Kiss of Death

20世紀フォックス配給
1947
フィルム・ノワールとか呼ばれてる映画のほとんどは、
ただ単にカラーで撮る金がなかっただけだよ。
―― リチャード・ウィドマーク

Synopsis

宝石強盗で捕まったニック・ビアンコ(ヴィクター・マチュア)は、副検事のディアンジェロ(ブライアン・ドンレヴィー)に司法取引をするように持ちかけられる。しかし、「妻と二人の子供の生活は保証するから、司法取引をするな」と弁護士に説得され、ニックは懲役二十年の刑に服することになる。ところが、数年後に妻は自殺、子供は孤児院送りになったことを知り、ニックはディアンジェロ副検事と取引をする決心をした。副検事は、ニックに服役中に知り合ったトミー・ユードー(リチャード・ウィドマーク)と再会するように命じる。トミーの犯罪を暴くためだ。

Quotes

Tommy Udo: You know what I do to squealers? I let ’em have it in the belly, so they can roll around for a long time thinkin’ it over. You’re worse than him, tellin’ me he’s comin’ back? Ya lyin’ old hag!
トミー・ユードー:俺がタレコミ屋をどうするか、知ってるか?腹に撃ち込むのさ。そうすりゃ、考えながら長いあいだ転げ回ってるだろ。お前はタレコミ屋の息子よりタチが悪いぜ。「そのうち帰ってくる」?この嘘つきババア!トミー・ユードー(リチャード・ウィドマーク)

Production

シオニストたちの饗宴

原作のエリアザー・リプスキーは、1942~46年のあいだ、ニューヨーク郡の副検事をつとめていた。1946年からは、弁護士として活動するかたわら、数多くのミステリ小説、短編を発表している。この映画の原作となったのは100ページあまりの原稿で、20世紀フォックスが1946年の11月に買い上げている。製作発表時は「ローレンス・L・ブレイン」という名で報道されていた。この作品に登場する副検事、ディアンジェロは、勿論リプスキー自身がモデルである。リプスキーは、この映画の製作中、「テクニカル・アドバイザー」として20世紀フォックスに雇われていたが、具体的な関与は不明である。彼は、その後も「マーダー・ワン(Murder One)」、「ジョニー・オハラの真実(The People Against O’Hara)」などの作品を発表し、後者はスペンサー・トレイシー主演でMGMから映画化もされている。エリアザーの父、ルイス・リプスキーは米国におけるシオニスト運動の創始者であり、エリアザーも後半生をシオニスト運動に捧げている。

脚本を担当したのは、ベン・ヘクトとチャールズ・レデラー。ハリウッド史上、最も有名でかつ評価の高い脚本家のうちの二人である。1930年代から、チクリと刺すようなウィットに富んだスクリューボール・コメディや、翳りが漂う正統派のサスペンスを量産した脚本家たちだ。『フロント・ページ(The Front Page, 1931)』、『モンキー・ビジネス(Monkey Business, 1952)』のように共同で執筆したものも多い。二人ともユダヤ人であるが、特にヘクトは筋金入りのシオニストで、『死の接吻』が公開された1947年には、ユダヤ人過激派によるイギリスでのテロ行為を賛美する声明を発表し、物議をかもしている。

ダリル・F・ザナックは、当初からベン・ヘクトにこの作品の脚本を任せることを検討していた(当時、ヘクトはフリーランスだった)。当初のタイトルは「タレコミ屋(Stoolpigeon)」、その後「ブラインド・デート(Blind Date)」となったが、コラムニストのヘッダ・ホッパーが、警察の仕事を「死の接吻(Kiss of Death)」と呼んでいるのをザナックが気に入って、それが採用された。

パワハラ監督、ヘンリー・ハサウェイ

ベルギーの貴族(ハワイの植民地化を目論んだジャン・バプティスト・ド・フィエンヌ)の血をひくハサウェイは、サイレント時代から助監督としてヴィクター・フレミング、ジョセフ・ヴォン・スタンバーグなどの作品に関わり、1932年にランドルフ・スコット主演の西部劇で監督デビューを飾った。パラマウントでは、ゲーリー・クーパーと組んで『ベンガルの槍騎兵(The Life of a Bengal Lancer, 1935)』などのヒット作を次々と送り出し、監督としての地位を手堅いものにしている。20世紀フォックスに移り、1945年の『Gメン対間諜(The House on 92nd Street, 1945)』以降、ルイ・ド・ロシュモンが始めたセミ・ドキュメンタリータッチの作品を数多く監督し、この『死の接吻』はそのサイクルの作品群のなかでも最も成功したもののひとつである。

ヘンリー・ハサウェイは、今で言う「パワハラ」監督であり、あらかじめスタッフやキャストに「ボロクソに怒鳴り散らすが、まあ気にしないでくれ」と断ってから撮影に入っていたという。しかし、『死の接吻』に抜擢された二人の男優と一人の女優は、「気にしないでは済まされない」という態度を明確にして、ハサウェイの暴言や怒号を受け流すことを良しとしなかった。ニックを演じたヴィクター・マチュアは「じゃあ俺も気に入らない監督がいたらぶん殴るから、まあ気にしないでくれ」と返したという逸話がある。もう一人の男優、リチャード・ウィドマークは、彼をまるで新人扱いするハサウェイに対して、自らが舞台の経験も豊富な役者であることを主張し、撮影をボイコットした。ハサウェイは、ウィドマークを呼びにやり、ハサウェイ、助監督、ウィドマークの三人で無言のまま昼食をとった。これがハサウェイなりの謝罪だったようだ。ニック・ビアンコの新しい妻、ネティを演じるコリーン・グレイもハサウェイの暴言にさらされ、そのままボイコット。ハサウェイがグレイの自宅まで追いかけて「もう二度としない」と約束をした。

ハサウェイは「リアリズム」に対して執着し、そのやり方はしばしば常軌を逸した言動となってあらわれた。ラストシーン、トミー・ユードーと警察の撃ち合いのシーンの撮影に入る直前、ハサウェイはウィドマークの耳元で小道具の拳銃を撃つ、という乱暴なことをしている。度肝を抜かれたウィドマークに、ハサウェイは「このシーンには、そういう緊張感が必要なんだ」と言ったらしい。また、この映画の最も有名なシーン、トミー・ユードーが車椅子のリッゾ夫人を階段から突き落とすシーンは、実際に車椅子に乗ったリッゾ夫人役のミルドレッド・ダノックをウィドマークが階段から突き落として撮影している。ダノックは非常に嫌がったが、ハサウェイは階段の下に陣取って「私が下敷きになるから大丈夫だ」と説得した。実際、恐怖で叫びながら落ちてきたダノックに、ハサウェイは押しつぶされてしまう。ところが、このショットが失敗。フォーカス・プラー(カメラの焦点を調整する係)がぼんやりしていたという。フォーカス・プラーをクビにした後、ハサウェイが再度ダノックを拝み倒して撮影したという。いかに当時のスタジオ・システムが監督の権限を非人道的なレベルまで保証していたとは言え、ハサウェイのこういった演出は当然スタッフやキャストからは嫌われた。

ニューヨークでのオールロケ

撮影監督は、サイレント期からハリウッドで活躍しているノーバート・ブロディン。特に1940年代から『Gメン対間諜』、『記憶の代償(Somewhere in the Night, 1946)』、『鮮血の情報(13 Rue Madeline, 1947)』、『深夜復讐便(Thieves’ Highway, 1949 )』といったフィルム・ノワール作品を数多く担当した。20世紀フォックスがセミ・ドキュメンタリーのスタイルを確立するうえで重要な役割を果たしている。

『死の接吻』は、ニューヨークでのロケーション撮影が主体となっている。クライスラー・ビル、シンシン刑務所、トゥームズ、などのニューヨークの建物や、クイーンズ地区の街路などを利用して、当時のニューヨークの雰囲気を余すところなくおさえた撮影だ。撮影時には、ロケーション撮影につきものの問題である、野次馬の整理と機材の運搬や設置にも悩まされている。野次馬の整理には警察官50人の出動を要請した。機材の運搬はかつてない、非常に大掛かりなものとなった。撮影機材の総重量は40トンにも上り、6台の大型トラックで使って、76もの現場へ運んでいる。

オープニングで、宝石強盗を働いたビアンコ一味がエレベーターを使って逃げるシーンは、実際にエレベーターの内部で撮影されている。広角レンズで目一杯被写体を近づけて、エレベーターの狭い空間での閉塞感を増幅した。ブロディンは16mmの手持ちカメラを特製の金属製フレームで固定し、カラーフィルムで撮影した。それを35mmの白黒フィルムにトランスファーしたのだという。

エレベーター内の照明には、3キロメートル以上のケーブルを搬入して撮影した。

映画のクライマックス、ユードーと警察との銃撃戦は、当初の予定ではバスのなかで起きる予定だった。ハサウェイはそのラストに関して疑問を持っていたが、ザナックがヘクトとレデラーの脚本に全幅の信頼をおいてゴーサインを出した。ところが実際に出来上がったものは、説得力に欠ける、散漫なシーンとなってしまったようである。このラストシーンだけは、ニューヨークロケが終了したあとで再撮影が決定し、フォックスのハリウッドのセットで撮影されている。

サイコパス、トミー・ユードーが生まれるまで

当初、トミー・ユードー役としてジェームズ・キャグニーが発表されていた。そこからリチャード・ウィドマークがキャスティングされるまでの経緯はどうもはっきりしない。ハサウェイは、自分がウィドマークをトミー・ユードーとしてキャスティングしたと後年のインタビューでは語っている。ハサウェイは、ウィドマークをひと目見て「プロすぎる」と考えていた。ところが、ウィドマークにカツラを着用させてスクリーン・テストをしたところ、トミー・ユードーの役にピッタリだと感じ、そのまま採用したという。一方で、ウィドマークは、若干異なる経緯を語っている。ウィドマークのスクリーン・テストを見たハサウェイは、「青臭い」とダメ出しをしたらしい。そのうえ、ハサウェイは、ニューヨークのナイトクラブに出入りしている「ヒップスターのハリー」がピッタリで、彼をユードー役に抜擢すると言いはじめたのである。ハサウェイの判断を疑問に思った製作担当マネージャーがザナックに相談、ウィドマークのスクリーン・テストを見たザナックの判断でウィドマークが採用されたと言う。自分を飛び越してザナックに相談されたことに恨みをもったハサウェイは、少々八つ当たり気味にウィドマークに辛辣な態度をとったという。(しかし、ウィドマークは、その後ハサウェイと親しくなり、ハサウェイの葬式では彼の棺をかついでいる。)

実際にウィドマークは、この作品でカツラを着用して髪の生え際を「戻し」、額を狭く見せている。このカツラのおかげでトミー・ユードーの異常性が際立って見えるようになった。トミー・ユードーの演技については、「あの笑い」以外は脚本そのままだ、とウィドマークは語っている。

プロダクション・コードを運営するPCAは、『死の接吻』の初稿の脚本を「まるで、タレコミ屋がいないと司法が機能しないような印象を受ける」として却下した。その後、ニューヨーク郡の元副検事が映画のアドバイザーとして参加していると分かって、PCAは「ならばよろしい」と強硬姿勢を解いたようだ。ただし、ドラッグ使用を示唆するシーンや、前述の階段から車椅子の女性を突き落とすシーンなどに対しては、やはりPCAは強い懸念を示していた。だが、これらのシーンは結局削除されることなく、公開プリントに採用されている。

製作費は、広告費込で$2,523,000であった。

Reception

公開当時には、好意的な評価が多い。

最近の作品のなかでは、最もサスペンスに満ちた、手に汗握る映画のうちのひとつだ。The Film Daily

 

目の覚めるようなリアリズムと強烈なドラマの強度だけでなく、この映画は興行的に客を呼べる名前が並んでいる。ヴィクター・マチュアにブライアン・ドンレヴィー、そして血も凍るようなサイコパスの殺し屋を演じたリチャード・ウィドマークもトップクラスの役者だ。Motion Picture Daily

脚本に言及する批評も数多く見られる。

ベン・ヘクトは、自らがよく知る領域に戻って、チャールズ・レデラーの協力を得ながら、脚本に新しいランドマークを打ち立てた。普通のメロドラマで見られるテンションよりもはるかに高いテンションで始まり、全く驚くべき結末にむけて着々と進んでいくが、信憑性の高いものになっている。Motion Picture Herald

サスペンス映画に厳しいニューヨーク・タイムズ紙でさえ、ウィドマークの演技を高く評価している。

トミー・ユードー―――ビアンコが名指しし、復讐を怖れて恐怖におののいているサイコパスの殺し屋―――はこの映画が初出演のウィドマークが演技賞を総なめするであろう。New York Times

公開後、トミー・ユードーのキャラクターは一躍人気となり、あちこちの大学の男子寮で「トミー・ユードー・ファンクラブ」が結成されたという(真偽のほどはあきらかではない)。この映画の公開後数年間、ウィドマーク自身が怖れていたとおり、彼はこういった非情なサイコパスの役にタイプキャストされてしまう。『情無用の街(The Street with No Name, 1948)』、『深夜の歌声(Road House, 1948)』など犯罪映画だけでなく、『廃墟の群盗(Yellow Sky, 1948)』のような西部劇でも似たような役柄を期待されてしまった。このタイプキャストから逃れることができたのはエリア・カザン監督の『暗黒の恐怖(Panic in the Streets, 1950)』を待たねばならなかった。

1948年には、ヴィクター・マチュア、コリーン・グレイ、リチャード・ウィドマークが、ラジオ版をラックス・ラジオ・シアターで演じた。1958年には、西部劇に翻案した『荒野の悪魔(The Fiend Who Walked the West, 1958)』も製作された。

1995年に、デヴィッド・カルーソ、ニコラス・ケイジ出演でリメイクされている。

レイモンド・ボード/エティエンヌ・ショーモンは、フィルム・ノワールが画期的な歴史的事件であったことの一つの例として、『死の接吻』のリチャード・ウィドマークが演じたトミー・ユードーというキャラクターを挙げている。ジャン・ピエール・シャルティエは、ショックや驚愕に依存するフィルム・ノワールがその新鮮さを失っていく過程の最後の輝きとして、ベン・ヘクトとハサウェイの仕事を取り上げている。

ある日、ベン・ヘクトは、エリアザー・リプスキーのひどい小説から、犯罪映画のジャンルのすべての類型をn次元まで含んだ見事な脚本を書き上げ、この退潮にケリをつけた。ジャン・ピエール・シャルティエ

以来、『死の接吻』はウィドマークの演技とともに、フィルム・ノワールを代表する作品として必ず挙げられる。一方で、この作品がセミ・ドキュメンタリー・スタイルと従来のフィルム・ノワールの要素を混在させてしまっており、全体として統一された「美学」を維持していない、という批判も少なくない。

多くの点において、『死の接吻』は不満の残る映画である。ドキュメンタリーのスタイルとメロドラマティックな物語、欠点の多い演技と演出の実に座りの悪い夾雑物になっている。ブルース・クローサー

ひょっとすると、ジョン・ウェインが『アラモ(The Alamo, 1960)』の撮影の時に、初対面のウィドマークに放った言葉が、この映画を最もよく体現しているのかもしれない。

Here comes that laughing sonofabitch.

『死の接吻』リチャード・ウィドマーク、ヴィクター・マチュア

Analysis

受難と裏切り

ニック・ビアンコは受難者か、それとも裏切り者か。

ベン・ヘクトとチャールズ・レデラーは、ニックの物語を、ある一人の運に恵まれない男の受難劇として描いている。特に後半、トミー・ユードーとの対決の場面では、キリストの受難をなぞらえるような暗示的な要素が散りばめられている。ユードーがレストランに用意させるのは、ニックの最後の晩餐とワイン、そしてニックは丸腰で被弾する。しかし、あれだけの銃弾を浴びていながらも、復活が予言されてエンドマークとなる。

一方で、ニックは密告者でもある。キリストでもあり、ユダでもある。

物語の中盤で、ニックが司法取引をディアンジェロ副検事にもちかける。ここではじめて彼は、犯罪者の世界からすれば裏切り者になることを決心するのだ。司法取引の条件として、ニックは子どもたちと再会することを望む。ディアンジェロに連れられて、子どもたちに会いに行くのだが、そこはカトリックの尼僧たちが幼い子どもたちの面倒をみている孤児院だった。入り口に十字架があり、壁にはキリストを描いた絵画がかけられている。これらのキリストのイコンの真下にニックが配置され、誰の目にも連想の意図が明らかになる。ニックは「裏切り」つつ、「受難」にさいなまれるのである。

ニックの苗字、ビアンコはイタリア語で「白」の意味。彼のスーツの色は、最初の銀行強盗の際にはほぼ黒に近いが、物語が進み、彼が犯罪世界から足を洗うにつれて、色が薄くなり、淡いグレーになっていく。彼と司法取引をする副検事がディアンジェロ、「天使」である。こうなると、どうしても「ユードー(Udo)」の名前に「ユダ(Judas)」を見てしまうのだが、それもあながち飛躍ではないだろう。

ユダヤ人、それもかなり筋金入りのシオニストである二人による原作と脚本である。キリスト教の説くモラルの物語に沿うようにみえて、ハリウッド的な至高の「家族愛」へ裏打ちさせた、「裏切り」の物語とみることもできる。

あんたの側も、こっち側と同じくらい汚いんだな ニック

この物語でニックを救い出しているはずの「天使」ディアンジェロの側も、目的のためなら手段を選ばず、裏切り者ではない男を裏切り者に仕立て、犯罪組織の餌食にしていく。ニックはその仕組を目の当たりにしながら、ディアンジェロのやり口が実はひどく脆弱で、曖昧で、頼りにならないものだと徐々に悟っていく。それに対して、トミー・ユードーのロジックは実に明快で、揺るぐことはない。「裏切り者は許さない」。ユードーがニックを裏切り者だと知ったあとは、ニックとその家族を苦しめに来ることだけは確実だ。ところが、ディアンジェロのほうは、いったい何をするのか、はっきりしない。状況に応じてニックに指図はするが、命の保証はしない。この全体の方程式を支配するのは、あくまでトミー・ユードーなのだ。

この方程式をひっくり返すには、「トミー・ユードーの手に銃をもたせること」、拳銃を持たせたところを逮捕し、終身刑に服させることしかない。そしてそれを実行し、犠牲になるのはニックしかいないのである。

この映画が描く、モラルのあやふやさ、特に密告者が受難を決意していくさまと、密告を利用する側が何の決断もせずに欠陥だらけのマキャベリズムに堕しているさまとの対比は、この後のHUAC公聴会から引き起こされたハリウッドのブラックリストを予見していたかのようだ。しかも、密告や裏切りを利用する側には、実は何のモラルの支柱がないことも、実に的確に描かれている。同じ密告者を扱ったものでも、エリア・カザン監督の『波止場(On the Waterfront, 1954)』は、いくら贔屓目に見積もっても、自己弁明的であり、そのような密告を生むシステムへの眼差しは濁っているとしか言いようがない。『死の接吻』は、トミー・ユードーという反社会的な触媒によって、システムのモラルの破綻を見事に浮き出させている。

ドラッグの登場

トミー・ユードーはドラッグ常習者である。そのことを理解していないと、この作品のベクトルがどの方向に向いているか、見失ってしまう。

前述したように、監督のハサウェイは、ウィドマークを「プロっぽい」といって、最初は敬遠している。この「プロっぽい」という発言の意図は、「ヒップスターのハリー」と組み合わせて考えるとだんだん分かってくる。ハサウェイは(イタリアン・ネオリアリスモに影響されたかどうかは分からないが)、役者でない素人にトミー・ウドーを演じさせようと企んでいた。そして、ニューヨークのナイトクラブに出入りしている男で、実際にドラッグユーザーであった「ヒップスターのハリー(Harry the Hipster)」を使おうとしたのだ。ハサウェイはドラッグ中毒の役柄は、実際にドラッグ中毒のジャンキーにやらせなければ、リアリズムに欠けると考えたのである。そういった考え方をする映画製作者は今でも多くいるが、大部分は途中でいやというほど思い知らされることになる。ジャンキーにドラッグ中毒は「演じ」られない。台本を読めない、集中力がない、感情が安定しない、様々な問題が起きていく。実際、ハサウェイが、ハリーのスクリーンテストをしたのだが、惨憺たる有様だったようだ。

この「ヒップスターのハリー」は、ハロルド・ポメインヴィルのハサウェイの伝記では「キャバレーのコメディアン」と記されているが、恐らく間違いだろう。当時、ニューヨークで「ヒップスターのハリー(Harry the Hipster)」といえば、そのワイルドなパフォーマンスで有名だったジャズ・ピアニスト、ハリー・ギブソンのことだ。リトル・リチャードやジェリー・リー・ルイスに先駆けること10年以上、ピアノで(ほとんどロックンロールの原型となりつつある)ブギーを歌いながら演奏した。本人は、筋金入りのドラッグ常習者で、この映画の製作当時はすでにドラッグ漬けで、人気も急降下していた。

さて、さすがにPCAの検閲下では、ドラッグを使用する場面は登場させられないが、それを暗示させることはできた。ユードーがニックと再開した後、連れていく正体不明の場所、「これは何の臭いだ?」とニックが聞く場所が、ドラッグを売買し、使用する「窟」である。それは、この前のシーンでユードーが連れている女性を追い払うことや、「ユードーがペラペラ喋った」ことを後でディアンジェロに報告することなどからも分かる。

ドラッグの使用、あるいはドラッグ中毒の描写は、プロダクション・コードが登場するまでは、割と頻繁にハリウッド映画には登場していた。もちろん、ドラッグは社会問題の一部として認知されていたし、特にコカイン、ヘロインが医療用に使用されていたことに端を発する中毒化が問題となっていた。ところが、1934年からプロダクション・コードがハリウッドで運用されるようになると、スクリーンからドラッグは消えてしまう。一部のインディペンデント映画が客寄せのためにそのような題材を扱うこともあったが、見世物的な意味合いが強い。

スクリーンから消えたからと言って、現実の世界でドラッグの問題がなくなったわけではない。コカイン、ヘロインなどの常習者は減少する傾向にあったが、一方でマリファナはかなり広汎に使用されていた。1940年代に入り、ビバップに代表されるジャズの文化が、アフリカン・アメリカンの文化圏から他の人種の文化圏に、特に白人の文化圏に広がっていったが、それにともない、ジャズ・ミュージシャンたちのライフスタイルが「格好いい」ものとして、流行に敏感な「ヒップスター」たちが真似をし始める。そのライフスタイルのなかにはドラッグ、特にマリファナの使用もあった。しかし、米国の中流階級にとって、こういった「ヒップスター」たちとは接点がまだ少なく、うわさやタブロイドで見聞する遠い存在だった。

しかし、第二次世界大戦の後半に大きな変化が訪れる。スミス・クライン&フレンチが製造していたベンゼドリン(アンフェタミン)を米軍が兵士に供給し始めたのである。興奮剤として、長時間集中力を持続できるという認識が流布され、特に爆撃機の搭乗員には必要なものとされた。1943年に、ヨーロッパ戦線を指揮していたアイゼンハワー将軍と、太平洋戦線を指揮していたマッカーサー将軍のもとに、ベンゼドリンを兵士たちに配布することを勧める通達が届いている。軍は六錠入りのパケットを十万も用意していた。アイゼンハワーはすぐに五万パケットを要求している。

ベンゼドリンは、戦後すぐに一般人のあいだで「娯楽目的での使用」が行われていることが、医師達から報告されるようになる。戦争から帰還した兵士たちが、一般人になったのだから当然である。こうしてベンゼドリンは第二次世界大戦後の米国で代表的なドラッグとなる(しかも1957年まで処方箋なしで入手できた)。ちなみにベンゼドリンの使用者には女性が多かった。使用すると「痩せる」という認識のもとに「ダイエット・ピル」として売り出されたのである。前述の「ヒップスターのハリー」、ハリー・ギブソンは、1947年に「Who Put the Benzedrine in Mrs. Murphy’s Ovaltine? (誰だよ、マーフィー夫人のオヴァルティンにベンゼドリンを入れたのは?)」という曲を発表してブラックリスト入りしてしまったくらいだ。

こうして当時の状況を俯瞰すると、トミー・ユードーというキャラクターが、ジャズを演奏するクラブに出入りして、ビバップに聞き惚れ、ミュージシャンたちとマリファナを吸ったり、遊び歩いたりする、当時のアンダーグラウンドシーンの最先端を行っていた人物として造形されていた、ということが明らかになる。このトミー・ユードーに対して、ニックの中流家庭へのあこがれ、ディアンジェロの曖昧な正義が配置されているのである。それまでのハリウッドのコンヴェンションと相違する点は、このユードーというキャラクター、「カウンターカルチャーの誘惑と破壊性」を盛り込んだことだ。このあと、ハリウッドが急速にカウンターカルチャーに場を明け渡していくことを考えると、この作品がトミー・ユードーを1947年のスクリーンに登場させたことの意義は大きい。

アメリカン・ネオリアリスモ

1947年の映画公開チャートを見ていると、その大部分がハリウッドのスタジオ撮影所で撮影された作品ばかりである。(ほぼ)オールロケーションで撮影された『死の接吻』はそのなかにおいて、やはりかなり特異な位置づけの作品だ。ところが、1947年の暮になると、ロケーション撮影された作品が目に留まるようになる。『ジェニーの肖像(Portrait of Jennie, 1948)』『Tーメン(T-Men, 1948)』『裸の町(The Naked City, 1948)』『夜歩く男(He Walked by Night, 1948)』『出獄(Call Northside 777, 1948)』『悪の力(Force of Evil, 1948)』といった具合に一挙にロケーション撮影を主にした作品がざまざまな配給会社から登場し始めている。

ハリウッド映画は、1940年代までスタジオ撮影が基本であった。ロケーション撮影があるとすれば、大部分がハリウッド近郊で行われ、ロサンジェルスやその周辺の町並みが、ニューヨーク、シカゴ、サンフランシスコなどに見立てられた。しかし、それはハリウッドが提供するような仮構の二次元世界に与えられた特権であり、観客は仮構の快感と引き換えにその特権を看過していた。

ハリウッド映画、特にフィルム・ノワールの「リアリズム」―――ロケーション撮影―――を論じる際に、イタリアン・ネオリアリスモが引き合いに出されることは、『裸の町』の分析でも触れた。だが、1947年の段階で、イタリアン・ネオリアリスモの作品でアメリカで公開され人口に膾炙していたのは、1946年2月にニューヨークで公開された『無防備都市(Roma città aperta, 1945)』くらいなものである。『裸の町』の分析でも触れたが、20世紀フォックスのプロデューサー、ルイ・ド・ロシュモンの果たした役割も大きい。

さらにロケーション撮影の「リアリズム」がハリウッド映画に入り込む下地として、1930年代後半からあらわれた写真雑誌の影響がある。それを撮影監督のジェームズ・ウォン・ハウは1941年にすでに指摘していた。

グレッグ・トーランドが『市民ケーン(Citizen Kane, 1941)』で登場する前に、どの撮影所でもすでに変化が現れ始めていた。高い解像度、深い被写体深度、ときには強いコントラスト、そういった方向へ向かう傾向がすでにあった。・・・(中略)・・・だが、この変化の最大のファクターは、観客の好みの変化だと思う。直接的には、小型カメラ写真術の人気や、「ライフ」、「ルック」といった大判写真誌、「U.S.カメラ」、「ポピュラー・フォトグラフィー」などの流行写真雑誌の人気に、その端緒をみることができるだろう。人々はニュース写真のレポーター達の容赦ないリアリズムを経験しているし、小型カメラの写真家やピクトリアリストの作品に触れてきたんだ。ジェームズ・ウォン・ハウ

ここで挙げられている「ライフ」や「ルック」という雑誌は1930年代に登場し、あっという間に出版業界の地図を書き替えてしまった。これらの雑誌が登場してきた背景には、1920年代から30年代初頭におきた印刷業界の巨大な投資、高品質な印刷を可能にしたウェブ型ロトグラビア印刷機の導入がある。これらの技術によって、より高品質の印刷物(特に再現度の高い写真雑誌)が安価に出回るようになった。同時期に登場したメール・オーダー・カタログが、印刷の大規模化と低コスト化に拍車をかけたことも忘れてはいけないだろう。

これらのメディアに登場した写真のなかには、35mmフィルムを使用したミニアチュアカメラで撮影されたものも多かった。当時の報道写真やプロカメラマンの写真の主流は大判(4×5インチ)だが、1920年代のライカの登場や、1930年代のコダックの35mmカメラの登場などに伴い、その機動性が買われて愛用するカメラマンもいた。

『裸の町』で論じたウィージーのようなタブロイド誌の写真から、FSAプロジェクトのカメラマンたちの恐慌期アメリカを写す写真まで、当時のカメラマンは暗闇を怖れず、フラッシュを焚き、絞りを開け、レンズを町の片隅や、そこに住む人々の表情に向けようとした。イベント報道写真ではなく、ポーズをとった政治家達の写真でもなく、機動性をもった「レンズ」でスナップされた世界を、見る者と共有する写真が、ニューススタンドで買える雑誌に載りはじめたのである。その潮流に、ハリウッドは10年遅れて乗りはじめたのが、この『死の接吻』の頃だったわけだ。

だが、やはり俳優は「プロ」だし、ストーリーはベン・ヘクトが書いている。この「近似」「相似」の枷から抜けられないまま、フィクション映画は、仮構の二次元世界に与えられた特権を持て余し続けることになる。

『死の接吻』

Links

TCMのサイトでは、製作時の逸話や、公開後のトラブルなどが紹介されている。前述のヘクトのシオニスト支持の発言がイギリスの興行主から反感を買って、騒ぎになった経緯なども説明されている。

1948年1月放送の「ラックス・ラジオ・シアター」のラジオ劇を聞くことができる。

Film Commentのリチャード・ウィドマークのインタビューは必読。

Data

20世紀フォックス・ピクチャーズ配給 8/27/1947公開
B&W, 1/37:1
99分

製作フレッド・コールマー
Fred Kohlmar
出演ヴィクター・マチュア
Victor Mature
監督ヘンリー・ハサウェイ
Henry Hathaway
コリーン・グレイ
Coleen Gray
脚本ベン・ヘクト
Ben Hecht
リチャード・ウィドマーク
Richard Widmark
脚本チャールズ・レデラー
Charles Lederer
ブライアン・ドンレヴィ
Brian Donlevy
原作エリアザー・リプスキー
Eleazar Lipsky
テイラー・ホームズ
Taylor Holmes
撮影ノーバート・ブロディン
Norbert Brodine
ハワード・スミス
Howard Smith
音楽デヴィッド・ブドルフ
David Buddolph
カール・マルデン
Karl Malden
編集J・ワトソン・ウェブ・ジュニア
J. Watson Webb Jr.
ミルドレッド・ダノック
Mildred Dunnock

References

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Top Image: Ad from Motion Picture Herald, Sep. 20, 1947