Stranger on the Third Floor
RKOピクチャーズ
1940年
殺し屋が二人――ヒトラーと私のことだが――も住むにはドイツは狭すぎる。
ピーター・ローレ
Synopsis
新聞記者のマイクは、殺人事件の現場に偶然遭遇、犯人逮捕に協力し、一躍エース記者として名を上げる。これを機会に、マイクは婚約者のジェーンと新居に移って結婚するつもりだ。しかし、ジェーンはこの殺人事件についてどこか引っかかっている様子だ。マイクの証言で有罪になったジョーという若い男は本当に強盗殺人を犯したのか?ジョーに有罪判決が下ったその夜、マイクはアパートで不審な人物を見かける。その出来事をきっかけにマイクは悪夢にうなされるのだが、その悪夢がよもや現実になるとはもちろん想像だにしていなかった。
Quotes
ハンバーガーをいくつかお願い。生でね。
見知らぬ男(ピーター・ローレ)
Production
1940年の5月にRKOはフランク・パルトのオリジナル脚本「Stranger on the Third Floor」の映画化を決定した。この脚本は1936年にパルトスが書いたストーリーが基になっており、これを読んだプロデューサーのリー・S・マーカスが「非常に感銘を受けた」ものの、映画化には至らなかった。RKOの映画化決定の後、パルトが脚本化、さらに実際の撮影に入る前にナサニエル・ウェストが脚本を修正している。1930年代後半に、このナサニエル・ウェストと頻繁に共同脚本の仕事に携わっていたのがボリス・イングスターである。
監督 ボリス・イングスター
ボリス・イングスターは1903年にロシア領のリガで生まれた。1920年代に舞台の仕事をしていたセルゲイ・エイゼンシュタインと懇意になり、彼のもとで舞台芸術や映像芸術の仕事に携わるようになる。
1922年のモスクワで何に出くわそうと、私たちの年代のロシア人は驚いたりしなかった ボリス・イングスター
1930年にエイゼンシュタインが『メキシコ万歳(Thunder Over Mexico, 1930)』の製作のためにハリウッドを訪れた際に一緒にイングスターも渡米した。この企画が頓挫した後、エイゼンシュタインはソ連に帰国したが、イングスターはそのままアメリカに残る。ハリウッドで、イングスターは物語の構成力に優れた脚本家としてすぐに注目を集めるようになった。彼自身は英語力に不安があり、常に共同脚本の体裁をとっていた。ソニア・ヘニー主演のアイス・スケート映画、『氷上乱舞(Thin Ice, 1937)』『天晴着陸(Happy Landing, 1938)』が大ヒットを皮切りに多くの作品を担当、この頃にナサニエル・ウェストの知己を得て、共同脚本の仕事を開始した。イングスターとウェストが共同で「Before the Fact」という小説の脚本化を担当、RKOはアルフレッド・ヒッチコック監督で映画化を企画していた。しかし、ヒッチコックは別の脚本をすでに準備しており、これが『疑惑(Suspicion, 1941)』となった。イングスター/ウェストの版は映画化されたことがない。
ボリス・イングスターが1940年代に脚本業から映画監督に鞍替えした経緯は定かではないが、1939年12月の「Boxoffice」誌には、イングスターはRKOと監督として契約を結び、前述の「Before the Fact」の映画化が最初の企画として挙げられている。その後、アン・シャーリー主演で「I Married a Cheat」等の企画が挙げられるが、どれも実現化しなかったようだ。ようやく1940年の6月に「Stranger on the Third Floor」の監督として発表されている。
ボリス・イングスターは1950年代からTVプロデューサーとして活躍し、なかでもNBC系列で放映された『0010ナポレオン・ソロ(The Man from U.N.C.L.E.)』は大ヒットし、日本でも人気となったシリーズである。
タイプキャストされる俳優たち
『三階の見知らぬ男』でトップにクレジットされているのは、「見知らぬ男(stranger)」役をつとめるピーター・ローレである。オーストリア生まれのローレは、フリッツ・ラング監督の『M(1930)』で少女連続殺人犯役としてスクリーンに登場して以来、ありとあらゆる「奇怪」「奇異」「不気味」な役をこなしてきた優れた俳優だ。国籍不明の暗黒街の人間、異常性欲に執着する男、残忍で容赦ない独裁者、日本人の器用な探偵、等、演じた役柄のスペクトラムが極めて広い。特徴的な目、分厚い唇、子供のような丸顔 ―― そういった外見的特徴を持ちつつ、東欧訛りの英語をひどく制限した音域と音量の声で喋り続ける。一度目にすると、なかなか忘れることのできない特徴だ。ワーナー・ブラザーズのカートゥーンでは、マッド・サイエンティストのキャラクター・デザインは彼がモデルになっているくらいである。
もし、ピーター・ローレが『M』ではなく、『女性の欲するもの(Was Frauen träumen, 1933)』で最初に主演をしていたら、彼にはいつも陽気な歌い手の役が回ってきただろう ステフェン・ヤングキン
ピーター・ローレは生涯「タイプキャスティング(似たようなキャラクターばかりがまわってくること)」に悩まされた。これは前述の「役柄のスペクトラムが広い」ことと一見矛盾するように思える。ローレ自身は日本人探偵からラスコフニコフまで幅広い役柄を演じているのだが、それはすべてハリウッドのナラティブのなかで「奇異」なキャラクターとして機能していた。1930年代中盤、ローレがハリウッドで活躍し始めた頃は、彼のことを「秀でた演技力のキャラクター俳優」と呼んでいた映画業界紙も、彼が「ミスター・モト」を演じる頃には「また似たような役柄をやっている」と切って捨てるようになってしまう。RKOとの2本契約で『三階の見知らぬ男』に出演する頃には、タイプキャストに苦しみながら映画スタジオを渡り歩いていた。この映画も、撮影に入る前に、ローレとRKOの契約の関係で、撮影に予定されていた期間の最後の二日間は出演できないことが分かり、そこで急遽ローレが(出番が比較的少ない)殺人犯を演じることになったという。ピーター・ローレ自身、この作品の「見知らぬ男(作品中、この殺人犯の名が明かされることはない)」を、ドイツ時代の『M』のベッカートを元に役作りをしたと語っている。ローレが1940年代に残した記憶に残るキャラクター達 ―――『マルタの鷹(Maltese Falcon, 1941)』のカイロ、『カサブランカ(Casablanca, 1942)』のウガーテーーー は、1930年代の平板なタイプキャストとは異なるものの、やはり異様なオーラをまとった、正体不明の「ストレンジャー」であった。
ジェーン役を演じたのは、マーガレット・タリチェット、ハリウッドでは女優としてよりも、ウィリアム・ワイラーの妻として有名だった。1941年には俳優を引退している。
この作品でに登場するもう一人の印象的な俳優は、エリシャ・クック・ジュニアだ。彼も「隙だらけの敵」「軽く殴られただけで気を失う悪者」「ボスを裏切ろうとしたら最初から見抜かれていて殺される男」「濡れ衣を着せられて死刑を宣告され、『やってない!助けてくれ!』と喚きながら牢獄に引きずられていく男」といった「情けないフォール・ガイ」にタイプキャストされた俳優である。
なぜ脇役のほうがいいかって?当時のハリウッドがどれだけ映画を作っていたか分かるだろう?でも脚本家が足りないからどうしても駄作ばかりになる。脇役だと、失敗作でも自分のせいじゃないと思えて気が楽だし、仕事もずっとあるからね。エリシャ・クック・ジュニア
1930年代からハリウッドで仕事をはじめているが、彼の「フォールガイ」としてのキャラクターを決定づけたのは『マルタの鷹』であろう。その他にもハワード・ホークス監督『三つ数えろ(The Big Sleep, 1946)』、スタンリー・キューブリック監督『現金に体を張れ(The Killing, 1956)』などに出演している。ジョン・フォード監督の『サブマリン爆撃隊(Submarine Patrol, 1938)』の嵐のシーンの撮影中に事故で左手の親指を失った。迷信深いフォードは彼を二度と使わなかったという。
新しいスタイルの試み
撮影はニコラス・ムスラカ。『らせん階段(The Spiral Staircase, 1946)』、『暁の死線(Deadline at Dawn, 1946)』、『過去を逃れて(Out of the Past, 1947)』等、フィルム・ノワールを語る上では欠かせない撮影監督であるが、多くの映画史家がムスラカの『三階の見知らぬ男』での撮影が、ノワールの映像の方向性を形作ったと考えている。
ボリス・イングスター監督とニコラス・ムスラカは、『三階の見知らぬ男』の準備段階で243のシーンのスケッチを元にミニチュアのモデルを作成し、照明効果やカメラアングルを予め決定していた。そのミニチュア・モデルを元に実際のセットが作成されたという。最も製作に力を入れたのがやはり夢のシークエンスである。RKOが開発したという特殊ペイント(床がカメラに映らなくなるという触れ込み)、フォッグマシーン、椅子を含めた全てが可動式の法廷のセット、などが投入された。特に判事が正義と死を象徴する像にディゾルブするシーンは撮影が難航した。夢のシークエンスの途中に現れる巨大な新聞は実際に印刷されたのだが、あれほど大きい「MURDER」を印刷する活字がなく(19インチ)、活字を新しくこのために作成した。
予算は171,120ドル、実際の製作費は171,192ドルだった。
Reception
『三階の見知らぬ男』は、公開当時の業界紙評においては、「風変わりな」「珍しい」と言った言葉で形容されていたものの、手堅いサスペンス・ドラマとして評価されていた。
風変わりなテーマを中心に、この殺人ミステリは観客の注意を最初から最後まで釘付けにするだろう。The Film Daily
しかし、Motion Picture Reviewは手厳しい。
(出演者の)優れた演技、それに落ちぶれた界隈を描写するリアリズムを除いて、この映画が今の製作作品にインパクトを与える力などほとんどない。Motion Picture Review
サイレント期のドイツ「表現主義」の代表作、『カリガリ博士(Das Kabinett des Doktor Caligari, 1920)』との関連性は既に公開当時の時点で指摘されていた。
プロデューサーのリー・マーカス、監督のボリス・イングスター、作家のフランク・パルトスは、このメロドラマの映画化に際して、普通のやり方からは逸脱したアプローチをとった。現代のニューヨークで起きる2件の殺人事件を、『カリガリ博士』をはじめて見た1921年当時のアメリカの観客が感じたであろうサスペンスやスリルの感覚と組み合わせたのだ。Motion Picture Herald
結局、公開当時はあまり注目を集めることもなく、そのまま1970年代のリバイバルまで忘れ去られていたと言っていいだろう。しかし、リバイバルのなかで『三階の見知らぬ男』は史上初の本格フィルム・ノワールと呼ばれるようになり、ニコラス・ムスラカがドイツ表現主義を取り入れた張本人だと議論されるようになった。
Analysis
アーティストとタイプキャストのあいだ
フリッツ・ラング監督の『M』、アルフレッド・ヒッチコック監督の『暗殺者の家(The Man Who Knew Too Much, 1934)』や『間諜最後の日(Secret Agent, 1936)』を見たことがある人ならば、これらの映画で一際異様なオーラを放っているピーター・ローレを忘れることはできないだろう。ローレがハリウッドに移ったとき、スタジオはまさしくそのオーラを利用することを目論んだ。ジョセフ・フォン・スタンバーグ監督は『罪と罰(Crime and Punishment, 1935)』を準備して、ラスコルニコフをローレでスクリーンによみがえらせようとしていた。サイレント末期のドイツでカメラマンとして名を馳せたカール・フロイントは、1925年にオーストリアで製作された『芸術と手術(Orlacs Hände, 1924)』のリメイク、『狂恋・魔人ゴーゴル博士(Mad Love, 1935)』を初監督作として取り組み、狂気のゴゴール博士をローレに演じさせた。だが、1937年からはローレは「ミスター・モト」という日本人探偵を演じている時間のほうが長くなってきた。
20世紀フォックスにおける初期の契約期間(1936~1937)から同スタジオにおける最初のフリーランスでの出演(1940)した際のピーター・ローレの紹介記事を詳細に分析すると、ローレを描写するうえで俳優の定義がいかに微妙に変化して、時には同じ役柄を指していながらも、最初は「アーティスト」と呼んでいたものが「タイプキャスト」に移っていったかがよく分かる。 サラ・トーマス
ラングやヒッチコックの映画でローレが演じた役は、普段は穏やかで柔和な話し方をしているものの、その基底に狂気を潜ませた悪人だった。見るからにいかつい乱暴者や、普段から刺々しい発話をしているギャングとは違い、新米の諜報員や下校途中の少女が一瞬油断してしまうような繊細さを見せている。だがその被膜の下には狂気と狡猾が潜んでいる―――そういった役作りがローレのトレードマークだった。しかし、ハリウッドに来てからは、狂気を既に発現してしまっているマッド・サイエンティストや、柔らかい物腰から突然スーパーマンに変化するオリエンタルといった、面白みに欠ける役柄ばかりが回ってくるようになっていた。俳優としてのローレを表す形容詞が「アーティスト」から「タイプキャスト」に変わっていくのも彼のこの頃のフィルモグラフィを見れば致し方ないことだと思わざるを得ない。
1930年代の探偵映画全盛期に翳りが見え始めた1938年、日中戦争に端を発する反日感情の高まりから、「ハリウッド・ナウ」紙が日本人を主人公としたミスター・モトのシリーズのボイコットを訴え始めた。政治的なバックラッシュを恐れた二十世紀フォックスは七作目を最後にシリーズを打ち切った。ローレはカリカチュア化されていたミスター・モトをひたすら黙々と演じることから解放され、結果的に新しいキャラクターに挑戦する機会が増えることになる。
コロンビア・ピクチャーズの『Island of Doomed Man (1940)』では、ピーター・ローレは得体の知れないサディスト、ステファン・ダネルを演じている。ダネルは、熱帯地域の孤島でダイヤモンドの鉱脈を発見、数多くの奴隷を使って採掘させている。奴隷たちには強制収容所を彷彿とさせる場所で悲惨な生活を強いる一方、ダネルは妻とともに高圧電線に囲まれた邸宅に住んでいる。ダネル夫妻の結婚生活は、ねじれた性欲とコンプレックスのもと、ダネルの暴力によって維持されている奇矯な関係である。コロンビア・ピクチャーズという低予算映画のスタジオが提供する使い回しのセットと人工的なジャングルが、この映画に特徴的な、閉鎖的で窒息しそうな空間を作り出している。撮影は、全体的に極めてローキーで、一部のシーンでは数年後に登場するフィルム・ノワールの作品群で見られるような闇に覆われた映像を垣間見ることができる。撮影監督はベンジャミン・クライン、数え切れないほどの低予算西部劇を撮影したベテランであるが、1945年にエドガー・ウルマー監督『恐怖のまわり道(Detour, 1945)』の撮影も担当している。
監督のチャールズ・バートンは、この作品でローレにオーバーな演技をしないように注意している。
オーバーな演技をすると、演技が弱くなる チャールズ・バートン
実際、『Island of Doomed Man』でのローレは、抑制の効いた話法と表情を駆使しながら独裁者のサディスティックな狂気をスクリーンに滲み出させている。この演技のモードは、『三階の見知らぬ男』にも受け継がれている。
『三階の見知らぬ男』でのローレの役柄は、正体不明の「ストレンジャー」、柔和な話し方をしながらもどこか異様な佇まいの人物である。ジェーンと会ったときには、道端で猫に餌を与えていた。しかし、彼は通り魔的に気に入らない人を殺してしまう連続殺人犯である。彼の演技の一番の見所は、彼の正体に気づいて助けを求めようとするジェーンを捕まえて、羽交い締めにしようとするところだ。このときの表情の変化―――助けを求めるジェーンをうるさそうに捕まえる表情から、一瞬にして目を剥き、怒りを露わにする―――は、この男の変貌の瞬間を、劇的に、だが過剰ではなく、見せている。
しかし、ジェーンを演じたマーガレット・タリチェットによれば、ローレは「演技とは顔をつくることだよ」と語っていたという。
彼はいつも同じような役柄ばかりが与えられるので、正直なところ、少しうんざりして苛立たしかったのではないかと思う マーガレット・タリチェット
その後のローレの映画人としての浮沈を俯瞰してみると、結局はタイプキャストされたことが興行的にも映画史的にも奏功したという側面が否めない。やはり、彼が注目されたのは『マルタの鷹(The Maltese Falcon, 1941)』のカイロや『カサブランカ(Casablanca, 1942)』のウガーテ、更には『黒い天使(Black Angel, 1946)』のマルコなど正体・国籍不明の暗黒街の住人や、サディスティックな悪人の役柄だった。一方で『三人の波紋(Three Strangers, 1946)』のジョニー・ウェストのように楽観主義で気のいいボヘミアンを演じたときの無邪気な清冽さは、新鮮で見事なのだが、取り上げられることは少ない。結果的には、タイプキャストの歴史が彼の晩年を救うことになる。ロジャー・コーマンの「ポー・サイクル」の作品がローレの最後の作品群だが、ヴィンセント・プライス、ボリス・カーロフといった、他のタイプキャスト俳優らと共に「非の打ち所のない」演技を見せている。
悪夢はどこから来たか
この夢は、登場人物の心の動揺を強調する目的で、今までスクリーンに映し出されたもののなかでは、最も奇抜で効果的な映像のための仕掛けとして、使われているのだ 『三階の見知らぬ男』プレス・ブック
『三階の見知らぬ男』はわずか63分の作品だが、このサイコミステリーの中核部を成す、視覚的な実験としての悪夢のシークエンスは7分半もある。ミニマルでかつ強迫的なセット・デザイン、スクリーンを斜めに切り裂く平行線の影、白くウォッシュアウトした顔、極端にデフォルメされたプロップ、対角線が強調された構図、主人公のマイケルが冤罪の底なし沼に落ち込んでいく中で、弁護士や裁判官の機械のような反応と、彼を断罪する証人たちの悪意に満ちた顔、それらは、20世紀初頭から登場したありとあらゆる前衛芸術――表現主義、構成主義、ダダイズム、シュールレアリズム等――のモードを縦横無尽に取り入れている。
監督のボリス・イングスター(本名:ボリス・アサーク-イングスター)は、1920年代後半にセルゲイ・エイゼンシュタインの助手として活動していたと言う。しかし、この時期の彼のクレジットで確認できるものは、エイゼンシュタインとグリゴリー・アレキサンドロフがフランスで撮った『センチメンタル・ロマンス(Romance Sentimentale, 1930)』の助監督だけである。エイゼンシュタインは1928年にソ連を離れて西ヨーロッパ各地を渡り歩き、当時ドイツ、フランスを中心に隆盛していた様々な映像手法や技法と遭遇、また彼自身そのような映画製作に積極的に乗り出そうとしていた。エイゼンシュタインは当時始まったばかりのトーキーに強い関心を示し、『センチメンタル・ロマンス』は、その実験場となるはずだった。しかし、映画の資金を提供していた富豪、レオナルド・ローゼンタールの思惑(出演しているマラ・グリイはローゼンタールの愛人である)と齟齬が生じてしまい、結局エイゼンシュタインは製作を離れてしまった。エイゼンシュタインはスイスでの国際独立映画会議(1929)やイギリスのフィルム・インスティチュートのワークショップなどで中心的な役割を果たし、ヴァルター・ルットマン、ハンス・リヒター、アルベルト・カヴァルカンティ、ジョン・グリアーソンなどの当時のヨーロッパの前衛映画や実験映画の潮流と接点があったのである。ボリス・イングスターの関与については不明な点が多いが、エイゼンシュタインの取り巻きの一人として行動をともにしていた彼がこれらの活動に関心があったとしても不思議ではない。RKOが『三階の見知らぬ男』を実験的な作品として位置づけてプロモーションを展開していたが、それにはボリス・イングスターが前衛映画や実験映画のサークルの近親者であったことが背景としてあるのだろう。
1940年代は夢の時代だった デヴィッド・ボードウェル
映画の物語に夢を組み込む技法は、映画そのものの歴史と言っても良いかもしれない。エドウィン・S・ポーターの『アメリカ消防士の生活(Life of an American Fireman, 1903)』は物語の導入部に夢を用い、『レアビット狂の夢(Dream of a Rarebid Fiend, 1906)』はほぼ全編にわたって現実/幻覚/夢の境界を滲ませている。それからサイレント期を通して「夢」は映画のナラティブの重要な語法になっていったが、やがてハリウッドでは1930年代に夢を使用する手法が陳腐化していく。一方でフロイトの精神分析が大衆に広く受け入れられるようになり、特に夢分析はその一環として知られるようになった。1940年代には主観的な語りに対する関心の高まりとともに「夢」を使って物語を語ることが復活してきたのだという。『三階の見知らぬ男』は、そのような潮流のなかに位置づけて考える必要がある。
シェリ・チネン・ビーゼンもボールドウェルも、夢のナラティブがハリウッド映画に再登場するうえで重要な位置を占めている作品として、チャールズ・ヴィダー監督の『ブラインド・アレイ(Blind Alley, 1939)』を挙げている。刑務所から脱走したギャングのボス(チェスター・モリス)とその一味が、精神科医(ラルフ・ベラミー)の家を乗っ取り、追跡から逃れようとするという「一般人の家に立てこもる凶悪犯罪者」ジャンルの映画の先駆けでもあるこの作品では、ギャングのボスは悪夢に悩まされて不眠症になっていて、精神科医が彼の夢分析を行うという筋立てになっている。夢のシークエンスは二回にわたって登場するのだが、『三階の見知らぬ男』よりもこの映画の夢のシークエンスの方が確実に「ドイツ表現主義」の影響を見て取ることができるはずだ。最初の夢は雨の中を歩き彷徨う男のイメージだが、その映像は白黒反転されていて、F・W・ムルナウの『吸血鬼ノスフェラトゥ(Nosferatu, 1921)』馬車のシーンを彷彿とさせる。次の夢に登場するセットは斜線と歪みを強調した、まさに『カリガリ博士』や『朝から夜中まで(Von morgens bis mitternachts, 1920)』から飛び出てきたようなデザインのものである。このように夢を映像化する際に、デフォルメ、形状の歪み、色彩や明暗の加工、ディゾルブや多重露光、様式化された演技や表情、そして異質なサウンドデザイン、といった手法を用いて、無意識と映像を直結させる試みが1940年代には頻繁に現れるようになってくる。アナトール・リトヴァク監督の『Blues in the Night(1941)』の夢のシーンのモンタージュ(ドン・シーゲルがクレジットされている)は更に超現実的になり、『The Feminine Touch (1941) 』でロザリンド・ラッセルが見る夢は、サルバトール・ダリのパロディのようでもあり、結局ヒッチコックが『白い恐怖(Spellbound, 1945)』で、ダリのシュールレアリズムの意匠そのものを採用していった。
フィルム・ノワールの文脈だけで『三階の見知らぬ男』を捉えようとすると、その実験性だけがひときわ目立ち、特異点として評価しがちであるが、1940年頃のハリウッドの映像文法の変化のなかで捉え直すと、特に低予算の添え物映画における経済性や効率性の追求と精神分析の流行とが交差した位置で編み出された手法であることが明確になってくる。
精神異常とボイスオーバー、そして検閲
『三階の見知らぬ男』では、決して映像として見せることはないものの、殺人の手口や犯行現場の惨殺死体の様子は詳細に言葉で描写され、観客の想像力をかきたてる。PCAは1940年5月の脚本の段階から、この作品で描写される暴力、飲酒、セックスなど様々な側面に対して異議を申し立て、修正を迫っている。ところが、この作品でPCAが最も懸念を示したのは、現在の私達からすれば意外な側面であった。主人公のマイケルが、ひとり自分の部屋で、自らの不安を心の中で反芻するモノローグ(ボイスオーバー)に対してPCAはこだわったようだ。
話の大部分において、主人公マイケルに対して声が語りかけるということ、そしてそれに対するマイケルの反応が、マイケルが何らかの精神疾患を患っていることを示唆している PCAのメモ
この数年後には、登場人物によるモノローグがハリウッド映画製作において重要な要素になることを鑑みると、非常に驚くべき指摘である。
1930年代のハリウッド映画では、ボイスオーバー・ナレーションが語りの手法として採用されること自体が少なかった。ウィリアム・K・ハワード監督、プレストン・スタージェス脚本の『力と栄光(The Power and the Glory, 1933)』等の例外はあるものの、基本的には対話(ダイアローグ)を中心に脚本が構成され、登場人物たちの造形は会話によって形作られていた。それが1939年に大きく変化する。サラ・コツロフは『嵐が丘(Wuthering Heights, 1939)』、『革命児ファレス(Juarez, 1939)』、『彼奴は顔役だ!(The Roaring Twenties, 1939)』、『戦慄のスパイ網(Confessions of a Nazi Spy, 1939)』といった作品を挙げ、1939年にボイスオーバーが重要な語りの手法として登場したことを指摘し、それが一時的な流行ではなく、量・質ともに1940年代はボイスオーバーの黄金時代であるとしている。アンドリュー・サリスは、この変化の背景に1930年代末に全米脚本家協会の活動によって脚本家の地位が向上したことがあると述べている。1930年代のはじめには脚本家はクレジットさえもままならないほど抑圧された状況に置かれていたが、全米脚本家協会がスタジオと繰り返し交渉し続けたことで、脚本家の映画製作における役割が認識されるようになってきたのが、この時期である。そのことを考慮すると『三階の見知らぬ男』の監督、ボリス・イングスターが全米脚本家協会の書記をこの時期つとめていたことは偶然ではないだろう(彼は共産党員ではなかったが、脚本家協会において活発に活動していた)。
PCAが問題にしたのは、ボイスオーバーという手法そのものではない。ボイスオーバーによるモノローグ、しかも意識の流れのようなスタイルで不安を反芻するということ、そのことが「精神疾患を示唆している」のではないかと問題視しているのである。これは、意識の流れのような表現手法がまだ一般にはそれほど浸透しておらず、一方でまだ起きていないことに対する不安や恐れは「妄想」と解釈されかねないという状況を表しているのだろう。この点で興味深いのは、主人公のマイケルの妄想、すなわち彼のアパートの隣人が殺されていて、その殺人の罪の濡れ衣を自分がかぶってしまうのではないか、という恐怖は、その後現実になる、という点だ。この極端なパラノイアは、モノローグそのものにあるのではなく、映画全体を覆っているのだ。
もし『三階の見知らぬ男』がフィルム・ノワールの先駆的な作品であるとすれば、まさにその点であろう。作品全体を覆うパラノイアと、現実が突如悪夢と入れ替わってしまう感覚。キアロスクーロの照明技法や夢のシークエンスの登場、といったことは寧ろそれに付随した技法の側面に過ぎない。
Links
TCMのサイトに掲載されているジェレミー・アーノルドの批評は、『三階の見知らぬ男』を「最初のフィルム・ノワール」と位置づけ、数々の批評を引用しながらその異議を論じている。
Classic Film Freakのサイトでは、「ピーター・ローレの出番が少ない」ことが残念としながらも、彼の存在感を高く評価している。
ボリス・イングスターによるエイゼンシュタインの論文はオンラインで無料で閲覧することができる。
Data
RKO配給 8/16/1940公開
B&W 1.37:1
64 min
製作 | リー・S・マーカス Lee S. Marcus | 出演 | ピーター・ローレ Peter Lorre |
監督 | ボリス・イングスター Boris Ingster | ジョン・マクガイア John McGuire |
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脚本 | フランク・パルトス Frank Partos | マーガレット・タリチェット Margaret Tallichet |
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脚本 | ナサニエル・ウェスト Nathanael West | エリシャ・クック・Jr Elisha Cook Jr. |
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撮影 | Nicholus Musuraca | チャールズ・ハルトン Charles Halton |
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音楽 | ロイ・ウェッブ Roy Webb | エセル・グリフィーズ Ethel Griffies |
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編集 | ハリー・マーカー Harry Marker |
References
Top Image: from Cine-Mundial, Oct., 1940