FILM

Deadline at Dawn (1946)

暁の死線
Deadline at Dawn

RKOピクチャーズ
1946年

私は、大したこともない映画 ――『暁の死線』―― を一本作ったきりで、ハリウッドでの経験についてほとんど語ったことがない。
ハロルド・クラーマン

ああ、私の導者。
リチャード・フライシャー

Synopsis

水兵のアレックス(ビル・ウィリアムズ)は、ニューヨークの街角の売店で、ひどい頭痛とともに目が覚める。彼は1400ドルという大金を持っているのだが、記憶がない。行くあてもなく街をさまよっているうちに、アレックスは、ダンスホールでタクシー・ダンサーのジューン(スーザン・ヘイワード)と知り合う。ジューンは都会の冷酷な現実に疲弊して、容易にアレックスに心を許さないが、アレックスは、ジューンと話しているうちに金の出どころを思い出す。エドナ・バーテリという女とその弟が、彼を酔わせてカードで巻き上げたのを、怒って持って帰ってきたのだった。アレックスはやはり彼が賭けで負けた金だから、元に戻したいと言い始めた。ところが、ジューンとともに、エドナのアパートを尋ねてみると、エドナは何者かによって殺されていた。アレックスが海軍の基地に復帰する夜明け前に、殺人犯を見つけ出さないと、金を所持している彼が殺人犯にされてしまう。真の殺人犯を見つけ出すため、ジューンとアレックスは夜のニューヨークに踏み出した。

Quotes

Remember, Alex, speech was given to man to hide his thoughts.
いいか、アレックス、言葉というのは、考えていることを隠すために人間に与えられたのだよ。

ガス・ホフマン(ポール・ルーカス)

Production

この作品には、1940年代のアメリカのパルプ・ミステリ、戯曲、演劇、そして音楽の世界において非常に重要な4人が関わっている。コーネル・ウールリッチ、クリフォード・オデッツ、そして、ハロルド・クラーマン、ハンス・アイスラーである。

コーネル・ウールリッチ

原作の「暁の死線(Deadline at Dawn)」は、コーネル・ウールリッチがウィリアム・アイリッシュ名義で1944年に発表した中編ミステリである。コーネル・ウールリッチは、1930年代から50年代のアメリカのパルプ・ミステリの分野で、極めて変則的な人気を得ていた作家だ。1920年代後半、F・スコット・フィッツジェラルドに強い影響を受け、23歳で「Cover Charge」を発表した。ジャズ・エイジを題材にした「Children at the Ritz」で注目を浴び、ハリウッドに脚本家として呼ばれる。ファースト・ナショナル・ピクチャーズでウィリアム・アイリッシュ名義で『妖怪屋敷(Haunted House, 1927)』や『恐怖の一夜(Seven Footprints to Satan, 1929)』などサイレント映画の字幕を担当していた。このハリウッドで、自らのホモセクシャリティに気づいたと言われている。ハリウッドでのキャリアが全く思わしいものにならず、ニューヨークに戻って、母とホテル暮らしをするようになった。その後、年々病で弱っていく母とホテルを渡り歩き、ミステリの短編を書いては「ダイム・ミステリ・マガジン」などのパルプ・マガジンに発表し続けた。

ウールリッチの作品は、謎解きや推理を楽しむミステリ・ファンからは敬遠されることがしばしばある。プロットが偶然性や予測不可能な事態に支配されて展開したり、事件の真相が荒唐無稽に近いあり得ない事象の連続だったことが明かされたりする作品が多いのだ。彼のファンであっても、「設定に無理がある」「謎解きとしては不十分」「偶然が重なり過ぎていて推理小説とは呼べない」といった点はほとんど認めている。エラリー・クイーンは、ウールリッチのプロットには「トラックが通れるくらいのでかい穴が空いている」とさえ言っている。では、なぜ当時ウールリッチの作品が人気になり、数多く映画化もされたのか。

ウールリッチを批判する者たちは、たぶんこんなことを言うだろう。チャンドラー、ケイン、ハメットといった白眉の作家たちはすべての点―――プロット、一筋縄ではいかない登場人物たち、無駄のない、正確な文体、切れ味の良い会話―――において優れているが、月並みなウールリッチが持っていたのは、たったひとつの特技だけだ、と。爪をかじるようなサスペンスだけは、書くことができる、と。リチャード・ドゥーリング

ウールリッチの作品は、その大部分が「タイム・リミットが迫るなか、なんとかして危機を脱出しなければならない」、「自分だけが犯人を知っていて、その犯人が今まさに自分を殺しに向かっている」、「自分は無実なのに、誰も信じてくれない」といった設定のなか、ほとんど無力に近い主人公が、その底知れない闇の淵から逃げ出そうともがく様子を描いている。代表作「幻の女」では死刑執行のタイムリミットに打ち負かされそうになりつつも真犯人を知る証人を探し出そうとする愛人や友人、「暁の死線」では、殺人事件を解決して、早朝のバスに向けて旅立とうする若い男女が、物語の中心にすえられる。

だが、そのサスペンスに満ちたプロットだけが魅力なのではない。最大の魅力は、巨大で、無慈悲で、暴力的な都会の、誰の目にもとまらない、埃をかぶった部屋の隅で、孤独に打ちひしがれた人間が、それでも最後に残った、あまりに小さな希望を見事に打ち砕かれそうになる(あるいは打ち砕かれる)、その瞬間を描ききっていることである。

First you dream, then you die.
まず、君は夢をみる。そして死ぬ。

これは、ウールリッチが残したメモに書いてあった言葉だという。この6つの単語は、彼の小説に登場する世界そのものだ。そして、この「夢」は往々にして悪夢である。

原作の「暁の死線」も、まさしくタイムリミットに向かって、ニューヨークの夜の腐食性の空気のなかで溶解して消滅しそうな運命に必死に抗っているタクシーダンサーの女性と、運悪く殺人の嫌疑をかけられそうな愚かな青年が、明け方までに無実を証明し、バスに乗って二人の故郷に帰ろう、という話である。タクシーダンサーとは、ダンスフロアに雇われた女性で、金を払った客の男性と制限時間のあいだ踊る、という仕事をしているダンサーのことだ。プロのダンサーになることを夢見て都会に出てきた若い女性たちが、敗北し、騙され、それでも食いつなぐためにつく、最後から二つ目の職業である。

ウールリッチの作品は、映画化されたものの数が比較的多い。ロバート・シオドマク監督『幻の女(Phantom Lady, 1944)』、アルフレッド・ヒッチコック監督『裏窓(Rear Window, 1954)』、フランソワ・トリュフォー監督『黒衣の花嫁(La Mariée était en noir, 1968)』などから、岡本喜八監督『ああ爆弾(1964)』まで、広く映画化されている。時には「夜の作家」と呼ばれることもあり、彼の原作の映画化作品のなかにはフィルム・ノワールに分類されるものも多い。

RKOが「暁の死線」の映画化権を買い上げたのが、1944年4月のことである。小説が発表されてすぐに買い上げているが、脚本化と撮影は翌年の1945年のことであった。

クリフォード・オデッツ

1930年代、恐慌の時代のブロードウェイを代表する演劇集団といえば、グループ・シアター、そしてその中核的存在が、演出家のハロルド・クラーマンと脚本家のクリフォード・オデッツだ。クリフォード・オデッツは1906年にフィラデルフィアでユダヤ人移民の一家に生まれ、ニューヨークのブロンクスで育った。高校を中退後、シアター・ギルドで俳優を目指し、グループ・シアターをクラーマン、リー・ストラスバーグらと立ち上げる。脚本の執筆は試行錯誤ののち、1935年に「レフティを待ちつつ(Waiting for Lefty)」で鮮烈なデビューを飾る。このタクシー運転手たちのストライキを題材にした舞台は、初演の際に「観客に衝撃波が走った」と評され、オデッツを一夜にして恐慌下の民衆の代弁者にし、その共産主義的なメッセージにも関わらず、当時の世情に広く共感を呼んだ。その後も「醒めて歌え(Awake and Sing !)」「ゴールデン・ボーイ(Golden Boy)」「夜ごとの衝突(Clash by Night)」などの作品が舞台化され、グループ・シアターのブロードウェイ、ひいてはアメリカ演劇界での地位を確立するうえで重要な役割を果たした。一方で、オデッツ自身は1936年からハリウッドに住み、そこで様々な映画脚本の仕事をしながら、グループ・シアターの活動を経済的に支援しようとしていた。

もともと、オデッツの作品では、その言語が、人々によって話されている言葉、特に都会の様々な人種のバーナキュラーから切り出された非常に活力に満ちたものだった。ところが、ハリウッドでの仕事を続けていくなかで、そういった側面は影を潜めていく。ひとつには、人種やエスニシティ、階級の摩擦を当時のハリウッドでは正面からとり上げることができなかったために、アメリカの社会に容赦ない分断をもたらす要因を解剖するオデッツの手際が鈍っていたことが挙げられる。さらに、恐慌や戦争といった現実からの「逃避」を観客が求めていると判断した製作者たちにオデッツ自身が迎合していった側面もある。それは、オデッツ自身が、ニューヨークの知識人たちのサークルから離れて、ハリウッドの実利主義に同化していったこととも無関係ではない。

オデッツが、それこそ彼自身がこいつは改心が必要だと思っているような、そんな人物たちと、やたらと仲良くしようとしているのが私には理解できなかった。・・・彼は、そういった人々の一人になろうとしていた。他に手がなければ、説得してでも、殴ってでも、仲間になろうとしていた。自分を卑下してでも同化しようとする、最も人間らしい行動パターンだ。 ハロルド・クラーマン

オデッツはハリウッドで『将軍暁に死す(The General Died at Dawn, 1936)』などの映画に脚本としてクレジットされているが、その他にもクレジットされていない多くの作品で脚本の仕上げや、原案提供をしている。『素晴らしき哉、人生!(It’s a Wonderful Life, 1946)』の原案、『汚名(Notorious, 1946)』の一部の脚本などが挙げられる。『孤独な心(None But the Lonely Heart, 1944)』などで演出も手がけた。

『暁の死線』の脚本は、クラーマンによれば「オデッツが(クラーマンに対する)好意で担当してくれた」のだという。プロットや設定は原作から大きく変更され、物語に「フーダニット」的な性格を持たせるために犯人も変えられている。

1930年代に共産党員だった彼は、1952年にHUAC(非米活動委員会)の公聴会に召喚される。エリア・カザンと彼は、グループ・シアターのなかでも特に政治的な活動の側面が目立っていたために、ターゲットにされたのである。カザンとオデッツは、証言でお互いの名前をあげようと約束していた。そしてオデッツは既に共産党員であることがわかっている人達の名前を証言することで、誰も裏切らずにブラック・リストから逃れることができると考えていた。確かに彼はブラック・リストに載ることはなかったが、多くの友人がオデッツを裏切り者として白眼視した。

オデッツが証言した直後に会ったマーチン・リット(彼自身、1950年代にブラック・リストに載っていた)は、その様子をこう述べている。

私は、彼のやったこと(公聴会で友人を売ったこと)を本当に憎んだ。オデッツは(公聴会で)何が起きたかひとしきり話した後、私に向かってこう言ったんだ。「そう言えば、君に話がある。今書いている脚本だが、君にぴったりの役があるんだ。脚本を読んでくれないか。夕食でもいっしょにどうだ?」奇妙にもほどがある。マーチン・リット

証言後、オデッツは再び脚本をハリウッド、ブロードウェイ、両方に提供するようになる。『成功の甘き香り(Sweet Smell of Success, 1957)』等の優れた作品を残したが、以前の仲間からの尊敬を取り戻すことはできなかった。

ハロルド・クラーマン

映画ファンには馴染みのない名前かも知れないが、20世紀のアメリカの演劇界にこれほどの影響をおよぼした人物は他にいない。もし挙げるとすれば、彼の妻、ステラ・アドラーだろう。

1901年にニューヨークに生まれたクラーマンは、コロンビア大学からフランスのパリ大学へ留学、演劇を研究した。ここで、モスクワ芸術座の舞台やジャック・コポーの作品に触れ、影響を強く受ける。アパートではアーロン・コープランドと一緒だったいう。

1924年にニューヨークに戻ってきてからは、シアター・ギルドに在籍しながらも、ひたすら新しい演劇を立ち上げることを目指し、1930年にリー・ストラスバーグ、シェリル・クロフォードらとグループ・シアターを立ち上げる。グループ・シアターのなかでは、彼は演劇の理論を長時間にわたってレクチャーするだけでなく、メンバーの精神的支柱でもあった。1935年にクリフォード・オデッツの「醒めて歌え」で演出をはじめて手がけるが、その後は「失われた楽園(Paradise Lost)」「ゴールデン・ボーイ」などを演出した。だが、グループ・シアターは1930年代の末に経済的に苦しくなり、1941年に解散してしまう。エリア・カザンはグループ・シアターでクラーマンの薫陶を直接受けた演出家のひとりである。

グループ・シアター後のクラーマンは、ハリウッドを訪れ、演劇の世界から少し距離を置いていた。この時期はクリフォード・オデッツの主催するパーティーに顔を出しながら、交友関係を広げつつ、グループ・シアターの歴史を綴った「The Fervent Years」を執筆していた。このモラトリアムの時期に、たった一本だけ映画の監督をしたのが『暁の死線』だった。

映画作りに対する私の無頓着な態度を毛嫌いする人もいたようだ。スケジュール通りに仕上げたうえに、それなりの利益も上げたからね。ハロルド・クラーマン

この映画をどういう経緯でクラーマンが監督することになったのかは、本人はあまり語っておらず、他の関係者の証言もない。また、この作品の後、なぜ彼が二度と映画製作に近寄らなかったかも不明だ。

だが、当時、RKOでやはり監督をしていたリチャード・フライシャーが自伝にこんなことを書いている。

(プロデューサーのシド・ロジェルが、クラーマンに向かって)「雨?クソみていに雨を降らせるのにどんだけ金がかかるのか知ってんのか?なんで雨が降ってなきゃいけないんだ?」
「雰囲気を出すためです。」クラーマンは答えた。「映画のオープニングですから」
「雰囲気?そんなものクソだ。雨はなしだ。」
「ちょっと待って下さい。」そら始まるぞ、と私は思った。大喧嘩だ。舞台監督の大御所をボロクソに言ってはいけない。
「わかりました。雨は無しで。砂埃はどうですか?」クラーマンが言った。
ああ、私の導者。私のヒーロー。リチャード・フライシャー

リチャード・フライシャーは、当時のRKOの事実上の製作トップ、シド・ロジェルに気に入られていた。ロジェルとクラーマンのやりとりも、フライシャーがロジェルのオフィスで直接見たものだという。この話にどれだけの信憑性があるかはさすがに不明だが、クラーマンにとって、RKOでの経験が決して楽しいものではなかったことは容易に想像できる。プロデューサーとして、エイドリアン・スコットの名前があるのだが、この映画に関しては、スコットが果たした役割も明確ではない。クラーマン自身が「この時期は本の執筆に忙しかった」と述べているが、必ずしも誇張ではなかったのかもしれない。

クラーマンは、この変則的な映画界への挑戦のあと、1946年頃から舞台のプロデュース、演出の仕事に戻り、アーサー・ミラーの「みんな我が子(All My Sons)」を皮切りに精力的に活動する。クラーマンのもとで演技の指導を受けた俳優は数知れないが、リー・J・コッブ、モリス・カーノスキー、ジョン・ガーフィルド、カール・マルデン、マーティン・リット、ハワード・ダ・シルヴァ、後に映画監督になったマイケル・ゴードンらグループ・シアターのメンバーのみならず、サム・レベン、アーサー・ケネディ、ユタ・ヘーゲン、エセル・ウォーターズなどがいる。ユタ・ヘーゲンはクラーマンの舞台での演技指導を受けた時に「開眼した」と著書「Respect for Acting」のなかで述べている。

クラーマンの影響力の大きさは、彼の影響を受けた人物たちが始めた活動にこそある。ステラ・アドラーのステラ・アドラー俳優養成所、エリア・カザンのアクターズ・スタジオ、ユタ・ヘーゲンのHBスタジオが生み出した俳優たちが今のブロードウェイとハリウッドの礎を成している。マーロン・ブランド、ジュディ・ガーランド、エリザベス・テイラー、ロバート・デニーロ、マーティン・シーン、ハーヴェイ・カイテル、メラニー・グリフィス、ピーター・ボグダノヴィッチ、ウォーレン・ビーティ、ニック・ノルティ、アンソニー・クィン、シビル・シェパードらはアドラーの養成所出身、ジーン・ワイルダー、フェイ・ダナウェイ、ハル・ホルブルック、サンディ・デニス、グリフィン・ダン、リー・グラント、アイリーン・ヘッカート、ジャック・レモンらがHBスタジオの出身である。

ハンス・アイスラー

『暁の死線』の音楽を担当しているのが、新ウィーン楽派出身でベルトルト・ブレヒトの音楽を担当したハンス・アイスラーである。ライプツィヒ生まれのユダヤ人で、19歳のときにアルトルト・シェーンベルグの弟子となり、十二音法の作曲を学ぶ。1920年代後半にベルリンに移ったアイスラーは共産主義運動に没頭し、政治的なメッセージを色濃く持つ作品を作曲し続ける。ここで、ベルトルト・ブレヒトと知り合い、彼の舞台作品の音楽も手がけるようになった。ナチス・ドイツの台頭とともにアメリカに亡命、ハリウッドでは映画音楽を作曲した(『死刑執行人もまた死す(Hangman Also Die, 1944)』『孤独な心』)。HUACの公聴会で共産主義者として名指しされたのち、東ドイツに「帰国」。東ドイツ民主共和国の国歌の作曲家として知られる。アラン・レネ監督の『夜と霧(Nuit et brouillard, 1955)』の音楽も担当した。

メディアが経済、政治と不可分の関係となった二十世紀において、アイスラーは音楽と社会のあり方に注目し、師匠のシェーンベルグの中産階級的な保守主義を厳しく非難することもあった。渡米直後にロックフェラー財団の資金を得て、映画と音楽、自然音と合成音との関係を模索するというテーマで研究を開始している。ロックフェラー財団は亡命芸術家、人文学者に対して寛大な予算をあてることで有名で、ヨリス・イヴェンス、テオドール・アドルノなども、ここの資金で研究をしている。アイスラーは20000ドルという破格の予算を得て、この研究に取り組み、その成果は「Composing for Films」というテオドール・アドルノとの共著となった。

将来、テクノロジーは芸術に無限の機会を提供し、最も粗悪な映画においてさえ、そのような機会が強烈に立ち現れることがあるだろう。ハンス・アイスラー、テオドール・アドルノ

Reception

公開時のプレスの反応は上々だった。

クリフォード・オデッツはウィリアム・アイリッシュの小説から活気に満ちた出来事をかき集め、キレの良い会話を吹き込んで見事に仕上げている。監督のハロルド・クラーマンは、そのストーリーをカメラの前でセンスよく雰囲気や動きを配置して、全体の展開もきびきびとしていて上出来だ。New York Times

オデッツの脚本と俳優陣の演技に関しては好評価が寄せられている。

今までもスターを効果的に引き立たせる作品を数多く手がけてきたクリフォード・オデッツが丁寧にプロットを紡ぎ出している。そして、スーザン・ヘイワード、ポール・ルーカス、ビル・ウィリアムズをはじめとした俳優陣が実力をいかんなく発揮している。Motion Picture Herald

当時の劇場の反応は、「平均以上」といったところだろうか。

これは深夜の上映回か、二本立てにいいだろう。一本だけの興行には弱すぎる。深夜興行の客は喜んだ。ミシシッピ州プレンティス、リッツ劇場支配人 ジム・D・ロフリン
なかなかいい「フーダニット」だが、興行は薄め。来た客には受けはいいが、引きは弱い。オクラホマ州デューイ、パラマウント劇場支配人、E・M・フライバーガー
展開ののろい殺人ミステリで客の入りは悪い。このキャストはいいが、もっと他のいい映画があっただろう。特にポール・ルーカス。ウェスト・ヴァージニア州リブビル、ステート劇場支配人、ニック・ラプサ

クラーマンの言った「それなりの利益」は実際にどれくらいのものだったかは明確ではないが、1946年の興行成績トップ60には入っておらず、ほとんどの劇場が2~3週以内に打ち切っているので、全体的には低調だったようだ。

『暁の死線』は、ハリウッド映画史、特にフィルム・ノワールのなかでは凡庸な作品として位置づけられてきた。コーネル・ウールリッチとフィルム・ノワールの関係について長年にわたって研究しているフランシス・M・ネヴィンスは、エイドリアン・スコット、クリフォード・オデッツ、ハロルド・クラーマン、ハンス・アイスラーという当時最も優れた創作活動をしていた左翼知識人たち(そしてこのうち3人は、この直後にHUACによって赤狩りの対象になるのだ)が手がけた作品であるがゆえに、ウールリッチの夜の世界を強烈に政治化した作品が生まれるのかと誰もが期待するだろう、だが結果は違った、と述べた。

この四人は、(このウールリッチの作品を)典型的なフーダニットにしたうえに、なんだか高尚な意味をつけようとした。原作よりは引き締まった構造になっているが、原作の持っていたキャラクターは失われ、サスペンスもなく、プロットはきっかけとして使用する以外は使われておらず、政治的な内容もない。フランシス・M・ネヴァンス

とは言え、ニコラス・ムスラカとハロルド・クラーマンの描く夜のニューヨークは、スタジオ撮影にも関わらず、「ウールリッチの深夜のニューヨーク」を見事に描き出している。

ミゼンセーヌだけをとっても、『暁の死線』はニューヨークの夜の人々の静謐な絶望をとらえている。ロバート・ポルフィリオ

公開当時はオデッツの脚本が「引き締まっている」と評価されていたのだが、時がたつにつれその欠点が浮き彫りになり、「会話についての概念が奇妙(ネヴァンス)」とまで言われるようになった。悪い意味で古臭くなってしまったのだろう。

Analysis

都市の底なしの闇夜

The night was young, so was he. But the night was sweet, and he was sour.
“Phantom Lady”, William Irish (Cornell Woolrich)

ウィリアム・アイリッシュ/コーネル・ウールリッチの「幻の女」、これは非常に有名なそのオープニングの一文だ。この作品は江戸川乱歩が絶賛したこともあって、日本でも知名度が高い。「暁の死線」も日本語への翻訳が人気の作品のようだ。

上の有名なオープニングが、果たしてウールリッチを代表する名文かどうかは異論もあるだろう。しかし、彼の文体には、読者の感情移入を強引に呼び込む仕掛けがある。例えば、都市の情景とそこに住む人々の倦怠や失望が脈絡なく連結されていくような仕組みだ。そのやり方は比喩と呼ぶには直截的、感情的で、時にはバタ臭さの境界を超えそうになっているものもある。

More blocks. More flickering street-lights seeping in. New York’s such a long city, especially when you’re riding lengthwise through it — to the end of all your hopes.
Deadline at Dawn, William Irish (Cornell Woolrich)

これは深夜のニューヨークをタクシーで走っている時の窓外の情景を表現している箇所である。どこまで行っても区画が続き、街灯が見える。ニューヨークは「縦に長い」都市なのだ。その「縦に長い」向きに沿って車で走っていく。「君のすべての希望の果てまで」。この文脈で「to the end of all your hopes」は必要だろうか?大体、この「all your hopes」の「you」は誰なのか。ブリッキー(映画ではジューン)が自分に向かって心のなかでつぶやいているのか?物語を語っている「声」が、読者である私たち「you」に語りかけたのか?夜のニューヨークの街の広さを説明するために、なぜ脈絡なく「the end of all your hopes」を持ち出す必要があるのか?なぜ、下手をすれば安っぽく、ティーンエージャーの日記に出てきそうな「希望の果て」などという表現を使ったのか?

もちろん、他の小説家や作家でも、このような比喩ともなんともとれない表現がみられることがあるが、ウールリッチの場合は、こういった表現が、繰り返し積み重ねられていくことで、実際にプロットで起きていることとは別の次元で、読者の思考に感情が混合されていく。フランシス・ニヴェンスは、これを「熱でうなされているようなエモーショナリズム」と呼んだ。

オデッツの脚本は、このエモーショナリズムをどのように写し取ろうとしたのだろうか。プロットは大幅に書き替えられ、全体的に余計な枝葉はかなり削ぎ落としている。「様々な人間模様」にまつわるエピソードが組み込まれて、夜の都会の姿を浮き彫りにしようとしているのが分かる。しかし、決して成功しているとは言い難い。例えば、飼い猫が鳥の骨を喉に詰まらせてしまい、獣医に駆けつける男のエピソードは、孤独な男の悲哀を描こうとしているが、ウールリッチの技法に比べれば感情の熱量が圧倒的に足りない。

It’s too late. I see now. It’s too late. My dearest friend in the whole world. From a chicken bone. You can’t feed a cat chicken bones. My dearest friend. I’m a janitor in a house. This is my companion. She did everything but speak.
遅すぎた。ようやくわかった。遅すぎたんだ。この全世界でたった一人の親友。チキンの骨で死んだんだ。猫にチキンの骨なんかやってはいけない。親友。私は掃除夫でね。この子だけが私の親友だったんだ。この子は話す以外のことはなんだってやった。

孤独な男の独白を取り入れているのだが、ウールリッチに見られるような畳み掛ける感情の発露が欠けている。ウールリッチの「暁の死線」に登場する孤独な男のセリフはこんな感じだ。

What’re you following me for? What are you trying to do to me? I can’t stand it. Ain’t I scared enough? I’m scared of the dark and scared of the lights, I’m scared of sounds and scared of stillness. I’m scared of the very air around me. Let me alone —
なんで私をつけまわしているんだ?私に何をしようと言うんだ?我慢できないよ。もう嫌というほど私のことを怖がらせたじゃないか。暗闇が怖いし、光が怖いんだ。音がすれば怖いし、静かなのも怖いんだ。自分のまわりの空気さえ怖いんだ。ほっといてくれ。

この男は途中までは、追いかけてきたクイン(映画ではアレックス)を非難しているのだが、怖がっている(scared)ことを語り始めると、まるでうなされたように止まらなくなってしまう。これはクインとの遭遇から来る恐怖心ではない。この男は普段からずっと恐怖にさらされているのだ。しかもその恐怖は何か具体的な危機や脅威からくるものではない。何か神経症的な恐怖、「自分のまわりの空気」さえ怖いという、捉えがたい恐怖である。

オデッツは恐慌の時代の不安と苦痛を背景に登場した作家である。彼の作品の底には時代への怒りや悲しみがある。だが一方で、その視線には政治的な批判がこめられており、特にアメリカン・ドリームが経済的な成功にくくりつけられている風潮に厳しい目を向けていた。それは「ゴールデン・ボーイ」のような作品に明確にあらわれている。ウールリッチもやはり恐慌の時代を描き続けた。しかし、ウールリッチにとって恐慌という時代は、人間の存在が根源的に抱える絶望を再確認するための静的な背景でしかなく、政治的な視線など皆無である。彼にとっては、人間はどこに行こうが、いつの時代であろうが、夜の時間に絶望する生物なのである。

オデッツの言葉とウールリッチの言葉が向かう方向のずれは、映画『暁の死線』において、それぞれのテーマが不完全燃焼する結果となった。脚本はサスペンスの平面においてのみ機能しようとし、原作のもつもう一つの側面 ――夜の闇のなかの絶望―― を描くことを放棄したようにさえ思える。オデッツの描こうとしたのは、説明のつく寂しさであり、理由がある悲しみである。この映画が、ウールリッチの原作のもつポテンシャルを最大限に活かしきることができずに、サスペンスとしてもフーダニットとしても中途半端に終ってしまったのもそこに原因がある。

闇と影

ロバート・ポルフィリオは、前述のようにニコラス・ムスラカとハロルド・クラーマンの視覚的な演出を肯定的に評価し、RKOのスタジオでの撮影にも関わらず、ニューヨークの夜の風景を見事に再現したと指摘している。確かにこの作品に現れる夜のニューヨークは、スタジオ撮影だということは一目瞭然であるにも関わらず、広い空間と影に覆われたストリートを効果的に撮影している。

ニコラス・ムスラカは、ジョン・オルトンと並んで、フィルム・ノワールを論じる上で不可欠な撮影監督である。『3階の見知らぬ男(Stranger on the Third Floor, 1940)』、『キャット・ピープル(Cat People, 1942)』、『らせん階段(Spiral Staircase, 1946)』、『過去を逃れて(Out of the Past, 1947)』など1940年代のRKOを代表する映像を作った張本人だと言ってもいいだろう。『暁の死線』のビジュアルは、記念碑的作品『3階の見知らぬ男』のそれを踏襲し、スタジオのセットでニューヨークの通りの夜を再現、画面を彩るパターンのように影を駆使している。「ドイツ表現主義的」という形容詞が、フィルム・ノワールの文脈で使用される場合、多くはムスラカが関与した作品が想定されているようだ。

だが、この頃のムスラカは、「影」をミゼンセーヌとして用いていた。すなわち、先に照明が存在していて、あくまで「影」は画面の構図をつくる一つの要素なのである。例えば、上のショットの構図にしても、影は印象的ではあるが、あくまで画面を構成する要素にすぎない。ジューンは、ひっくり返されたフロアランプの光によって右から強く照らされていて、彼女のコントラストの強い影が壁に映っている。だが、そのフロアランプの照明には、部屋の中のディテールが十分に見えるだけの光量があり、その照らし方は当時のコンヴェンションから逸脱しているかもしれないが、画面全体を照らす、という原則が破られているわけではない。

しかし、これはウールリッチが描こうとしていた世界のあり方とは原則的に違う。

ウールリッチの原作を読んでいて気づくのは、ニューヨークの夜の街を表現する際に、先に闇が存在していて、そのなかに光が存在している、という関係が常に意識されていることだ。闇の暗さや底なしの暗黒を詳しく叙述したりしない。ウールリッチは、数件先のウィンドーから漏れる光の明るさを描き、沈黙している交差点のガソリンスタンドの売店の電灯の頼りなさを表現する。これは常套手段ではあるが、光の儚さを描写することで、闇の揺るぎない支配をより一層感じさせることができる。

こう見ていくと、ビジュアルにおいても、題材に対してズレが存在しているのが分かる。

これはムスラカとクラーマンの判断というよりは、当時のRKOというスタジオの判断という側面が強い。全てをセットで撮影し、たとえローキーの照明を使用する場合でも、コマ全体を十分露光するだけの光量を用いていたのだ。ある意味で、戦前の画面を維持しようとしていたのである。

ちなみに、フィルム・ノワールのビジュアルにおいて、先に闇が存在していて、そこに光が配置されていく、というアプローチをとったのがやはりジョン・オルトンであろう。

『暁の死線』は、当時のアメリカにおいて、非常に影響力があり、かつ想像力に富んだ人材がかき集められた作品だった。原作者のウールリッチは都会のなかに生きるニューロティックな孤独を描く、最も優れた書き手だった。だが、脚本と演出は、都会が原理的に絞り出す絶望的な孤独を解剖することなく、サスペンスとして処理することを選んだ。それは、脚本のオデッツがアメリカという土地における「夢」のあり方を探求する作家であったことが最大の原因だろう。ウールリッチも「夢」を描くが、それは常に悪夢だ。

さらに当時のRKOというスタジオが訴求していたスタイルが、この作品にはそぐわなかった。

こういったズレが、原作でクインとブリッキーがニューヨークから脱出しなければならない理由と、映画でアレックスとジューンが脱出しなければならない理由の差となってあらわれてくる。原作に登場するニューヨークは、どの闇にも墓穴以上に恐ろしい場所が潜んでおり、ブリッキーは何としてでもそこから脱出しなければならない。映画では、アレックスの部隊への復帰が理由なのだ。実際、映画のニューヨークは恐怖も感じなければ、絶望的な闇も登場しない。それはRKOが様々な映画で描き続けた、プロセスショットやハリボテのセットでできた、夜のニューヨークだ。むしろ、ウールリッチのニューヨークよりも魅力的でさえある。

ウールリッチもオデッツも恐慌のなかから登場した作家だ。いずれも読後に強烈な印象を残す作品を書いている。しかし、この映画『暁の死線』に関して言えば、オデッツはウールリッチの闇を探求することはせずに、スタジオの製作プロセスの枠のなかに押し込んでしまった。

実は、ウールリッチを原作とする作品のなかで、彼の闇を描ききった映画、フィルム・ノワールであろうとなかろうと、そんな作品はほとんどない。彼の精神が最もノワールの暗黒に近いにも関わらず。

Links

New Yorkerに掲載されたこのエッセイは、クリフォード・オデッツの生涯を様々な角度から分析しており、読み応えがある。

PBSのAmerican Mastersで取り上げられたハロルド・クラーマンの生涯は、アメリカの演劇界において彼の影響力がいかに大きかったかを思い知らされる。特にロイ・シャイダーとカール・マルデンの証言は必見。

Data

RKO配給 4/3/1946公開
B&W, 1/37:1
85分

製作エイドリアン・スコット
Adrian Scott
出演スーザン・ヘイワード
Susan Hayward
監督ハロルド・クラーマン
Harold Clurman
ポール・ルカス
Paul Lukas
脚本クリフォード・オデッツ
Clifford Odets
ビル・ウィリアムズ
Bill Williams
原作ウィリアム・アイリッシュ
William Irish
ジョセフ・カレイア
Joseph Calleia
撮影ニコラス・ムスラカ
Nicholas Musuraca
オサ・マッセン
Osa Massen
音楽ハンス・アイスラー
Hanns Eisler
ローラ・レーン
Lola Lane
編集ローランド・グロス
Roland Gross
ジェローム・コーワン
Jerome Cowan

References

[1] H. Clurman, All people are famous (instead of an autobiography). New York, Harcourt Brace Jovanovich, 1974.
[2] T. W. Adorno and H. Eisler, Composing for the Films. A&C Black, 2005.
[3] A. Betz, Hanns Eisler Political Musician. Cambridge University Press, 1982.
[4] “Harold Clurman | About Harold Clurman | American Masters | PBS,” American Masters, 02-Dec-2003. .
[5] Richard Fleischer, Just tell me when to cry. Carroll & Graf Publishers, 1993.
[6] W. Smith, Real Life Drama: The Group Theatre and America, 1931-1940. Knopf Doubleday Publishing Group, 2013.
[7] R. B. Jewell, Slow Fade to Black: The Decline of RKO Radio Pictures. Univ of California Press, 2016.
[8] “Stage Left | The New Yorker.” [Online]. Available: https://www.newyorker.com/magazine/2006/04/17/stage-left.
[9] H. Clurman, The fervent years; the story of the Group Theatre and the thirties. New York, Harcourt Brace Jovanovich, 1975.