FILM

The Killers (1946)

殺人者
The Killers

ユニバーサル・インターナショナル配給
1946年

ハリウッドが私の作品を映画化したもので唯一好きなのは『殺人者』だけだ。
アーネスト・ヘミングウェイ

 

 

Synopsis

ニュージャージー州の静かな町、ブレントウッド。そこのガソリンスタンドに勤める孤独な男、オール・アンダーソンが、二人組の男に殺される。アンダーソンの生命保険調査の担当になったリオーダンは、アンダーソンの最期の言葉「昔、間違ったことをしたんだ」に興味を抱き、この不可解な殺人事件の真相を探り始める。そして、数年前に起きた強盗事件と、その背後に見え隠れする男女の裏切りに、アンダーソンが奈落の底に落ちていった無情な物語を発見する。

 

 

Quotes

George: What you gonna kill him for?
Max: We’re killin’ him for a friend…
Al: Shut up, you talk too much ….
Max: I gotta keep the bright boy amused, don’t I?

ジョージ:どうしてアンダーソンを殺すんだい?
マックス:友達のために殺すのさ
アル:黙れ、お前は喋りすぎだ
マックス:このお利口さんを楽しませなきゃいけないだろ

 

 

Production

アーネスト・ヘミングウェイは短編小説「殺し屋」をマドリッドに滞在中の1926年の5月16日に書いたという。その日には「今日は金曜日」「十人のインディアン」も書きあげたと編集者マックスウェル・パーキンスへの手紙のなかで記している。

1945年11月にマーク・ヘリンジャーはヘミングウェイの「殺し屋」の映画権を取得した。彼はこの3,000語足らずの短編に異例の高額$37,500($36,750あるいは$50,000という記述もある)を払っている。これがどれくらい高額かというのは、他のヘミングウェイ原作の映画化権と比較すると一目瞭然である。ハワード・ホークス監督の『脱出(To Have or Have Not, 1944)』はたったの$10,000、『陽はまた昇る(Sun Also Rises, 1957)』に至っては散々交渉したうえ$13,200がヘミングウェイの前妻に渡っただけだった。

「殺し屋」はニック・アダムス物語の一編として書かれた作品だが、息詰まるような閉塞感と得体の知れない諦観は、ヘミングウェイ作品のなかでもかなり際立っている。しかし映画の原作としては短すぎた。小さな町の食堂に現れた二人組の男が、その町に静かに住んでいる男を殺すために雇われた殺し屋だったという、ただそれだけの話である。ヘリンジャーはジョン・ヒューストン、リチャード・ブルックス、アンソニー・ヴェイラーに、この短編を出発点として長編の脚本を依頼する。出来上がった脚本は120ページ、アンソニー・ヴェイラーによれば「ほとんどヒューストンの仕事」だったが、ヒューストンはまだ陸軍に雇われており、ワーナー・ブラザーズとの契約下にもあったので、クレジットされていない。

ヘリンジャーにとってこの作品は、ワーナー・ブラザーズを離れて、独立プロデューサーとしてユニバーサルに初めて納める作品だった。予算は$809,000(当時としては低予算)で、「新人か、落ち目、あるいは落ちかかっている」俳優を使うとヘリンジャーは決めていた。当初は巨体でブロンドのウェイン・モリスをスィード役に考えていたが、モリスを契約していたワーナーが随分熟考のうえ$75,000を要求してきたため諦めた。ヘリンジャーは慌てて他の役者を探し始める。「誰かが「スィード役にグレタ・ガルボがいい」と勧めてきたら本気で考えたかもしれない。それくらい焦っていた」というマーク・ヘリンジャーは、バート・ランカスターという無名の役者に目をつける。無名時代から短気だったランカスターは、ヘリンジャーがスクリーンテストを要求すると爆発、ニューヨークに帰るぞと脅す始末だった。ヘリンジャーはランカスターをなだめ、ビリー・ワイルダーの家に連れて行ってリハーサルをし、翌日スクリーンテストを行なった。テストのラッシュを見たヘリンジャーは熱狂し映画3本分も彼と契約してしまう。

ファム・ファタールのキティ・コリンズ役探しも難航した。MGMで壁にぶち当たっていたエヴァ・ガードナーをヘリンジャーは覚えていてコリンズ役に抜擢する。監督のシオドマクは、MGMの規定メイクアップが彼女の「ハリウッドで最も美しい顔」を隠していると主張して、メイクアップを変えさせた。ランカスターはガードナーとのキスシーンでひどく動揺してしまい、シオドマクは撮影をいったん中止、ランカスター、ガードナー、カメラマン、シオドマクの4人だけでやり直したと、ランカスター自身が後年述べている。

この作品のオープニング、ヘミングウェイの作品をほぼそのまま映像化したシーケンスで、殺し屋を演じるのはウィリアム・コンラッドとチャールズ・マクグロー。二人ともラジオドラマなどに出演していたが、ハリウッドでは全く無名に等しかった。チャールズ・マクグローは、1937年にブロードウェイの舞台「ゴールデン・ボーイ」で悪役として演技をしていたのをヘリンジャーが覚えていて呼び寄せたという逸話がある。

撮影監督はシオドマクの『幻の女(Phantom Lady, 1944)』でも協働したエルウッド・”ウッディ”・ブレデル。この作品でもコントラストの強い演劇的要素の強い映像を完成させているが、一方で帽子工場の強盗シーンの引き締まった長回しも印象深い。ランカスター演じるスィードが惨敗するボクシング・マッチの映像は白くウォッシュアウトされ、その後に続く『ボディ・アンド・ソウル(Body and Soul, 1947)』から『レイジング・ブル(Raising Bull, 1980)』といったプロボクシング映画のクリシェになった。音楽を担当したミクロス・ロージャは、ハンガリー生まれの作曲家で、若い頃はドイツ、フランス、イギリスなどで作曲活動をしていた。1930年代には「主題・変奏・フィナーレ 作品13」などの作品を演奏会用に発表していたが、イギリス滞在中にアーサー・ホネガーに勧められて、同郷のアレキサンダー・コルダのもとで映画音楽を手がけるようになる。『殺人者』の音楽は彼の作曲の方向性を変えた重要な岐点の作品だ。特に有名なオープニングで使用される4音のテーマ(”ダン・ダ・ダン・ダン”のテーマ、とロージャ自身も呼んでいたという)は、当時のサスペンス映画や犯罪映画、すなわち後にフィルム・ノワールと呼ばれる映画の音楽の作法に強い影響を与えた。1950年代のTV番組『ドラグネット』の「メインテーマ」(ウォルター・シューマン作曲)が酷似していると問題になり、結局ロージャにも印税が入ることで決着がついた。ロージャは『殺人者』に使用した音楽を再構築し、映画特有の「ミッキー・マウシング(映像に過度に迎合させた作音)」を取り除いて、演奏会用の組曲に編曲している。

前述の帽子工場での強盗シーンはユニバーサルの従業員用ガレージでクレーンを使用して撮影された。シオドマク自身は特に長回しで知られる映画監督ではないが、このシーンは映画全体のナラティブの核となる重要な部分であり、制御された構図の流れと実際のアクションの混沌が見事な対比を見せている。

クレーンを使った長回しの強盗のシーンは一発撮りだったんだ。何もかも混乱していて、役者は自分たちがどこにいなきゃいけないか分かっていないし、車は間違った方向へバックして道の真ん中で止まってしまうし、といった具合でね。でも面白いことに、プリントしてみるとこれが実に欲しかった効果を生み出してくれた。ロバート・シオドマク

実際にはテイクは3回、最初のテイクが採用されたという。

ヘリンジャーは、「常に心配ばかりして」新人俳優の我儘にも付き合うような部分もあるが、一方でエンターテイメント業界を生き抜く者として、如才なく宣伝を画策する能力をもっていた。彼は『殺人者』のプレビューに映画批評家ではなく、一般の新聞記者や雑誌記者(なかにはスポーツ記者もいたらしい)を呼んだという。飲み物や食事をふんだんに振る舞った後に上映会をする、というあからさまな賄賂が効いて公開前から映画は新聞紙上やメディアで大きく好意的に取り上げられていた。ライフ誌でさえ、特集を組んで映画の紹介とともにヘミングウェイの原作まで掲載するという力の入れようだった。

ヘミングウェイのこの短編は、この後も幾度も映画化される。ドン・シーゲルの『殺人者たち(The Killers, 1964)』は初めてTV用に制作された作品だったが、その暴力描写が問題視され、結局劇場公開となった。アンドレイ・タルコフスキーは全ソ国立映画大学在学中に課題で『殺人者(Ubiytsy, 1956)』を監督している。

マーク・ヘリンジャーは1947年に亡くなる直前、ヘミングウェイの短編全ての映画化の権利を取得する。30,000語以下の作品(まだ書かれていない作品も含む!)全ての映画化権である。しかも契約金とは別に興行利益の歩合で作家に支払うという、ヘミングウェイにとっては非常に嬉しい取引だった。他のハリウッドのプロデューサーや重役と違って、ヘリンジャーが作家を尊敬していたとともに、映画化の財産として重要視していたことが推測できる。しかし、ヘリンジャーの死後にその管財を引き受けたハンフリー・ボガートは、どうやらその契約を反故にしたようである。

 

 

Reception

1946年8月28日朝9時ニューヨークのウィンターガーデン劇場で『殺人者』は封切りされた。信じられないことに、この劇場では初めてとなる24時間連続上映で『殺人者』を上映し続け、興行収入の記録を作ったという。封切り後11ヶ月で$2,796,084.02の興行収入をあげ、1946年では51位の成績だった。

『深夜の告白』『ブロンドの殺人者(Murder, My Sweet, 1944)』や似たようなメロドラマティックな作品に興味をもって反応した観客であれば『殺人者』を同じように熱狂的に迎え入れるであろう Motion Picture Daily

映画のストーリーはヘミングウェイが思っていたのとは若干違うかもしれないが、スクリーンで展開される話としては緊張感のある、興味をひかれるものに仕上がっている New York Times

入れ替え制ではない映画館では注意が必要である。

フラッシュバックが始まるところ以外で見始めてしまってはいけない映画。だが、最初から見始めれば、ここ最近のこういった映画の中では最も出来が良い Motion Picture Herald

ヘリンジャーがこの作品を犯罪組織のメンバー(マフィア)に見せたところ「一般人よりも受けた」らしいが、詳しい状況は不明である。

原作者のヘミングウェイは、ハリウッドの映画化で幾度となく苦い経験を味わっているが、その中ではこの作品は「最もまとも」と評していた。映画のプリントをユニバーサルから贈られたようだが、酒が入って機嫌が良くなると友人たちに映写して見せていたらしい。ただ、本人は1リールめ(自分の短編に相当する箇所)が終わると寝落ちしてしまっていた。

『殺人者』はフィルム・ノワールの代表的作品として繰り返し論じられてきた。

ロバート・シオドマクの『殺人者』のオープニング、ロードハウスの有名なシーン、標的を探す二人の男がほかの客を平気な顔で恐怖に陷れる、あのシーンは、アメリカ映画の最も素晴らしい瞬間のひとつ、日常の忘れられないひとコマを捕らえたものである。レイモン・ボルド&エティエンヌ・ショーモン

詳細な分析的評論も数多くある。ロバート・G・ポーフィリオは、『殺人者』をヘミングウェイの原作から切り離し、映像と音のアマルガムとして論じている。ジャック・シャドイアンはその著書「Dream and Dead Ends」のなかで、物語の推進役として登場するジム・リオーダンに焦点をあてて、この能動的な狂言回しの二面性を分析している。マイケル・ウォーカー、ジョセフ・グレコはそれぞれのロバート・シオドマク分析のなかで、この作品を広汎に論じ、シオドマクのキャリアのなかでも『幻の女』から始まった転回を決定的なものにした作品として位置づけている。

 

 

Analysis

オープニングの10分

『殺人者』のオープニングは、ヘミングウェイの原作を下敷きにした部分であるばかりでなく、やりとりされるセリフはかなり忠実にヘミングウェイの文章を使用している。映画化における原作との比較はつまらないという批判もあるが、私は決してそう思わないし、特にこの作品に関しては脚本での配慮や演出、演技における「選択」が興味深いのだ。そしてヘミングウェイやそれに続くアメリカのジャンル文学作家達の作品が戦後アメリカ映画に与えた影響を考える上でも、その起点となった映像だと思う。

ヘミングウェイの「殺し屋」では、イリノイ州のサミットという町のダイナー(食堂)に現れた二人の殺し屋と食堂の店主との会話が中心になって、殺し屋の計画が明らかになっていく様子が描かれる。この二人の殺し屋は、食堂の店主のことばの一つ一つに難癖をつけ、揚げ足をとり、少しずつ自分たちが「普通の客ではない」ということを分からせていくのだ。(原文)

「時計なんかどうでもいい」一人目の男が言った。「何が食えるんだ。」
「サンドイッチならなんでも」ジョージは言った。
「ハム&エッグ、ベーコン&エッグ、レバー&ベーコン、ステーキ・・・」
「じゃあ、俺はチキンコロッケとグリーンピースのクリームソースがけとマッシュ・ポテトだな。」
「それもディナーです。」
「俺達が食べたいものは、全部ディナーか、え?そういう仕組みなのか。」アーネスト・ヘミングウェイ『殺し屋』

この部分などは映画ではほぼ忠実に再現されている(原文)

マックス:時計なんかどうでもいい。何が食えるんだ?
ジョージ:サンドイッチならなんでも。ベーコン&エッグ、レバー&ベーコン、ハム&エッグ、ステーキ・・・
アル:俺は・・・チキンコロッケとグリーンピースのクリームソースがけとマッシュ・ポテトにする。
ジョージ:それもディナーです。
アル:俺達が食べたいものは、全部ディナーか。そういう仕組みか、ここは?映画『殺人者』

殺し屋がこれから仕事をしようというときに「チキンコロッケのクリームソースがけ」を注文するという不気味な荒唐無稽さを原作からそのまま引き継いでおり、この後もジョージの揚げ足を取りながら、このダイナーを急激に恐怖のどん底に陥れていく、という原作の不条理な状況を忠実に再現している。

原作の文章からだけでは、ジョージの声のトーンや喋り方は分からない。映画ではジョージは決してフレンドリーではなく、「それはディナーです」というときも若干ぶっきらぼうである。そのぶっきらぼうさにアルが突っかかっていく、という「やり取り」が見えてくる。このあと、ジョージがイライラしながら「ベーコン&エッグ・・・」とメニューを繰り返し始めたときに、アルが「ベーコン&エッグをくれ」と大きな声でかぶせて言うやり取り(「セリフをかぶせる」ことはもちろん原作ではできない)で、この食堂を殺し屋達がコントロールしていくのが決定的になっていく。

注目したいのは次のやり取りである

Al: You got anything to drink?
George: I can give you soda, beer, ginger ale …
Al: I said, you got anything to drink?
George: No.

アル:何か飲み物はあるか?
ジョージ:ソーダ、ビール、ジンジャーエール・・・
アル:何か「飲み物」はあるか、と聞いたんだ。
ジョージ:いや。
映画『殺人者』

二回目に、殺し屋のアルが「飲み物(drink)はあるか聞いたんだ」ときくとき、原作では”drink”がイタリックになっている。映画ではチャールズ・マクグローが “drink” を太い声でアクセントを付けてくる。「飲み物」にアクセントをおくことで、それがウイスキーなどのハードリカーを指しているのは明らかだ。だが、原作でのイタリックと、映画の太い声では、あらわす意味が若干異なる。原作は禁酒法の時代に書かれている。だから、イタリックでの”drink”は違法なアルコール飲料を出せるか訊いていると推測できる。ちなみに原作ではジョージは「シルバー・ビール、ビーヴォ(注:どちらもノンアルコール飲料のようだ)、ジンジャーエール」を提供していると答えている。映画のなかでの”drink”は、ビールではなくウィスキーやバーボンといった酒を、この店では提供しているのかと聞いているにすぎない。にも関わらず、アルの声は強圧的でその意味以上の威嚇を内含している。このニュアンスの変更は、時代の変化に要請されたものではあるものの、同時に犯罪組織の人間たちが「一般人」の世界に侵入している状況を示唆している。

原作からの最も顕著な変更点は、コックのサムの取り扱いだろう。原作では”nigger”と呼ばれている。しかもそれを最初に呼ぶのは雇い主のジョージなのだ。

“None of your business.” Al said. “Who’s out in the kitchen?”
“The nigger.”
“What do you mean the nigger?”
“The nigger that cooks.”

「お前の知ったこっちゃない」アルは言った。
「キッチンには誰がいるんだ?」
「ニガーです。」
「ニガーってどういう意味だ?」
「料理するニガーです。」

アーネスト・ヘミングウェイ『殺し屋』

この後のやり取りからも、この殺し屋達が普段から”nigger”という言葉を使っているかどうかははっきりしない。あくまでジョージが”nigger”と呼んだから、それを参照しているにすぎないようにも見える。映画版ではこの差別表現はすっかり消し去られている。なぜだろうか。

この”nigger”という言葉がハリウッド映画から取り除かれるのに一役買ったのが『風と共に去りぬ(Gone with the Wind, 1939)』であった。マーガレット・ミッチェルの原作では、”nigger”を含めた数多くの差別表現が登場するのだが、プロダクション・コードを運用するブリーン・オフィスの脚本レビューの段階で取り除くように指示が出されたのである。それ以来、プロダクション・コードには明記されていないものの、人種差別用語はハリウッド映画から消え去る。しかし、ヘミングウェイの原作の頃に比べて、『殺人者』の映画の時代に人種差別がなくなったわけではない。むしろ、人種差別が蔓延しているにも関わらず、プロダクション・コードがそれを隠蔽する役割を果たしていたのである。

この二人の殺し屋に殺されることになるオール・アンダーソン、原作では「スィード(Swede)」はあだ名ではなく、「スウェーデン人」を意味している(”We are going to kill a Swede. Do you know a big Swede named Ole Anderson?”)。だが、映画ではオール「スィード」アンダーソンとあだ名になっており、ここでも、人種の匂いが消し去られているのだ。

こうやって、人種の匂いを消し、禁酒法の時代の匂いを消した上で「過去」への暗い路が開かれていく。これも原作にはない仕掛けとして、映画ではスィードは今はピート・ランと名前を変えていることが殺し屋とジョージの会話で分かる。名前を変えること、断ち切れない過去を名の上だけで断ち切ること、この殺しは「過去」がスィードに追いついたものなのだ、ということが示唆されている。しかし、その過去はハリウッド映画のコンヴェンションによって変性させられたものなのだ。ヘミングウェイが描いた、人種、血、犯罪者の生、といったものが、ここでは正確に外科手術的に切り取られている。そして映画の後半の部分でその変性させられた過去が甘い香りで湿ったロマンチシズムで彩られていることも明らかになっていく。

収束していく物語

この冒頭の食堂のシーンでセリフによって形作られていく過去への入り口は、映像によってより鮮明になっていく。はじめは、広角レンズを使用し、ディープ・フォーカスで殺し屋を遠景、ニック・アダムスを近景でとらえるシーンが最初は続く。当初、我々はこの二人組が何者か分からない中で、二人組の表情の変化をつぶさに観察する。一方で、殺し屋に揚げ足を取られ続ける店主のジョージの表情はほとんど見えない。ところが、彼らが「スィード」を殺しにやってきた殺し屋だと分かるあたりから、カメラは殺し屋のマックスを近景において、その奥でジョージの反応をとらえるようになる。過去からやってきた死の使者が語り手となって、この物語の導入部を物語るのだ。

導入部分の後、この殺人事件の真相を追う狂言回しの役として、保険会社の調査員、リオーダンが登場する。彼がスィードの過去を知る者たちを一人一人訪ね、その過去が複数の異なるフラッシュバックとして重ねられていく。オーソン・ウェルズが『市民ケーン』で見せた多人数による複数のフラッシュバックが形作るナラティヴの手法の変奏である。だが、この『殺人者』では、『市民ケーン』とは違うアプローチが現れている。

1.信頼せざるを得ない語り手

登場する語り手達は、スィードの半生のなかで何らかの関わりを持った人物たちである。

ニック・アダムス・・・スィードのガソリンスタンドを手伝っていた。
クィーニー・・・スィードの生命保険金の受取人。スィードの自殺を止めたことがある。
サム・ルビンスキー・・・刑事。スィードの幼馴染。
リリー・ルビンスキー・・・サムの妻。以前、スィードと付き合っていた。
サム・ルビンスキー・・・宝石盗難の事件に関連してスィードを検挙した。
チャールストン・・・スィードの刑務所仲間で、ギャングから強盗の計画に誘われるが断る。
古い新聞記事・・・強盗の一部始終について。
ブリンキー・・・強盗事件の共犯。強盗事件後、一味はスィードに出し抜かれ強奪金を巻き上げられる。
ダムダム・・・強盗事件の共犯。
キティ・・・強盗事件の後、ボスのコルファックスと共にスィードを騙した。

これらの語り手が語る話は、たとえ語り手が信用ならない人物でも、その人物が直接関与したエピソードがゆえの「真実」として提示されている。たとえ、狙撃されて意識が朦朧としているブリンキーでも、真実を語る動機が全くないキティでさえも、そのフラッシュバックは語り手による脚色がないものとして描かれている。『市民ケーン』の語り手達は、例えばリーランドのように、彼が知る由もないはずのケーン夫妻の朝食の様子など、語り手本人が直接関与していない物語を語ることがある。『市民ケーン』では、カメラは語り手の主観的な「物語」を映し出しているのであって、そこには捏造やデフォルメが十分に入り込む余地があり、それをも内含する世界しか映し出せないのである。これを「信頼できない語り手たち」として指摘したのは、ピーター・ホーグであった。一方で、『殺人者』では、語り手達の思惑は丁寧に取り除かれ、カメラは語り手とスィードの近傍で「不可視の記録者」として機能する。この機能は、謎解きが最終的には解決されなければならないミステリとしての宿命が要求しているものだ。つまり、謎解きの終点にたどり着くためには、私達はこの語り手達を信頼せざるを得ないのである。

とは言え、フラッシュバックには語り手の意識がまるで息継ぎのように顕在化し、フィルムのカットとして現れる。例えば、チャールストンが語る、ギャングたちの会合でのスィードとキティの再会の様子では、チャールストンが敏感に感じ取ったスィードの変化は、スィードのクローズアップとして現れている。あるいは、クィーニーが遭遇したスィードの破滅の瞬間は、スィードが叩き割る窓ガラスのショットとして衝撃的に語られる。

唯一の例外が、新聞記事による強盗事件の詳細な描写である。これは記事を読むケニヨン(リオーダンの保険会社での上司)がボイスオーバー・ナレーターとして機能し、長回しのワンショットが提示される。この記事を書いた記者(あるいは警察発表)は、複数の目撃者の証言をもとに整合性の取れる状況を構築したはずだ。それを無表情に朗読する声が映像に重なる。このショットについては、ニュース映像との類似性や、セミドキュメンタリーの犯罪映画からの影響が指摘されてきた。だが、どちらの場合も、ボイスオーバーが物語を与えるのは編集されたフッテージに対してであって、長回しのワンショットではない。このフラッシュバックが、長回しで一気に息継ぎなく語られるのは、これは個人の意識が生む語りではなく、意識の集合体だからではないだろうか。ゲシュタルトとしての語りが擬似的な「神の視点」となり、クレーンに載って浮遊し見下ろしながら、映し取る世界、それが全体の物語の折り返し地点に位置づけられている。これは、この後狂言回しであるはずのリオーダンが物語に直接関与せざるを得なくなるという、語りの変容を予期させるものだ。

2.観察者による観察対象の摂動

観察者は、その行為によって、あるいは存在自体によって、観察対象を変えてしまう。物質にX線を当てれば、吸収スペクトルが得られることもあるが、同時に分子結合を切断してしまい、その物質を変性することもある。観察者は、被観察者からすれば、目障りかもしれないし、時には利害を損ねる存在かもしれない。ドキュメンタリー映画が「摂動なき観察」という概念の不可能性を図らずも暴いて見せるように、「探すこと」「語りを求めること」そして究極的には「語ること」が、物語を変容させてしまう、それがこの『殺人者』の後半部分である。

前述の新聞記事の朗読の段階で、もし、リオーダンが上司の言うことを聞いて、追跡を取りやめたらどうなっていただろうか。ダムダムはコルファックスたちの裏切りを知っただろうか。キティとコルファックスは平穏に暮らし続けただろうか。しかし、このフィクションはその「もし」を全否定し、狂言回しでしかなかったリオーダンを、積極的に物語のパラメーターを変更する主事者として変容させてしまう。

彼はダムダムと争い、結果的に入れ知恵してしまう。キティを警戒させ暴力のサイクルを加速させてゆく。だが、『殺人者』が他のフラッシュバックから構成される物語と一線を画するとすれば、二人の狂言回しが殺し合いを演ずることであろう。すなわち、冒頭で物語を紡ぎ始めた殺し屋マックスが、物語を動かそうとするリオーダンを殺しに来るのである。一人の狂言回しが、もう一人の狂言回しの紡ぐ物語が気に入らないと抹殺しようとするとは、実にスリリングな演出ではないか。

ファム・ファタルの破滅

『殺人者』が提示する、単一の物語へ収束する力(信じざるを得ない語り手達、狂言回しの殺し合い)はフィルム・ノワールを構成する重要な要素のひとつ、ファム・ファタールを取り巻く語りにも現れている。『ギルダ』のリタ・ヘイワース演ずるギルダ、『深夜の告白』のバーバラ・スタンウィック演ずるフィリスとならんで、『殺人者』のエヴァ・ガードナーが演じるキティは、フィルム・ノワールのファム・ファタールの代表例として頻繁に言及されている。確かに、スィードは見事にキティに手玉にとられ、生きる欲求を奪われた屍のような存在に成り果てていた。スィードは巨躯とそのハンサムな容貌のなかに、余りに未熟な自我を抱えており、それを操られていることに気づかないまま、破滅まで進んでしまった。キティとスィードの間にあったのは、スィードの一方的な執着と異常な妄想であり、それをキティは自分とコルファックスの利益のために最大限に利用した。

ファム・ファタールは「男性を破滅させる女性」なのかもしれないが、その描き方は様々である。ただ単にセックスに対して奔放なだけの場合もあれば、金銭だけに興味がある女、あるいはサディスティックな欲望を満たすケースもある。キティは、スィードを中心とした世界ではファム・ファタールかもしれないが、コルファックスにとっては脅威ではなく、むしろキティのほうがコルファックスに翻弄され、最後は(キティの視点から見れば)裏切られてしまう。もし、コルファックスを中心とした世界が描かれたならば、キティはコルファックスのためならなんでもする「都合のいい女」になってしまうのかもしれない。だが、そうではない、スィードの未熟な自我が炸裂して自滅する世界が描かれなければならないのである。

単一の物語へ収束させる力と呼んだが、実はその力が弱いのかもしれない。だから別の物語が見え隠れし、スィードの世界の境界が見えてしまうのかもしれない。でも、それはこの物語の最大の強みでもある。ファム・ファタールが「男性を破滅させる女性」ではなく、「自分で勝手に破滅する男性に関わってしまった女性」なのかもしれない、という裂け目がその境界の向こうに見えるのだ。

原文
‘Oh, to hell with the clock,’ the first man said. ‘What have you got to eat?’
‘I can give you any kind of sandwiches,’ George said.
‘You can have ham and eggs, bacon and eggs, liver and bacon, or a steak.’
‘Give me a chicken croquettes with green peas and cream sauce and mashed potatoes.’
‘That’s the dinner.’
‘Everything we want’s the dinner, eh? That’s the way you work it.’
(戻る)
原文
Max: Never mind the clock. What have you got to eat?
George: I can give you any kind of sandwiches, bacon and eggs, liver and bacon, ham and eggs, steaks …
Al: I’ll take… chicken croquettes with cream sauce and green peas and mashed potatoes.
George: That’s on the dinner, too.
Al: Everything we want is on the dinner, that’s the way you work it, huh?
(戻る)

 

 

Links

TCMのサイトでは、「『殺人者』は全ての評論家がフィルム・ノワールだと認める数少ない作品のひとつ」として紹介している。

クライテリオンのサイトでは、ジョナサン・リーセムが「ノワールの『市民ケーン』」と呼んでいる。

ニューヨーク・タイムズのJ・ホバーマンは64年版と46年版を紹介(クライテリオン・コレクションのレビュー)している。

 

 

Data

ユニバーサル・インターナショナル配給 1946/8/28 公開
B&W 1.37:1
102分

製作マーク・ヘリンジャー
Mark Hellinger
出演バート・ランカスター
Burt Lancaster
監督ロバート・シオドマク
Robert Siodmak
エドモンド・オブライエン
Edmond O'Brien
原作アーネスト・ヘミングウェイ
Ernest Hemigway
エヴァ・ガードナー
Ava Gardner
脚本アンソニー・ヴェイラー
Anthony Veiller
アルバート・デッカー
Albert Dekker
脚本ジョン・ヒューストン
John Huston
サム・レヴィーン
Sam Levene
脚本リチャード・ブルックス
Richard Brooks
ヴィンス・バーネット
Vince Burnett
撮影エルウッド・ブレデル
Elwood Bredell
ウィリアム・コンラッド
William Conrad
音楽ミクロス・ロージャ
Miklos Rozsa
チャールズ・マクグロー
Charles McGraw

 

 

References

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