While the City Sleeps

RKOピクチャーズ配給
1956年
映画業界の人間と議論なんかできないね。彼らは学ばないんだもの。
フリッツ・ラング

Synopsis

ニューヨーク。薬局で働いているロバート・マナーズ(ジョン・ドリュー・バリモア)は、ジュディス・フェントンの部屋にくすりを配達をしたあと、再び部屋に忍び込んで彼女を殺害する。ロバートは部屋の壁に「Ask Mother」と口紅でメッセージを書き残していた。メディア・コングロマリットのトップ、エイモス・カインは、余命幾ばくもない身だが、この事件にメディアの活躍の機会を見る。彼は、新聞編集担当のジョン・グリフィス(トーマス・ミッチェル)、報道カメラマンのハリー・クリッツアー(ジェームス・クレイグ)、電信報道部門のマーク・ラビング(ジョージ・サンダース)、ピューリッツァー受賞記者でテレビ部門のエド・モブリー(ダナ・アンドリュース)を呼び、この事件を「口紅殺人鬼」と命名して、最優先で調査して報道するように指示する。しかし、エイモスはまるで遺言でも残すかのようにこの世を去ってしまい、彼の息子で遊び人のウォルター(ヴィンセント・プライス)がコングロマリットの後継者となる。ウォルターは、各部門のトップに報道を競わせて、最も業績を残した者に重役の座を与えることをにおわせる。ジョン、ハリー、マーク、エドは不本意ながらもウォルターのもとで熾烈な報道合戦を始める。

Quotes

7つめ:君はマザコンだ。 エド、殺人鬼のプロファイリングをテレビで発表

Production

傷心のフリッツ・ラング

1955年はフリッツ・ラングにとって辛い年だった。前年にテア・フォン・ハルボウが亡くなった。ラングのかつての妻であり、ドイツ時代の代表的作品の脚本家であった。ナチスが政権を掌握してから、ラングはドイツを脱出したが、ハルボウはナチスに協力する側に立っていた。盟友であり、かつては創造的な野心を分かち合った仲でありながら、政治的な立場の違いから遠い存在になっていた。しかし、戦後はまた彼らの間につかえていたものが少しずつ溶け始めていた。1954年6月、ハルボウはベルリン国際映画祭に招待される。そこでラングとの共作『死滅の谷(Der Müde Tod, 1921)』の回顧上映に出席したが、この上映に興奮してしまった彼女は劇場を出るときに階段で転倒、数日後に亡くなってしまった。

1955年に公開されたラングの監督作『ムーンフリート(Moonfleet, 1955)』は、カラーで撮影され、ロケーション撮影もふんだんにおこなった。しかし、興行成績は振るわず、批評家たちも生暖かい言葉で冷たく突き放した。

彼のアイディアを聞いてくれる者はハリウッドにはいなくなっていた。サイレント期の『月世界の女(Die Frau im Mond, 1928)』のリメイクのアイディアも、アメリカ南北戦争へのタイムトラベル物語のアイディアも、誰も聞いてくれなかった。

彼と同じようにヨーロッパからファシズムやレイシズムを逃れてきた映画人たちは、戦争の廃墟から復興していく母国に戻っていた。ベルトルト・ブレヒトは、赤狩りが始まるとすぐに荷物をまとめて東ドイツに去ってしまった。マックス・オフュルスやウィリアム・ディターレも帰ってしまった。ラングの親友、テオドール・アドルノもドイツに帰ってしまった。

その一方で、ハリウッドに残った亡命映画人が成功をおさめて認められていくのを、ラングは黙って見ていた。フレッド・ジンネマンは『地上より永遠に(From Here to Eternity, 1953)』や『オクラホマ(Oklahoma!, 1955)』、オットー・プレミンジャーは『帰らざる河(River of No Return, 1954)』や『カルメン(Carmen Jones, 1954)』で興行的にも映画製作者としても成功をおさめていた。かつて「イギリスのフリッツ・ラング」と呼ばれていたアルフレッド・ヒッチコックは今は巨匠としてあがめられ、代わりにフリッツ・ラングが「ドイツのアルフレッド・ヒッチコック」と呼ばれるようになったとボグダノヴィッチは記している。

65歳になったラングは老いを感じ始めていたのかもしれない。彼はバート・フリードロブと契約し、『口紅殺人事件』と『条理ある疑いの彼方に(Beyond a Reasonable Doubt, 1956)』の二作を監督する。ラングは後々、このフリードロブが人生で最悪のプロデューサーだったと述懐する。

リップスティック・キラー

1946年、シカゴは連続殺人事件の不穏な興奮に支配されていた。この連続殺人事件の犯人は殺害現場に口紅で書いたメッセージを残していた。新聞などの報道機関はこの正体不明の異様な殺人犯を「リップスティック・キラー」とセンセーショナルに報じ始める。犯人が残した最初のメッセージは「頼むからもっと殺してしまう前に俺を捕まえてくれ、俺は自分をコントロールできない(For Heavens sake catch me before I kill more I cannot control myself)」というものだった。犯行は女性ばかりを狙っていたが、特に六歳のスザンヌ・デグナンという少女のバラバラ殺人はシカゴ市民を恐怖におとしいれた。幾度かの誤認逮捕ののち、この連続殺人事件の犯人として逮捕されたのがウィリアム・ヘイレンズという男だった。警察は彼から自白を引き出したものの、その後すぐにヘイレンズは無罪を主張し始める。

1953年にチャールズ・アインシュタインはリップスティック・キラーを題材に「The Bloody Spur」という本を書き上げる。1954年5月、フリードロブと脚本家のケーシー・ロビンソンがこの本の映画化権を取得する。これをもとに、フリッツ・ラングとロビンソンは『口紅殺人事件』の脚本の準備にとりかかった。ロビンソンは1930年代からベティ・デイヴィス主演のメロドラマの脚本で頭角を現した脚本家だったが、ジャーナリズムの経験はゼロだった。センセーショナルな題材としては良かったかもしれないが、ロビンソンはラングの長い経験を必要としたのだ。特にラング自身が『M(1931)』の映画化の過程で実在の殺人犯ピーター・キュルテンを研究したことが、『口紅殺人事件』の脚本でも大きく影響している。

一方、フリードロブは「漫画(コミック)の悪影響」の側面に焦点を当てようとしていた。これは当時アメリカ連邦議会で青少年犯罪に関する委員会が結成され、そのなかでも漫画が青少年に与える悪影響について、議論が活発に行われていたからだ。特に1954年の4月と6月に行われた公聴会はセンセーショナルに報道された。

ここにあなたの発行している雑誌の5月号がある。血だらけの斧を持った男性が女性の首を持ち上げている。女性の首は身体から切断されたようだ。これを趣味がいいと君は言うのかね? エステス・キファウヴァー

スター・キャスト

『口紅殺人事件』は独立系のプロデューサーの作品としては、俳優陣にベテラン俳優を取り揃えている。フリードロブの人脈が豊かだったことがうかがえよう。一方で1950年代はハリウッドにとって重大な転換期であり、俳優たちもその変化の波に上手く乗る必要があった。特に1940年代に人気が上昇した俳優たちは、1950年代に新しく登場してきた俳優たちに押されつつ、より少なくなる製作本数のなかで大型予算の大作の役を奪い合うようになる。そして日々の収入を得るには、TV番組に積極的に出演しなければならなくなってきていた。

主演のダナ・アンドリュースは『ローラ殺人事件(Laura, 1944)』で一躍人気俳優になり、ウィリアム・ワイラー監督の『我らが最良の年(The Best Years of Our Lives, 1946)』で戦後の社会になじめない帰還兵フレッドを演じ、ハリウッドのトップクラス俳優の地位を奪取、その後の映画人としてのキャリアを確固たるものにしたかに思われた。だが、1950年頃からアルコール依存症がひどくなり、撮影現場にもひどい二日酔いで現れるようになった。もともと演技の幅の大きな俳優ではなかったが、アルコール依存症のせいで役作りがさらに萎縮してしまい、低予算の映画で似たような役を繰り返すようになっていた。フリッツ・ラングのハリウッド期最後の二作にもそのような経緯で出演した。彼は1950年代から60年代、TVへ舞台を移していった。

ジョージ・サンダースは、シニカルで世を倦んだ気障な英国人を演じることにかけては右に出る者がいまだにいない俳優である。アルフレッド・ヒッチコック作品(『レベッカ(Rebecca, 1940)』、『海外特派員(Foreign Correspondent, 1940)』)で有名だが、その演技の幅は広く、ナチスのスパイや知能殺人犯といった悪役から主人公の信頼できる友人といった役までこなしていた。どんな役を演じるときも、シニカルでドライなウィットに富んだ雰囲気は魅力的だった。サンダース自身、プライベートにおいてもそのような性質の人物だったようだ。自伝のタイトルは「プロフェッショナルなクズ野郎の伝記」とやはり気障なひねりを利かせたものになっている。ラングの作品に出演するのは『マン・ハント(Man Hunt, 1941)』以来、二作目である。ここでは、いつもどおり気障でプレイボーイだが、一方で騙されやすく、実のところ仕事も大してできない電信ニュース部の部長を演じている。

カウフマン刑事を演じるのはハワード・ダフ。ラジオ番組の俳優として1940年代にデビュー、マーク・ヘリンジャーに『真昼の暴動(Brute Force, 1947)』、『裸の町(The Naked City, 1948)』で抜擢されてからは映画に活躍の舞台を移した。アイダ・ルピノと1951年に結婚してからは四作品で共演しているが、『口紅殺人事件』はその一つである。彼もこのあとTVの仕事にシフトしていく。

新聞部の部長、グリフィスを演じているのはベテランのトーマス・ミッチェルだ。『風と共に去りぬ(Gone with the Wind, 1939)』、『駅馬車(Stagecoach, 1939)』、『素晴らしき哉、人生!(It’s a Wonderful Life, 1946)』など、1930年代後半から40年代の多くの作品で、人々の記憶に残る助演をつとめている。ドイツから亡命してロサンジェルスに住んでいた作家のトーマス・マンとは親友で、マンはミッチェルの演技力を高く評価していたという。

カイン財閥を引き継ぐことになった御曹司にヴィンセント・プライスが配役されている。ダナ・アンドリュースと『ローラ殺人事件』でも共演した、ひときわ大柄で印象に残る俳優だ。その身体に似合わない柔らかい声で、胡乱なキャラクターを頻繁に演じた。『口紅殺人事件』はプライスのRKOとの契約最後の作品だった。特に1960年代にロジャー・コーマンの作品に多数出演しており、ファンも多い。

写真部のトップを演じるのはジェームズ・クレイグだ。1940年代にMGMで活躍した。クラーク・ゲーブルが従軍しているあいだ、MGMのスターの座を埋める人材が必要だと思ったルイ・B・メイヤーが7年契約を結んだのである。ゲーブルの人気にはかなわなかったが、大衆の嗜好の変化、戦争の影、それにスタジオ・システムの緩やかな崩壊が起きていたためだろう。50年代は西部劇やサスペンスに多く出演、その後はやはりTVに舞台を移す。1966年に撮影され、1970年に公開された『X博士の復讐(Revenge of Dr. X, 1970)』で主演している。エド・ウッドの脚本と言われ、一部日本でもロケ撮影された作品だ。クレイグは晩年は不動産業を営んでいた。

ダナ・アンドリュースの婚約者で犯人をおびき寄せるための「餌」にされてしまうナンシーの役は、サリー・フォレストである。彼女は1949年にアイダ・ルピノの監督作品に立て続けに出演、その後CBSのプロデューサーと結婚してニューヨークに移り、TVとブロードウェイの仕事を中心に活躍した。その後ハリウッドに舞い戻って、この作品にも出演した。

ジョン・ドリュー・バリモアは、三世代、一世紀にわたってハリウッドに足跡を残し続けているバリモア一族の一員である。ジョン・バリモアとドロレス・コステロの間に生まれたが、両親は彼が3歳のときに離婚、父親とは一度しか会ったことがないという。17歳で映画デビューしたが、惨憺たるキャリアだった。父親のジョン・バリモア譲りの酒癖の悪さ、素行の悪さで幾度も問題を起こし、それが彼の評判を著しく落とした。1950年代は未成年の犯罪映画(Juvenile Delinquency)が人気のジャンルだったが、バリモアも『性愛の曲がり角(High School Confidential, 1958)』のような映画に出演している。『口紅殺人事件』でも、『暴力者(The Wild One, 1953)』に登場するマーロン・ブランドを彷彿とさせる革のジャンパーと特徴的なキャップを身につけている。バリモアはスタジオ、舞台、プライベートで数々の問題を起こし、1960年代にはひき逃げ事件を起こし、懲罰を逃れるためにイタリアに逃亡、そこで低予算映画に出演していた。結局、ハリウッドに舞い戻ってきたものの、飲酒、ドラッグ、暴力のトラブルは収まらず、仕事は来なかった。晩年、娘のドリュー・バリモアが面倒を見ていたという。

ロンダ・フレミングは「テクニカラーの女王」と呼ばれ、テクニカラーに映える女優として宣伝されていた。フレミングといえば『OK牧場の決闘(Gunfight at the O. K. Corral, 1957)』のローラ役が有名だ。この白黒作品では、ヴィンセント・プライスの妻でありながら、ジェームズ・クレイグと不倫の関係にある上流階級の退屈した女性の役を演じている。1960年代には彼女は実質的に引退していた。

撮影監督は、アーネスト・ラズロ。サイレント期からセカンド・ユニットのカメラマンとして働き始め、1970年代のスタジオ・システムが崩壊した時代まで数々の作品に名前を残した。『D.O.A.(1949)』や『キッスで殺せ(Kiss Me Deadly, 1955)』などフィルム・ノワールの作品も手がけている。

ハーシェル・バーク・ギルバートは、『泥棒(The Thief, 1952)』、『月蒼くして(The Moon is Blue, 1953)』、『カルメン(Carmen Jones, 1954)』と立て続けにアカデミー賞にノミネートされたこともある、映画音楽の作曲家、編曲者である。もっとも、TV番組の音楽の仕事のほうが多く、「ライフルマン」の主題曲や「ディック・パウエル・シアター」などの音楽を担当していた。ギルバートは映画、TVの音楽から引退し、レコード・レーベル(Laurel Records)を設立、主にクラシックのアルバムをリリースしていた。

『口紅殺人事件』は当初ユナイテッド・アーチスツから配給の予定だったが、フリードロブは完成した作品をRKOに渡した。映画の公開とともにデル・ポケットブックがアインシュタインの原作を「While the City Sleeps」と映画と同じ題名にして再販した。

この題材には非常に可能性があると思った。私自身が信じていない部分もあったが。フリッツ・ラング

Reception

出演俳優の人気も手伝って、当時の業界紙の反応は決して悪くない。

ダナ・アンドリュース、ジョージ・サンダース、ヴィンセント・プライス、トーマス・ミッチェル、ハワード・ダフ、ジェームズ・クレイグ、ジョン・バリモア Jr.、アイダ・ルピノ、サリー・フォレスト、それにロンダ・フレミングといったオールスターキャストが、このメロドラマの売りどころだ。アクションやサスペンスが好きな客に受けが良いだろう。Motion Picture Herald

フリッツ・ラングの演出も好評である。

フリッツ・ラングの演出は、素晴らしいペースを維持しながら、数多くの役をまとめて全体が一貫したものを作り上げている。監督の実力を見せてくれる。Independent Film Bulletin

New York Timesのボーズリー・クローザーは、シニカルなコメントを入れつつもエンターテーメントとしてそれなりの評価を下している。

殺人だの、抱擁だの、見ていてクラクラするようなことが物語の邪魔にもなるし、重役の椅子を誰がとるかというレースも、見ている者は映画の最後で、胃潰瘍でも起こしそうだ。でも、そんなことはどうでも良い。 New York Times

『口紅殺人事件』が公開された週は、アルフレッド・ヒッチコックの『知りすぎた男(The Man Who Knew Too Much, 1956)』も公開されている。

フリッツ・ラングのフィルモグラフィのなかでも、ハリウッド後期の作品には焦点が当たることが少ない。ピーター・ボグダノヴィッチのインタビューやロッテ・アイズナーの著書などで取り上げられつつ、徐々に広まっていった。アイズナーは、『口紅殺人事件』の殺人鬼の描写が「ジョセフ・ロージーのリメイク『M(1950)』の連続殺人犯よりも動機がはっきりしている」とし、またラングが新聞社のフロアの活気を再現している点を高く評価している。デイヴ・カーはこの作品と『マン・ハント(Man Hunt)』『暗黒街の弾痕(You Only Live Once, 1939)』『スカーレット・ストリート(The Scarlett Street,1950)』『復讐は俺に任せろ(The Big Heat, 1954)』と言った作品は、ラングのドイツ時代の作品よりも優れていると記している。

デヴィッド・ボードウェルは、『口紅殺人事件』のアスペクト比について興味深い考察を書いている。この映画はスタンダード比(1.33:1)で撮影されたが、SuperScopeと呼ばれる2.0:1のアスペクト比のプリントが存在するのだ。このSuperScopeはもともとRKOの配給用にタシンスキー兄弟が開発したシステムである。撮影時にはスタンダード比で撮影するが、プリントの際にフレームをクロップし、アナモフィックレンズを使って縦に圧縮し、上映の際に引き伸ばして投射するという。1950年代にはワイドスクリーン・フォーマットが普及し始めているが、このSuperScopeは、撮影のときにはスタンダード比のほうがやりやすいという理屈で開発されたらしい。『口紅殺人事件』にはSuperScopeのプリントが存在するのだが、フリッツ・ラングは撮影時にはそんな比率になることなど知らなかったとボグダノヴィッチに語っている。Variety誌などの記事によれば、撮影が終わったあと、ヨーロッパでの配給用にSuperScopeのプリントがつくられたようだ。『口紅殺人事件』では上下に「空間が空いている」構図のショットがしばしば見られ、SuperScope用にトリミングしても良いような構図になっているのではないか(だからラングはSuperScopeを念頭に置いて演出したのではないか)、という意見もあったようだが、ボードウェルはいくつかのショットを挙げて反証している。すなわち、上下をトリミングするとおかしくなってしまう構図のショットがあり、やはりラングはSuperScopeへのトリミングは知らなかっただろうと結論づけている。

Analysis

ヴァイマール期のドイツと冷戦期のアメリカ

『口紅殺人事件』は、その源流にフリッツ・ラング自身が監督した『M』を見つけることができるという見立ては、必ず誰もが思うことだろう。監督自身、『M』を撮影したときの知識や経験を活かしたことをインタビューで繰り返し述べている。『M』も『口紅殺人事件』も実際に起きた事件を基にしている。後者は前述の通り、1946年のシカゴを恐怖におとしいれた「リップスティック・キラー」がモデルとなっているが、前者はラングによればいくつかの連続殺人犯を参考にしている。「デュッセルドルフの吸血鬼」

ペーター・キュルテン、「ハノーヴァーの肉屋」フリッツ・ハーマン、「屠殺屋ジャック」カール・グロスマン、「ジェンビツェの食人鬼」カール・デンケら、1910~20年代にドイツの各地を混乱と恐怖におとしいれた殺人鬼たちである。実際の事件と映画で描かれている事件のあいだには、『口紅殺人事件』と『M』のいずれの場合も犯罪の事実や動機、捜査経過や分析などに大きな隔たりがあり、あくまで「インスピレーション」と考えたほうが良いだろう。

『M』でピーター・ローレが演じた殺人鬼、ハンス・ベッカートは、犯行後に警察に挑発の手紙を送っていたが、警察がまともに取り上げていないと思うと、今度は新聞社に宛てて手紙を書く。前述のシカゴの実在の殺人犯「リップスティック・キラー」も犯行現場にメッセージを残していた。犠牲者の寝室の壁に口紅を使って、「自分は(自分のことを)コントロールできない」と書いていたのである。この「現実がフィクションをなぞる」事件にラングが興味を持ってもおかしくない。映画ではメッセージの内容は「Ask Mother」という謎めいたものに変えられていた。

そのほかにも『M』と『口紅殺人事件』には、符合がみられる。

『M』ではハンス・ベッカートの深層心理に焦点が当てられる一方で、犯人を捕まえようとする警察組織や犯罪組織の働きを詳細に描いて見せている。特に、警察の強硬な捜査に辟易してしまった犯罪組織のボスたちが、自分たちで殺人犯の捕獲に乗り出して、ベッカートを追い詰めていく様子が丁寧に描写されている。さらに、心の病を抱えた犯人が犯した連続殺人を、法治社会の基礎からではなく、別の視点からとらえている。連続殺人のおかげで「迷惑をこうむった」犯罪者たちが組織する人民裁判で、罵声を浴びせかけられながらベッカートは裁かれてしまう。犯罪者たちの好奇心と憎悪が入り混じった場で、彼は自分を弁護する手段さえももたない。ポピュリズム的な、当事者でもない多くの無関係な者たちの感情的な高揚と満足感が支配する世界である。

では、『口紅殺人事件』ではどうだろう。事件のスクープを取ろうとカイン財閥のメディアが躍起になって働いている。いち早く事件のニュースを報道し、センセーショナルな見出しやTV番組で大衆の好奇心の刺激し満足させ、さらに刺激していく。やはりここでも自分たちで犯人の捕獲に乗り出して、囮まで用意する。スクープを取ろうとする編集長や部長たちは、正義感にかられて熱心に犯人追跡をしているのではない。個人的な出世欲や功名心、取るに足らない競争心から、無我夢中になってセンセーションを探しているのだ。この作品のなかで梃子の支点のような全体の力学のポイントとなったのは、エドが犯人像、今で言うプロファイリングをTVで披露するシーンである。これは一種の、非常にたちの悪い公開人民裁判でさえある。TVの画面を凝視している視聴者たちは、刹那的な好奇心を満足させて、犯罪者をさも理解したかのような錯覚に陥るのだ。

エドのTV番組は、『青いガーディニア(The Blue Gardenia, 1953)』で登場する新聞記者の呼びかけ記事とも呼応している。しかし、TVのブラウン管に映し出されたエドは、新聞に出された記事のような一方的な言葉ではなく、あたかも殺人犯と会話をしているかのようだ。トム・ガニングは、このシーンについて『M』でピーター・ローレが部屋で一人鏡を覗き込んで顔を作っていたシーンと呼応していると指摘している。TVは鏡であり、その中に映る自分、―――エドのプロファイリング像―――を楽しんでいるうちに、グロテスクな深層が立ち現れてくるのだ。

現在でも、犯罪TVドラマや映画ではFBIの捜査官や「専門家」による「プロファイリング」をテーマにした作品の人気は衰えを見せていない。「クリミナル・マインド(CBS)」「マインドハンター(Netflix)」「LAW&ORDER:性犯罪特捜班(NBC)」など、特殊犯罪の犯人像をプロファイラーが推理していく過程がテーマの番組はシーズンを重ねている。しかし、犯罪のプロファイリングは科学的な裏付けに乏しく、プロのプロファイラーの推論がアマチュアに比べて必ずしも正確(的中率が高い)ではないことは、研究結果として繰り返し報告されている。むしろ、科学的な見地からみた不透明さにもかかわらず、プロファイリングがなぜ視聴者に人気があるのかを考えてみる必要もあるだろう。ブレント・スヌークらはプロファイリングの人気について、いくつか視点を挙げている。人は、説明が困難な事象に出会ったとき、意味や秩序をそのなかに求めようとする傾向がある。特にいくつかの事象を時系列で考えるときに、そこに因果関係を求めようとする。そういった傾向がプロファイリングという「犯罪の解釈」さらには「犯罪の推測」が可能であると錯覚させるという。さらに、人々は犯罪者の心理に非常に興味を持っていて、フィクションが扱う犯罪プロファイリングを進んで受容する。だが、スヌークらはなぜ人々が犯罪者の心理に惹かれ、それを分析しようと試みるのかについては触れていない。

犯罪者が犯した犯罪は事実として報道されるのに対して、犯罪者の心理、その犯罪者が見ている世界は、未知の領域として空白のままになる。犯罪が無作為で暴力的で残虐であればあるほど、人々はその犯罪の原動力となった心理的な力学について知りたいと思うようになる。おそらくそれは、自らの心理状態と犯罪者のそれとがどのように相違していて、どのように類似しているかを見極めて、その理不尽な状況に理屈を与えようとする行為なのだろう。畢竟、その心理状態の比較は一般人にも理解できるものにならざるを得ない。

『口紅殺人事件』のプロファイリングは、当時の観客が十分に理解でき、かつ納得できるものになっている。髪の毛の色や、年齢、体つきを推理したあと、「君はマザコンだ」とか「君はコミック本を読んでいる」などとやや挑発的に指摘する。エドが「マザコンだから女性全般を憎むようになった」というところで、TVを見ていた犯人は非常に苦々しい表情をする。世間から隠していた自分の素顔を暴かれたとでも言わんばかりだ。コミック本の指摘では、彼は明らかに動揺して握っていたコミック本を落としさえする。実に分かりやすいプロファイリングが、実にあからさまに、犯人を追い込んでいる。犯人の心理分析がTVの視聴率に影響し、メディアとしての人気を確保するものだからこそ、誰でもわかる必要があるのだ。

おそらく歴史上初めてプロファイリングが注目を集める事件が『口紅殺人事件』公開の年に起きている。「マッド・ボマー」と呼ばれた男が、ニューヨークの各所に爆弾を仕掛けて、死者こそは出ていなかったものの、負傷者が日に日に増えていた。「マッド・ボマー」は1940年代からコンソリデーテッド・エジソン社関連の施設に偽の爆弾を仕掛けて脅迫を繰り返していたが、1950年代に入ってからは実際に爆発する爆弾を仕掛けるようになっていた。犯人の捜査に行き詰まったニューヨーク市警は、精神科医のジェームズ・A・ブリュッセルズを呼び、意見を求めた。ブリュッセルズは第二次大戦中、そして朝鮮戦争中に、軍の精神科医として犯罪者の治療に従事していた。その経験を買われて、マッド・ボマーの捜査の過程で意見を求められたのだが、ブリュッセルズは「犯人像」を描き出すことをしてみせた。ニューヨーク市警は、この犯人像を1956年のクリスマスイヴに発表、ニューヨーク・タイムズ紙がこれを報道する。この記事では、ブリュッセルズのプロファイリングの一部だけを掲載していたが、それでも衝撃的だった。掲載されなかった詳細では、「犯人は一人暮らしか、年上の姉と暮らしている」、「ダブルのスーツを着ている」と言ったことまでプロファイリングしていたという。真犯人として逮捕されたジョージ・メテスキーはこのプロファイリングにぴったりと当てはまる人物だった。

ブリュッセルズ医師が推定したマッド・ボマーのプロファイルがニューヨーク・タイムズ紙に発表されたのは12月25日だ。『口紅殺人事件』が公開されたのはその年の5月であり、映画のなかのTVプロファイリングのほうが半年以上先んじていたことになる。精神分析が犯罪捜査に適用されることを予見したという点においてフリッツ・ラングは偉大だということもできるかもしれない。しかし、もっと注目されなければならないのは、プロファイリングがTVを始めとしたメディアが提供するエンターテイメントとして機能することを見抜いていたと言う点だろう。上述したように、大衆は常軌を逸した残酷な犯罪、理解することが容易ではない残虐さについて、なんらかの理路をつけようとする。それを最も咀嚼しやすいかたちで提供してくれるのがTVだった。

もちろん、ミステリ小説や推理小説でも犯人の人物像を推測する探偵はずっと登場していた。シャーロック・ホームズも犯人の身体的特徴だけでなく、職業や、癖などを仮説的推論法を用いて導き出して、ワトソンやレスタレード警部を驚かせる。メディアで取り上げられるプロファイリングが大きく異なるのは、精神分析による推定が大きな役割を果たしている点だ。アメリカでは、精神分析は1930年代頃から社会に浸透し始め、第二次世界大戦後には、精神分析医として実務を行うために必要なトレーニングやカリキュラムについての議論が活発になるほどの広がりを見せている。ジークムンド・フロイトが1939年に没した当時、ヨーロッパから多くの精神分析医や研究者がアメリカに亡命して活発に活動を始めたことも精神分析の流行に一役買っている。異常心理の分析が多くの人の興味をかったとしても不思議ではないだろう。

リチャード・N・コクシスは、犯罪プロファイリングの初期の歴史として、ブリュッセルズ医師以前の1943年、ウォルター・ランガー医師が戦略諜報局(OSS)の協力で試みたプロファイリングを挙げている。ランガー医師のプロファイリングの対象は、他ならないアドルフ・ヒトラーだった。

ローレとラングの平行世界

プリッツ・ラングの代表作『M』で連続殺人犯ベッカートを演じたピーター・ローレは、ラングと同じくナチスが政権の座についた1933年にドイツを離れた。ローレは1940年代を通じてハリウッド映画に数多く出演しているが、タイプキャストに辟易し、殺人犯やサディストを演じることに飽き飽きし始めていた。戦争が終わり、ヨーロッパからの亡命人たちが帰国し始めるなか、ローレもその機会をうかがい始めていた。

1950年の秋、ローレは、金銭的にも苦しくなってハリウッドを離れ、映画製作の企画をたずさえてドイツに帰国した。『Der Verlorene (1950)』と題されたその作品は、ピーター・ローレが脚本、監督、主演をつとめる作品だった。不思議なことに、彼が辟易していた連続殺人犯を題材としている。戦後のハンブルグ、戦災で家族や住む場所を失った人々のためのシェルターで医師をつとめる男が、昔知っていた男と出会ったことをきっかけに、戦時中に自ら犯した犯罪を回想するという作品だ。戦時中、ナチスのために重要な研究をしていたローレだが、彼の恋人が敵のスパイだった。ローレは恋人を殺すが、ゲシュタポはその殺人をもみ消してしまう。精神的なバランスを失い、ローレはさらに売春婦や未亡人をつけまわし、襲う。そのどの犯罪も明るみに出ることはなかった。彼の犯罪を知るゲシュタポのエージェントは、戦後名前を変え、ローレのもとに現れる。

1930年のドイツと、第二次世界大戦下のドイツは同じものだ。一つの時代からもう一つの時代へ、よどみなくつながっている。デュッセルドルフの殺人鬼(ピーター・キュルテン、『M』のモデルの一人)なしでは、このハンブルグの殺人鬼は考えられない。ピーター・ローレ

興行成績は散々だった。この一作のみでローレはハリウッドに戻り、彼がドイツで映画製作をつづけていく見通しはなくなった。

ロッテ・アイズナーは「The Haunted Screen」のなかで、戦後ドイツの代表的作品として『Der Verlorene』を取り上げ、その繊細な表現力を高く評価している。ナチスといえばすぐに「ハイル・ヒトラー」と敬礼させ、拷問シーンをいれれば良いと思っているような監督と違い、ローレはむしろ日常の細部に入り込んでいる笑いや話し方でナチスを表現している。このゲシュタポを演じているのは、カール・ヨーンだ。戦時中のある時期まで人気俳優だった彼が、総統のジョークを言ったためブラックリストに入れられてしまい、戦争末期には廃人同然になって焼け跡に隠れているところを救出されたという。そんなヨーンが脳天気に戦時中のことなど忘れてしまいたいと言っているゲシュタポを演じている。70年たった今、彼を社会的な死に追いやった者たちが忘却の彼方で朽ちていき、彼の演技がひときわ残酷に映えている。詩的正義(poetic justice)とはこういうことを指すのだろう。

ローレの『Der Verlorene』とラングの『口紅殺人事件』はいずれも『M』を彷彿とさせる一方、それぞれが描こうとしている世界は一見あまりにもかけ離れているように見える。だが、ヴァイマール期ドイツの社会―――それは取りも直さず、戦争の暴力と資本主義経済の抑圧が個人を支配する近代社会そのもの―――に現れた連続殺人鬼が問いかけた問いを引き継いでいる点では、非常に近接しているのではないだろうか。『M』でローレが鏡にみずからの顔を映しているとき、ローレとラングは個人の自由という皮肉と共同体の虚栄を幻視したに違いない。

ラングの『口紅殺人事件』は、連続殺人犯のような不可解なものに接したときに、あたかも科学的で信憑性があるようにみえるプロファイリングのような手法で平板な理解が受容され、そしてそれをエンターテイメントのように消費する社会を予見している。作品内では、プロファイリングは比較的正確に犯人を推測している。注目したいのは、それをTVで、視聴者のなかに隠れている犯人に直接訴えかけたという点である。その動機は、視聴率や新聞の部数を爆発的に増加させるためにほかならない。

『Der Verlorene』は、ローレの医師にしても、ヨーンのゲシュタポにしても、プロファイリングのような仕組みで言語化することが極めて難しいキャラクターだ。医師がなぜ女性をストーキングし、殺害するようになったのか、冷酷極まりないゲシュタポのエージェントはどうしてそうなったのか、理屈で説明することができるようには思えない。そして、第三帝国のもとで数多くの「普通の人々」が残虐な行為に加担していたことが明るみになったとき、さらにその「普通の人々」の「隣人」たちが残虐行為を意図的に、あるいは無意識的に見逃していた/見て見ぬふりをしていたことが意識されたとき、その心理をプロファイリングのような手法で「理解する」ことなどできるのであろうか。

君は今までの人生で倫理的な人間に何人会いましたか?『口紅殺人事件』の登場人物たちがあんな人達でも仕方ないでしょう。フリッツ・ラング ピーター・ボグダノヴィッチとのインタビューで

『Der Verlorene』も『口紅殺人事件』も、底知れない暴力を秘めた人間の心理は簡単に理解しえないものだ、という認識において通底している。ましてや『口紅殺人事件』のように(そして今私達が目にしている数々の類似のメディア報道や番組が)見世物にして消費することへの強い疑問を呈しているのだ。

フリッツ・ラングのアメリカ時代の最後期の作品群は、視覚的な構図や組み立て、ミゼンセーヌ、物語において「派手さ」がないために、例えば『恐怖省』や『飾窓の女』といった作品と比較して言及されることが少ない。しかし、消費者社会や法治社会のほころびを、非常に諧謔的なアプローチ、それに忠実な視覚技法で物語っている。『口紅殺人事件』や『条理ある疑いの彼方に』などを見終わったあとに残る嫌な澱のようなものは、きっとラングが意図したものなのだ。

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Data

RKOピクチャーズ 配給 5/16/1956公開
B&W 1.66:1 (SuperScope 2.00:1 もあり)
99 min.

製作バート・E・フリードロブ
Bert E. Freidlob
出演ダナ・アンドリュース
Dana Andrews
監督フリッツ・ラング
Fritz Lang
ロンダ・フレミング
Rhonda Fleming
脚本ケーシー・ロビンソン
Casey Robinson
ジョージ・サンダース
George Sanders
原作チャールズ・アインシュタイン
Charles Einstein
"The Bloody Spur"
ハワード・ダフ
Howard Duff
撮影アーネスト・ラズロ
Ernest Laszlo
トーマス・ミッチェル
Thomas Mitchell
音楽ハーシェル・バーク・ギルバート
Herschel Burke Gilbert
ヴィンセント・プライス
Vincent Price
編集ジーン・ファウラー・Jr
Gene Fowler Jr.
アイダ・ルピノ
Ida Lupino

Reference

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[2] J. Burnham, After Freud Left: A Century of Psychoanalysis in America. University of Chicago Press, 2012.
[3] C. Brideson and S. Brideson, Also Starring…: Forty Biographical Essays on the Greatest Character Actors of Hollywood’s Golden Era, 1930-1965. BearManor Media, 2012.
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[5] V. Garcia and S. G. Arkerson, Crime, Media, and Reality: Examining Mixed Messages About Crime and Justice in Popular Media. Rowman & Littlefield, 2017.
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