Kiss the Blood Off My Hands
ユニバーサル配給
1948年
ジョージ・ミルナーと先ほど廊下で会いまして、
「密告者になるんだって?」と言われました
- ハロルド・ヘクト、1953年3月23日、下院非米活動委員会公聴会にて
Synopsis
第二次世界大戦後のロンドン。深夜のパブで一人飲んでいた男、ビル・サンダース(バート・ランカスター)は、バーの店主を殴ってしまい、運悪く殺してしまう。現場からビルは逃走、近くに住む一人暮らしの看護婦、ジェーン(ジョーン・フォンテーン)の部屋に逃げ込む。当初、ジェーンはビルを敬遠するものの、そのうちに仲良くなっていく。ところが、ビルは些細なことからまた傷害事件を起こし、服役。出所後、ジェーンの紹介で病院のトラック運転手として働くが、そこにハリー(ロバート・ニュートン)が現れる。ハリーはビルがバーの店主を殺してしまったときに現場にいた目撃者だ。ハリーは、殺人事件をネタにして、ビルに医療物資の横流しを手伝うように脅迫する。
Quotes
Jane: What’s the matter? Haven’t you seen a zoo before?
Bill: I’ve been in one all my life.ジェーン:どうしたの?動物園に来たことないの?
ビル:ずっと今まで動物園に閉じ込められていたようなもんさ。
Production
ノーマ・プロダクションズとランパート・プロダクションズ
1940年代には、自ら映画製作会社を設立してプロデューサーになる俳優や脚本家、監督が続出した。ジョン・ガーフィルドはエンタープライズ・プロダクションを設立して『ボディ・アンド・ソウル(Body and Soul, 1947)』や『悪の力(Force of Evil, 1948)』を製作し、自分が出演する作品のステータスを上げようと試みた。その他にもハンフリー・ボガートのサンタナ・プロダクションズや、ジェームズ・キャグニーのキャグニー・プロダクションズなどが挙げられる。俳優や監督たちが、インディペンデント製作に乗り出した動機はさまざまだ。もちろん映画製作における自主性を手に入れて、自らの作品を様々な局面でコントロールしたいという望みもあっただろう。それに加えて、税金への対策もあった。アメリカでは戦時中に給与収入の税率が高くなり、人気俳優や監督にとって、メジャー・スタジオとの契約による収入はより魅力のないものになっていた。自ら経営側に立ち、興行から直接報酬をもらうほうが税制上も得だった。特に、スタジオとネゴシエーションができる立場にあるような人気俳優の場合には、自らの製作作品をスタジオを通して配給することも取引のなかに含まれる場合が多かった。
ジョーン・フォンテーンは1942年に『断崖(Suspicion, 1941)』でアカデミー賞女優賞を受賞して以来、ミステリーやメロドラマで活躍していた。1946年暮に夫のウィリアム・ドジャーとランパート・プロダクションを設立、ドジャーがユニバーサル・インターナショナルの製作主任に就くと、ランパート・プロダクションズは、製作作品をユニバーサル・インターナショナル経由で配給するという契約を交わす。ランパート・プロダクションズは、ジョーン・フォンテーン主演の作品、例えばマックス・オフュルス監督の『忘れじの面影(Letters from an Unknown Woman, 1948)』などを製作している。一方で、バート・ランカスターは『殺人者(The Killers, 1946)』のデビュー以来、ハードボイルドな役柄で注目を集めていた。ランカスター自身、非常に強い独立志向があり、1948年にノーマ・プロダクションズをハロルド・ヘクトと共につくる。ノーマ・プロダクションズ(ノーマはバート・ランカスターの妻の名である)も、ユニバーサル・インターナショナル経由で配給することになっていた。このノーマ・プロダクションの最初の作品に選ばれたのが『暴れ者(Kiss the Blood Off My Hands, 1948)』である。
バート・ランカスターは、この『暴れ者』の前に、アーサー・ミラー原作の問題作『みんな我が子(All My Sons, 1948)』に出演している。『みんな我が子』はブロードウェイで、ハロルド・クラーマンとエリア・カザンがプロデュース、エリア・カザン演出で話題を呼んだ舞台劇だ。資本家ジョー・ケラーが、戦争中に不良品と知りながら利益を優先して戦闘機(カーチスP-40)のエンジン部品を出荷していたことが発覚する一方で、息子のクリス・ケラーが除隊して、この事実を知ることになる、という、戦争を背景として資本主義と家族の理念を問う作品だった。これをエドワード・G・ロビンソンが主人公の資本家、ジョー・ケラーを、そして息子のクリスをバート・ランカスターが演じた。ランカスターは、ブロードウェイの舞台を見て、ぜひクリス・ケラーを演じたいと申し入れていたところ、ウィリアム・ドジャーがハル・ウォリス(ランカスターと契約していた)との取引で、『みんな我が子』とジョーン・フォンテーンと共演作の2本をユニバーサルから配給することになった。フォンテーンとの共演作は当初「丘の雷鳴(Thunder on the Hill)」をランパート・プロダクションズで製作する予定だったが、その計画は流れ、代わりに『暴れ者』がノーマ・プロダクションズで製作されることになったようだ。
『みんな我が子』は、HUAC(下院非米活動委員会)によるハリウッド・テンの公聴会のさなかに撮影されていた。この作品は、第二次世界大戦中に発覚したカーチス・ライト社による不良部品の検査偽装の実話に基づいており、資本家への痛烈な批判を含んでいたため、プロデューサーのチェスター・アーキスキンは慎重にストーリーを書き換えている。時代は、赤狩りに突入していたのである。『暴れ者』はその赤狩りによってハリウッドを追われた者と残った者たちのあいだに濁り固まった残滓のような作品である。
脚本家たちとプロデューサーたちとチャールズ・K・フェルドマン
原作はジェラルド・バトラーによる同名の小説。出版されたのは1940年、戦前であり、ビルのキャラクターに戦争の影はない。この原作はハードカバーで25万部も売れたベストセラーだったが、今ではジェラルド・バトラーの名前もこの作品も忘れ去られている。
ノーマ・プロダクションのハロルド・ヘクトは、ベン・マドーとウォルター・バーンスタインに原作を脚色するように依頼、それをレオナルド・バーコヴィッチが仕上げた。この人物たちはすべてHUACによる尋問の対象となる、共産党員あるいは元共産党員であった。
ベン・マドーは1909年ニュー・ジャージーに生まれ、パサイクでユダヤ系の家庭に育った。当時のパサイクは繊維業で有名な街だったが、労働条件が著しく劣悪で、1920年代に共産党主導のストライキがこの地で勃発した。このストライキが失敗に終わったことが、その後のアメリカの労働運動と共産党の間にしこりを残すことになったと言われている。青年期の多感な時期にこの労働者の運動を間近に見たマドーは感銘を受けたに違いない。コロンビア大学で生物物理学を専攻したものの、卒業のときには恐慌がアメリカ経済に大打撃を与えていたため、就職先が見つからず、数年間無職だった。その後、ケースワーカーとして働いているときに、詩や短編小説を書き始め、さらに左翼のドキュメンタリー映画作家とも交流を始める。ナイキノ(Nykino)、フロンティア・フィルムズ(Frontier Films)といった労働運動の活動家や共産主義者の映画グループに在籍して、ナレーションを執筆したりしていた。第二次世界大戦では陸軍に従軍、除隊と共にハリウッドに移ってきた。彼の最初の仕事がこの『暴れ者』の脚本をウォルター・バーンスタインと書き上げることだった。
ウォルター・バーンスタインはやはりニューヨーク出身のユダヤ人。第二次世界大戦で陸軍の記者として従軍し、その時の経験はニューヨーカー誌に掲載された。ハリウッドに1947年に移り、ロバート・ロッセンの元で脚本を書き始めたが給料が低く、ハロルド・ヘクトに誘われたときには二つ返事で応じている。
レオナルド・バーコヴィッチも、ニューヨークのブルックリンで、ルーマニア系ユダヤ人の家庭に生まれた。叔父のコンラッド・バーコヴィッチはジプシーの話を書く小説家として有名だったという。レオナルドは1930年代にラジオ番組「Billy and Betty」の脚本家として人気を博し、ロバート・ロッセンとハリウッドに移ってワーナー・ブラザーズで脚本を担当した。戦争中はプロパガンダ映画の仕事をしていたが、戦後、チャールズ・K・フェルドマンにスカウトされる。彼のもとで『気まぐれ天使(The Bishop’s Wife, 1947)』の脚本を書き上げた。
チャールズ・K・フェルドマンは謎の多い人物だ。弁護士、プロデューサー、エージェント、といった数多くの顔を持っている。ハリウッド映画史上において、彼は映画題材の「一括取引(package deal)」を始めた人物として重要だ。『気まぐれ天使』はその成功例である。フェルドマンは原作者のロバート・ネイサンから15000ドルで映画化の権利を買い、バーコヴィッチに脚色をさせた。原作は真面目な物語だったものを、「天使が司教の奥さんに恋をして大騒ぎになるコメディ」の脚本にしたという噂がハリウッドを駆け巡った。日に日に映画化権と脚本を含む「パッケージ」の値段は上がっていき、フェルドマンは20万ドル(バーコヴィッチによれば25万ドル)でサミュエル・ゴールドウィンに売却した。フェルドマンは1947年から2年間ほどバーコヴィッチの脚本で一括取引している。『モス・ローズ(Moss Rose, 1946)』『ザ・ロスト・モーメント(The Lost Moment, 1947)』『ジェニーの肖像(Portrait of Jennie, 1948)』などが、この頃フェルドマンの下でバーコヴィッチが脚本に取り組んだ作品だ。
AFIのカタログによれば、『暴れ者』は、1946年にイーグル・ライオン・フィルムズがロバート・ドーナット主演で映画化を目論み、オプションを購入している。ところが映画化の話はどうやら頓挫したようだ。1948年の3月に、チャールズ・K・フェルドマンはノーマ・プロダクションやユニバーサル、更にイーグル・ライオンを相手取って『暴れ者』の映画化権を巡って100万ドルの訴訟を起こしている。これによれば、フェルドマンはイーグル・ライオンからオプションを譲り受けており、映画化を巡っては自分に権利があることを主張している。だが、この訴訟は予備審議の段階で、判事がユニバーサルの言い分を認めており、フェルドマンはそのまま引き下がったようだ。この映画化権を巡って何が起きたかははっきりしないが、フェルドマンがめぼしい題材を買い漁っていた、その中の一つが戦前のベストセラーだったこの原作だったのだろう。イーグル・ライオンはアンソニー・マンとジョン・オルトンのフィルム・ノワールで有名なスタジオだが、1946~47年の段階ではPRCから移行していた時期である。また、出所したばかりのマフィア、ジョン・ロッセーリがブライアン・フォイを頼ってイーグル・ライオンに籍をおいていたりする、決してクリーンなイメージが売り物のスタジオではない。このオプションの取引にまつわる訴訟についても、きな臭いやりとりを嗅ぎ取ってしまうのも致し方ないだろう。
ハロルド・ヘクトは1930年代にはハリウッドでダンス・シーンの監督などをしていたが、1940年にエージェントになった。その後、戦時中の陸軍従軍を経て、エージェント、そしてプロデューサーとなる。ヘクトは1930年代、共産党に入党、その後フェデラル・シアターでもスタッフとして参加している。ハリウッドでは、同じく共産党員だったフランク・タトル、ローランド・キビーと親交があり、エージェント時代は所属していた36人のうち10人が共産党員だったという。1953年のHUACの公聴会では、ノーマ・プロダクションの重役として証言している。彼は、共産党の活動には独ソ不可侵条約の頃から疑問を抱くようになり、離党したと証言した。「共産党員だからといって、雇用したことはない」、「朝鮮戦争の少し前から、共産党員とわかっている人間は雇っていない」と1950年頃からのノーマ・プロダクションの採用方針を述べている。
HUACの公聴会、ブラックリストが始まってからの各人の動きは様々であった。
レオナルド・バーコヴィッチは1950年にブラックリスト入りした後、メキシコからヨーロッパへ渡り、イタリアの映画界でスクリプト・ドクターとして10年間働いていた。ロベルト・ロッセリーニと親交があり、イングリッド・バーグマン主演、ロッセリーニ監督での映画化の話もあったが、バーグマンの妊娠で計画は流れてしまう。タイロン・パワーがその脚本で映画化を発表、バーコビッチは1958年にブラックリストを破ったはじめての映画人になる予定だったが、タイロン・パワーが急死したためにお蔵入りしてしまった。バーコヴィッチがハリウッドで仕事を再開できるようになるのは更に10年後の1968年である。
ウォルター・バーンスタインは、若くしてブラックリストされたが、1950年代はテレビの脚本の仕事で生きのびる。1959年にハリウッド映画界にシドニー・ルメット監督『私はそんな女(That Kind of a Woman, 1959)』で復帰、『パリの旅愁(Paris Blues, 1961)』、更にはクレジットはされていないが『荒野の七人(The Magnificent Seven, 1960)』なども手がけている。『男の闘い(Molly Maguires, 1970)』ではプロデューサーも兼任、ウディ・アレンの『フロント(The Front, 1976)』では、フィクションながらもブラックリストの時代をくぐり抜ける脚本家たちを描いている。
ベン・マドーは、『アスファルト・ジャングル(Asphalt Jungle, 1950)』の脚本でアカデミー賞にノミネートされるが、その後ブラックリスト入りしてしまう。フィリップ・ヨーダンをフロントに『大砂塵(Johnny Guitar, 1954)』、『真昼の欲情(God’s Little Acre, 1958)』などの脚本を担当したが、もちろんクレジットされていない。そのうち、彼は「自分の脚本の映画の試写に、暗くなってから入り、明かりがつく前に出ていく」ことに耐えられなくなった(ブラックリストされていたものの、試写を見ることは暗黙のうちに許可されていたようだ)。彼は非公開聴取会を請求、そこで共産党員として繋がりのあった人物たちの名前を挙げた。1958年頃のことである。この証言によってブラックリストが解除されてからは『許されざる者(The Unforgiven, 1960)』、『0の決死圏(The Chairman, 1969)』などの脚本を手がけている。ロバート・アルトマン監督の『ギャンブラー(McCabe & Mrs. Miller, 1971)』はマドーの脚色をもとに製作されているが、クレジットされていない。彼は生涯、非公開聴取会のことについては詳しく語らなかった。
私はマドーに聞いたんだ。友達を売るなんてよくやる気になったな、と。そうしたら、彼はこう言ったんだ。「まあ、あいつらとはもう友達じゃないからね。あいつらと何も共通点はないよ。」ウォルター・バーンスタイン、1950年代後半にベン・マドーと交わした会話について
1952年にハロルド・ヘクトにHUACから召喚状が届く。非公開聴取会で脚本家のマーチン・バークレーが彼の名前を挙げたのだ。ハリウッド・テンのリング・ラードナー・Jrに「人間の言葉が書けないから動物映画ばかり作っている」と罵られたこともあるバークレーは155人もの名前を挙げた。翌年の3月にヘクトは公聴会に出席、かつての友人たちや同僚の名前を挙げた。そのなかには、まだ一緒に仕事をしていたローランド・キビーの名前もあった。「ローランド・キビーがヘクトに『HUACに呼ばれたらどうしよう』と相談したら、ヘクトはそのままキビーを売った」という作り話までできたほどである。ジョージ・ミルナーに「密告者」呼ばわりされた話まで披露したため、ヘクトは「密告者の権化」として記憶されることになる。
あのクソ野郎 エイブラハム・ポロンスキー、ハロルド・ヘクトについて
ローランド・キビーも、フランク・タトルもその後HUACで知り合い達の名前を挙げ、ブラックリストから外れることになる。
バート・ランカスターは、左翼思想を強く疑われ、共産党との関わりを幾度も詮索されている。極右で赤狩りの先導的存在だった雑誌「アメリカン・リージョン・マガジン」はランカスターの名前を挙げて特集記事を組むほどであった。しかし公聴会に召喚されることはなかった。彼が非公開で証言したかどうかは定かではない。バート・ランカスターの伝記の著者、ケイト・ビュフォードは、当時の「アメリカン・リージョン・マガジン」とハリウッドのメジャー・スタジオ、そして俳優や監督、脚本家達のあいだに、ある種の「取引の仕組み」があったという。専門の弁護士に多額の金を払って、「懺悔の手紙」を「アメリカン・リージョン・マガジン」に届けてもらい、それによって「名前をリストから消してもらう」のだ。専門の弁護士 ―――マーチン・ギャング――― は、ランカスターの弁護士を1950年頃にしている。そして、ランカスターは一度も公式の場で政治信条を問われることなくキャリアを続けている。カトリックのジャーナリスト、ジョン・コグリーが著した赤狩りの歴史「Report on Blacklisting (1956)」に「Z. Z.」なる「超有名スター/プロデューサー」の「懺悔の手紙」が出てくる。ビュフォードはこの「Z. Z.」こそがランカスターのことではないか、と示唆している。
1948年に製作された『暴れ者』はこのような人物たちが関わった作品だった。前年のハリウッド・テンの衝撃は映画界を驚愕させたが、それはまだ序曲にすぎず、赤狩りの真の恐怖はこれからだった。『暴れ者』に関わった脚本家はその後すべてブラックリスト入りし、製作会社のトップ二人も薄氷の上を歩いていくことになる。
オーソン・ウェルズの息のかかった才能をかき集める
監督のノーマン・フォスターは、若い頃は俳優として『あめりか祭(State Fair, 1933)』などに出演していたが、監督に転向、20世紀フォックスが得意とした探偵シリーズもの(ミスター・モト、チャーリー・チャン)の手堅い仕事で好評を得た。1940年頃にオーソン・ウェルズと意気投合して、ウェルズのプロジェクト「イッツ・オール・トゥルー(It’s All True)」の一部や、『恐怖への旅(Journey into Fear, 1942)』をウェルズに代わって監督したりしている。戦時中はメキシコで映画製作した後、帰国した後は西部劇などを散発的に監督していた。『暴れ者』はその頃の作品である。
『暴れ者』の注目すべき点は、撮影と音楽であろう。撮影監督のラッセル・メティは『ストレンジャー(The Stranger, 1946)』や『黒い罠(Touch of Evil, 1958)』などのオーソン・ウェルズ作品で有名だが、ダグラス・サークとも11作品で仕事している。ジョン・フォンテーンとは前年の『アイヴィー(Ivy, 1947)』で、バート・ランカスターとは『みんな我が子』で仕事をしている。この暗いテーマの物語で彼が撮影に選ばれたのも理解できる。
ミクロス・ロージャはフィルム・ノワールの作曲家として極めて重要な人物だが、特にマーク・ヘリンジャー/バート・ランカスターの作品『殺人者(The Killers, 1946)』、『真昼の暴動(Brute Force, 1947)』で注目すべきスタイルを確立している。奇妙ではあるが、バート・ランカスターの破滅的なマチズモ、大袈裟な演技と、ロージャの不協和音のアタックが、巧妙に絡まり合って効果を上げているのだろう。
この作品は、英国の性格俳優ロバート・ニュートンのハリウッド初出演作でもある。彼はディズニーの『宝島(Treasure Island, 1950)』にロング・ジョン・シルバーとして出演して特に少年ファンの間で大人気となる。
ノーマ・プロダクションズが、この作品のタイトルについて全国600の映画館にアンケートを取ったところ、このタイトルがいいと回答したのはわずかに2館だけだった。これは前述のチャールズ・フェルドマンの訴訟が業界紙に載っていた頃でもあり、ヘクトとランカスターはタイトルを『Unafraid』に変更する。ところがタイトルは公開前に元の『Kiss the Blood Off My Hands』に戻された。映画館がこのタイトルを嫌った理由の一つは、マーキー(入り口)の看板にタイトルを文字で掲示する際に、長いタイトルは場所を取りすぎてしまうからだった。スターの名前や併映作品のタイトルを入れるスペースに苦労するのだ。
Reception
公開当時の業界の反応はまちまちの評価だった。
(この映画の主題であるはずの主人公たちの心の葛藤の物語)が後ろに引いてしまうと、物語は行き先を失い、別の映画になってしまうMotion Picture Herald
デビューしてわずか2年にも関わらず、バート・ランカスターが同じような役柄ばかり演じているという印象が強いようだ。
誤解される人間といったテーマにはそんなに変種があるわけでもなく、しかもランカスター氏はそのすべてをやり尽くしてしまった感があるNew York Times
それでも、興行的に期待できるという点では、多くの評者の意見が一致している。
『Kiss the Blood Off My Hands』というタイトルは目を引くが、この作品では実に引き込まれるメロドラマが展開している。良い興行が期待できそうだ。 Motion Picture Daily
Varietyによれば、興行成績は1,600,000ドル、1948年の興行成績84位だった。ちなみに1948年に公開されたバート・ランカスター出演の作品では、『私は殺される(Sorry, Wrong Number, 1948)』が25位で2,850,000ドル、『I Walk Alone』が60位で2,100,000ドルの興行収入だった。ジョーン・フォンテーンの作品では『皇帝円舞曲(The Emperor Waltz, 1948)』が4,000,000ドルの興行収入で7位である。このスターの組み合わせで84位と言う成績では、『暴れ者』は興行的には残念な結果だったと言えよう。
その後はバート・ランカスターの数あるフィルム・ノワール出演作のひとつと言う位置づけで列挙されることはあっても、一般的には浸透することのないタイトルだった。
ノーマン・フォスターが監督、雨や霧に包まれた陰気でジメジメした安っぽい部屋や裏庭を舞台に繰り広げられるこの作品は、観客が鬱屈した気分になってしまうような映画で、ジョーン・フォンテーンの演技をもってしても救えなかったチャールズ・ハイアム
画質の悪い海賊版のVHSが流通していたが、2016年に正規版DVDがユニバーサルよりリリースされた。
Analysis
ダッチ・アングルの流行
撮影監督のラッセル・メティはオーソン・ウェルズと腐れ縁のような関係にあって、ウェルズのハリウッド作品の多くに関わっている。ウェルズ作品では『ストレンジャー』がはじめてクレジットされた作品だが、『市民ケーン』のときからすでに関わっていた。ウェルズの実質的なハリウッド最終作品となる『黒い罠』の撮影は、スタンリー・キューブリックの『スパルタカス(Spartacus, 1959)』と並んで、メティの技術が遺憾なく発揮された作品だろう。『ストレンジャー』や『黒い罠』は、細部に至るまで計算され尽くしたキアロスクーロの設計と奇抜なカメラアングルが特徴的だ。地平線に対して傾いたアングルの構図は「ダッチ・アングル(Dutch Angle)」と呼ばれ、特にフィルム・ノワールの作品を特徴づける技法の一つと言われている。
『暴れ者』でも、非常に印象的なダッチ・アングルのショットが登場する。ジェーンがハリーを殺してしまったあと、逃亡の手配に出かけたビルを一人部屋で待つシーンである。ビルはいつまで経っても帰ってこない。言いしれない孤独の中で、ジェーンは、徐々に恐怖と不安にずり落ちていく。このときにジェーンを捉えるカメラはゆっくりと傾き始め、彼女の神経の消耗と共にゆっくりと揺れていく。メティの撮影は、この時まで、行き場のない戦後のロンドンを抑制の効いたキアロスクーロと深い霧の照明で表現していたが、ここに来て一挙に主観的で「派手な」カメラの技巧を使う。
「ダッチ・アングル」の「ダッチ」は、オランダのことではなく、ドイツ(Deutsch)がなまったものだと一般的に言われている。
傾斜ショット(ダッチ・アングルとも呼ばれる)では、カメラは三脚の上で横向きに傾けられ、水平線とは平行になっていない。傾斜ショットは、世界の真っ直ぐな線を斜めの線にしてしまう。このショットによって、世界の不均衡さや異様さの感覚を強烈に生み出すことができる。Film Production Technique: Creating the Accomplished Image
映画史の教科書では、ダッチ・アングルの技法が効果的に使用されている作品の例として、キャロル・リード監督の『第三の男(The Third Man, 1949)』がほぼ必ず挙げられている。戦争直後のウィーンを舞台とした薬の闇取引から垣間見える、戦争の残した傷を描く作品だ。ブリティッシュ・フィルム・ノワールの傑作としても評価が高い。夜のウィーンの路地や地下水道を、鮮やかなキアロスクーロの映像とダッチ・アングルで描いている。
『第三の男』の撮影監督、ロバート・クラスカーは、この技法を特に好んだようだ。彼は、デヴィッド・リーン監督の『逢びき(Brief Encounter, 1945)』で撮影監督を担当しているが、ここでもダッチ・アングルを取り入れている。作品の終盤、主人公のローラが駅の待合室で特急列車の近づく音を聞いて、列車に飛び込んで自殺しようと思い立つ。彼女を真正面から捉えたカメラが傾き始め、そのまま彼女が立ち上がっってプラットフォームに向かうが、カメラは傾いたままだ。彼女の思いつめた表情は傾いたまま、列車の轟音が近づいてくる。が、特急列車はローラの前を高速で通り過ぎて、そのときに彼女は我に返る。同時にカメラもゆっくりと垂直に戻っていく。これは、傾いた構図のショットと言うよりは、ダイナミックにカメラの傾斜を利用したシーンと考えたほうが適切だろう。
極度に技術を意識したやり方、カメラを傾けるとかは実にたやすい。「あんなことは全部UFAでやりつくした」とビリー・ワイルダーが言っていたように。デヴィッド・リーン
ダッチ・アングルという技術の発祥を、1920年代のドイツ表現主義の作品、特に『カリガリ博士(Das Kabinett des Doktor Caligari, 1920)』に求める記述が時々ある。実際には、『カリガリ博士』では、セットが歪に傾いているものが大量にあるものの、俳優たちが直立している様子から判断して、カメラが物理的に傾いているようには見えない。おそらく1920年代~30年代のドイツ映画(UFAスタイルと呼んでもいいかもしれない)が果たした重要な役割は、カメラによって心象風景を映像化する、という試みを、集団としておこなったということだろう。主人公の目から見た主観ショット(POVショット)や、歪んだレンズやオプティカルプロセス、オーバーラップを駆使して、人物が経験している精神状態を表現することを、一人の映画製作者がやっていたのではなく、ひとつの潮流として試行していたのだ。
一方、ソビエトの映画製作者たち、特にジガ・ヴェルトフを中心とするアヴァンギャルド映像作家たちは、カメラの機械性を追求していくなかで、新しい構図・フレームの構成を模索していた。そのひとつとして、カメラを傾けたダッチ・アングルの構図が登場する。ヴェルトフは自らの映像製作の動機を、心理的描写の対局と位置づけていた。
我々はロシアードイツの心理劇映画 ―――幻影や幼児期の記憶で圧迫されたものばかりだ――― を下らないと考える。 ジガ・ヴェルトフ
いわゆる「奇抜なアングル」のショットがドイツ、ソビエトに限らず、この頃から多くの国や地域の映像作品で登場するようになったのは確かである。具体的には1927、8年頃から1930年代初頭の、特にサイレント映画で顕著だ。ジャン・エプスタインやハンス・リヒター、ヨリス・イヴェンスといったアバンギャルド映像作家のみならず、ジェームズ・ホエールらユニバーサルでホラー映画を撮影していた者たちや、フリッツ・ラングを含むトーキー初期のUFAの映画製作者たち、ヴァルター・ルットマンやその弟子のレニ・リーフェンシュタールらドキュメンタリーやプロパガンダの製作者たち、アレクサンダー・ハッケンシュミッド(チェコ)やマリオ・ペイショト(ブラジル)などの周縁の前衛作家たちは、作品の随所に「奇抜なアングル」を取り入れている。これらの作品を見ていると、「奇抜なアングル」、特にダッチ・アングルのもたらす効果は、実はコンテクストに依存しており、決して心理的効果だけがその動機ではないことがわかる。心理的効果が狙いだとしても、引き起こすべき効果も様々だ。
『暴れ者』に登場するダッチ・アングルのショットは、ダイナミックな傾斜の揺れ、それが人物の心理状態の不均衡な揺れと同期している。けれども、主観POVショットとは違い、カメラはジェーンをとらえている。登場人物の主観に入り込む技法は主観POVショットだけではない。1940年代のハリウッドの映画製作者たちは、この主観に入り込むことを多彩な手法を組み合わせて模索・構築していた。デヴィッド・ボードウェルは、この潮流を「主観性の回帰」と呼んでいる。サイレント期、1920年代は、登場人物の主観を映像化する様々な方法が試みられていたが、1930年代、トーキーの登場とともにその試みは一旦減速してしまう。それが1940年代になって、再び前景に浮かび上がってくる。だが、1940年代の試みは、サイレント時代とは決定的に異なっていた。それはやはり音の存在である。
この『暴れ者』のダッチ・アングルのショットでも、音が重要な役割を果たしている。まず、構図が傾き始めるよりも前に、すでにジェーンの主観への侵入は始まっている。彼女はアパートの一室でひとりビルを待っているのだが、そのビルがなかなか帰ってこない。「待つこと」と「焦り」はフレームのほぼ中央にとらえられている時計で象徴される。この構図のなかで時計に注意が向くのは、サウンドトラックで時計の音が増幅されているからにほかならない。観客は、強調された時計の音によって、時計の像を介して、うろたえているジェーンに移入していく。ジェーンが鏡を覗き込み、その鏡像がフレーム内に閉じ込められる。これをきっかけにジェーンの心の中の「音」が重ねられる。それは、ジェーンが殺してしまったハリーの声だ。ハリーはジェーンの心の中で滔々と語り、生き生きと彼女の存在を脅かし続ける。そしてカメラが傾き始める。
このダッチ・アングルのショットは、周到に丁寧に準備され、観客を引き込んでいくための仕掛けとして見事に機能している。
ハリウッドの1940年代は、主観性や意識の流れを視覚と聴覚で表現することが再度試みられていた時代だ。こういった技法が映画製作の周縁から中心に広がっていき、『暴れ者』のような映画スター達が自分達を売りにして製作する作品の中にも現れるようになったのである。
なぜタイトルで迷走したのか
上述したように、この作品は公開前にタイトルが一度変更され、しばらくの後、元のタイトルに戻されている。「Kiss the Blood Off My Hand」はヒット原作のタイトルでもあるし、特に変える必要もなかったはずだ。それをわざわざアメリカ全土の映画館に「このタイトルをどう思うか」と問い合わせ、芳しい結果が得られなかったことがきっかけでタイトルの変更に至ったと報じられている。一方でほぼ同時期にフェルドマンから訴訟を起こされている。このこともタイトルの変更のきっかけになったのかもしれない。
しかし、ここでは製作側がそもそもなぜタイトルに関して不安に思ったかを考えてみたい。それはとりもなおさず、ランパート・プロダクションズとノーマ・プロダクションズという、スターが経営する製作会社の思惑と深く絡んでいると思われるのだ。
オリジナルのタイトル「Kiss the Blood Off My Hands」には、陰鬱で暴力的な香りがつきまとう。これは、1920~40年代のパルプ雑誌に掲載されていたようなダイム・ノベル、短編小説のタイトルの特徴だ。「The Duchess Pulls a Fast One」「You’ll Die Laughing」「Murder Won’t Wait」「If I Should Die Before I Wake」といった死や暴力への執着が浮き出ているタイトルは読者の好奇心をくすぐったに違いない。こういった、いわゆるハードボイルドの小説の読者は、主に都市部の男性労働者だったと言われている。これは、まさしくバート・ランカスターが主演して好評を博した映画を嗜好する観客と重なっている。彼が主演した映画のタイトルも、暴力や死に支配された世界を示唆するものが多い。『The Killers』『Brute Force』『I Walk Alone』といった具合だ。そういった傾向から考えて、『Kiss the Blood Off My Hands』というタイトルはランカスターの次回作としても十分センセーショナルなものだと考えられたはずだ。
一方で、ジョーン・フォンテーンのほうはどうだろうか。彼女の1940年代の代表作といえば、アルフレッド・ヒッチコックの『レベッカ』と『断崖』が挙げられる。いずれも夫の「謎」が「恐怖」に変容していく、夫婦と他人の際を描いている。ヒッチコック作品の中でも非常に心理的な要素が濃縮された作品だ。現在ならば、ミステリー/サスペンスのジャンルに分類される作品だろうが、当時はこのような作品はメロドラマと呼ばれることが多かった。彼女の他の出演作は主にロマンス/恋愛物語で、どちらかといえば「かたい」作品が多い。例えば『忘れじの面影』では、ステファン・ツヴァイクが描いた20世紀初頭のウィーンの街角で一人寂しく愛を全うする女性という、ともすれば過剰なロマンチシズムに溺れかねない題材をマックス・オフュルス監督が丁寧に描いている。これはランパート・プロダクションがフォンテーンのために用意した題材である。その他にも『皇帝円舞曲』や『アイヴィー』など、コメディでもミステリーでも一貫して「品性」が保たれている。ランカスターの出演作のようにギャングや殺し屋や裏切り者が暴力で決着を付けるといった物語には、フォンテーンはほとんど出演していない。この傾向を考えると、フォンテーンとランカスター、それぞれ想定される観客層はあまり重なっていなかったのではないだろうか。さらに、考慮しなければならない点は、少なくとも1948年の時点では、ランカスターに比べてフォンテーンのほうが観客を呼び寄せる力をもっていたということである。興行の計画を立てる側からすれば、『Kiss the Blood Off My Hands』というタイトルは、フォンテーンの客層にはちょっと「品がない」と考えたとしてもおかしくない。
一方で、フォンテーンが出演していた作品は、1930年代の恋愛ドラマのモードとは明らかに異なっていた。スタンリー・カーヴェルが「再婚喜劇(remarriage comedy)」と呼ぶ、スクリューボール・コメディ全盛期の作品 ―――『或る夜の出来事(It Happened One Night, 1932)』から『新婚道中記(The Awful Truth, 1937)』、『フィラデルフィア物語(The Philadelphia Story, 1940)』にいたるまで――― では、結婚の危機は、よりを戻すことによって乗り越えられていく。この場合の「再婚」は、夫婦が離婚の如何にかかわらず、よりを戻して元の鞘に収まることを指している。こういった作品では、婚姻状態が維持されることが最終的な「The End」マークのよりどころになっている。だが、ハリウッドは1940年代になって、その「再婚」のもつ倫理的求心力から解き放たれて、逸脱するようになる。ベティ・デイヴィスが主演のワーナー・ブラザーズの作品はまさしく結婚の持つ拘束力そのものを問い直すものだ。フォンテーンの出演作は、例えばベティ・デイヴィスの『情熱の航路(Now, Voyager, 1942)』のようなあからさまな結婚という制度の否定ではないものの、その制度が内在的にもつ暴力性を題材にしたものが多かった。ヒッチコックの二作品は、いずれも夫の「問題点」を妻が引き受けるはめになるというテーマだ。『アイヴィー』は離婚を承諾しない夫を殺す話、『忘れじの面影』は結婚という制度の外にある恋と家族、そしてその失敗という話といった具合である。この傾向は、フォンテーンだけではない。ハリウッドの多くの人気女優が「結婚」という制度から外れていった女性たちを演じている。1930年代にMGMの看板女優だったジョーン・クロフォードは『ミルドレッド・ピアース(Mildred Pierce, 1946)』で、男性の庇護を必要としない強い女性を演じている(しかし、最終的には娘の暴走に歯止めがかけられずに悲劇を迎えるのだが)。
この流れのなかで『暴れ者』をとらえると、暴力うずまく世界から来た男(ランカスター)と、自立した暮らしをしている女性(フォンテーン)が邂逅するものの、結婚という制度にたどり着くことができずに迷走するという、この二人のスターのペルソナに沿ったものであることが分かる。フィルム・ノワールの男女間の力関係は、戦争から帰還した男性と戦時中に独立した女性の間の緊張で解釈されることが多いが、それは独立した女性に脅威を感じるという男性からの視点が強調されたものだ。女性の側から見れば、戦争中に何をしてきたのか/されてきたのか分からない男性への不安が常に蠢くことになる。少なくとも、この作品にはその視点が持ち込まれている。ビル(ランカスター)が得体の知れない暴力を持ち込んできてしまうことによって、女性の自立が完全に破壊されてしまうのである。
バート・ランカスターのマチズモとナルシズムに対して、ジョーン・フォンテーンの女性メロドラマのパラノイアが対置された、奇矯なノワール作品と言えるかもしれない。
Links
TCMの作品サイトのNOTESページに、この作品の製作過程で持ち上がった、チャールズ・K・フェルドマンの裁判経緯がまとめられている。
フィルム・ノワールの批評サイト「Where Danger Lives」では、この作品が1990年頃にAMCで放映されたときのブートレッグDVDでの鑑賞記録が掲載されている。
Data
ユニバーサル・インターナショナル配給 10/30/1948公開
B&W 1.37:1
79 min.
製作 | リチャード・ヴァーノン Richard Vernon | 出演 | ジョーン・フォンテーン Joan Fontaine |
監督 | ノーマン・フォスター Norman Foster | バート・ランカスター Burt Lancaster |
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脚本 | レオナルド・バーコヴィッチ Leonardo Vercovici | ロバート・ニュートン Robert Newton |
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脚本 | ウォルター・バーンスタイン Walter Bernstein | ルイス・L・ラッセル Louis L. Russell |
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脚本 | ベン・マドー Ben Maddow | ジェイ・ノヴェッロ Jay Novello |
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原作 | ジェラルド・バトラー Gerald Butler | ||
撮影 | ラッセル・メティ Russell Metty | ||
音楽 | ミクロス・ロージャ Miklos Rozsa | ||
美術 | バーナード・ハーツブルン Bernard Herzbrun | ||
編集 | ミルトン・カルース Milton Carruth |
References