FILM

Kiss Me Deadly (1955)

キッスで殺せ!
Kiss Me Deadly

ユナイテッド・アーチスツ配給
1955年公開

 

フランスの映画評論家、特にトリュフォー、シャブロル、「カイエ」の連中がそうなんだが、『キッスで殺せ!』を深読みしすぎたんだ。
まあ、彼らの熱意は嬉しんだが、その賞賛には値しないね。
ロバート・アルドリッチ

あれは、すごい映画だね。でも、クソだと思ったが。本はクソだ。
A・I・ベゼリデス

 

 

Synopsis

夜の道を裸足で逃げ惑う1人の女。彼女を拾ったマイク・ハマーは、バス停まで送り届けようとするが、その前に3人の男に襲われる。監禁され、女は拷問を受け、挙句の果てにハマーの愛車に2人は乗せられて崖から突き落とされる。奇跡的に生き残ったハマーは、「何か大きなこと」が絡んでいると睨んだ。彼女のルームメイトを探して夜のロサンジェルスをさまよい、そしてまた命を狙われる・・・

 

 

Quotes

Now listen, Mike. Listen carefully. I’m going to pronounce a few words. They’re harmless words. Just a bunch of letters scrambled together. But their meaning is very important. Try to understand what they mean. “Manhattan Project, Los Alamos, Trinity.”

いいか、よく聞け、マイク。注意して聞け。これから単語を幾つか言う。それ自体は無害な単語だ。文字が組み合わさっただけの、ただの単語だ。だが、その意味がとても重要なんだ。どういう意味かよく考えろ。「マンハッタン計画、ロス・アラモス、トリニティ [1]
― マーフィー刑事(ウェズリー・アディ)

 

 

Production

ミッキー・スピレイン(1918-2006)のハードボイルド小説「裁くのは俺だ(I, the Jury, 1947)」は、350万部売れた大ベストセラーで、私立探偵ヒーロー「マイク・ハマー」を世に送り出した。正義のためなら法を顧みず、立ちはだかる男たちを殴り倒し、1冊で30人以上ぶち殺しても、次の続編ではケロッとして、美人秘書ヴェルダを連れて現れる。愛国者でタカ派、共産主義者は虫けらくらいにしか思っていない。それまでのサム・スペードやフィリップ・マーロウのシニシズムや厭世観からはかけ離れた、サディズムとセクシズムが渾然一体となったキャラクターである。スピレインはこのキャラクターが「売れる」ことを極めて強く意識して、積極的にプロモーション活動を行なった。ラジオ番組は1953年から開始、1954年には著者自身がハマーを演じたレコードも発売されている。

1953年、プロデューサー/映画監督のヴィクター・サヴィル(1895-1979)が、ミッキー・スピレーンの小説を映画化する目的でパークレーン・プロダクションを設立、スピレインと「裁くのは俺だ」、「俺の拳銃は素早い」、「果された期待」、「燃える接吻を」の4作の映画化権契約を結んだ。もともとはトーマス・B・コステインの史劇『銀の盃(The Silver Chalice)』を映画化するための足がかり作りと資金調達の一環だったようだ。『I, the Jury (1953)』は白黒の3D映画として公開されたが(ジョン・オルトンが撮影を担当)、スピレインが「あれはマイク・ハマーじゃない」とこき下ろしたことが話題になった(ただし、スピレインは自分がマイク・ハマーを演じた作品以外、すべての映像化作品をこき下ろしている)。この作品でマイク・ハマーを演じたビフ・エリオットは後年「作者が、そうとは気づかずに自伝を書いているんだから、満足させることなんか無理だね」と的確に指摘している。次作の『The Long Wait (1954)』はサヴィル自身が監督、その直後にはTV番組のパイロットも製作した(監督は、32歳のブレイク・エドワーズ)。

『キッスで殺せ!』の映画化にあたって、サヴィルは、『アパッチ(Apache, 1954)』『ヴェラ・クルズ(Vera Cruz, 1954)』の監督で高い評価を得ていたロバート・アルドリッチ(1918-1983)と組み、彼の製作会社(ジ・アソシエイツ・アンド・アルドリッチ)に加わった。脚本はA・I・ベゼリデス(1908-2007)が担当。ベゼリデスはアルメニア/ギリシャ系の移民の子で、カリフォルニア大学バークレー校で工学を学んだ後、ロサンジェルス市の水道電力局[2]に勤務しながら小説を出版。これが『夜までドライブ(They Drive by Night, 1940)』として映画化され、その後ハリウッドで脚本家となった。戦時中、ハリウッドにいたウィリアム・フォークナーの知己を得る[3]。自らの小説の映画化『深夜復讐便(Thieves’ Highway, 1949)』や『危険な場所で(On Dangerous Ground, 1951)』の脚本を担当した。アルドリッチからスピレインの原作「燃える接吻を(Kiss Me, Deadly, 1952)」を渡された彼は、読むなりアルドリッチに向かって「ひどい」と告げ、3週間で脚本を仕上げたという。

ベゼリデスが原作から変更した最も重大なポイントは、原作でマイク・ハマーが追いかけていたのは麻薬だったのに対し、脚本では原子爆弾(あるいはそれに類するもの)になっている点である。この変更について、アルドリッチは「プロダクション・コード運営局が麻薬の描写を許可しなかったから」とインタビューで答えているが、ベゼリデスは「(マイク・ハマーが麻薬の箱を発見する)ロサンジェルス・アスレチック・クラブの更衣室のロッカーの前に立ったら、アイディアが浮かんだ」と述べている。「50年代には確かにみんな麻薬もやっていたが、核シェルターも作ってたんだ。それを描きたかった。」

もう一つの重要な変更点は、舞台が原作のニューヨークからロサンジェルスに移されていることである。その結果、ニューヨークの密集した市街や汚れた裏道とは趣が異なる、広大な無の中を突っ切るハイウェイやパームツリーに彩られた街路が姿をあらわす。エンジェルズ・フライトやバンカー・ヒルといった当時の市街の風景とともに、ビバリーヒルズのプール付き邸宅やマリブーのビーチハウスといった、カリフォルニアの富と発展の象徴が立ち現れ、マイク・ハマーの周りに渦巻く暴力を、より乾いた、荒涼としたものにしている。

アルドリッチとベゼリデスは「原作は何も内容がなかったから、全部捨てて、題名だけ借りた」と豪語しているが、実際にはキャラクターの大部分は原作に登場するし、プロットの要素も借りている。ただし、それらは一度解体され、「アメリカの1950年代の怪しげな価値観を支える、還元論の産物ではなく、破壊する道具として」再度組み立てられている。

当時はHUACによる赤狩りとハリウッドのブラックリストによる左翼締め出しが最も激しかった時代で、アルドリッチはこの作品でそのことを描きたかったと述べている。ベゼリデスは、共産党員ではなかったが、左翼であり、一時期ブラックリストに入っていた。

マイク・ハマー役に抜擢されたのは、ラルフ・ミーカー(1920-1988)。彼は1953年のブロードウェイの舞台『ピクニック』の主役を演じて注目を浴びた。『ピクニック(Picnic, 1955)』の映画化に際して長期契約を嫌って主役のオファーを断り、その後は独立系製作映画やTV番組の仕事が中心になる。『キッスで殺せ!』のハマー役が最も有名で、その後似たような役どころを頻繁に演じた。

秘書のヴェルダ役、マキシン・クーパー(1924-2009)はこれが映画デビューである。彼女はその後アルドリッチ作品を中心に出演していたが、脚本家のサイ・ゴンバーグと結婚した後は仕事を減らし、主に人権運動、ブラックリスト反対運動などの活動家として知られた。本作品のなかで最もアイコニックな人物、オープニングのクリスティーナを演じたのはクロリス・リーチマン(1926-)、やはりこれがデビューである。彼女はその後多くの映画、TV番組に出演し、今も現役で活躍している。もう一人の謎の女、ショートカットが印象的なリリー・カーバーは、ギャビー・ロジャーズ(1928-)が演じた。ドイツ生まれ、現象学で有名なエトムント・フッサールの姪である。幼少の頃アムステルダムに住んでいて、アンネ・フランクと遊んだという。『キッスで殺せ!』のリリーの独特な話し方は、ロジャーズが「ヤク中のつもりで」演じたものだそうだ。彼女はTV番組出演が多かった。夫は「ハウンド・ドッグ」などの作詞で知られるジェリー・リーバーである。

マフィアの親玉は、ポール・イヴァロ(1908-1986)。響く声、眠そうな眼、ロングショットでもハッキリ見える眉、裏切りそうな笑顔、『市民ケーン(Citizen Kane, 1941)』でチャールズ・フォスター・ケーンの秘書役として有名。ワーカホリックのように年に数本の映画に出演し続け、60年代からはTVの仕事を精力的にこなしている。

そのマフィアの子分には、ジャック・ランバート(1920-2002)とジャック・エラム(1920-2003)。360度どこから見てもマフィアの子分か西部劇のサルーンで早撃ちに負ける悪者にしか見えない2人は、『キッスで殺せ!』でも中途半端に強い乱暴者を演じている。ジャック・エラムはセルジオ・レオーネの『ウエスタン(Once Upon a Time in the West, 1968)』などが有名だが、俳優になる前は、スタンダード・オイルで監査員をやったり、会計事務所を経営していたという経歴を持つ。サミュエル・ゴールドウィンが顧客だったという。

アルバート・デッカー(1905-1968)は謎のゾベリン博士として登場するが、スクリーン上で顔を見せるのはわずか数カット。彼は1940年代から、ハリウッドでミステリー、サスペンスで悪役の親玉を多く演じている。

『キッスで殺せ!』は裏切り者や乱暴者ばかりが出てくるが、数少ない愛すべきキャラクターとして自動車修理工場のニックがいる。彼の「ヴァヴァ・ヴーン、プリティ・パッーオ(Va-va voom, Pretty Pow!)」は字幕がなくてもしばらくこびりついて離れない名セリフであろう(IMDBでの役名は「Nick va va voom」)。これは、ギリシャ系アメリカ人俳優、ニック・デニス(1904-1980)の名演だが、「ヴァヴァ・ヴーン」は彼が思いついたセリフだという。

クレジットされていないが、ガソリン・スタンドの店員として登場するロバート・シャーマン(1926-1997)は、「プロデューサー・アシスタント」「ダイアローグ・コーチ」としても参加。彼はその後TV番組の脚本家となり、『バーナビー・ジョーンズ』『マクガイバー』などに参加している。よくある名前なので、俳優で舞台監督のボブ・シャーマンと混同されている。

撮影のアーネスト・ラズロ(1898-1984)はサイレント期からハリウッドでカメラ・オペレーターとして働いていたが、40年代に頭角を現し、アルドリッチの作品を数多く撮影している。

音楽を担当したのは、フランク・デ・ヴォール(1911-1990)だが、彼はナット・キング・コールの「ネイチャー・ボーイ」のアレンジを手掛けたことから、50~70年代のアメリカのムード音楽を代表する人物となった。

ナイトクラブのシーンで「Rather Have A Blues」を歌っているのは、ジャズ歌手のキティ・ホワイト(1923-2009)。彼女は同じ年にチャールズ・ロートン監督の『狩人の夜(The Night of the Hunter, 1955)』で、幻想的なオハイオ川下りのシーンの「ララバイ・ソング」も歌っている。

製作費はアルドリッチによれば365,000ドル(TCMのサイトでは予算が425,000ドル)。公開当時は、公開劇場を出演女優たちが巡回し、劇場マネージャーの膝の上に座って「マイク・ハマーの世界を再現する」プロモーションが行われた。

 

 

Reception

フレッド・F・シアーズ監督[/pullquote]公開当時のアメリカ国内での評判は芳しくない。公開前のレビューの時点で「暴力的」「サディスティック」「下品」「子供の教育に悪い」という形容がならび、公開劇場からのフィードバックも、観客の反応が「Poor」と最低ランキング、散々である。同時期に公開されている『ビッグ・コンボ(The Big Combo, 1955)』も同様の反応であり、現在フィルム・ノワールの名作として謳われることの多いこの2作の公開時の惨敗振りがうかがえる[4]。公開時には『暴力教室(Blackboard Jungle, 1955)』『死刑囚2455号(Cell Block 2455, Death Row, 1955)』などと風紀を乱す作品としてくくられてNational Legion of Decencyなどに問題視された。

ミッキー・スピレインの悪名高き暴力描写が、この映画では、わざとらしくて作り物のようにしか見えないし、アクションもバラバラでナンセンスな悪夢みたいだMotion Picture Daily

こんな野蛮で、サディスティックで、病的で、反吐が出そうな登場人物ばかりの映画は見たことがない
Modern Screen

しかし、海外、特にフランスでの受容は違った。この映画をフランスの『カイエ・デュ・シネマ』の若き批評家たちが「発見」し、大絶賛したのである。中でもフランソワ・トリュフォーとクロード・シャブロルは特集記事やアルドリッチへのインタビューを掲載し、オーソン・ウェルズの『上海から来た女』に比肩する作品として熱狂的に迎えた。

ロバート・アルドリッチが1955年のシネマの事件になることは疑う余地がない
フランソワ・トリュフォー

これはもっと深刻なことについての物語だ。死、恐れ、愛、そして恐怖のイメージが次々と過ぎ去っていく
クロード・シャブロル

このようなフランスでの熱狂的な受容について、少し考慮しなければならないのは、もともと『キッスで殺せ!』の配給元のユナイテッド・アーティスツは、海外での興行収入が40%を占める、ハリウッドでは異端の配給会社であったことである。1951年に倒産寸前のUAを救い出したアーサー・クリムがとった戦略は海外への進出で、年間の輸出プリント数も1951~1955年の4年間で2倍の3836本にもなっているのである。このような戦略的な海外での露出が、カイエの若い世代による「発見」に繋がったのも不思議ではない。

公開時はアメリカ国内の興行収入が$726,000だったのに対し、国外は$226,000だった。ちなみに同じ年に公開されたジェームズ・ディーン主演の『エデンの東』は$11,100,000、『理由なき反抗』が$10,200,000、ジョン・フォード監督の『ミスター・ロバーツ』が$17,800,000の興行収入だった。同じユナイテッド・アーティスツの『マーティ』はほぼおなじ製作費で$6,7000,00だった。『キッスで殺せ!』は「批評家はこき下ろしたが観客は見に行った」というほどの興行ではない。

国内の冷めた反応に対して、海外での熱狂的な受容をアルドリッチはもちろん悪くは思わなかったが、少々居心地の悪いものととらえていたようだ。「もともとマッカーシズムに対するコメントを意図こそしたが、それがアメリカ国外で特に意味をもつとは思わない」と発言している。カイエの連中に対して「フランスの批評家は深読みしすぎ」と言った発言がどこかで「アルドリッチ自身はこの作品を気に入っていない」にすり替わってしまい、生涯「『キッスで殺せ!』は監督ご自身、お好きでないそうですが・・・」と言われるたびに訂正する羽目になった。

このようなカルト化が、その後の70年代以降のフィルム・ノワール評価において重要な基軸になったことは言うまでもない。

フィルム・ノワールの傑作
ポール・シュレーダー

1955年は時代の終わり。フィルム・ノワールは、極めて著しい不穏さを創造し、アメリカの社会批判を媒介する手法を提供して、その役割を終えた。ロバート・アルドリッチは『キッスで殺せ!』で、この出来事に魅力的で後ろめたい結末を提供したのだ。
レイモン・ボルド&エティエンヌ・ショーモン

もちろん、原作者のミッキー・スピレインは内容の改変をよく思わず評価していない。ただし、ラルフ・ミーカーのマイク・ハマーは「(俺を除けば)一番ハマっている」と評価した。

製作者のヴィクター・サヴィルは「なんだかよくわからない映画」「なぜ(海外で)評価されているのかよくわからない」と正直に告白している。

この作品がアメリカの深夜TVで放映されたり、VHSテープで流通し始めたとき、エンディングのシーンが1分ほどなぜか短縮されてしまっていた。ハマーとヴェルダが逃げ出そうとするビーチハウスが爆発するシーンでTHE ENDのクレジットが出てくるのである。この編集は、2人が核爆発で死んでしまったことを示唆している。「ハマーとヴェルダは無事脱出し、爆発を海岸で見ていたバージョンが存在する」という証言がアラン・シルバーなどによってもたらされたが、「それはスタジオが作ったハッピー・エンディング」「アルドリッチのオリジナルのアイディアは2人が核爆発で死ぬ方のバージョン」という意見と衝突する格好になってしまった。アルドリッチはそのことを知らず、そのような短縮エンディングの存在について質問されたとき、「そんなエンディングは知らない」とはっきり答えた。アルドリッチ自身が所有していた35mmプリントからオリジナルエンディングが復刻されて、現在は公開時の形に戻されている。DVDでは「短縮バージョン」も収録されている。

 

Analysis

どこかに消えたコンマ

ミッキー・スピレインの原作のタイトルは「Kiss Me, Deadly」であるが、映画のタイトルは『Kiss Me Deadly』である。コンマがどこかに消えている。

原作のタイトルは、クライマックスでのリリーのセリフからとられている。リリーはマイクに「キスして」と言い、「死を呼ぶ男/不倶戴天の敵」という意味でのマイクに対する呼びかけとしてDeadlyを使っている。だからこそ、コンマが入っているのだ。

映画でもクライマックスでリリーがマイク・ハマーに「キスをして」という。

Kiss me, Mike. I want you to kiss me. Kiss me. The liar’s kiss that says I love you, and means something else.

キスして、マイク。キスしてほしいの。キスして。嘘つきのキス、愛してるって言ってるけど、本当は別の意味の、嘘つきのキス。

しかし、敢えて「deadly」という言葉を使っていない。確かに、映画のこのクライマックスでは、マイクは「死を呼ぶ男」でも「不倶戴天の敵」でもなく、ボロ雑巾のように弱っている。このシーンで、本当に「deadly」なものは別にある。

映画『キッスで殺せ!』では、ボイスオーバー・ナレーションが使われていない。この作品の視界が原作とそれと大きくずれている、極めてクリティカルな分岐点である。

ミッキー・スピレインの作品の特徴は、マイク・ハマーの語りが「意識の流れ」の如く、延々と続くことである。そして、ラジオ番組や映画でも、ボイスオーバー・ナレーションを用いた、この語りが物語を進めるエンジンとなって、独特の世界観をファンが追体験できるのだ。例えば、原作のオープニングはこんな感じである。

Somehow I had managed a sweeping curve around the babe. For a few seconds she had been living on stolen time because instead of getting out of the way she had tried to stay in the beam of the headlights. I sat there and let myself shake. The butt that had fallen out of my mouth had burned a hole in the leg of my pants, and I flipped it out the window. The stink of burned rubber and brake lining hung in the air like smoke and I was thinking every damn thing I ever wanted to say to a hare-brained woman so I could have it ready when I got my hands on her.

俺は、スーッとカーブを描いてなんとかこの女を避けることができた。この女は、何秒かの間、盗まれた時間ってやつに生かされていた。逃げもせずにヘッドライトに照らされていたからね。俺は車のなかで座って震えていた。タバコが俺の唇から落ちて、ズボンを焼いて穴を開けやがった。窓の外にタバコをはじき出した。焼けたゴムとブレーキパッドの匂いが、煙のように空気の中を漂っている。俺は、今までずっとウサギなみの脳みその女に言ってやろうと思っていたことを全部思い出そうとしていた。あとでこの女をとっちめて、それを全部ぶちまけてやる。

この冒頭のシーンで、私達は一気にマイクの心のなかに引きずり込まれていく。繰り返し現れる”I”が、脅迫的に読む者の視野を固定していく。女性のことを“dame”とか“babe”とか普段は呼ばない人でさえ、心のなかで呼ばされる羽目になる。「ウサギなみの脳みその女(hare-brained woman)」などという、たった3つの単語で女性に対する侮蔑を難なく表現しきれる語彙力には、確かに目をみはるものがある(決して褒めていない、念のため)。

しかし、映画では、不機嫌な顔をしたマイクが不機嫌な眼で、息切れしている女を見つめているだけである。どこか別のところに私達がいて、マイクの不機嫌を眺めている。この”I”が支配しない視野で見えてくるのは、相対化されたマイクと彼を取り巻く世界である。漆黒の闇、見渡す限り何もないハイウェイ、磨き上げられたジャガー、そして全裸にトレンチコートを羽織っただけの若い女。このちぐはぐさを“I”が繋げることはない。

原作の“I”の世界で聞いた呪いの声、“Kiss Me, Deadly”ではなく、つぶやきにも似たような冷めきったステートメントとして、コンマのない『Kiss Me Deadly』がタイトルになったのであろう。

興味深いことに、マックス・アラン・コリンズは、原作そのものが、アルドリッチの映画のもつ「終末論」的な性格を既に帯びている、と指摘している。原作の『Kiss Me, Deadly』はスピレインのそれまでのハマー・シリーズとは違い、ハマー自身が最後生き延びたかどうか分からない、という結末になっている。最後の決闘は、聖書に記されているアルマゲドンに言及しており、暴力のあり方がスピレイン自身の言葉を借りれば「変容している」。これは前年にスピレインが「エホヴァの証人」に入信したことが強く影響しているとコリンズは分析している。

映画のタイトルをコンマなしにしたアルドリッチの変更も、スピレインの新しいヴィジョンに適っている:マイク・ハマーだけが死を呼ぶのではない。今や宇宙全てが危険なのだ。

しかし、数百万部売れたこの作品の読者がそこまで感じたかどうかは疑問だ。映画製作の段階においては、「マイク・ハマー」シリーズ全般の人気に便乗することを目論んでいたし、ハマー/スピレインのミソジニーや「非アメリカ」的なものに対する嫌悪―すなわち当時のアメリカの世相そのものーは、原作の重要な構成要素のままである。売れている原作を「クソ」だと思っている監督や脚本家が、その売れていることに便乗しつつ、それを解体し批判する映画を作るという事態を、コンマの不在が物語っている。

「逆さま」の美学

『キッスで殺せ!』のオープニング、「逆」にスクロールするタイトルクレジットは、多くのフィルム・ノワールファンを虜にした、有名なヴィジュアルシーケンスである。ピーター・ボグダノヴィッチも、この作品が従来の慣習をことごとく拒み、むしろそれらを倒置する試みであることを賞賛している。

『キッスで殺せ!』の抑制が効かなくなった悪意と無謀なまでの気取り、映画史における特異的にひねくれた転回―――タイトルロールさえ「DEADLY KISS ME」と反対に現れるのだ(監督の製作会社の名前さえ普通であることを拒んでいるーアソシエイツ&アルドリッチ)。
ピーター・ボグダノヴィッチ

この逆向きに流れるタイトルロールのなか、マイクのジャガーは爆音を立てて深夜のハイウェイを爆走し、クリスティーナは一言も発することなく、ただ息切れをして、ナット・キング・コールの歌う「Rather Have A Blues」がラジオからメランコリックに流れる。清々しいまでの気障と分裂。

ひょっとすると、これも実はただ単にスピレインの示威行動に対する反抗に過ぎなかったのかもしれない。ユナイテッド・アーティスツからのメモには「ミッキー・スピレインの名前はタイトルの上にくること、字体もシグネット版のペーパーバックのカバーと同じものを使うこと」とある。あの「上から下へのタイトルロール」は、アルドリッチがこの「ファシスト」の言うことを聞きたくなかっただけなのかもしれない。命令を無視はしないが、命令に文字通りは従わない。ミッキー・スピレインの名前は先に出てくるが、タイトルの下。字体は実質上同じだが、本のカバーは「Kiss Me, Deadly」、映画のタイトルは「KISS ME DEADLY」と全部大文字。しかもスクロールにパースペクティブを加えているので、字体が歪んでいる。むしろ、アルドリッチやベゼリデスが嫌悪し、不愉快に感じ、反発したのは、「力を持つ者が、力で相手をねじ伏せ、支配すること」という、まさしくマッカーシズム、ブラックリスト、反動政治の特徴であり、それを体現するものとして、マイク・ハマーとその創造主、ミッキー・スピレインがいたのかもしれない。ロード・アイランドの「アルドリッチ」と言えば「あのアルドリッチ家」と言われる名家、ロックフェラー家を親戚に持ち、望めばチェイス銀行の経営陣に加われたかもしれないと言われる家庭で育ったロバート・アルドリッチが、このような視点を持っていたことは興味深い。

訛りだらけのアメリカ人

「非アメリカ的(Un-American)」という単語が毎日のように新聞、ラジオ、そして新しく登場したTVで喚かれていたこの時代、『キッスで殺せ!』には、様々に、訛った英語を話す登場人物たちが現れる。ギリシャ訛りでまくし立てるニック、イタリア系のオペラ歌手トリヴァーゴ、アフリカン・アメリカンのイエーガー、彼らの訛りや、エスニシティにルーツがある発音、発話が、決して見下されることなく、あるいはステレオタイプ化されるわけではなく、むしろその豊かさをストレートに描いている。ニックが愛すべき人物として描かれ、イエーガーが賢明なビジネスマンとして登場している一方で、「白人」たち、エスニックな訛りのない人物たちは、人を欺き、金銭を要求し、殴り、殺す者ばかりである。同年の『理由なき反抗』で、国旗を掲揚する高校の、金髪と白い肌に占領された人種構成を思い出すと良いかもしれない。そのなかで黒髪だったジョン・クロフォードが、どう見られていたか、を。

だが、『キッスで殺せ!』のクライマックスは、その「訛り」さえも偽装する者によって破壊がもたらされる。リリーは、その怪しげな発話によって、「白人」から逸脱するが、それは単なる自堕落によってもたらされたものである。

「何かわからないもの」

マイクは、「何かでかいもの」といってロサンジェルスの闇の中、何かを追い回している。ヴェルダは「それが何か」は分からず追い回していることを非難する。

You want to avenge the death of your dear friend. How touching. How sweet. How nicely it justifies your quest for the great whatsit.

親友の死を復讐したいのね。なんて感動的。なんて優しいの。どでかい何かを探し回る、いい口実ね。

リリーは、ゾルベリンから分前を欲しがる。そのきっと高価に違いない「何か」、多くの人命が失われた「何か」、マイクが追っかけまわしている「何か」、それを半分、いや全部欲しがる。「私の取り分は?」と言いながら、リリーは「何か」を全部奪う。

Whatever is in that box, it must be very precious. So many people have died for it.

箱の中のもの、何だか知らないけどきっとすごく高価なものなんでしょ。それのためにたくさん人が死んだんだもん。

マイクは、FBIのマーフィーから「その正体」を教えられたとき、初めて自分が扱いきれないものを追っかけまわしていたことに気づき、呆然とする。これはまさしく「核兵器」という、「何かでかいもの」を追い回した上に人類が手に入れたもの、扱いきれないことに後になって気づいた、その状況を表している。

プロット・デバイスとしての「マクガフィン(Great McGuffin)」というコンセプトが語られだしたのは30年代だった。『マルタの鷹(The Maltese Falcon, 1940)』は、まさしくマクガフィンが主題であり、何を追いかけているか分かっていない私立探偵がマクガフィンを追いかける。最後にその正体がわかったとき、それを「夢でできている」とボガートが呼んで、エンドマークとなる作品だ。「夢でできている」マクガフィンが、開けてはならない「パンドラの箱」だったという、悪夢のパラノイアに支配された世界が『キッスで殺せ!』なのである。

Xのシルエット

これほど、アルドリッチのカトリック教徒としてのシンボリズムが顕著な作品にも関わらず、カトリック教会から非難されたのは、アルドリッチとしては意外だったようだ。

オープニングで、クリスティーナ(Christina/キリスト)が十字架のキリスト像のごとく登場する。彼女の謎の言葉「Remember Me」はキリストが最後の晩餐での言葉「Do this in remembrance of me」に通じ、昏睡状態から復活したマイクをニックは「ラザルスのように復活した」と喜ぶ。リリーの本名がガブリエルで最後の審判の喇叭を吹く天使の名前であるのは偶然ではない。

コリンズも指摘しているが、作品を通じて現れる「X」のパターンは死を意味するのか、それともキスを意味するのか。ハワード・ホークスの『暗黒街の顔役(Scarface, 1932)』のヴィジュアル・モチーフへのオマージュか。その多くが偶然映りこんだものかもしれないが、明らかにクリスティーナ/キリストのモチーフとして用いられているものもある。クリスティーナの部屋に飾られた絵画が、まさしく彼女のアイコニックなポーズそのものを想起させる「X」であり、ビーチハウスでベッドに拘束されるマイクが、そのアイコニックな「X」を繰り返している。しかし、マイクは「容れ物」としてはあまりにお粗末だったかもしれない。

深読みの功罪

アルドリッチは「フランスのカイエの連中が深読みをしすぎた」と言っているが、「(シナリオの)ハイブロウな部分は全部ベゼリデスの仕業だよ」とも言っている。「パンドラの箱」「メドゥーサの首」「ケルベロス」などとまくしたてられれば、深読みしないほうが難しいというものだろう。

また、多少なりともバザンの理論に影響を受けているカイエの批評家達は、ディープ・フォーカスの構図、ワンシーン・ワンショットといった「作家」のトレードマークも見逃さなかった。なかでもボクシングジムのワンシーン・ワンショットは、その流れるようなカメラムーブメントも手伝って非常に印象的であることは間違いない。しかし、アルドリッチによれば、これはむしろ、人材とコストの要請から生まれたものだという。撮影監督のアーネスト・ラズロは、決して仕事が早い方ではなく(「非常に優れたカメラマンだが、スピードがトレードマークではない」)、時間とコストの都合上、普通ならばカバーしたいアングルをカバーできないと最初から分かっていた。それがワンショットで全てを撮ることにした主な動機だと述べている。むしろ、ウィリアム・ワイラーらが骨を折って作り上げた映像の文法が、経済的な枷をはめられた映画製作の現場での一つの選択肢になり得るまでに進化していたと理解するほうがよいのかもしれない。

やはり、もとの設定が齟齬をきたしたままだったのだ。マイク・ハマーを喜ぶであろう観客をあてにして、反マイク・ハマーの映画を作ったところに無理がある。結局のところ、反マッカーシズムや反核という、アルドリッチが目論んだ「当時のアメリカでしかピックアップできなかった」であろうコンテクストも、すっかりぼやけてしまったまま、本国アメリカでは乱暴な映画としてしか当時は評価されなかった。しかし、その「逆さま」の美学に見られるような新鮮で反逆的な思考が、「深読み」であろうと、遠く離れた土地の映画ファンや数世代を経た私達のなかで共鳴しているのはどうやら残念ながら事実らしい。フィルムには奇跡が宿るという大嘘を信じてしまいたくなる。

 

 

Links

クライテリオンのサイトのJ・ホバーマンの記事は、公開当時の反応について言及しており、風紀を乱すものして白眼視された様子を述べている。

TCMのノートも公開当時の反応を取り上げている。

Varietyの当時の評は「マイク・ハマーがところどころ軟弱だが」と、主人公の扱いが期待にそぐわなかったことを匂わせている。

チャック・ステファンスによる、出演者たちの詳細な解説は、この映画が実に新鮮なキャストで構成されていることを再確認させてくれる。

リリーを演じたギャビー・ロジャーズのインタビュー記事では、彼女の数奇な人生と多彩な才能がうかがえる。

この作品のエンディングの謎の変更については、いくつか重要な文献がある。公開時のエンディングを発掘する原動力となったアラン・シルバーの記事は、まさしく映像の探偵作業のようで面白い。

グレン・エリクソンがその探偵作業をさらにつぶさに解析している。さらに、変更が行われた理由の推理は実に興味深い。当時のインディペンデント映画の配給・公開のある一側面としても相当考えさせられるものがある。

米国監督協会のサイトでは、ロバート・アルドリッチの生涯と作品を独特な角度から切り出して紹介している。

 

 

Data

ユナイテッド・アーティスツ配給 1955/5/8 公開

B&W 1.66:1
106分

製作ロバート・アルドリッチ
Robert Aldrich
出演ラルフ・ミーカー
Ralph Meeker
製作ヴィクター・サヴィル
Victor Saville
アルバート・デッカー
Albert Dekker
監督ロバート・アルドリッチ
Robert Aldrich
ポール・スチュアート
Paul Stewart
脚本A・I・ベゼリデス
A. I. Bezzerides
ユアノ・ヘルナンデス
Juano Hernandez
原作ミッキー・スピレイン
Micky Spillane
ウェズリー・アディー
Wesley Addy
撮影アーネスト・ラズロ
Ernest Laszlo
マキシン・クーパー
Maxine Cooper
編集マイケル・ルチアーノ
Michael Luciano
クロリス・リーチマン
Cloris Leachman
音楽フランク・デ・ヴォール
Frank De Vol
ニック・デニス
Nick Dennis
美術ウィリアム・グラスゴー
William Glasgow
ギャビー・ロジャーズ
Gaby Rogers
オープニング曲Rather Have A Blues
唄:ナット・キング・コール
ジャック・ランバート
Jack Lambert
ジャック・エラム
Jack Elam

 

 

References

  1. Borde R, Chaumeton E. A Panorama of American Film Noir. 1st US edition edition. San Francisco: City Lights Publishers; 2002. 200 p.
  2. Pitts MR. Famous Movie Detectives II. Scarecrow Press; 1991.
  3. Robson E. Film Noir: A Critical Guide To 1940s & 1950s Hollywood Noir. Dutch Tilt Publishing; 2016.
  4. Haut W, Muller E. Heartbreak and Vine: The Fate of Hardboiled Writers in Hollywood. BookBaby; 2014.
  5. Collins MA, Traylor JL. Mickey Spillane on Screen: A Complete Study of the Television and Film Adaptations. McFarland, Incorporated Publishers; 2012.
  6. Aldrich R, Arnold ET, Miller EL. Robert Aldrich: Interviews. University Press of Mississippi; 2004.
  7. Truffaut F. The Films in My Life. Diversion Books; 2014.
  8. Silver A, Ursini J. What Ever Happened to Robert Aldrich?: His Life and His Films. Limelight Editions; 1995.

[1] 一部の日本語字幕で「三位一体」と訳されているが、ここでTrinityは「トリニティ実験」のことを指している。

[2] ロマン・ポランスキーの『チャイナタウン(Chinatown, 1974)』はこの部署の腐敗を背景にしている。

[3] コーエン兄弟の『バートン・フィンク(Barton Fink 1991)』のバートン・フィンクはクリフォード・オデット、ジョン・ファンテ、そしてベゼリデスがモデルになっていると言われている。

[4] Motion Picture Heraldのデータでは、『キッスで殺せ!』の上映7館のうち、5館が「劣る」、『ビッグ・コンボ』の上映21館のうち、15館が「劣る」の評価をつけている。同時期で成績が良いのは『バンブー・プリズン(Bamboo Prison)』『喝采(The Country Girl)』『海底二万哩』『ホワイト・クリスマス』『愛欲と戦場(Battle Cry)』でいずれも100館以上で上映、3分の2以上が平均以上か優秀の評価である。

 

Top Image: From “Modern Screen”, July 1955