Night Has a Thousand Eyes

パラマウント配給
1948
どんな役であろうと、俳優は自分自身を演じている
エドワード・G・ロビンソン

Synopsis

夜の闇、操車場を一人の男がさまよっている。女性のバッグが線路の上に散乱している。彼はそれを拾い上げ、女の姿を探す。鉄橋の上に女性の影が見えるが、まさにその時、蒸気機関車が爆音をあげて近づいて来る。機関車に向かって飛び降りようとしたのは、ジーン(ゲイル・ラッセル)、そして男は彼女の婚約者のエリオット(ジョン・ルンド)。エリオットは間一髪でジーンを救うが、彼女は夜空の「千の眼」が自分を見ている限り、恐怖におびえつづけるのだという。エリオットとジーンは、カフェでトライトンという男(エドワード・G・ロビンソン)と会う。トライトンこそ、ジーンに「近いうちに、夜の星の下で死ぬ」と予言した男だった。トライトンは予知能力を持つ男だった。そしてその力のせいで、彼は孤独な人生を選んだのだった。トライトンは自らの半生を語り始める。

Quote

つまり、私はゾンビの裏返しのような存在になってしまったんだ。
もう既に死んでしまった世界に一人生きていて、それを知っているのは私だけなんだ。
トライトン(エドワード・G・ロビンソン)

Production

パラマウントは1945年の12月にジョージ・ホプリーの「夜は千の目を持つ」の映画権を購入したと発表した。このとき発表された製作担当はカール・ターンバーグ、後に『ベン・ハー(Ben Hur, 1959)』の脚本で有名になる脚本家・プロデューサーである。

ジョージ・ホプリーは、コーネル・ウールリッチの数あるペンネームのひとつである。つまり、この作品の原作もフィルム・ノワールを代表する作家によるものなのだ。この謎めいたタイトルはイギリスの詩人フランシス・ウィリアム・バーディロン(1852 – 1921)の「Night」という詩からとられている。

The night has a thousand eyes,

And the day but one;

Yet the light of the bright world dies,

With the dying sun.

The mind has a thousand eyes,

And the heart but one;

Yet the light of a whole life dies,

When love is done.

Francis William Bourdillon

ここで言う「千の目」は夜空の星を、「一つしかない目(but one)」は昼間の太陽を表現していると解釈するのが一般的である。

1946年の2月には、バー・リンドン(1896 – 1972)が脚本を担当することが発表された。リンドンはイギリス生まれの著作家で、1940年代にハリウッドに移ってからは映画の脚本に専念していた。『夜は千の目を持つ』はリンドンとジョナサン・ラティマー(1906 – 1983)によって仕上げられた。

プロデューサーは途中でエンドレ・ボーム(1901 -1990)に変更になっている。ボームはハンガリー生まれ。第一次世界大戦後、ハンガリー国内では、高等教育を受けて社会的に影響力のある地位に就くユダヤ人が非常に目立ち、これが反感を生んで「マイノリティは人口に比例した人数しか大学入学を認めない」という法律が制定されてしまった。ユダヤ人のボームは大学への入学が認められず、ブダペストを離れ、ソルボンヌ大学で教育を受けたのち、1921年に渡米、コロンビア大学に入学した。その後、ハリウッドに移って脚本家となる。サイレント映画の脚本をコロンビアとMGMで担当したのち、パラマウントでプロデューサーも兼業するようになる。ボームは、監督のジョン・ファローと組んで、この『夜は千の目を持つ』の他にも、極めて奇妙な幻想作品『夜霧の誘惑(Alias Nick Beal, 1948)』を製作している。ボームは、クリント・イーストウッドを世に出したTVシリーズ「ローハイド」のプロデューサーとして有名だ。

1947年5月の段階で、パラマウントから正式に製作が発表される。ジョン・ファローが監督、エドワード・G・ロビンソンとジョーン・コールフィールド出演という発表だった。ロビンソンがパラマウント社の作品に出演するのは『深夜の告白(Double Indemnity, 1944)』以来だった。撮影は7月初頭から開始される予定だったが、その直前に、監督のファローとコールフィールドが衝突し、コールフィールドが主演を降板した。そしてゲイル・ラッセルが主演をつとめることになる。

スタッフは、監督のジョン・ファローを含め、脚本のジョナサン・ラティマー、撮影のジョン・F・サイツ、音楽のヴィクター・ヤングなど、『大時計(The Big Clock, 1948)』に加わっていたメンバーも多い。撮影は『大時計』に引き続き行われた。1947年7月5日に開始され、8月23日にクランクアップしている。

脚本のジョナサン・ラティマーは、「精神病院の殺人」や「モルグの女」などの<ビル・クレイン・シリーズ>探偵小説で人気のあったミステリ作家だった。ダシール・ハメットの「影なき男」を髣髴とさせる筆致で映画化された作品も多い。第二次世界大戦で海兵隊に従軍したのち、ハリウッドで脚本の仕事を多く手掛けた。特にジョン・ファロー監督作品では『大時計』、『栄光は消えず(Beyond Glory, 1948)』、『夜は千の目を持つ』、『夜霧の誘惑』、『銅の谷(Copper Canyon, 1950)』、『太平洋の虎鮫(Submarine Command, 1951)』『流刑の大陸(Botany Bay, 1953)』など多くの作品で脚本を担当している。TVの「ペリー・メイソン」シリーズや「コロンボ」シリーズでも数多く担当している。

『夜は千の目を持つ』の脚本は原作といくつかの点において異なっている。原作においては複数の登場人物の視点から物語が語られたが、映画脚本では予言者トライトンに寄り添うように描かれている。特に冒頭部のフラッシュバックが原作ではジーンによって語られるが、映画ではトライトンによって語られていて、これが効果的に物語を推し進める。トライトンは、若い頃にジェニー(ヴァージニア・ブルース)とホイットニー(ジェローム・コーワン)と組んで、寄席で「透視術」の見世物をやっていたが、ある日、本当に未来を予見する力が備わっていることに気付く。多くの人は、そんな予知能力を使えばギャンブルや投資で一儲けできてうらやましいなどと考えるだろうが、トライトンは「これから起きる悲劇を予見できてもそれを回避することはできない」という運命の厳しさに直面し、ただ無力感に苛まれる。さらに婚約者のジェニーが、彼と結婚すると娘を出産するときに死んでしまうことを予見して、トライトンは姿をくらましてしまう。彼は誰とも深い人間関係を結ばず、自分の殻に閉じこもって余生を過ごそうと考えていた。ジェニーはホイットニーと結婚、娘のジーンを出産するときに死んでしまう。20年後、ホイットニーと娘のジーンがロサンジェルスに移り住んできたことを知ったトライトンは、彼らを陰から見守っていたが、ここでホイットニーの事故死、そしてジーンの死まで予知してしまう。トライトンはやむに已まれずジーンの前に姿を現し、彼女に運命を警告する。

このフラッシュバックを経て、「トライトンの予言が当たるのか、それとも外れるのか、あるいは回避されるのか」というサスペンスが骨格となり物語は展開する。ミステリの仕掛けも原作とは変更されている。

『大時計』もそうだったが、ジョン・ファロー監督はロング・テイク(長回し)を得意とする一方で、無駄のない撮影を信条としていた。『大時計』で撮影したものの最終作品に使用しなかったフィルムはわずか73フィートだったが、『夜は千の目を持つ』でもわずか138フィートだったという。このような演出・撮影へのアプローチは、スタジオにとって非常に好ましいことであるし、そのことをファローはもちろん知っていた。1948年9月、パラマウントとの契約交渉でこれを武器として使い、彼は「オプションなしで」4年契約を結んでいる。この「オプション」はスタジオ側が一方的に契約を破棄できるというもので、多くの映画監督はこのオプションを負わされていた。パラマウントがファローをいかに重宝していたかがうかがえる。

『大時計』は全編スタジオでの撮影だったが、『夜は千の目を持つ』はロケーション撮影が行われている。オープニングは夜の列車操車場だ。さらにロサンジェルスのエンジェルズ・フライトが効果的に使用されている。ロビンソン演じるトライトンがフィアンセも友人も捨てて孤独に生きるのがエンジェルズ・フライトのそばのアパートなのだ。当時、この近辺のバンカーヒルは年金生活者など貧しい住民が集まっていた。たびたび再開発(古いアパートやモーテルを取り壊して住民を追い出し、新しいビルを建設すること)の話が出ていたが、結局ロサンジェルス市は30年以上かけて再開発を行った。1955年に市が再開発の計画を発表したころのバンカーヒルの様子はケント・マッケンジーが監督したドキュメンタリー映画『バンカーヒル、1956年(Bunker Hill, 1956)』にとらえられている。

この頃にジョン・ファローが監督した作品の大部分は、撮影が終了してから公開までに1年以上経過している。『大時計』は1947年の4月に撮影が終了しているが、公開は翌年4月、『栄光は消えず(Beyond Glory, 1948)』も1947年12月に撮影を終えているにもかかわらず、1948年の9月公開である。『夜は千の目を持つ』は『栄光は消えず』よりも先に撮影が終了していたが、公開は後回しにされたようだ。

『夜は千の目を持つ』ゲイル・ラッセル

Reception

公開前のプレビューを見た業界紙の記者たちからは概ね好評だった。

フラッシュバックで語られる前半はやや緩慢でいまひとつだが、ロビンソンは実によい演技を見せ、映画の結末は、心臓が飛び出すくらいハラハラさせられる。Motion Picture Herald

かなり良い興行が期待できるという予測もあった。

超能力が無くても『夜は千の目を待つ』がヒット作になるのは予見できるだろう。Motion Picture Daily

予知能力がプロットのカギとなっているだけに、そこを強調したプロモーションが行われた。公開前の8月に、パラマウントは125人もの科学者、弁護士、実業家、精神科医、医師、心理学者を集めて、ウォドーフ=アストリア・ホテルで試写会を催している。予知能力が備わった人物を主人公にした物語が受け容れられるか試してみた、ということらしい。9月には「超心理学会」なる学会の人々を呼んで試写会を実施している。こういった試写会がどう影響したかは不明だ。

ニューヨーク・タイムズのボズリー・クローザーは、結局「予知能力」をばかばかしいと思っただけだった。

『夜は千の目を持つ』は、あまりにくだらないナンセンス(unadulterated hokum)で、もう少しで信じてしまいそうになる。New York Times

製作予算$1,900,000に対して、興行収入$1,500,000だった。結局、ヒット作の予知は当たらなかった。

エドワード・G・ロビンソン自身は、自伝(All My Yesterdays, 1973)の中でこの作品を「unadulterated hokum I did for money(くだらないナンセンスだが、金のためにやった)」とだけ言及している。この「unadulterated hokum」は前述のニューヨーク・タイムズのボズリー・クローザーの評のなかの言葉そのものだ。25年も後に全く同じ表現を使っているのは、おそらくそういう表現を使った批評家への皮肉が含まれているのだろう。

やはり他のジョン・ファロー監督作品と同じく、この作品は1980年代まで顧みられることはほとんどなかった。1980年代からのフィルム・ノワール再興のなかで、「予知と運命」、「コーネル・ウールリッチ作品の映画化」、「バンカー・ヒルが登場する作品」という切り口で紹介されてきている。

夜、煙、線路、そういったイメージを巧みに組み合わせて運命に支配される物語が編み出される。ウールリッチの作品を彩る希望の無さや絶望が劇的に映画に映し出されている。ジョン・タスカ

 

フィルム・ノワールの伝統である過去から逃れることができない男を未来から逃れることができない男に置き換えたのがこの作品だ。この試みは、エドワード・G・ロビンソンの説得力のある演技のおかげで、比較的上手くいっている。ブルース・クローザー

 

トライトンはバンカー・ヒルに住んでいる。ここは「人間には隠匿されている秘密のもの、暗くて未知のもの」が巣食う世界につながっている。エドワード・ディメンドバーグ

この作品を含む、ジョン・ファローの監督作品の再評価は始まったばかりだ。

『夜は千の目を持つ』トライトンの最後の予言

Analysis

運命の役割

『夜は千の目を持つ』では、フィルム・ノワールの特質のなかでも、ある一つの特質が強調されている。回避することができない「運命」だ。宗教的な見地からみれば「神意」とも言えよう。トーマス・C・レンツィ

数多くのフィルム・ノワールでは、「運命」が物語を牽引して、主人公は破滅を迎えたり敗北を喫したりして幕引きされる。観客は、物語が破滅に向かって進んでいることを早い段階で気付くが、その破滅はあまりに「絶望的」であり、「自業自得」であり、「理不尽」である。

突然、気付いたんだ。何もかもダメだ。キース、そんな馬鹿なと思うだろう?でも本当なんだ。自分の足音が聞こえなかった。死んだ奴の足音みたいに。ウォルター・ネフ 『深夜の告白』

 

どっちの道に行こうとしても。結局運命につまづいてしまう。アル・ロバーツ 『恐怖のまわり道』

こういった運命によって定められた破滅の物語は、フラッシュバックで語られる。物語の冒頭で主人公が破滅に向かいつつあることが明らかにされ、フラッシュバックによって「主人公はその昔どの道に進もうとしていたか」から回想されていく。そして「どっちの道に行っていても結局つまづいただろう」と感じる。この主人公には、破滅を避ける手段はなく、どの選択肢を選んでも結局つぶれてしまっていたであろう、そういう運命の星のもとに生まれてしまったのだ。

人が死ぬ日には、その人の名前が雲に書かれているって言うわよね。アン 『過去を逃れて』

 

刑事:誰が殺されたんだ?

フランク:私です。

『D.O.A.』

フラッシュバックは、ある時点から過去を振り返るナラティブの形式だが、フラッシュバックの「過去の時間」から見れば、予言から始まる物語ともいえる。ウォルター・ネフの「金も女も手に入れることができなかった」という言葉は、出会ったばかりのウォルターとフィリスにとっては、破滅の予言だったのだ。映画の中の時間の進行ではなく、映画を見ている私たちの時間では、まず「予言」があり、それから予言された破滅に向かって進んでいく物語がある。そう考えると、『夜は千の目を持つ』のトライトンの予言と『深夜の告白』のウォルターがディクタフォンに録音する告白は、相似形であり、いずれも逃れられない運命であり、破滅の宣言でもある。

なにか恐ろしいことが起きたとき、それを語る者は罪悪感を覚える。実際にその悲劇に手を下していなくても、自らのせいで言葉にできないような恐ろしいことが起きてしまったと苦しんでいる。それが、破滅の物語における語り手の役割かもしれない。ウールリッチ原作の小説と、それを基にした映画との比較を試みたトーマス・C・レンツィは、映画版の『夜は千の目を持つ』におけるジョン・トライトンをイエス・キリストになぞらえている。トライトンの名前(”Jeremiah”/”John”の旧約聖書/新約聖書の関係、トライトンがギリシャ神話で半人半イルカの存在で人界と黄泉に両生していることetc.)の解釈はいささか強引だが、それでも彼がジーンの<身代わり>となって死ぬという点において神性を議論するのは、決して荒唐無稽ではないだろう。

また、あの異様な感触に襲われた。自分が予見したことが起きてしまうのは自分のせいだという、あの感触。ジョン・トライトン 『夜は千の目を持つ』

 

兄貴は死んでいた。まるで自分が殺したような気分だった。ジョー・モース 『悪の力』

ジョン・トライトンに予知能力があるという設定がいささか白けるという評価もある。前述のニューヨーク・タイムズのボズリー・クローザーはまさしくその一人だ。しかし、原作者のコーネル・ウールリッチは、元来その強引なプロット展開から、なにか超常的な存在を想像せざるを得ない、そういう作風の持ち主だった。

(小説内で)起きる出来事はあまりにたくさんの偶然が重ならないと起きないようなことばかりで、偶然以上の何かが支配しているに違いない、と思ってしまう。フランシス・M・ネヴィンズ 「Nightwebs」序文

運命にうなされている物語というのは、人物たちの意思を超えたなにか超常的なもの、───そしてそれは多くの場合、邪悪なもの─── に突き動かされて進む。1940年代の、特に陰鬱なフィルム・ノワール ───『深夜の告白』、『過去を逃れて』、そして特に『恐怖のまわり道』などが代表的だ─── に見られる<フェイタリズム(fatalism)>の悲観主義は、自由意志という鎮痛剤の効果が薄れ、個人の意志の力ではどうしようもできない、邪悪な存在によって私たちはやがて破滅させられるという妄想に満ちている。その存在の<意思>に支配されている私たちに対して、努力することの価値に疑問を投げかけるショーペンハウアーのペシミズムは、そのまま『拾った女』のモーに息づいている。

毎日稼ぎ続けないといけないんだよ・・・死ねるようにね。モー 『拾った女』

「死んで葬式を出すために働いている」モーと、「もう既に死んでしまった世界に一人生きている」トライトンは、クラインの壷のように連続した面に立っている。実際、トライトンが自らを社会から隔離して生きている世界は、モーがネクタイを売り歩いている世界とそう遠くない。トライトンは二重底のグラスやマーク付きのカードといった「手品グッズ」を売って生計を立てている。モーはネクタイを売るふりをして情報を売って生活をしていた。二人とも、本当に使えるのかどうか分からないものを売って生きのびていた。トライトンは「自分は存在しないほうが良い」と感じ、モーは「自分は存在しなくてもほとんど誰も気にかけない」と思っている。「予知能力を持っていたら、ギャンブルや投資で大儲けできるじゃないか」という肯定的で楽天的な世界観ではなく、「予知能力はこれから起きる悲劇を増幅するだけだ」という悲観主義が支配している。「予知能力」は世界の条件をあぶりだすためのものだ。予知能力がある人間という設定が白けると感じてしまうというのは、「そんな人間は存在しない」という切断をしているだけであって、その向こうにある「生きること自体の悲惨さ」を感じることができないだけであろう。現実世界で多くの人間が直面する虚ろさが物語世界の「暗澹とした謎」と通底していることを見ない、という選択をしただけだ。

ところが、このペシミスティックなトーンがラストのショットで大きく変わる。トライトンはジーンの死ではなく、自らの死を予言していたのだ。トライトンは、自らの死を予言してはじめて自らの生を肯定できたかのようだ。

私のこの奇妙な運命について考えてみてほしい。この世には私たちからは秘匿された秘密、暗くて謎に満ちた秘密が存在しているということを。トライントン 『夜は千の目を持つ』

監督のジョン・バローは、法皇の歴史やトーマス・モアについての本を執筆するほど熱心なカトリック信者であった。その宗教観が演出に露骨にあらわれることは稀だったが、それでも彼は『夜は千の目を持つ』と『夜霧の誘惑』は神秘的な題材 ───超常的な意思と人間との遭遇─── を真摯に演出している。「暗くて謎に満ちた秘密」が私たちから秘匿されつつも存在しているという信仰が、これらの作品の題材をつなげているのはおそらく間違いないだろう。

ロング・テイク

『大時計』の分析でも述べたが、ジョン・ファロー監督はロング・テイク(長回し)を好んで使用する。『夜は千の目を持つ』でも、その傾向は顕著だ。他の監督ではカットを切り返して会話を進めるような場面でも、ロング・テイクを選択している。トーマス・C・リエンツィは「含意と効果の点で想像力にあふれたロング・テイク」として以下の7つのショットを挙げている。

1. ボードビルの劇場、トライトンの「千里眼ショー」のエスタブリッシング・ショット。

2. ホテルの部屋。トライトンがホイットニーとジェニーを送り出した後、スーツケースを出して、行方をくらます準備を始める。

3. バンカー・ヒルでのロケーション撮影。トライトンの隠遁生活。

4. ジーンの邸宅。パーティーが催されているなか、トライトンが現れ、ホイットニーに飛行機に乗らないように警告するよう、ジーンに伝える。

5. ジーンの邸宅。ジーンは長距離電話をかけ、父親のホイットニーに警告を伝えようとするが、ホイットニーはすでに飛び立った後だった。[4.と5.は、数ショットをはさんでいるが継続したシーン]

6. 検察のオフィスのエスタブッシング・ショット。ジーンの婚約者、カーソンが検察にトライトンについて苦情を訴えている。

7. ジーンの邸宅。客間でトライトンと刑事のあいだでやり取りがあったあと、トライトンはホールに出て、階段を上って、ベッドルームに向かう。

実際には、時間的な長さという点では、これらの7つのショットよりも長いショットはいくつもある。それらは、切り返しを使わない会話、モノローグといったシーンだ。リエンツィが挙げたロング・テイクは、カメラが空間を横断して新しいパースペクティブを作り出すという点で印象深いものばかりである。特に4.のクレーン・ショットは修辞的なカメラと演者の動きでパーティの華やかさとトライトンの居心地の悪さがうまく対比されている。トライトンは場違いに感じながらも、ホイットニーに迫りくる危険を防ぐために、長年の沈黙を破って、彼の娘と面会しなければならないのだ。彼が感じる居心地の悪さは、彼に投げかけられる視線や、ウェイターたちの不審そうな一瞥や、トライトン自身の表情によって表現されている。そのそれぞれの要素が、クローズアップされて明示されることなく、むしろ照明の不足のせいで遠目のシルエットだけで示され、観る者の想像力の介入が余儀なくされる。観る側は、シーンに吸い込まれるようにトライトンとともに巨大な邸宅のバルコニーを歩いていく。

『夜は千の目を持つ』では、ロング・テイクがエドワード・G・ロビンソンの演技を際立たせる役目を果たしている。この物語では、トライトンが極めて真摯な性格の持ち主でありつつも、多重に積層する複雑な心理の人物であることを見せなければならない。ロビンソンは、超自然的な力によって、人間的な感情を屈折されているにも関わらず、それでも真剣に愛情を抱き続けている男を演じている。ロング・テイクでは、ロビンソンはその演技の「引き出し」をためらいなく使って、この男を演じている。長いセリフの中で、ほんの少し微笑を混ぜたり、視線を落としたりする、声のトーンやスピードを自在に変化させる、といった映画に特化した演技手法を持ち込んで、難しい役柄に立体的な像を与えた。同じ年に『キー・ラーゴ(Key Largo, 1948)』でギャングのジョニー・ロッコを演じているが、その演技力の幅には驚かされる。

この映画の公開時の評は、否定的なボズリー・クローザーを含めて、ロビンソンの演技を極めて高く評価している。それは、ジョン・ファローのロング・テイクへのアプローチが、ロビンソンの演技の最良の部分を引き出すのに非常に効果的だったのだ。

『夜は千の目を持つ』左からジョン・ルンド、ゲイル・ラッセル、エドワード・G・ロビンソン

バンカー・ヒル

ジーンはトライトンの予言に登場する「夜」を恐れる。「千の目」は夜の空に輝く数々の星を意味しているが、「目」という呼び名は、星に運命の行く末を見られているという恐怖を引き起こす。『夜は千の目を持つ』は全編にわたって夜のシーンが多く、暗い画面にジーンの恐れが浸漬している。

この陰鬱な恐れの情景と対照をなすのが、バンカー・ヒルでのロケーション撮影のシーンだ。真昼の明るい陽光に照らされて、開放的な感触を残す。登るケーブルカーを追いながらカメラは180度近くパンして、有名なエンジェルズ・フライトの風景を広くとらえる。さらに右にパンして今度は階段をおりてくるトライトンを見つける。トライトンは新聞を買って、サンシャイン・アパートメントのバルコニーに登ってくる。

トライトンの部屋は、日中も薄暗いが、エンジェルズ・フライトに面して大きく切られた奥の窓から陽光が差し込み、ケーブルカーが往来する。彼が心の平安を保っていられたのは、このバンカー・ヒルに住んでいた頃だ。「星のもとで死を迎える」というトライントンの予言は、ジーンの死ではなく、図らずも自らの最期を予見していたのだが、この陽光に満ちたバンカー・ヒルの世界は、トライトン自身の運命を暗示していたのかもしれない。

ほら、日の光だ。星はもう出ていないよ。トライトン 『夜は千の目を持つ』

エンジェルズ・フライトは、1940年代以降、ロサンジェルスを舞台とした映画(特にフィルム・ノワール)に頻繁に登場する場所だ。『裏切りの街角(Criss Cross, 1948)』、『暴力行為(Act of Violence, 1948)』、『キッスで殺せ!(Kiss Me Deadly, 1955)』など、ロサンジェルスのいかがわしい界隈を見せたいときには必ずと言っていいほど現れる。その周辺のバンカー・ヒルも日本でいうドヤ街のような位置づけで映画のロケーションとして非常によく使われる。『犯人を逃すな(Cry Danger, 1951)』、『脱獄者の叫び(Cry of the Hunted, 1953)』、『俺の拳銃は早い(My Gun Is Quick, 1957)』など、おそらく他にもたくさんあるだろう。

バンカー・ヒルが、心に平安を与える場所として描かれるのは比較的珍しい。多くの場合は、犯罪が多発し、貧困に蝕まれた町として描かれる。この時代に、バンカー・ヒルの特徴を最大限利用した作品として、ジョセフ・ロージー監督の『M(1951)』がある。フリッツ・ラングが1931年に監督した作品のリメイクだが、ラングのオリジナルがほぼすべてスタジオで撮影されたのに対し、ロージーのリメイクはロケーション撮影の魅力を最大限に活かしきって、全く違った印象の作品を作り上げている。

『M(1951)』ジョセフ・ロージー監督

おぼつかない足取りで歩く年寄り、生活に疲れた様子の母親、ぶっきらぼうなアパートの管理人、ギャングの手下となって走り回る不良少年たち、ギャングの情報収集の動脈となるタクシー運転手たち、そういった人たちが蠢く町が、『M』に登場するバンカー・ヒルなのだ。だが、このいかがわしい場所は、トライトンのバンカー・ヒルと矛盾しないのかもしれない。むしろ、トライトンの部屋の窓の向こうでは、このような世界が広がっているのかもしれない。『拾った女』のモーの部屋を髣髴とさせる。モーの住む土地もいかがわしく、嘘や暴力があふれている。しかし、モーにとって彼女の部屋は最後の静寂の場所だった。レコードをかけ、身体の痛みを休める場所。かつてバンカー・ヒルには年老いた年金生活者が多く住んでいたことを思うと、『夜は千の目を持つ』のトライトンの世界は決して現実離れしていたわけではない。

エンジェルズ・フライトは一度廃線となり、その後場所を変えて復活した。多くの観光客が訪れる場所だ。フィルム・ノワールの舞台として、その香りを残しているとでも言いたげだ。だが、もちろんそこには胡散臭さも、いかがわしさも、疲弊した都市のなれの果ても残っていない。『ボッシュ(Bosch, 2018)』では殺人の舞台としてエンジェルズ・フライトが登場するが、もはやそこには『虚しき勝利(Hollow Triumph, 1948)』のどす黒いケーブルカーは存在しない。遊園地のアトラクションのような場所で殺人事件を真剣な顔で捜査されてもしらけるばかりだ。今の時代には、今のバンカー・ヒルが必要なはずである。

Links

TCMのサイトでは、ジェレミー・アーノルドがエッセイを寄せている。特に前半の出来を称賛している。

『夜は千の目を持つ』バンカー・ヒル

Data

パラマウント・ピクチャーズ配給 1948/10/13公開
B&W 1.37:1
81分

製作エンドレ・ボーム
Endre Bohem
出演エドワード・G・ロビンソン
Edward G. Robinson
監督ジョン・ファロー
John Farrow
ゲイル・ラッセル
Gail Russell
脚本バレ・リンドン
Barre Lyndon
ジョン・ルンド
John Lund
脚本ジョナサン・ラティマー
Jonathan Latimer
ヴァージニア・ブルース
Virginia Bruce
原作コーネル・ウールリッチ
Cornell Woolrich
ジェローム・コーワン
Jerome Cowan
撮影ジョン・F・サイツ
John F. Seitz
編集エダ・ウォレン
Eda Warren
音楽ヴィクター・ヤング
Victor Young

References

[1] W. Deverell and G. Hise, A Companion to Los Angeles. John Wiley & Sons, 2010.
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[4] J. Tuska, Dark Cinema: American Film Noir in Cultural Perspective. Greenwood Press, 1984.
[5] S. M. Sanders, “Film Noir and the Meaning of Life,” in The Philosophy of Film Noir, M. T. Conard and R. Porfirio, Eds. University Press of Kentucky, 2007.
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[11] C. Woolrich, Nightwebs. Orion, 2002.
[12] B. Brubaker, Stewards of the House: The Detective Fiction of Jonathan Latimer. Popular Press, 1993.