現されていると言ってよいだろう。ところが、冒頭ではクリスが、その強いはずのジョニーを傘の一撃で簡単に倒している。それが偶然であったとしても、ジョニーが「体中の骨をへし折る」ような強者とはとても見えない。クリスとキティ(そしてジョニー)の間の関係は、クリスの暴力に始まり、暴力(殺人)で終焉する。クリスの意図がどうあれ、暴力のエネルギーがクリスの人生を決定してしまっているのだ。
この「自分では制御できない暴力」は、かつてラングが『M』で描いた連続殺人鬼ハンスに通底している。ハンスが追われて四角い柱に囲まれた工場の通路を逃げる後ろ姿は、クリスが警察を呼びに人気のないエルの高架の下、四角い柱の間を走っていく後ろ姿に再現されている。少し丸まった背中、小太りでやや背が低く、走るストライドも似ている。ラングは意図的にクリスを矮小化し、シニカルなトーンで彼の性欲を切り取っていく。
加藤幹郎はラングの映画内の記号として、この『M』において、ハンスが押される「M」の字と、『スカーレット・ストリート』でクリスの額に映る「S-S」の文字について言及している。クリスが金を横領しているときに突然上司が現れる。クリスと上司はガラス窓越しにやり取りをするが、ガラスに書かれた「CASHIER」の文字の影がクリスの額に映るのだ。これを加藤は「Serpent」「Sinner」の「S」、「Scarlet Street」の頭文字、と解釈している。この「S-S」の前に影が映る「A」はナサニエル・ホーソンの「緋文字」からの連想で「Adultery」であるとも述べている。これは非常にスマートな、文学的で説得力のある解釈だ。しかし、一方でただ単に「A-S-S」すなわち「ASS」、「大バカ者、たわけ」と解釈する誘惑には勝てない。もちろん加藤が指摘するように、ラングの扱う記号の重層性・多層性・多義性が興味深い観点であるのはその通りだ。その意味でも、この作品の底を流れているシニカルでサディスティックなトーンが、本人が気づかない間に額に「たわけ」と映させるという演出につながっているとみてもよいだろう。
物語の終盤、ジョニーの裁判、死刑執行、そしてクリスの自殺未遂と発狂、とクリスが軌道を失っていくさまが描かれる。エドワード・G・ロビンソンの演技とラングの演出は重たく、大仰で、ともすれば「大根」とさえ言われかねないほど作為的である。むしろそれでも無理のないクライマックスになっているのは、クリスは自殺未遂のあとほとんど言葉を発さないからであろう。
映画の終盤で主人公が狂気にとりつかれ、心神喪失の状態で終わるという展開は前述のサイレント期~トーキー初期の(ドイツ)映画に多く見られるものだ。『スカーレット・ストリート』と比較されることの多い『嘆きの天使』では、エミル・ヤニングス演じる教授が、ラスト近くで奇声を上げて完全に人格が壊れてしまう。失業したことが暴かれた主人公が失意のどん底で魂の抜け殻のようになってしまう『最後の人』(木に竹を接いだようなハッピーエンドは無視しよう)、主人公が現実とフィクションの境界に落ち込んで発作的に発狂して死ぬ『最後の指令』、どれもヤニングスの異様で滑稽なまでに破滅的な演技が、その荒唐無稽な状況を正当化してしまう。
ラング/ロビンソンの演出/演技は、もう少し抑制が効いているが、それでもこの「狂気への転落」への執着はサイレント期の(ドイツ)映画を代表する(ドイツ)映画監督の面目躍如といったところかもしれない。
『スカーレット・ストリート』では、ジョニーの死刑が執行されたその夜に、クリスが狂気の深淵に落ち込んでいくさまが描かれる。クリスはジョニーの死刑執行にまるで満足したかのような、笑みを浮かべて安宿の自分の部屋に戻ってくる。夜じゅう、ネオンサインが点滅する、それだけで神経が参ってしまいそうな部屋である。クリスは、そこで幻聴にさいなまれ始める。それはキティとジョニーが愛し合うささやきだ。その声は、彼の深層心理の失意が投影されたものである。だが、クリスにとってそれは鳴りやまない音響の責め苦である。ここでラングは比較的長いカット(40秒、50秒、1分30秒)を使って、ロビンソンの「変化」の演技を見せる。ロビンソンに「見えない声」を相手に演技させている。しかも一度消えた声がまた現れるという仕掛けを使って、この押しつぶされそうになる男が、首を吊るまでを加速させている。
このクリスの転落を映すシーンはムルナウの『サンライズ』を彷彿とさせる。
ムルナウは、「都会の女」に翻弄されて妻を殺そうとする男(ジョージ・オブライエン)の殺害実行への道のりをきわめて強引に演出している。妻殺しを実行しようというその朝、男は「都会の女」の幻影にまとわりつかれる。ムルナウの演出はセリフがないにもかかわらず、まるで声が聞こえるかのような(フォックス・ムービートーンのサウンドトラックは効果的に使用されている)二重写しを用い、オブライエンがこの幻影に苦しめられる様子をとらえる。前述のロビンソンの演技と同じように、オブライエンに「見えない姿」を相手にした演技をさせている。またここでも一度消えた幻影が再度現れることで、一気に妻の殺害へのハードルを越えてしまう。
さらに『サンライズ』では、妻を殺すことを決めた男が歩くシーンで、その歩みの重さを強調するために、オブライエンの靴に鉛の重しを仕込んで歩かせるということをしている。『スカーレット・ストリート』のラストシーンで、クリスが人ごみの通りを(そして誰もいない通りを)歩いていく様子が描かれるが、その歩きはこの『サンライズ』の演技の相似形であろう。
こういった演出/演技は、加減を間違えると滑稽になってしまう。その点で、『スカーレット・ストリート』が公開された1940年代でも、このような演出/演技は時代遅れになりつつあった。『ブロンドの殺人者(Murder, My Sweet, 1944)』でディック・パウエルが薬を打たれて朦朧とするシーンがあるが、ボイスオーバーを用いることで「発話する」という作為性を避けている。運命に絶望した人間も、靴に鉛を入れたような歩き方をするわけではなく、『過去から逃れて(Out of the Past, 1947)』のロバート・ミッチャムや、『アスファルト・ジャングル(Asphalt Jungle, 1950)』のスターリング・ヘイドンのように諦観をたたえたクールな演技が主流になりつつあった。
時代とともに、狂気・絶望といった心理描写をともなう演出/演技は変化してきた。現在では、カメラは客観性を保ちながら、わずかな言動のずれをとらえる演出/演技で「狂気」「異常」「絶望」を表現するものが多くなった。ヤニングスのような大げさで奇矯な演技は滅亡したといっていいだろう。しかし、現在の演出/演技が正解というわけでもなく、こういったものがいつか「時代がかった」とみられる日が来ないとも限らない。「時代の要請にこたえた表現」が古く咲くのは必然なのだ。その点において、『スカーレット・ストリート』の演出/演技は、今までギリギリのところで「古びる」ことに耐えてきたかもしれない。
Links
Culture Tripのサイトでは、当時のグリニッチ・ビレッジの様子を踏まえながら、この作品を解説している。
この映画に関して必要な情報はTCMのサイトに掲載されている。
この作品はパブリック・ドメインである。archive.orgで見ることができる。
Data
ユニバーサル・ピクチャーズ 配給 12/28/1945 公開
B&W 1.37:1
102 min.
製作 | ウォルター・ウェンジャー Walter Wanger | 出演 | エドワード・G・ロビンソン Edward G. Robinson |
監督 | フリッツ・ラング Fritz Lang | ジョーン・ベネット Joan Bennett |
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脚本 | ダドリー・ニコルス Dudley Nichols | ダン・デュリエ Dan Duryea |
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原作 | ジョルジュ・デ・ラ・フシャルディエール Georges De La Fouchardiere | イヴ・アーデン Eve Arden |
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撮影 | ミルトン・クラスナー Milton Krasner | マーガレット・リンゼイ Margaret Lindsay |
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編集 | アーサー・ヒルトン Arthur Hilton | ロザリンド・アイヴァン Rosalind Ivan |
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音楽 | ハンス・J・サルター Hans. J. Salter | チャールズ・ケンパー Charles Kemper |