My Name Is Julia Ross

コロンビア・ピクチャーズ配給
1945

私は自分の映画の一コマ一コマ全てに自分の名前を刻み込んだ

ジョセフ・H・ルイス

Synopsis

求人広告に応募したジュリア・ロス(ニナ・フォッシュ)は、ヒューズ夫人(デイム・メイ・ウィッティ)の個人秘書の職を紹介される。ロスはヒューズ一家の豪邸に住み込むことになるが、到着してすぐに薬を飲まされて意識を失う。目が覚めると、ロスはヒューズ夫人の息子ラルフ(ジョージ・マクレディ)の妻、マリオンだと告げられる。ヒューズ家の者たちは、ジュリア・ロスという女性はまるで存在しなかったように振る舞い、自分はマリオンではないと言いはるロスを精神衰弱に陥っていると言い始める。ロスはヒューズ家から逃亡を企てるが、ラルフとその使用人たちに阻まれて外界とも連絡がとれない。そして、ヒューズ一家の狂気の計画があきらかになっていく。

Quote

ラルフどうしてこの女を助けるんだ?このまま死なせればいいじゃないか。ちょうど都合がいいじゃないか。
ヒューズ夫人バカを言うんじゃないよ。この女、毒を飲んだんだから、こっちも心配しているふりをしないとダメじゃない。

Production

コロンビア・ピクチャーズとフィルム・ノワール

コロンビア・ピクチャーズの製作を統括していたハリー・コーンは、<コスト最優先>の経営方針を徹底したマネージメントで有名だった。スターも監督も長期契約は結ばず、経営陣の給料も業界標準より低く設定し、帳簿を厳密に記録し、独立系プロデューサーの作品を優先し、どの流行を追いかけるかを吟味した[1]。1940年代から50年代のコロンビア・ピクチャーズが、他のスタジオの<フィルム・ノワール>作品との関係において、どのようにその作品を変貌させていったかという問いは、一筋縄ではいかない。一方では、コロンビアのプロデューサーたちは、当時急激に流行り始めた、心理的に歪曲し、かつ性的執着が前面に押し出された物語をすぐには追従しなかった。彼らの作品は、保守的で1930年代のプログラム・ピクチャーの典型的な領域からはみ出ることはなかった。さらに、20世紀フォックスのセミドキュメンタリースタイルの作品や『裸の町(The Naked City, 1948)』などのネオ=リアリスト映画の手法にも消極的だった。その一方で、印象的なキアロスクーロやローキーの撮影技法を駆使して劇的なビジュアルを見せることには大胆に取り組んでいた。コロンビア・ピクチャーズのフィルム・ノワールのフィルモグラフィについて論じたJ・P・トレッテは、『私の名前はジュリア・ロス』がコロンビア・ピクチャーズの初めてのフィルム・ノワールだと述べている。しかし、視覚的な側面から言えば、<ローン・ウルフ>シリーズの『防諜(Counter-Espionage, 1942)』や『スエズへの旅券(Passport to Suez, 1943)』、<ウイッスラー>シリーズの『ウィスラー(The Whistler, 1944)』などに登場する極端なローキーのシーンは、物語の想像力を膨らませる優れた役割を果たしている。もし、ドイツ表現主義がフィルム・ノワールの想像力に影響を与えたと仮定するならば、『怪人マブゼ博士(Das Testament des Dr. Mabuse, 1933)』のなかのそのままのシーンがアンドレ・ド・トス監督の『スエズへの旅券』には登場する点は見逃せないだろう。では、これらの作品をフィルム・ノワールと呼んでいいのだろうか?よいとも言えるし、よくないとも言える。テーマと物語構造に関して言えば、これらの映画は原作となるラジオ・シリーズの典型的なミステリにかなり忠実であり、また心理的、性的次元は極めて平板だ。そういった点から考えると、『私の名前はジュリア・ロス』はコロンビア・ピクチャーズの転回点であるのは間違いない。

『スエズへの旅券(1943)』アンドレ・ド・トス監督

コロンビア・ピクチャーズのフィルム・ノワールのフィルモグラフィを考える上では、長いあいだ影響を与え続けた外的要因を考慮する必要がある。それは大部分が経済的な要因だ。 現代の都市を舞台にした作品が大半で、時代に即したセットや衣装を必要とせず、さらに夜の場面が多いため、ローキーで撮影でき、セットは最小限で構わない。また現代の出来事を題材にし、新聞や雑誌の記事から映画化のネタを探してきていた。さらに少人数の人間関係に重きをおいたストーリーを採用し、キャストの人数を減らすことを目論んだ。こういった点がコロンビア・ピクチャーズの作品の性格を形作っていった。

この製作方針は1940年代のあいだはコロンビア・ピクチャーズで支配的であった。例えば、ロバート・スティーブンソン監督、ディック・パウエル主演の『世界の果てまで(To the Ends of the Earth, 1948)』はアヘンの密輸組織を財務省の麻薬捜査官が追う典型的なセミ・ドキュメンタリースタイルの作品だが、20世紀フォックスやイーグル・ライオンの同様の作品と違ってほぼ全編セットで撮影されている。こういった製作費に関して極めて神経質な状況下で『私の名前はジュリア・ロス』は製作された。

製作を担当したのはウォレス・マクドナルド(1891-1978)、オーストラリア出身の俳優、プロデューサーである。サイレント期にハリウッドで俳優としてデビューし、1932年に引退するまで120本以上出演している。その後、脚本家、さらにプロデューサーに転身し、コロンビアで100本以上の映画をプロデュースする。『私の名前はジュリア・ロス』は彼が1946年に製作した6本のうちの1本である。

女性ライターたち

『私の名前はジュリア・ロス』の原作者のアンソニー・ギルバート(Anthony Gilbert)は、本名ルーシー・ベアトリス・マレソン(Lucy Beatrice Malleson, 1899-1973)という女性作家である。イギリス、ロンドンの生まれで、俳優・作家のマイルス・マレソンのいとこにあたる。アン・メレディスの筆名でも執筆していた[2]。アンソニー・ギルバートの名で60以上の本を執筆、弁護士アーサー・クルックのシリーズが有名である[3]。『私の名前はジュリア・ロス』も<アーサー・クルック>シリーズのなかの一篇「The Woman in Red」という作品が原作である。2017年に「Portlait of a Murderer」が英国図書館の「Crime Classics」シリーズから再版され話題となった。2019年にはやはり「Death in Fancy Dress」が再版されている。

脚本を担当したのはムリエル・ロイ・ボルトン(Muriel Roy Bolton, 1908-1983)という、やはり女性作家である。シカゴ生まれ、イリノイ大学アーバナ=シャンペーン校卒で、1940年にはソーダ・コクロフト(シアター・ギルドのシカゴ・マネージャー)に脚本”Very Liberal Arts”で認められ、この作品はウィスコンシン州オコノモウォックのコーチ・ハウス劇場で舞台上演された[4]。1941年にはパラマウントと契約、<ヘンリー・アルドリッチ>シリーズを手掛ける。1944年にコロンビア・ピクチャーズの仕事を請け負うようになり、『私の名前はジュリア・ロス』の脚本を担当した。原作に登場する弁護士アーサー・クルックの役はすっかり削除して主人公を女性に変更、物語の焦点を囚われたジュリアとサディストのヒューズ親子に仕立てた。ボルトンは、その後1950年代にTV番組の脚本の仕事に移り、人気番組「ザ・ミリオネア(The Millionaire, 1955 – 1960)」では計38話の脚本を書いている[5]

ジョセフ・H・ルイス

監督のジョセフ・H・ルイスは<B級映画のキング>、<B級ノワールの代表格>として高く評価されている。彼が『私の名前はジュリア・ロス』を監督するまでの経緯をここで追っておこう[6], [7]

ニューヨーク市生まれ。1920年代に俳優になろうとハリウッドに来る。MGMにいた彼の兄のベンの助けでカメラ・ローダーとして働き始め、その後、その兄のもとで編集の作業の手伝いを始めるようになる。1930年代にはポヴァティ・ロウのマスコット・ピクチャーズ(後のリパブリック・ピクチャーズ)に移り、そこで編集部の部長になる(マスコット・ピクチャーズの重役は兄のベンと勘違いしたらしい)。しかし、ルイスはハリウッドで優秀な編集者を高給で呼び寄せ、みずからは一切編集作業に関わらなかったという。その代わりに、映画のオープニング、タイトルやキャストのシーケンスを独特なアプローチでつくっていた。

例えば、『House of a Thousand Candles (1936)』のことははっきり覚えている。巨大なキャンデラブラ(燭台)を手に入れて、いろんな照明効果を使いながら俳優たちに家のなかを歩かせ、登場人物を紹介したんだ。

ジョセフ・H・ルイス

しかし、監督になることが目標だったルイスは、リパブリックにいてもその機会が訪れないのではないかと思うようになる。当時、リパブリックからユニバーサルに移籍したプロデューサーのトレム・カーに呼ばれ、ユニバーサルで6本の西部劇を監督する契約を結ぶ。どれも1週間ほどで撮影を仕上げなければいけないような低予算映画だった。そんななかでもルイスは常に視覚的に面白い映画にしようと企んでいた。その有名な例が、馬車の車輪を前景においた構図である。きっかけさえあれば、車輪をカメラの前において、その向こうでアクションがあおきるという構図を好んだために「ワゴン・ホィール・ジョー」と呼ばれるようになった。

数年後のことだけれど、プロデューサーがやってきてこんなことを言うんだ。「いいか、本部オフィスの連中は、今度馬車の車輪を使ったら首締めるぞと言っていたぞ。」

ジョセフ・H・ルイス

ルイスのフィルモグラフィーには不自然な空白がある。1938年の4月にユニバーサルで『The Last Stand (1938)』を発表したのち、次の『Two-Fisted Rangers (1939)』が1939年12月に公開されるまで1年半以上監督作がないのである。ルイスはユニバーサルとの6本の監督契約が終了したときに契約更改をしなかったのである。これ以上、この低予算早撮り映画に関わり続けるのは嫌だったのだ。しかし、どこからも声はかからず、無職のまま時が過ぎていた。彼はユニバーサルの編集部トップのモウリー・パイヴァーに編集の仕事がほしいと掛け合う。

「モウリー、仕事をくれよ。僕が編集できるのは知っているだろう。アシスタントでいい。なんでもやるよ、でも仕事がほしいんだ」
でも彼は言ったんだ。
「ジョー、そんなの無理だ。ここで監督をやっていたのはつい1年半前じゃないか」
そう言って机の引き出しから小切手帳を取り出して小切手を切ったんだ。今の今でもあのときの額がいくらだったのか知らない。2ドルだったのかもしれないし、20000ドルだったのかもしれない。彼はその小切手をこっちに寄こして言うんだ。「これをもっていけよ。返せるときに返してくれればいい。」
「モウリー、この小切手は受け取れない。そりゃ、受け取るのは本当に簡単だ。でもいったん受け取ったら、僕が今まで胸を張ってやってきたことが全部台無しになる。仕事をくれ。どんな仕事ならあるんだ?」
「なにもないよ。ここらにあるのは、フィルム缶を運んだり、床掃除をしたりそんなところだ。週35ドルの仕事だよ。」
「それなら僕にもできるだろう?」
「ジョー、そりゃ無理だよ。ここで監督やってたんだぞ。そんなことやっちゃだめだ。」
「生き残るためにも、今は食わないといけないんだ。とにかく息をしていかないといけないし、金を借りるわけにもいかない。やらしてくれ。モウリー、チャンスをくれ、この仕事を辞めるのは監督になるときだから。」

ジョセフ・H・ルイス

ルイスはそれから4ヶ月間ほど床掃除とフィルム運びの仕事をしていた。彼がフィルム缶をもってスタジオをうろついていると、周りの人間は、ルイスが自分の作品で使えるストックフィルムを探しまわっていると勘違いした。彼は「週35ドルで床掃除をしている」と正直にいつも答えていたが、誰一人信じず、ルイスは映画を監督していて、ストックフィルムライブラリを漁っていると思っていた。

1939年の終わり頃にエージェントのミッチェル・ゲッツからコロンビアの仕事を紹介され、ユニバーサルで監督をしていたときよりも悪い給料だったものの、背に腹は変えられなかった。ここでも65分の西部劇を次々と監督した。ルイスはやはり構図や演出で自分の表現を試そうとしていたが、営業側が売出し中の女優アイリス・メレディスのクローズアップばかりを要求するために嫌気が差してやめてしまう。

ハリウッドのスタジオ・ヒエラルキーでコロンビアよりもさらに下のモノグラム・ピクチャーズでイースト・サイド・キッズ主演の映画を3本、ベラ・ルゴジ主演のホラー映画『 幽霊の館(The Invisible Ghost, 1941)』を監督した。

ここで、ルイスはモノグラムよりさらに下のPRCに移って『Criminals Within (1941)』を監督したことになっている。だが、フランシス・M・ニヴェンスがインタビューした際には、ルイスはこの映画を監督したことはないと否定、ニヴェンスが見つけ出してきたプリントをルイスに送ってみたが、やはり監督した覚えはないという。ピーター・ボグダノヴィッチのインタビューではこのあたりは都合よく曖昧にされている。その後、ユニバーサルでジョニー・マック・ブラウン主演の『アリゾナ・サイクローン(Arizona Cyclone, 1941)』、『シルバー・ブレット(1942)』、『ハングタウン・メサのボス(The Boss of Hangtown Mesa, 1942)』、ホラー映画の『マーケット・ストリートのマッド・ドクター(The Mad Doctor of Market Street, 1941)』、PRCで『ビルマの爆撃(Bombs over Burma, 1942)』、『女学生の秘密(Secrets of Co-Ed, 1943)』、『ミンストレル・マン(Minstrel Man, 1944)』とひたすら低予算の最悪な条件のもとに監督をつづけた。

1943年の初頭、35歳のルイスは徴兵され、映画監督として陸軍通信部隊に配属される。ここで彼はM-1ライフルの使用法についての6部構成の訓練用映画を製作する。除隊後、RKOでファルコン・シリーズの『サンフランシスコのファルコン(The Falcon in San Francisco, 1945)』を監督した。

ルイスの釣り仲間だったエイブ・モンタギューがコロンビアの配給の仕事をしており、その縁でコロンビアに呼び戻される。最初は人気のブロンディ・シリーズの監督を頼まれたのだが、ルイスが難色を示し、モンタギューが「じゃあ、ぴったりの脚本がある」と渡したのが「私の名前はジュリア・ロス」の脚本だった。

ルイスによると、『私の名前はジュリア・ロス』は、撮影初日のラッシュ(デイリー)を偶然見たハリー・コーンがその出来に注目し、プログラム・ピクチャーにしては特別扱いになったという。コロンビア・ピクチャーズでは異例の撮影日数の延長も認め、10日の予定が18日まで伸ばされた。

撮影監督のバーネット・ガフィは、この撮影でルイスからの厳しい要望に音を上げそうになる。ルイスはディープ・フォーカスを試そうとし、ガフィは技術的に困難すぎると難色を示した。

僕は、それこそ文字通り無理やりディープ・フォーカスとかやらせたんだ。バーネット・ガフィはガタガタ震えてた。ガフィが「そんなこと無理だよ。いったい誰がそんなこと気にするんだ?後ろと前で焦点があってるなんて。」と言うから、「僕が両方欲しいんだ」と言った。「両方はできない」「何ができないだ!照明を当てて絞れ!」もちろん、そんなにいいものにはならないかもしれないけど、効果を狙えば必ずものになる。バーニーはおそらく僕の要求からたくさん学んだと思うし、僕は紳士として彼からたくさん学んだよ。

ジョセフ・H・ルイス

撮影監督バーネット・ガフィ

バーネット・ガフィ(1905-1983)はアカデミー賞を受賞した『俺たちに明日はない(Bonnie and Clyde, 1968)』や『終身犯(Birdman of Alcatraz, 1961)』、『殴られる男(The Harder They Fall, 1956)』、『地上より永遠に(From Here to Eternity, 1953)』などの作品で有名な撮影監督だが、『私の名前はジュリア・ロス』は彼が撮影監督になって間もない頃の作品である。テネシー州の小さな町エトワで育つ。彼の父親は医者だったが、眼の病気の治療を受けるために専門医を求めて家族でカリフォルニアを訪れた。結局、彼の父親の眼の病気は治療できないことがわかり、医師として生計をたててゆけなくなってしまった。バーネット自身も医学の道を進むことを諦めざるを得なかった。彼はロサンゼルスの大叔父の家に住んで仕事を探し始める。彼自身の言葉によれば「大叔父フレミングの住んでいた家の通りをはさんで反対側に映画スタジオがあって、そこの知り合いに大叔父が話をつけてくれ」て、アシスタント・カメラマンの職を得たという[8]。1923年、バーネット・ガフィが18歳のときだ。スタジオはサイレント期の人気コメディアン、チャールズ・レイが建てたもので、映画は『マイルス・スタンディッシュの交際(The Courtship of Miles Standish, 1923)』、レイがコメディアン脱却をはかった大作である。レイがみずからの資金もつぎ込み、撮影も数ヶ月に及んだこの作品は大失敗、撮影終了後にガフィも含め全員解雇されてしまう。その後、銀行のメッセンジャー・ボーイなどの職を経たのち、再度映画界に就職、ウィリアム・フォックスのスタジオでサイレント期のジョン・フォード作品やフランク・ボゼージ作品を数多く撮影したジョージ・シュナイダーマンのアシスタントとなる。『アイアン・ホース(The Iron Horse, 1924)』の撮影中にジョン・フォードが彼のことを「ユダヤ人のガキ」と呼んだことに対して、「今度そんなことを言ったら頭を叩き割ってやる」とフォードを怒鳴りつけたという逸話もある。ガフィは1930年代に多くの撮影監督のもとでアシスタントをつとめている。ジョン・フォード監督『男の敵(The Informer, 1935)』ではジョセフ・オーガスト、フリッツ・ラング監督の『暗黒街の弾痕(You Only Live Once, 1937)』ではレオン・シャムロイ、 ジョン・M・スタール監督の『忘れがたみ(Letter of Introduction, 1938)』ではカール・フロイント、アルフレッド・ヒッチコック監督の『海外特派員(Foreign Correspondent, 1940)』ではルドルフ・マテ、と多くの優れた撮影監督のもとで積んだ経験は彼のその後の糧になったに違いない。しかし、本人が他の誰よりも多くを学んだと告白しているのはジョン・J・メスコールである。サイレント期からトーキーにかけての数年、メスコールの下で学びつつ、彼のアルコール癖の面倒もみていたようだ。ガフィはメスコールから「シンプリシティ」を教わったという。「1つの照明で済むのなら、3つ使う必要はない」というモットーは、そのままガフィのスタイルである。

1943年にコロンビアで撮影監督に昇格、知り合いのアドバイスで「10日以上の撮影スケジュールのある作品のみ担当する」という文言を契約に入れたおかげで、コロンビアの超低予算西部劇を撮る必要はなかったという。その後、20年以上にわたってコロンビアで撮影監督を続けた。

彼の最大の特徴として挙げられるのが「フラット」なスタイルである。白黒映画でなるべく照明の数を減らし、補助光をほとんど使用せず、カメラをほとんど動かさない、というもので、<グレッグ・トーランドのディープ・フォーカスへの機能的反論>とさえ言われる。コントラストが抑えられ、グレーの領域が画面を支配している。彼のスタイルがはっきりと現れているのはマーク・ロブソン監督の『殴られる男(The Harder They Fall, 1956)』や、エドワード・ドミトリク監督の『狙撃者(The Sniper, 1952)』などであろう。これらの作品では常に街はグレーに覆われていて、コントラストの強い映像から得られるドラマチックな甘美さはなく、乾ききった土地で砂を噛むような、硬質な印象を残す。そういった彼のフィルモグラフィのなかで『私の名前はジュリア・ロス』は若干毛色の違う作品といえる。

フラットな撮影に向かおうとするガフィの傾向は、ジョセフ・H・ルイスのような潜在的にバロックなヴィジュアルを求める監督によって覆されてしまうこともあった。『私の名前はジュリア・ロス』や『夜よりも深い闇(So Dark the Night, 1946)』などがその良い例であろう。

エリック・シェーファー[9]

俳優たち

主演のニナ・フォッシュ(1924-2008)はオランダの南部ライデン市出身。英語の綴りではFochとなっているが、オランダではFock(フォック)、フォック家はオランダでは知られた一族であり、彼女の高祖父がオランダ銀行の頭取、曽祖父がアムステルダム市長、祖父がオランダ領西インドの知事や議員を歴任するなど、多くの政治家を輩出している。彼女の父、ディルク・フォックは祖父の意向に反して音楽の道にすすみ、指揮者、作曲家として活躍した。母親は女優で歌手のコンシュエロ・フラワートンである。フラワートンはハリウッドでルドルフ・ヴァレンティノ/ナジモヴァの『椿姫(Camille, 1923)』に出演している。両親の離婚後、ニューヨークで母親と暮らし、俳優の道を目指し始める。アメリカン・アカデミー・オブ・ドラマティック・アーツで演技を学んだのち、19歳でコロンビアと契約を結んだ。当初は『吸血鬼蘇る(The Return of the Vampire, 1943)』、『狼人間の絶叫(Cry of the Warewolf, 1943)』などのホラー作品に出演していたが、1945年からは『霧の中の逃走(Escape in the Fog, 1945)』、『ジョニー・オクロック(Johnny O’Clock, 1947)』、『ダーク・パスト(The Dark Past, 1948)』、『ジョニー・アレグロ(Johnny Allegro, 1948)』などのミステリー、サスペンスに数多く出演、ウィリアム・ホールデン、ジョージ・ラフトらの相手役をつとめた。『私の名前はジュリア・ロス』はそのなかの一本である。『ジュリア・ロス』に出演した際、フォッシュは「これまで14本の映画に出演したが、これが気に入った最初の作品だ」と新聞に語っている[10]。彼女は「製作部に忍び込んで、準備中の脚本の一部を読んで」気に入り、交渉して役を得たという。確かにこの作品がフォッシュの俳優としてのキャリアの転換点となったのは間違いない。1950年代からはTV番組への出演が増える一方で、別のキャリアを模索し始めた。監督への転身を試みてジョージ・スティーヴンス監督の『アンネの日記(The Diary of Anne Frank, 1959)』で助監督をつとめたが、「二度とやらない」と感じ、その後演技指導の道へ進んだ。

ヒューズ夫人を演じたデイム・メイ・ウィッティ(1865 – 1948)はリヴァプール生まれの舞台俳優、映画俳優である[11]。リヴァプールで舞台デビュー(1881)したのち、ロンドンのウェスト・エンドに移る。1892年に俳優のベン・ウェブスターと結婚するが、体調不良、長男の死産などを経験し、俳優としても行き詰まってしまう。一方、夫のベン・ウェブスターはオスカー・ワイルドの「ウィンドメア夫人の扇」の初演で主演を演じる等、人気の絶頂にあった。夫のツアーに付き合ってアメリカを訪れたときにクリスチャン・サイエンスと出会い、一生信仰を怠らなかった。彼女が45歳になったとき、初めて老婦人の役を演じた(”The Madras House”)。そして70歳になったとき”Night Must Fall”の役が大ヒットして、MGMに呼ばれる。メイ・ウィッティは1937年、72歳の時に初めてハリウッドで映画デビューする(映画自体への出演は1914年から断続的に続いていた)。最も有名な役はアルフレッド・ヒッチコック監督の『バルカン超特急(The Lady Vanishes, 1938)』であろう。『私の名前はジュリア・ロス』出演時には80歳になっていた。長女によれば、メイ・ウィッティは歳を取るほどに元気になり、80歳になっても活発に活動していたという。
「デイム(Dame)」は1917年に第一次世界大戦の支援活動でDBEの称号を与えられたものだ。

音楽

ミーシャ・バカレイニコフ(1890 – 1960)[12]は1890年、モスクワ生まれの音楽家である。革命後にロシアを逃れて上海経由でアメリカへ移住。1931年にハリウッドでコロンビア・ピクチャーズの音楽部門に入った。『失はれた地平線(The Lost Horizon, 1938)』では「ダブル・ベース・ヴィオール」を演奏した。コロンビアでは連続活劇も含め、数多くの映画音楽の作曲・音楽監督を担当した。

プレビュー

『私の名前はジュリア・ロス』はロサンゼルス郊外イングルウッドのアカデミー劇場でスニーク・プレビュー上映が行われた[6]。プレビュー上映は、映画のタイトルや出演者名を伏せて上映し、観客の反応をみるシステムである。これは、メジャー・スタジオが予算規模の大きい作品を封切りする前に行うことがほとんどだ。観客の反応を見て、反応が悪ければ再編集や撮り直しもおこなわれる。だが、コロンビアの、しかもプログラム・ピクチャーでプレビューを行うことはまずない。なぜなら、プログラムピクチャーは二本立ての添え物、定額レンタルの作品だから、観客の反応の良し悪しは興行成績にほとんど影響しないからだ(評判が良ければレンタルで出回る期間が長くはなるが、その程度である)。だが、監督のルイスはプレビュー上映をしてほしいと願い出て、おそらくハリー・コーンの意向もあったのだろうが、ロサンゼルスで「最もタフな劇場」でおこなわれることになった。イングルウッドのアカデミー劇場の客層は、クラーク・ゲーブル級のスターが主演の映画でないと満足しないのだ。もちろん、上映の冒頭で『私の名前はジュリア・ロス』「主演:ニナ・フォッシュ」と出た時は、劇場はブーイングの嵐だった。しかしストーリーが始まると観客は静まり返り、最後まで物音一つしなかった。上映後は拍手喝采につつまれたとルイスは語っている。

『私の名前はジュリア・ロス』

Reception

公開前の業界紙の評判は熱狂的とは言えないが、有名スター不在の作品としては好意的な評が数多く寄せられている。

無名のキャストだが、全編張りつめた雰囲気のメロドラマで興行もいいだろう。

Variety

独立系映画館の興行指標としても高い評価が得られている。

アクションのペースはゆっくりで、ねらった効果がでていないところもあったが、全体として話は最初から最後まで興味深い。

Harrison’s Reports

スターがいないという弱点は、宣伝で補う必要がある。

うまく宣伝すれば添え物として☆☆+
最後まで目が離せない心理劇で、演技も演出もよい。ただ、スターが出演していないので、うまく宣伝する必要がある。

Film Bulletin

ジョセフ・H・ルイスの名がすでに「低予算のサスペンスと恐怖」の同義語として現れ始めていた。

『私の名前はジュリア・ロス』をミステリ・ジャンルの注目作として加えておこう。低予算にもかかわらず、ジョセフ・H・ルイスの力のこもった演出が見られる。観客がずっと手に汗握るようなサスペンスと恐怖の映画にかけては、ルイスは非凡な手腕を見せてくれる。

Motion Picture Daily

低予算映画にもかかわらず、撮影監督に言及されているのは極めて異例だ。この作品の映像テクニックがそれだけ突出したものだったことがわかる。

これは異様で奇妙な映画だ。誇張しすぎていると思われる箇所もあるが、それなりに魅力的な側面を備えている。サスペンス満載で、観客は最後まで釘付けになるだろう。バーネット・ガフィの優れた撮影が映画にただものではない雰囲気を与えている。

Motion Picture Herald

ニューヨーク・タイムズのボズリー・クローサーの評価は「失敗作」。

監督のジェセフ・ルイスは不気味な雰囲気を効果的に作り出すことに関しては上手くいっているが、出演者の扱いに関してはそれほど上手くない。それが『私の名前はジュリア・ロス』が失敗している原因だろう。恐怖に陥れられたヒロインのニナ・フォッシュがショックを受けたり困惑しているときの表現がありきたりで、このヒロインをジョージ・マクレディもデイム・メイ・ウィッティも凡庸な演技で支えているだけだ。

New York Times

地方の劇場の実際の興行の評判はあまり良くない。

上映プログラムにミステリ映画を入れたい場合には、この映画は満足の行くものだろうし、観客も喜ぶだろう。だが私達の劇場ではダメ。

ネブラスカ ルウェレン ステート劇場 ハリー・E・ティルグナー

なかなか面白いが、出演者が無名すぎる。

ニュー・ハンプシャー コンウェイ マジェスティック劇場 E・A・ボルドック

とても良いミステリの小品。西部劇と二本立てにした。

オハイオ マッカーサー ヴィントン劇場 マルチェラ・スミス

いつもどおりの結果。40%減。私のところの観客はこういうミステリー=ホラー映画は絶対に見に来ない。宣伝しても何をやっても、こういう映画が面白いとは思ってくれない。『リオグランデの南』と二本立て。

ウィスコンシン コーネル ゲム劇場 カール・M・ハルバート

吉田広明の「B級ノワール論」に『私の名前はジュリア・ロス』はB級として作られ、「当初その扱いで公開されながらも、評判が高かったこと、併映作品が不人気だったこともあって、地方ではこちらが本編のA級として公開された」とある[13]。具体的にはどういうことだろうか。

公開当初、1945年11月から12月にかけて、『私の名前はジュリア・ロス』の併映作品(この場合『私の名前はジュリア・ロス』が添え物作品の位置づけだから、メインとなる作品)は、ロサンゼルス、サンフランシスコではアレキサンダー・ホール監督、ロザリンド・ラッセル主演の『イエスと言わない彼女(She Wouldn’t Say Yes, 1945)』、シカゴではウォルター・ラング監督『ステート・フェア(State Fair, 1945)』である。ニューヨークでは、公開当初はタイムズ・スクエアにほど近いアンバサダー劇場1)で単独公開だった。

『イエスと言わない彼女』はロサンゼルス、サンフランシスコともに2週間ホールド・オーバーしているし、『ステート・フェア』も決して不調だったわけではない。ただどちらの興行もそのあとにビング・クロスビーの『聖メリーの鐘(The Bells of St. Mary’s, 1945)』と『ハリウッド宝船(Duffy’s Tavern, 1945)』がそれぞれ上映されている。劇場側からすれば、クロスビーの映画のほうが圧倒的に人気があり、大ヒットでもない限り興行を打ち切ってクロスビー作品に切り替えるのは当然だったのだ。都市部では併映作品の不人気と言うよりは、ビング・クロスビーに押し出されたというのが本当のところだろう。

また、地方の興行はどうだったのか。例えば、ケンタッキー州では、1945年11月に『イエスと言わない彼女』と『私の名前はジュリア・ロス』の二本立てで始まり、2週間のホールドオーバーののち、ルイスヴィル、レキシントンなどの独立系映画館で周回上映が数ヶ月にわたって間歇的につづく。この周回上映では『私の名前はジュリア・ロス』が二本立てのトップになることもあれば、ボトムになることもあり、トップになる場合は、どれもかつてルイスが監督していたようなポヴァティ・ロウの西部劇がボトムに添えられていた2)。決してメジャースタジオの映画がボトムになるというような序列が逆転が起きたわけではない。しかも興行自体は長くて3日ほどのもので、土曜のマチネーの前にスクリーンを埋めるという意味合いが強い。他の地方(例えばテキサス、ノースカロライナ、モンタナなど)で、しかも人口の少ない町での上映は、二本立てとならずに単独上映3)が多いが、これもほとんどが2~3日の上映である4)。興味深いのはフィラデルフィアの興行で、1946年の中頃に一挙に7館ほどが『私の名前はジュリア・ロス』を上映、二本立ての場合はトップ、ボトムいずれもあり、単独上映館もある。しかし、これもほとんどが2日間の上映であった。いずれにせよ、『黒い天使』の分析でみたように、出来の良い低予算作品(定額レンタル作品)の扱いとして、独立系劇場で二本立てのトップとなることはあるが、数日の興行で終わるというパターンを踏襲している。

Philadeliphia Inquirer 1946/3/17 黄色くハイライトしている劇場で『私の名前はジュリア・ロス』を上映している

他のスタジオと違って、RKOとコロンビアは過去の映画のライブラリを積極的にTVにリースした。コロンビアの場合はハリー・コーンの甥のラルフ・コーンがスクリーン・ジェムズという子会社を運営してTVのコマーシャルや番組制作に乗り出しており、TVというメディアに対抗意識を燃やすことなく、新しいビジネスの一翼と考えていたようだ。1956年には、このスクリーン・ジェムズを通して1947年以前のコロンビア映画作品をTVネットワークにリースし始めた[14]。『私の名前はジュリア・ロス』は1960年代からTVの映画枠に頻繁に登場している。

『私の名前はジュリア・ロス』は1955年3月にNBCの人気TV番組「ラックス・ビデオ・シアター」でTVドラマ版が製作・放映された[15]。ジュリア役はビヴァリー・ガーランド、ヒューズ夫人をフェイ・バインターが演じている。

1970年代に入り、『私の名前はジュリア・ロス』はバークレーのパシフィック・フィルム・アーカイブなどを中心にリバイバル上映が行われ、再発見されていく。1975年に出版された「Kings of the B’s」でジョセフ・H・ルイスが<B級映画の巨匠>として取り上げられ、認知度が一気に高まった。

『女学生の秘密』にみられた芸風が、ここではサスペンス演出に巧みに活かされており、信頼の置ける役者達(ニナ・フォッシュ、ジョージ・マクレディ、デイム・メイ・ウィッティ)が出演しているおかげで、彼のキャリアで初めて人間関係の感触がある程度上手く表現された作品となった。

マイロン・マイゼル[16]

ルイス作品の作家的分析の起点となる作品であり、この後の『夜よりも深い闇』とともにコロンビア時代の成功作として広く認識されている。

この作品は(ルイスの)コロンビア、そして撮影監督ガフィとの長い付き合いのはじまりである。職業斡旋所の壁に映る雨のなかのジュリアの影のオープニング5)やコーンウォールでジュリアが目を覚ましたときの部屋のなかの360°パン6)が有名だ。さらに、ルイスの映画の中心人物が常に「暗く、ガラスを通して」見るという、世界をとらえる主観的視点としての「窓」の使用は、その後のルイスで頻繁に現れるモチーフとなる。

ボブ・ポーフィリオ[17]

Analysis

ゴシック・ノワール

この映画自体の大部分は、ジュリアのくじかれたロマンティックな希望や願望のシュールな表れと見ることができると言っても良い。

マルリサ・サントス[18]

1940年代には、18~19世紀のゴシック・ロマン文学の流れをくむ小説を原作とする映画が数多く製作された。この潮流がフィルム・ノワールとハイブリッドを形成してサブジャンルとなったとされ、これらの作品群を<ゴシック・ノワール>と呼ぶことがある[19]。<ゴシック・ノワール>はアルフレッド・ヒッチコック監督の『レベッカ(Rebecca, 1940)』がその嚆矢とされ、『断崖(Suspicion, 1941)』、『ガス燈(Gaslight, 1944)』、『らせん階段(The Spiral Staircase, 1946)』など<女性主人公が心理的に追い詰められる物語>が多いのが特徴的だ。一方で『地下室の狂人(Among the Living, 1941)』、『黒い河(The Dark Waters, 1944)』のように南部を舞台とした<サザン・ゴシック>も登場し、『狩人の夜(The Night of the Hunter, 1955)』や『恐怖の岬(Cape Fear, 1962)』を経由して現在も人気のあるサブジャンルとなっている。

『私の名前はジュリア・ロス』は、前者の<精神的に追い詰められる女性の物語>に分類されるであろう。『レベッカ』では夫の前妻の存在が主人公にのしかかっていくが、ここではラルフ・ヒューズの殺された妻にジュリアがはめ込まれていく。その一方で『ガス燈』のように嘘で塗り固められた現実がジュリアの精神状態を追い詰めていく。主人公が能動的に行動する自由を奪われ、さらには思考し判断する自由も奪われていく過程は、この種のゴシック・ノワールの定石だ。

この物語はアーサー・コナン・ドイルの「シャーロック・ホームズの冒険」におさめられている「ぶな屋敷(The Adventure of the Copper Beeches, 1892)」を彷彿とさせる。ホームズの冒険譚は、「ぶな屋敷」に住む夫婦に雇われた家庭教師のバイオレット・ハンターが、そこで出会う奇怪な出来事を不審に思ってシャーロック・ホームズに相談するところから始まる。彼女は雇い主夫婦から一見無害で他愛のない要求をされ、それに応じていたが、悪辣な雰囲気を嗅ぎ取っていた。自分のものではないドレスを着て窓のそばに座るように指示されたり、凶暴な犬が敷地内で飼われていたり、館の別の棟に人が幽閉されている気配がしたり、と妄想なのか現実なのかはっきりしない不安をハンターが抱き始める。結局、ホームズの活躍によって、ぶな屋敷の夫婦は前妻とのあいだの娘が莫大な遺産を相続するのを横取りしようとしてたことが明らかになる。バイオレット・ハンターはその娘の身代わりだったのだ。

『私の名前はジュリア・ロス』は、『レベッカ』や『ガス燈』などの先行するゴシック・ノワールの流れをくんでいるようにも見えつつ、「ぶな屋敷」との共通点を多く見出すことができる。まず、主人公は「妻」ではなく、「働く女性」として物語に関わっている点だ。ホームズの物語のハンターのほうは、家庭教師の紹介所を通してぶな屋敷に雇われるのだが、その時に「外見」が重要な判断材料になっている。紹介所でハンターが屋敷の主人ルーカッスルと面接をするが、その際の会話が家庭教師の面接としてはいささか不自然なのである。ハンターが自分の教養についてやや謙遜気味に「深くはない」と答えると、ルーカッスルはそんなことは「問題外」とさえ言うのである。

『いいえ、教養とおっしゃいますけれど、そんなに深くはございません。フランス語がすこし、ドイツ語がすこし、それに音楽と絵のほうは─』

『いや、いや、いや、そんなことはまったく問題外ですわい。肝心なのはあなたの風采態度に淑女としての品位が備わっているか否かじゃ。』

ぶな屋敷(「シャーロック・ホームズの冒険」延原謙 訳)

さらに、ルーカッスルは彼女に「髪を短く切るように」と強く要求する。それができないと雇えないとさえ言うのである。

一方、『私の名前はジュリア・ロス』では、「身寄りがないこと」が最大の条件として提示される。

職業斡旋書の女家族と同居していますか?
ジュリア・ロスいいえ、家族はいません。
職業斡旋書の女夫は?彼氏は?
ジュリア・ロスいいえ、いません。
職業斡旋書の女本当?
ジュリア・ロスもちろんです。

このときのジュリアは、自分には身寄りがいないことをまるでセールスポイントでもあるかのように強く主張する。職探しの面接で、いかに自分を売り込むか、自分こそ求人票が求めている人材である、と意気込んでしまう立場の弱い人間の心理がよく表れている。このあと、紹介所の女は「就職するために嘘をついているんじゃないでしょうね」と侮辱的なことさえ言うのである。

職を求めている者が、適性ではなく外見や家系、既婚か未婚か、などで選ばれる。このような不当な扱いは、当時(そして今でも頻繁に)多くの女性が経験したに違いない。女性が求職者の場合、「結婚して辞められると困る」などと陰で言っている人事担当者を見たことがある人は少なくないだろう。「ぶな屋敷」の面接も、『私の名前はジュリア・ロス』の面接も、その後に起きたことを考えると奇怪な質疑応答なのだが、実はそれほど非現実的なことではないのだ。

どちらもケースも住み込みの仕事であり、家庭のなかの「妻」の代役を押し付けられるという設定のために、<家庭内における女性>という物語として読解できる一方で、<代役としての職業女性>の物語ともとらえることができる。雇用主が、外見が好ましいとか、未婚で若い、といった欲望の対象として、あるいは、恋人、妻、子、その他もろもろの存在の代替として女性を雇用するという行為のメタファーを、この物語にみるのは一つの読解として成り立つだろう。「ぶな屋敷」のルーカッスル夫妻が求めたのは<自分たちの言うことを聞く子供>だ。様々な指示に従って言われたとおりに実行し、相続する遺産もすべてこの夫妻に喜んで譲るような娘だ。ハンターはその代替の娘となり、言われたとおりに振舞う。実際の娘は命令に従わないので閉じられた棟に幽閉され、社会的に、精神的に抹殺されてしまっている。『私の名はジュリア・ロス』のヒューズ母子は、あきらかにフロイトの言う「オイディプス・コンプレックス」、つまり子供と異性の親の性的関係が示唆されている。ラルフは日本でよく言われる「マザコン」であり、彼の暴力性はそのコンプレックスのねじ曲がりから発達したもののように描かれている。ジュリアはそのあいだに立ちはだかる、ラルフの妻、すなわち<邪魔者>として雇われる。最初の本当の妻はラルフによって殺され、もう一度その殺人を成就するためにジュリアが呼ばれたのだ。ラルフは母親との関係を遂げられないために、その代替として自分の妻を殺し続けているのである。

もちろん、どちらの物語も遺産が目当てという名目は与えられているものの、家族のなかの依存関係が下敷きになっている。1940年代、アメリカの知識人はフロイトの精神分析に強い影響を受けた。『私の名前はジュリア・ロス』が、コンプレックスと暴力の赤裸々な暴露になっているのも、そういった背景があると考えてよいだろう。

だが、雇用主のねじ曲がった欲望成就のための対象として雇われた労働者はたまったものではない。女性が、雇用のなかで職能ではなく性的対象として扱われることは今でも続いている。雇用主との直接的な関係だけでなく、企業の規則の中に埋め込まれていたり、サービス業の顧客との関係の中に表出したりすることもある。なにも性的対象だけではない。雇用関係やヒエラルキーのなかで娘や息子の代替のように扱われることもあれば、雇用主やその周囲の自己実現のために利用されることもある。ジュリア・ロスのように面接で必要以上に相手に合わせてしまって、のちのち後悔した経験がある人は少なくないだろう。この映画が1945年に登場したのは、第二次世界大戦中、多くの女性が数多くのさまざまな職場に進出し、自立を目指して自らの職務能力というものを考えるようになったことと無縁ではない。原作では主人公の女性は男性弁護士に救い出されるが、脚本ではその男性弁護士の存在が省かれている。たしかに映画でもジュリア・ロスを救出するのは、彼女のボーイフレンドだが、彼がどのようにしてジュリア・ロスの救出を成し遂げたかというプロセスはまったく描かれていない。突然、警察が現れて事態が一転してものの数分で収束してしまう。男性による救済を称揚することは忌避されているのだ。

フィルム・ノワールに登場する<ファム・ファタールではない女性>について論じたビーゼンは、初期ゴシック・ノワールの<犠牲者としての女性たち>、すなわち『レベッカ』の「わたし(ジョーン・フォンテイン)」や『断崖』のレナ(ジョーン・フォンテイン)、『ガス燈』のポーラ(イングリッド・バーグマン)らの、受動的な<妻>としての描写と、作品の製作体制とのあいだに相関関係が存在していたと指摘している[20]。特にジョーン・フォンテインとデヴィッド・O・セルズニックの関係がセルズニックによる強力な権力支配だった事実に言及し、『レベッカ』と『断崖』の作品の性格に影を落としたと述べている(確かに、フォンテインに対して「私がお前を拾わなかったら、今頃お前はコロンビアの低予算西部劇にしか出演できていないだろうし、それが本当はお前にお似合いだということはハリウッド中が知っている」と書き送ったり、ヒッチコックに対して「フォンテインを発見したのは自分だなどと露も思うな」と釘をさしたりするあたりは、極めて異様である)。そして、その後の『ミルドレッド・ピアース』、『ギルダ』に登場する女性たちが、ミルドレッドは職業において突出した能力を持つ女性として、ギルダは解放された性の実践者として描かれている点に注目し、それらの背景に製作における女性の存在を指摘している。『三つ数えろ』においては脚本のリー・ブラケット、『幻の女』においては製作・脚本のジョーン・ハリソン、『ミルドレッド・ピアース』においては脚本のキャサリン・ターニー、そして『ギルダ』は製作のヴァージニア・ヴァン・アップが、その描写に多大な影響を与えたというのだ。その視点から考えると、『私の名前はジュリア・ロス』も原作者、脚本ともに女性であり、それがジュリア・ロスという職業女性の視点を生んだという議論になるだろう。

だが、そのような<製作時の女性の存在>と<登場する女性の描写>を直線的に結びつけるのは少しためらわれる。現在の映画製作現場におけるジェンダー不均衡へのカウンターとして、さまざまなジェンダーの積極的な参加を政治的な意図をもって主張することはおおいに賛成だが、過去の作品の批評に製作関係者のジェンダーを直接的に投影するのはいったん躊躇したほうがよいと思う。『ミルドレッド・ピアース』でみたように、キャサリン・ターニーの脚本はその後大きく変更されているし、『三つ数えろ』のタクシー・ドライバーから古書店店員、そしてヴィヴィアン(ローレン・バコール)の存在をリー・ブラケットに帰属させるのはいささかやりすぎではないだろうか。『ギルダ』にしても、ヴァン・アップがギルダ(リタ・ヘイワース)の創造に大きく寄与したのは事実としても、あの作品をさらに複雑なジェンダーの物語に仕立てたのは他の出演者や監督の力学による部分も大きい。『幻の女』と『ミルドレッド・ピアース』については原作のもつ性格も無視できない。『私の名前はジュリア・ロス』も、原作、脚本の寄与を矮小化することなく、一方で様々な想像力の力学が働いた結果として「働く女性の悪夢」のグロテスクなデフォルメととらえていくほうがよいのではないか。

だが、この作品は同時に「働く女性の夢」の終焉をも描いている。ラストはジュリアの救出に一役買ったデニスとジュリアが結婚するという未来を示唆して終わる。不自然に糊塗されたハッピーエンディングを、フィルム・ノワール研究者のノラ・フィオーレは「この映画さえ破ることができない<家庭生活>という監禁」と呼んだ[21]。このエンディングと、さらにオープニングのデニスとジュリアのやりとりから作品全体を再度照らし直すと、この物語が<ジュリアのくじかれたロマンティックな希望や願望のシュールな表れ>と見えてしまうのである。女性にとって「職につく」というのは、「妻になる」の代替でしかない、という戦時中の女性の社会への進出を無効にするようなメッセージがしのばされているともとれる。

ルイスの焦点

この物語をジョセフ・H・ルイスはどのように演出したのか。

ルイスは影響を受けた監督として、ウィリアム・ワイラーを挙げている。特に『月光の女(The Letter, 1940)』のあるシーンについては、非常に深く感銘を受けたようだ。

彼の監督したシーンのなかで私が特に影響を受けたのは、ベティ・デイヴィスの演じるすごく劇的なシーンだ。彼女が窓のそばに歩いていく。カメラはそのまま、その場面のあいだずっと彼女の背中を撮り続けているんだ。観客が感情移入できるようにね。

ジョセフ・H・ルイス

この手法───そのシーンで最も焦点が当たっている人物の表情を見せない───と、ルイスが頻繁に使うもう一つの手法───登場人物たちが視線を合わせない───が、『私の名前はジュリア・ロス』では効果的に使用されている。

まず、この作品の映像を分析する上で留意しておかなければいけないことがある。この作品は長いあいだ画質の悪いプリント、それから起こされたビデオが流通していた。私も含めて多くのファンはそのような映像でこの作品を見てきたかもしれない。現在でもそのようなビデオ(DVD)が売られている。しかし2019年にArrow Academyから発売されたブルーレイで見ると、そのような画質では多くのことを見逃していたことが分かる。最も驚くのは、焦点深度が意外にも浅く、映っている登場人物たちのすべてには焦点があっていないシーンが多々ある点だ。それまでは、ピントが甘いと思っても、それが撮影に起因するものなのか、それともプリントに起因するものなのかはっきりしなかった。ブルーレイの映像によって撮影時にピントが合っていない場合があったのだと明らかになった。これは、撮影中のジョセフ・H・ルイスとバーネット・ガフィのやり取りと照らし合わせて考える必要があるだろう。ルイスはディープ・フォーカスでシーンを撮ろうとしているにも関わらず、ガフィがそんなことはできない、と言っていた。代表的なシーンとして、ジュリアがヒューズ夫人と面接をしている場面を見てみたい。カメラは喋っているヒューズ夫人をとらえているにも関わらず、ヒューズ夫人は明らかにピントが甘く撮影されている。むしろ、後ろ向きに映っているジュリアの髪から肩にピントが合っている。推測だが、ルイス監督はジュリアの後ろ姿とヒューズ夫人の顔の両方に焦点を合わせたかったはずだ。だが、撮影監督のガフィはそれが困難だと判断し、結局ジュリアの後ろ姿に焦点を合わせることで妥協したのだろう。では、なぜ困難だったのだろうか。「照明を当てて絞れば良い」ができなかった───照明機材が足りなかった、時間が足りなかった、などの理由が考えられるが、それよりも優先されるべき事柄があったのだろう。『私の名前はジュリア・ロス』が他の低予算映画と比べて圧倒的に傑出している点は、全体的に統一のとれた映像になっていることだ。物語の大部分はジュリアが幽閉される部屋で進んでいくが、この部屋の照明は細かく設計されていて、照明のコンティニュイティもほぼ崩れていない。ジュリアがカーテンを開ければそれだけ明るくなるし、夜の暗さはジュリアの顔やシルエットがはっきり捉えられるギリギリのところまで落として、そこからぶれないで維持される。戸外に出れば、開放感が溢れ出る明るさが画面を洗い流し、クライマックスの海岸ではデイ・フォー・ナイトの撮影がみごとに統一感をもっている。この時代の低予算映画でよく見られる「この部屋はこんな明るかっただろうか」とか「さっきまで夜だとおもっていたが」といった違和感がまったくないのだ。その統一感を維持するためには、焦点深度のラティテュードを多少犠牲にしても仕方がない───そういった妥協があったのではないかと推測する。

『私の名前はジュリア・ロス』ヒューズ夫人にフォーカスが合っていない

そんななかでルイス監督はどのようにアプローチしたのだろうか。彼のアプローチが最も効果的に表れているシーンとして、ジュリアがヒューズ家の門からメッセージを書いた紙を外に投げた後、ラルフと岩場の海岸を見下ろしながら会話する場面を取り上げてみたい。ここでは、まずジュリアが「自分は確かに病気なのかもしれない」といったん従順を装い、それから前妻マリアンについてラルフに尋ねる。このとき、ラルフはカメラに面しているが、ジュリアはカメラに背を向けている。そして、マリアンの家族についてジュリアが問い詰め始めると、ジュリアがカメラの方へ向き直り、イライラし始めたラルフがカメラに背を向ける。この会話のあいだ、二人の視線は交わらない。『ビッグ・コンボ』では視線の交わらない2人の俳優が同じ方向を向く様子を捉えていたが、ここでは2人が逆を向くという構図になっている。ラルフは話をはぐらかして、海について語り始める。

耳を傾けて海が何を語りかけているか聴いてごらん。何も言っていないだろう?だから私は海が好きなんだ。秘密を語らない。たくさんの秘密を、本当にたくさんの秘密を持っているにも関わらず。

ラルフ・ヒューズ

これははぐらかしているようにみえて、実は恐ろしい秘密について詮索しようとするジュリアに対する警告である。ここで、それまでの「交わらない視線」のショットとのコンティニュイティが破られ、ジュリアはラルフと向かい合って彼の眼を見つめている。そのジュリアの眼に焦点が当てられる。ジュリアの顔の下半分はラルフの肩で隠されてしまい、恐怖におそれおののく彼女の眼だけに私達は釘付けになる。<交わらない視線>が続いた後、その視線が交わったときに緊張が生まれる。

『私の名前はジュリア・ロス』交わらない視線
『私の名前はジュリア・ロス』視線が交わるとき

浅い焦点深度のなかで、その<焦点>は登場人物たちをどのようにとらえているだろうか。このシーンではカメラはジュリアに焦点が合っている。二人の会話が始まる時にカメラがプッシュインするが、フォーカス送りはジュリアに合わせられて、ラルフは焦点面からはずれ若干ぼやける。正確には、焦点はジュリアが着ているドレスに合っている。むしろ彼女のブロンドの髪や顔、眼はほんの少しだが焦点面から外れている。

実はこのシーンの前にジュリアが館の門を訪れるときにも、カメラは近づいてくる彼女にプッシュインし、止まった時にはドレスに焦点が定められている。黒地に銀糸のストライプが織り込まれた生地のこのドレスは、確かにフォーカスを合わせやすいかもしれないが、それ以上に意味を持っているのではないだろうか。なぜなら、このドレスは(ラルフに殺された)マリアンのものだからだ。ジュリアンはマリアンの代替として<もう一度殺されるために>雇われている。彼女はもはやマリアンなのだ。ドレスは中身はうつろな<存在しないもの>になってしまっている。だから<見える>=<焦点があっている>のはドレスだけになるのではないだろうか。

全体を通して、カメラの焦点はジュリアよりも彼女の着ているマリアンの服に合っていることが多い。ネグリジェを着ているときもそうだ。彼女の顔の特徴よりも、ネグリジェの柔らかい襞がよりきめ細やかに映し出されている。

ジュリアが着るマリアンの衣服への視点が解放されるのは、クライマックスでジュリアがマリアンの服を海岸に投げ捨てて自殺を装うときだ。マリアンがもう一度殺され、ジュリアが復活する。

一方、ラルフの場合は彼の眼を通して暴力性が描かれる。ラルフがジュリアに平手打ちされて逆上し、襲いかかるシーンも、ラルフの眼だけが見えるが、その憤怒の眼で彼の異常性が垣間見える。さまざまなもので視界を隠蔽し、残った空間に強烈な印象を残す眼を配置する。この作品の最大の特徴であると言ってもいいかもしれない。感情のコントロールを失って暴力を爆発させそうになるラルフの眼は作品中幾度も登場するが、ジュリアとのやり取りのときには、その眼だけがみえるように構図が作られている。だからこそ、一瞬の出来事にも関わらず、深く印象付けられる。

そして、ヒューズ親子がジュリアの殺害を試みるシーンは、すべてが闇に沈む。階段を降りようとするジュリアが落下して致命傷を負うように、ラルフは階段の段を数段外して細工をする。そして何もみえない暗がりの中で階下からジュリアを呼ぶ。このときも私達はラルフの眼だけを見る。ジュリアが階段から落下して死ぬ様子を目撃できると期待して凝視する眼である。

だが、ラルフが最後に海岸で命を落とすときには、全身のシルエットしか映さし出されない。眼の光は消えて、狂気も打ち負かされてしまった。

『私の名前はジュリア・ロス』ラルフの眼

Links

TCMのサイトには、ショーン・アクスメイカーのエッセイが掲載されている。気になるのは以下の記述だ。

たった65分しかないが、B級映画ではなく、まるでスタジオのトップ作品のように見える。平均的なB級映画よりはましな作品として製作されたこの作品は、結局2本立てのメインとして公開されたところも多く、200,000ドル以下の予算の映画にしては400万ドルの成績を残した。

この「400万ドルの成績」の出典は定かではない。

Data

コロンビア・ピクチャーズ配給 11/9/1945公開

B&W 1.37:1

64分

製作ウォーレス・マクドナルド
Wallace MacDonald
出演ニナ・フォッシュ
Nina Foch
監督ジョセフ・H・ルイス
Joseph H. Lewis
デイム・メイ・ウィッティ
Dame May Whitty
脚本ムリエル・ロイ・ボルトン
Muriel Roy Bolton
ジョージ・マクレディ
George Macready
原作アンソニー・ギルバート
Anthony Gilbert
ローランド・ヴァーノ
Roland Varno
撮影バーネット・ガフィ
Burnett Guffey
アニタ シャープ=ボルスター
Anita Sharp-Bolster
編集ヘンリー・バティスタ
Henry Batista
ドリス・ロイド
Doris Lloyd
音楽ミーシャ・バカレイニコフ
Mischa Bakaleinikoff

Notes

1)^アンバサダー劇場は元々シューベルト兄弟の演劇劇場で、映画上映を兼ねることもあり、1945~1950年の短い期間には専門映画館だった時期があった。『私の名前はジュリア・ロス』の上映はこの時期である。映画専門館だったころには、ヨーロッパからの輸入映画などを上映しており、一種のアートハウスのような性格を帯びていた。

2)^この時併映された作品は『ボーダー・バッドメン(Border Badmen, 1945)』(PRCの55分の西部劇)、『フロンティア・ロウ(Frontier Law, 1943)』(ユニバーサルが2年前に公開した55分の西部劇)、『ボーダーダウン・トレイル(Bordertown Trail, 1944)』(リパブリックが1年前に公開した56分の西部劇)、『ラスト・ホースマン(The Last Horseman, 1944 )』(コロンビアが1944年に公開した54分の西部劇)であった。

3)^単独上映と言っても、カートゥーン、短編(流行紹介やトラベローグなど「ノヴェルティ」と呼ばれることもある)、ニュース映画が併映されるのが一般的である。

4)^以下にこれらの地方都市での興行の様子を挙げる。

町名(州)劇場名席数上映期間形態併映作品
ウェイコ(テキサス)グランド3501946/11/29二本立てマルコポーロの冒険(メイン)
ハムリン(テキサス)ファーガソン6491946/7/30-31>単独上映短編映画
キルゴア(テキサス)ストランド6001946/6/26単独上映
ラボック(テキサス)カクタス7201946/4/24二本立てTell It To A Star(ボトム)
ホンド(テキサス)パーク3851946/6/23-34単独上映
アッシュビル(ノースカロライナ)インペリアル11761946/2/1 -2単独上映
セルマ(ノースカロライナ)セルマ4001946/3/3単独上映
ロッキーマウント(ノースカロライナ)カロライナ8001946/4/7-8単独上映
ローランド(ノースカロライナ)ローランド3991946/8/28二本立てマスターキー・第10章(ボトム、連続活劇)
ミズーラ(モンタナ)ウィルマ10631946/1/6-8二本立てレイディ・オン・ア・トレイン(トップ)
ハヴレ(モンタナ)オルフェウム4911946/1/30-31二本立て大空に散る恋(トップ)

5)^オープニングは職業斡旋所ではなく、ジュリアのアパートが映し出されている。

6)^実際のパンは200°程度である。

References

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