FILM

Criss Cross (1949)

裏切りの街角
Criss Cross

ユニバーサル・インターナショナル配給
1949年

私の映画は5分間だけ良く出来ているんだ。残りはルーチンワークだよ。
ロバート・シオドマク

 

 

Synopsis

数年前にアンナ(イヴォンヌ・デ・カーロ)と離婚したスティーブ(バート・ランカスター)は、まるで磁石に引きつけられるようにロサンジェルスに戻ってきてアンナと再会する。スティーブの母や旧友の刑事のピート(ステフェン・マクナリー)はアンナのことをよく思っていない。ピートに脅されたアンナは、勢いでギャングのスリム(ダン・デュリエ)と結婚してしまう。嫉妬深いスリムに結局嫌気が差したアンナは、スティーブを求め、スティーブもそれに応えてゆく。こうして危険な三角関係に落ち込んだスティーブは図らずしもスリムのギャングと関わっていく。そして、スティーブはスリムに自身が運転する現金輸送車を襲撃する計画を提案する。

 

 

Quotes

A man eats an apple. He gets a piece of the core stuck between his teeth. He tries to work it out with some cellophane off a cigarette pack. What happens? The cellophane gets stuck in there too.
Anna. What was the use? I knew one way or the other I’d wind up seeing her that night.

リンゴを食べる。すると歯の間に芯のかけらが挟まってしまう。煙草の箱のセロファンでそれを取ろうとする。どうなると思う?今度はセロファンが挟まってしまう。
アンナ。あがいてもダメだ。その夜、アンナに結局会うことになるだろうと俺には分かっていた。

スティーブ(バート・ランカスター)

 

 

Production

1947年、『裸の町(The Naked City, 1948)』を手がけていたマーク・ヘリンジャーは、次の作品として競馬場での強盗を題材にした作品に取りかかろうとしていた。主役にはバート・ランカスター、監督はロバート・シオドマク、と『殺人者(The Killers, 1946)』のチームで、犯罪者と裏切りの世界に再度挑戦するつもりでいた。バート・ランカスターによれば、当時のヘリンジャーは競馬場の仕組み、金の流れなどを徹底的に研究していたという。しかし、不幸にもヘリンジャーは1947年の12月にこの世を去る。

この途中まで出来上がっていた脚本はユニバーサルに引き継がれ、脚本ダニエル・フックス、監督ロバート・シオドマクで仕上げられていく。最終的には、競馬場の設定は取り除かれ、シンプルな犯罪映画から三角関係と裏切りの物語に変容していった。バート・ランカスターはこの物語が大して好きになれなかったが、契約が残っていたので仕方なく出演したという。

撮影は1948年の6月14日から始まり7月25日までの1ヶ月あまり、それから2度のリテイクを行なった。

撮影はフランツ・プラナーがクレジットされているが、オープニングの空撮は、ポール・イヴァノによるものである。ポール・イヴァノはサイレント時代からハリウッドで仕事をしている撮影監督で、エーリッヒ・シュトロハイム監督の『クイーン・ケリー(Queen Kelly, 1929)』でもカメラを担当している。しかし30年代は仕事に恵まれず、クレジットなしでの参加(『フランケンシュタイン(Frankenstein, 1931)』)、セカンド・ユニットでの参加(『風と共に去りぬ(Gone With the Wind, 1939)』)などが続いた。ニコラス・レイ監督の『夜の人々(They Live by Night, 1947)』のオープニングの空撮も彼によるものだ。『裏切りの街角』のオープニングの空撮は、ゆっくりとロサンジェルスの街に降りていくものだが、それが次の駐車場を見下ろすドリー・ショットに自然につながるように設計されている。

その駐車場で逢引をしている二人。ヘッドライトに照らされて驚き怯えるアンナとスティーブが、この物語の見事な導入になっているが、これは前述のリテイクされたシーンの一つである。最初のテイクでは、アンナとスティーブは車の中に座っていた。ところが、リテイクで二人は車と車の間で落ち合う設定に変更され、ショットの組み立てがよりダイナミックになった。ここで登場するアンナのクローズアップは、スティーブが囚われた魔術を見事に映している。

イヴォンヌ・デ・カーロは、ウォルター・ウェンジャーのプロダクションなどで注目を集め、この作品でほぼはじめて、主役級のファム・ファタールを演じた。TV番組の『マンスターズ(The Munsters, 1964 -1966)』でリリー・マンスター(ドラキュラ)として活躍していたのを覚えている方も多いだろう。『裏切りの街角』でデ・カーロは、『殺人者』のキティ・コリンズ(エヴァ・ガードナー)や『深夜の告白(Double Indemnity, 1944)』のフィリス(バーバラ・スタンウィック)の人間離れした冷酷さや無情さとは対照的に、表面的には意志が弱く、立場の弱い女を演じている。しかし、その一見従順とさえ思える暗い表情が、クライマックスでは、あまりに自然に冷酷な素顔に入れ替わっている。「デ・カーロの演技の幅の無さ(ジョセフ・グレコ)」が、シオドマクの的確な演出によって際立っている例である。

スリムを演じたダン・デュリエは、フィルム・ノワールには欠かせない俳優だ。これほど残忍で卑怯で冷酷な笑みを浮かべながら、小者の悪役を演じることができる俳優はそれほどいない。彼は、コーネル大学に在籍していた頃から演劇に夢中だったが、両親が役者になることを許さず、広告代理店で働いていたところ、心臓発作で倒れてしまい休養。その後俳優に転身した。コーネル時代の親友、シドニー・キングスリー(『デッド・エンド』の作者)を頼ってブロードウェイの舞台に立ち、『偽りの花園』のレオ役でハリウッドに移った。フリッツ・ラング監督の『飾窓の女(The Woman in the Window, 1944)』『スカーレット・ストリート(Scarlett Street, 1945)』などのフィルム・ノワール、『ウィンチェスター銃’73(Winchester ’73, 1950)』などの西部劇でヒモや裏切り者といった役柄に抜擢された。彼のスクリーン上のペルソナがあまりにひどいために、本当に彼がそんな人物だと思い込むファンもいたが、プライベートでは子煩悩な人物だった。

この作品のロケーション撮影は全てロサンジェルスの、しかも昼間に行われた。ロサンジェルスの商工会議所は「スモッグを避けて撮影して欲しい」と申し入れていたそうだが、むしろスモッグのなかで白く散乱する陽光がシオドマクが狙っていた効果のようだ。特にユニオン・ステーションの外で、タクシーを拾おうとしているアンナを見つめるスティーブのショットは、強烈な印象を残す。真っ白な世界に、白いドレスを着たアンナが立ち尽くし、それがスティーブの脳裏に焼きついていく様子を見事にとらえている。

すべてのショットを30mmレンズで撮影したよ。フレーム内の全てがピンと張りつめたように焦点を合わせるためにね。フランツ・プラナー

撮影はフランツ・プラナー。ドイツでサイレント時代に撮影監督として多くの作品に関わっているのだが、残念なことにそのほとんどが失われたか、忘れ去られてしまったせいで、同時代のカール・フロイント、フリッツ・アルノ・ワーグナーなどに比べて知名度が低い。しかし、1930年代にハリウッドに移住してきたドイツ映画人のなかでも重要な役割を果たした一人である。特に彼の1950年代のフィルモグラフィーは驚異的だ。『ドクターTの5000本の指(The 5,000 Fingers of Dr.T, 1953)』の後に、『ローマの休日(Roman Holiday, 1953)』を撮影し、『見知らぬ人でなく(Not as a Stranger, 1954)』の手術シーンの壮絶なロングテイクをこなす一方で、『海底二万哩(20,000 Leagues under the Sea, 1954)』のカラー映像を手がけている。一方でロケーション撮影にも長けていて、『オーシャン通り711(711 Ocean Drive, 1950)』では、フーヴァー・ダムの内部の異様な造形をロケーション撮影でとらえている。

ナイトクラブ「ラウンドアップ」で演奏しているのはエシ・モラーレスの楽団、曲は「ジャングル・ファンタジー」。シオドマクは『幻の女(Phantom Lady, 1944)』でも熱狂的なジャズの即興演奏シーンを撮影したが、ここでもトランス状態のモラーレスの楽団の演奏を映し出している。彼はなんとしてでもモラーレスの楽団が映画に必要だ、とユニバーサルに主張し契約させた。この『ジャングル・ファンタジー』の場面でデ・カーロと踊っているのが、トニー・カーチス(当時はジェームズ・カーチスで活動しており、この作品ではクレジットされていない)である。まだ駆け出しのカーチスが映るように指示を出したのがシオドマクだが、ユニバーサルはこの若い男優とすぐに契約した。

当初の脚本では、ラストでスティーブはアンナを絞殺することになっていたが、プロダクション・コードを運営しているPCAが警告した。ラストについてはなかなか決定稿が出ず、フックスとシオドマクで撮影中も知恵を絞っていた。そのようにしてまとめ上げたラストシーンにもPCAは警告を出した。

アンナはスティーブの腕の中でなく、床で死んている方が好ましい。スティーブとアンナの死を魅力的に見せてはいけない。 PCA

この警告は無視され、現在のラストシーンとなった。

この作品は1995年にスティーブン・ソダーバーグ監督によって『蒼い記憶(The Underneath, 1995)』としてリメイクされた。

 

 

Reception

公開当時の批評家たちの間での評判は、必ずしも芳しいものではなかった。

『裏切りの街角』は、つまるところ、いつものキャラクターがいつもの行動をとっているばかりで、大した興味もそそられない。 New York Times

まあこういうストーリーだが、だからなんだというんだ。 Modern Screen

ロバート・シオドマクの手慣れた演出のもと、フラッシュバックは全体にきちんと繋がった一部として組み込まれていて、混乱したり、退屈になったりすることもない。強盗のシーンの演出は実に優れた仕事だ。 Variety

1970年代のフィルム・ノワール批評のなかで、最も注目された映画監督のひとりがロバート・シオドマクだが、彼のフィルモグラフィのなかでも『幻の女』『殺人者』と並んで評価の高い作品である。

シオドマクの『裏切りの街角』では、物語りの複雑さ、ロケーション撮影のリアリズム、シオドマクの表現に富んだ様式化が、見事に融合している。トム・フリン

このエンディングは、フィルム・ノワールのなかでも最もロマンチックなエンディングのひとつだ。マイケル・ウォーカー

この作品においては、「バート・ランカスターのマンネリズムに閉口する人もいるだろうが(トム・フリン)」、脇役たちが非常に効果的に演出されている。そのなかでもスティーブの幼馴染で刑事のピートがヒスパニック系アメリカ人の設定であることも重要な点であることが指摘されている。

ロサンジェルスでは、国内の人種差別の現実、そしてズート・スーツ暴動(zoot suit riot)の暴力が影を落としていた。だからこそ、シオドマクのこの作品で(ピートを通して)市民レベルの人種の交わりが無力で感情的に空っぽであることを見せているのは、実に適切だ。ショーン・マッカーン

 

 

Analysis

シオドマクの鏡

ロバート・シオドマクの演出スタイルについては指紋のように彼特有なものがあり、常に作家主義的批評、フィルム・ノワール批評において言及され、分析されてきた。悲観的な運命論に痛めつけられた物語の構造、キアロスクーロに満ちたフレーム、極端に記号化された性、特に女性像、その一方で、性愛的なエネルギーに突き動かされる音楽と映像のモンタージュ、と彼の作品に共通項を見つけるのは比較的たやすい。そのなかでも「鏡」に映った像に対する彼の執着は非常に特異なものがある。映画史を紐解けば、映画自身がもつ異化作用と虚構性を読み解く鍵として、「鏡」が、時には強く、時には弱く連結されて、利用されてきた例に数多く出会うであろう。ドッペルゲンガーの仕掛けとして、映像そのものがもつ虚構性を暴く道具として、様々なミゼンセーヌとして、登場してきた。この作品では、シオドマクは鏡を「見えないところを見えるようにする」道具として登場させる。

スティーブが入院している病院でのシーンは、この鏡を使ったギミックが活きている。スティーブは現金輸送車襲撃で重傷を負い、病院のベッドで目が覚める。現金輸送車の運転手である彼は、スリムの強盗団一味と戦って銃撃を受けて負傷したのだ。しかし、実は、この襲撃はもともとスティーブとスリムが手を組んで仕組んだものだった。「内部に協力者がいれば輸送車襲撃が可能だ」とスティーブは、スリムを説得し、一味が計画を立てた。襲撃は上手く行けば誰も怪我することのないものになるはずだった。ところが、襲撃の最中にスティーブの同僚が発砲、スリムが彼を銃撃したことで、すべてが狂う。スティーブはスリムを撃ち、自らも肩を撃ち抜かれる。スティーブ自身は病院でギブスで身動きが取れないなか、強盗を撃退した勇敢な人物として新聞でも大きく報道される。家族もスティーブの英雄的な行動を誇らしく思っている。ただひとり、スティーブの襲撃への関与を疑ったのが、旧友で刑事のピートだ。彼は、アンナとスティーブが、スリムを裏切って奪った金とともに高飛びをしようとしていることに勘づいていた。そして、彼の病室のドアを指してこういうのだ。

あのドアが見えるか?スリムの殺し屋が、あのドアを通ってやってくるんだ。ピート

その瞬間から、病室のドアは死への扉となり、ドアの手前にある鏡台は、悪魔の影が映り込む地獄の反射鏡となる。

 

ここで、シオドマクは実に丁寧に恐怖を積み重ねていく。ベッドで身動きがとれないスティーブの位置からは鏡の角度が悪く、病室の外にいる人間が見えない。病室のドアの斜めに開いた欄間窓に映る影と、鏡に映る影だけが、スティーブに見えている。彼には誰かが病室の外にいるのが分かる。薬の投与に来た饒舌で陽気な看護婦に頼んで、スティーブはベッドを起こしてもらう。その上半身が動き始めると、スティーブの鏡を見つめるPOVショットが動いていく。そして影の持ち主が判明する。

 

この「視点を動かして、相手を鏡に映すようにする」という仕掛けは、シオドマクのドイツ時代の作品にも登場する。『燃える秘密(Brennendes Geheimnis, 1933)』では、プレイボーイが鏡を使って目をつけた女性を盗み見するシーンがある。ここでも男は席の位置を変えて女性を見ようとする。それが動く鏡像として提示されている。シオドマクはこの仕掛けが気に入っていたようだ。

病室の外にいる人物が確認できても、スティーブは決して安心できない。看護婦は「あの男性はネルソンさんと言って、交通事故に遭った妻のために来ている」のだという。スティーブにとって、壁に映った影しか見えなかったときは恐怖だったかもしれない。鏡に映してその本人が見えるようになり、そこにいる理由もはっきりしたのだから、恐怖は退潮するはずだ。しかし、そんなことはない。あの男はひょっとしてここに居座っている理由を偽っているだけなのではないか。あの男は看護婦達を騙して、ずっと俺がひとりになるのを待っているだけなのではないか。壁に映った影しか見えなかった時とは違う、別の恐怖が出現している。恐怖はもっと異質なものに変質していくだけなのだ。

もうひとつ、鏡に映る恐怖として、現金輸送車を運転するスティーブがバックミラーに映った黒い車を見るシーンがある。強盗決行の日、スティーブは同僚と、直線のハイウェイを現金輸送車で走っている。同僚は、後ろからくる黒い車に嫌な感じがするという。スティーブは運転しながらバックミラーでその車を確認する。直線道路で黒いセダンはバックミラーに映っている。それは、これから起きる襲撃の車なのか、それとも無関係なのか。襲撃はこの直線道路で起きるのか。そのことを観客は知らされないまま、このミラーに映る黒いセダンを見る。黒いセダンは結局、現金輸送車を追い越して走り去り、何事も起きないのだが、だからといって緊張が完全に解けるわけではない。観客もスティーブも、これから襲撃が起こることは知っていて、あの車だってスリム一味が乗っているのかもしれない。鏡はその異化作用によって、恐怖をより増幅する効果があるが、これらのシーンでは、鏡を取り除いてもどこか微妙にずれて歪んだ視界が残留する感覚がある。

 

シオドマクは、『裏切りの街角』に限らず、『殺人者』でも、鏡を配置するとき、鏡面が若干斜めになるようにすることがある。そのため鏡の中の空間は、外の空間と異なるパースペクティブを持つ。これは、『殺人者』のクライマックス、キティとリオーダンの「対決」で効果的に使用されていた。リオーダンの背後の鏡は、バーの内部を映しているが、若干下向きにかけられているため、周囲とは異なるパースペクティブになっている。異なったパースペクティブが、フレーム内に埋め込まれることで、混乱した空間の感覚が、これから起ころうとするキティの裏切りを予感させる。

殺人者(The Killers, 1946)

一方で、『らせん階段(The Spiral Staircase, 1946)』では、鏡はまっすぐ配置されて、パースペクティブが周囲と地続きになり、鏡に映る像が周囲と渾然一体となる。これは主人公のヘレンの想像の世界を映す鏡でもあり、現実と彼女の想像の世界の境を曖昧にし、より主観的な世界を見せるための仕掛けである。もちろん、シオドマクは『暗い鏡(The Dark Mirror, 1946)』という双子の姉妹を扱った作品もあり、ここで鏡像と双子(そしてオリヴィア・デ・ハビランドの一人二役)の映像的可能性を思う存分追求している。

らせん階段(Spiral Staircase, 1946)
暗い鏡(The Dark Mirror, 1946)

 

 

変貌するロサンジェルス

『裏切りの街角』は、特にそのロケーション撮影について言及されることが多い。

陽光で照らし出されるエンジェルズ・フライト付近やユニオン・ステーションの外のロケーション、そして全体的に照明が当てられたスティーブの職場やギャングが強盗の計画を立てるバンカー・ヒルの安宿でのアンナとのシーンなど、すべてナチュラルな照明や構図である。 アラン・シルバー

前述したが、この作品は、照りつけるロサンジェルスの太陽光が、スモッグで散乱しているなかで撮影されている。ロサンジェルスで最初にスモッグが報告されたのが1943年である。戦争によって、南カリフォルニアは軍需産業の中心地となり、それにともなって人口が流入、必然的に交通量も増加した。ところが、当初はスモッグの原因が判明せず、当時のアメリカにとって極めて重要な材料のひとつ、合成ゴムの原料であるブタジエンを生産していた南カリフォルニアガス会社の工場の排気が疑われ、一時は操業停止にまで追い込まれたほどであった。スモッグの原因が自動車の排ガスだと明らかになったのは1950年代に入ってからである。各自動車メーカーは、この発見を「非難」と感じたうえに、折からの赤狩りの風潮と相まって、対策は遅々として進まなかった。ロサンジェルスのスモッグは1960年代に入っても一向に改善していなかった。

この状況がハリウッドに与えた影響は、決して小さくなかったはずである。

私は西部劇を作るのが好きだが、それは一緒に働く人達が好きだからだ。ロケーションに行くのが好きだし、スモッグと霧と車とハイウェイだらけのここを離れるのも好きだ。ジョン・フォード

この言葉を聞いて真っ先に思い浮かべるのが、『西部開拓史(How the West Was Won, 1962)』のエピローグである。モニュメント・バレーの赤い土地と青い空から、空撮がどんどんと西へそして現代へと風景を引きずっていく。そして1960年のロサンジェルスのハイウェイが登場するのだが、その向こうの雲はスモッグで霞んでいる。ジョン・フォードは『駅馬車(The Stagecoach, 1939)』でモニュメント・バレーでのロケーション撮影を行なったが、まだ不便きわまりない土地で、実際には殆どの撮影は南カリフォルニアで行われている。ところが、『黄色いリボン(She Wore a Yellow Ribbon, 1949)』になると、その大部分がユタ、アリゾナで長期間のロケーション撮影によって製作されている。戦前までは、空を含めて西部劇に登場すべき「西部」をロサンジェルスはまだ保持していたのだが、それが戦争と自動車の普及によって失われてしまった。スモッグで霞んだ空は西部劇にはふさわしくないが、一方で、遠く離れたロケーション撮影地に行くのも、車とハイウェイのおかげで便利になったのだ。

そのことを念頭に、この『裏切りの街角』の現金輸送車襲撃のシーンを見ると、強烈なアイロニーを感じぜざるをえない。スリム一味は、催涙ガスの缶を使って目くらましをして、襲撃を開始する。ガスマスクをした一味が催涙ガスの煙の中から現れる瞬間は身の毛もよだつ不気味さに包まれている。当時、「ロサンジェルスのスモッグのなかで買い物に行くにはガスマスクが必要だ」というジョークもあったそうだが、そんなジョークを踏み越えて、アポカリプティックなイメージが忽然と現れる。このロサンジェルスそのもののメタファーとも言える煙と、そこから現れる、不気味なマスクの男たち、1920年代にドイツで活躍した画家、オットー・ディクスの『毒ガスのなか前進する突撃隊』を彷彿とさせ、もしシオドマクのドイツ人芸術家としての血を見るのなら、この新即物主義が通底に流れる、2つの戦争がアンカーになった映像にこそ、その血をみることができるのではないだろうか。

 

 

Links

TCMのNotesでは、マーク・ヘリンジャーのアイディアからどのように製作が変遷していったかが、当時の記事を元に述べられている。当初の企画では『裸の街』のようなセミ・ドキュメンタリースタイルで撮影される予定だった。

Dear Old Hollywoodのサイトでは、ロケーションに使用された場所の現在を取り上げている。

IECのサイトでは、撮影監督フランツ・プラナーの業績を貴重な写真とともに紹介している。

 

 

Data

ユニバーサル・インターナショナル配給 1949/1/19公開
B&W 1.37:1
84分

製作マイケル・クライケ
Michael Kraike
出演バート・ランカスター
Burt Lancaster
監督ロバート・シオドマク
Robert Siodmak
イヴォンヌ・デ・カーロ
Yvonne De Carlo
原作ドン・トレーシー
Don Tracy
ダン・デュリエ
Dan Duryea
脚本ダニエル・フックス
Daniel Fuchs
撮影フランツ・プラナー
Franz Planer
音楽ミクロス・ロージャ
Miklos Rozsa

 

 

References

[1] S. McCann, “Dark Passages: Jazz and Civil Liberty in the Postwar Crime Film,” in “Un-American” Hollywood: Politics and Film in the Blacklist Era, P. P. Stanfield, P. F. Krutnik, P. B. Neve, and P. S. Neale, Eds. New Brunswick, N.J: Rutgers University Press, 2007.
[2] A. Silver and J. Ursini, L.A. Noir: The City as Character. Santa Monica Press, 2005.
[3] M. Walker, “Robert Siodmak,” in The Book of Film Noir, I. A. Cameron, Ed. Continuum, 1993.
[4] J. McBride, Searching for John Ford. Univ. Press of Mississippi, 2011.
[5] C. Jacobs and W. J. Kelly, Smogtown: The Lung-Burning History of Pollution in Los Angeles. The Overlook Press, 2008.
[6] J. Greco, The File on Robert Siodmak in Hollywood, 1941-1951. Universal-Publishers, 1999.
[7] T. Flinn, “Three Faces of Film Noir,” in Film Noir Reader 2, A. Silver and J. Ursini, Eds. Limelight Editions, 1999.