Touch of Evil

ユニバーサル・インターナショナル配給
1958年
ウェルズは部屋を彼の声で、彼のエネルギーで
・・・彼自身で満たしていた
――チャールトン・ヘストン

Synopsis

メキシコとの国境の町で、土地の有力者と女が乗った車に時限爆弾が仕掛けられ、国境のアメリカ側で爆破し二人は爆死する。メキシコ人の刑事ヴァルガス(チャールトン・ヘストン)とその妻スーザン(ジャネット・リー)はちょうどその現場を目撃してしまう。事件の担当刑事は、勘の鋭いことで知られるベテラン、クインラン(オーソン・ウェルズ)。ヴァルガスは、捜査に協力を申し出るが、クインランは敵意と人種差別を露わにして、ヴァルガスを侮辱する。クインランは、殺された男の娘のボーイフレンド、サンチェスを容疑者と断定し、連行する。サンチェスのアパートからダイナマイトが発見されたのだが、この決定的証拠はクインランが仕込んだものだった。一方、スーザンは、一人でホテルに向かう途中、ヴァルガス刑事について話がある、と言う怪しげなメキシコ人に呼び止められる。その男は、地元のギャング、グランディ一家の人間だった。

Quotes

Quinlan: Come on, read my future for me.
Tanya: You haven’t got any.

クインラン:おい、俺の未来を占ってくれよ。
ターニャ:あなたに未来なんて無いわよ。

Production

監督オーソン・ウェルズ

オーソン・ウェルズは、1956年にハリウッドに舞い戻ってきた。『マクベス(Macbeth, 1948)』の迷走の後、ヨーロッパに渡っても『オセロ(Othello, 1951)』の資金繰り問題、『アーカディン/秘密調査報告書(Mr. Arkadin, 1955)』の途中降板など、彼が関わる映画製作にはトラブルが続いていた。ハリウッドでは、TVのカメオ出演やラジオのナレーションなどをこなしながら、再起の機会をうががっていた。1957年、ユニバーサルの『マン・イン・ザ・シャドー(Man in the Shadow, 1957)』に出演、その際にプロデューサーのアルバート・ザグスミスと懇意になる。そこから『黒い罠』の映画化の話が始まった。

ザグスミスによれば、ウェルズが次は映画を監督したいと言い、「あなたが持っている脚本でいちばんひどいのは?」と聞いたという。そこでザグスミスが「黒い罠(Badge of Evil)」の脚本を渡した。これはホイット・マスターソン原作のミステリから、ポール・モナシュがおこした脚本だったが、これをもとにウェルズが2週間で脚本を書き上げたという。

ウェルズ自身がピーター・ボグダノヴィッチに語った話は若干違っている。まずユニバーサルが脚本をウェルズに送ってきて、悪徳警官の役を演じてほしいと打診してきた。ユニバーサルはチャールトン・ヘストンにも脚本を送り、「これが脚本だ―――読んでほしい、ウェルズを確保した」と伝えた。これを「ウェルズを(監督として)確保した」と勘違いしたヘストンが、「ウェルズが監督するなら何だって出るよ」と言ったため、引っ込みがつかなくなったユニバーサルがウェルズに監督も依頼した、というのだ。

さらに、ヘストンによれば、彼がウェルズを推薦したことになっている。脚本を読んだヘストンがユニバーサルの重役に「誰が監督するのか」と聞いたところ、「まだ決まっていないが、悪徳警官はウェルズがやることになっている」という答えがかえってきた。ヘストンが、ウェルズはなかなかいい監督だと言ったところ、それがそのまま実現したという。

ウェルズが監督すると言えば、たとえ台本がロサンジェルス市の電話帳でも、チャールトン・ヘストンは出演しただろう サイモン・カロー

いずれにせよ、ユニバーサルは、『十戎(The Ten Commandments, 1956)』でスターにのし上がったチャールトン・ヘストンをいかに使っていくか悩んでおり、そのヘストンがオーソン・ウェルズが監督なら無条件で出演するというものだから、それで行こう、となったらしい。ユニバーサルは特にウェルズに興味があったわけではない。事実、ウェルズには俳優としてのギャラしか支払われておらず、監督、脚本の仕事については、ウェルズはノーギャラでやっていたのである。予算は、895,000ドルだった。

脚本・ロケーション

ウェルズは、「映画を撮り終わるまで原作は読んでいない」と述べているが、おそらくそれは彼独特の誇張か、でなければ記憶間違いであろう。ウェルズの脚本は、原作とポール・モナーシュの脚本の両方から重要な要素を引き出し、再構成している。ウェルズが加えた変更で注目すべき点は、登場人物たちの人種を入れ替えて人種間の軋みを巧みに物語に盛り込んだことであろう。例えば、原作では白人だった検事が、ヴァルガスという名のメキシコ人となり、代わりに彼の妻が原作のメキシコ人からアメリカの白人になった。この変更は、クインランの人種差別に更に独自のレイヤーを加えることとなった。

また、ウェルズはクインランの体型を異常なまでに肥えて醜いものとして描いた。これは彼自身が演じることも念頭に入れていたのだろう。原作では弾創で片脚が不自由であることが描写されていたに過ぎない。この体型が、極端なカメラアングルと広角レンズによってよりグロテスクに表現されることになる。

ユニバーサルは、実際に国境の町でロケーション撮影することには難色を示した。主な理由は製作費に無頓着だと業界では有名なウェルズが相手だからである。そこで、ウェルズが提案したのはロサンジェルス市内の海岸リゾート、ヴェニスでのロケーション撮影だった。

ヴェニスはその名が示すとおり、「アメリカのヴェニス」として1905年に開園されたリゾートである。煙草の製造・輸入で財を成したアボット・キニー(1850-1920)が、サンタモニカの南にあった沼地を買い取って開拓、運河を掘り、イタリアのヴェニスに倣った建築様式でホテルやレストラン、ダンスホールを建設した。このリゾートは1910年代には遊園地化して人気の場所となったが、キニーの死後に管理が困難となり、ロサンジェルス市に編入される。1929年に石油が発見され、一時的な好況に沸くが、それも長くは続かず、またリゾート地としての風景も喪失してしまう。1930年代以降、ロサンジェルス市はリゾート地としてディズニーランドへの支援を増大させる一方で、ヴェニスは放置され、かつてはゴンドラが揺らいでいた運河も埋め立てられてしまった。『黒い罠』撮影の頃には「海岸のスラム」とまで呼ばれるほど没落していたのである。かつての建築は老朽化して、安アパートや低家賃の住居となり、低所得の移民やビートニク世代の芸術家達が住んでいた(ホロコーストの生存者たちがヨーロッパから移民して住みついていたケースも多かったという)。

この「夢のあと」を具現化した町並みと、石油採掘のオイルリグの対比が、ウェルズのバロックな感性に強く訴えたのであろう。

スタッフ・キャスト

製作のアルバート・ザグスミスは「5日でまともな映画を作れるのはハリウッドで俺だけだ」と自負する低予算映画界のサミュエル・ゴールドウィンのような存在だった。誰も何一ついいところを見つけることができないハワード・ヒューズ時代のRKOで活躍、『原爆下のアメリカ(Invasion U.S.A., 1952)』を127000ドルで製作、100万ドル近い利益を上げた。ユニバーサルに移ってからは、エドワード・ムールの下でダグラス・サーク監督の『風と共に散る(Written on the Wind, 1956)』、ジャック・アーノルド監督の『縮みゆく人間(The Incredible Shrinking Man, 1957)』などを製作している。『黒い罠』は、前述のようにオーソン・ウェルズと意気投合して立ち上げたプロジェクトだった。

当時のユニバーサル・インターナショナルの製作部長はエドワード・ムールだった。ムールはカール・レムリの頃からの「会社人」で、優れたビジネスマンだったと言われる。ハリウッドの重役にしては珍しく「きちんとした、上品な人物(サイモン・カロー)」だったが、ウェルズにとっては「敵」だった。ウェルズはその生涯を通して様々な(多くの場合、不必要とも思える)軋轢を周囲と起こしているが、それは彼が権威とみなした人間に見境なく悪態をつくことが要因だ。結局、『黒い罠』でも、ウェルズのムールに対する「非常に馬鹿げた(チャールトン・ヘストン)」態度が原因となって、ムールとウェルズの関係は急速に悪くなっていく。

主演のチャールトン・ヘストンは、もともとは舞台とTVの俳優だった。TVドラマ(『嵐が丘』)に出演しているところをハル・ウォリスが見つけてハリウッドに呼んだという。『十戎』でモーゼを演じてスター俳優になった直後の出演だったが、ヘストンはウェルズを崇めていて、現場では非常に仲が良かったようだ。オーソン・ウェルズの伝記を著したサイモン・カローは、『黒い罠』の製作の様子についてはヘストンの自伝やインタビューを頻繁に引用している。ザグスミスやウェルズの脚色のついた昔話よりは、丁寧に日記をつけていたヘストンのほうが信憑性があると考えていたようだ。

ヘストン演じるヴァルガスの妻、スーザンを演じるのは、ジャネット・リー。アルフレッド・ヒッチコックの『サイコ(Psycho, 1960)』のシャワーシーンと言えば知らない人はいないだろう。ヘストンによれば、リーが配役されたのは、ユニバーサルがゴリ押ししたからだ、ということになっている。彼女は撮影が始まる直前にニューヨークで30分のTV番組のリハーサルをしている最中に左腕を骨折してしまっていた。『黒い罠』の撮影の最中も左腕を固定していたが、カメラに映っても不自然にならないように腕を曲げる角度を90度ではなく、135度にしていた。ウェルズはジャネット・リーについて、撮影中かなり難しいことを要求したかもしれないとしながらも「素晴らしい俳優だ」と述べている。

クインラン刑事の右腕として登場するピート・メンジーズを演じたのは、ジョセフ・カレイアだ。彼はブロードウェイ出身の俳優で、オーソン・ウェルズは20歳のときに彼の舞台を見て感動し「あの演技は忘れられない」と述べている。1934年にMGMと契約、その後ハリウッドではギャングなどの悪役ばかりがまわってきていた。そういったタイプキャストされるなかでも、常に複雑なキャラクターに挑戦していた。『黒い罠』でのカレイアの演技は、クインランのイエスマンが徐々にクインランの異常性に気付いていく過程を見事に体現している。

この作品にはマーキュリー・シアターやその他のウェルズの作品で頻繁に出演している「ウェルズ組」とも呼べる俳優たちが多数出演している。アルメニア系俳優のアキム・タミロフは、あまり怖くないギャング、ジョー・グランディを演じている。1923年にアメリカ移住してからは、その独特のアクセントを活かして、ハリウッドでエキゾチックな役回りを演じていたが、『アーカディン/秘密調査報告書』、『審判(The Trial, 1962)』などでウェルズの作品に出演している。アデア検事を演じたのはレイ・コリンズ、『市民ケーン』でケーンの政敵、ゲティスを好演している。ジョセフ・コットンもオープニングの爆破事件の現場の検視官として登場している。

これら以外にも、ウェルズの作品ならばと安いギャラで出演している俳優が数多くいる。マレーネ・ディートリッヒはジプシーのような格好をした酒場のオーナー、ターニャを演じている。彼女は自ら衣装とカツラを持ち込むほどの意気込みだった。真偽のほどは定かではないが、デイリーを見ていたユニバーサルの重役たちは、「あれはディートリッヒか?いつの間に契約したんだ?」と聞いたという。ストリップ劇場のオーナーは、ザ・ザ・ガボール、暴走族の女にマーセデス・マッケンブリッジ、と多彩な顔ぶれが集まり、ユニバーサルの重役たちを驚かせた。

スーザンが宿泊するモーテルのオーナーは、デニス・ウィーバーが好演している。スティーヴン・スピルバーグ監督の『衝突!(The Duel, 1971)』やTVシリーズ「警部マクロード」でも馴染み深い。このモーテルのシーン、そしてウィ―バーの演技は、『サイコ(Psycho, 1960)』のノーマン・ベイツ役に受け継がれたのは間違いないだろう。ウィーバーは当初、出演を断ったが、ヘストンが説得したという。

撮影監督はラッセル・メティ。『市民ケーン(Citizen Kane, 1941)』の頃からウェルズと様々なかたちで関わりがある。『偉大なるアンバーソン家の人々(The Magnificent Ambersons, 1942)』では、ウェルズが撮影後にハリウッドを離れて南米を訪れている際に、撮り直しを担当した因縁の撮影監督である。しかし、ウェルズはメティの腕を認め、『ストレンジャー(The Stranger, 1946)』では撮影監督をつとめている。

撮影

『黒い罠』では撮影に入る2週間前からリハーサルが始まっている。これは当時のハリウッドの映画製作の慣習からすると特異なことだった。また、このリハーサルの過程で俳優たちが自分たちでセリフの変更もしている。ウェルズはむしろそういった協働作業を奨励していた。リハーサルはウェルズの自宅でも行われている。クインランたち警察が、サンチェスのアパートで尋問や捜索をする12分にわたるワンショットのシーンでは、その複雑に重なり合うセリフのやり取りとカメラの動きの同期が絶妙だが、これはリハーサルを繰り返し行って、各演技者がそのテンポと流れを見事に把握していたからである。

撮影は1957年の2月18日に始まった。チャールトン・ヘストンによれば、ユニバーサルから監視に来たお偉方はかなり神経質になっていたようだ。午前中、そして午後も全くカメラはまわっていない。夕方になってようやく撮影が始まった。前述のサンチェスのアパートでのシーンである。1時間ほどしてウェルズが「今のをプリントしてくれ、このセットは終わり。スケジュールより2日分進んだね。」と言って撮影が終了した。脚本の12ページ分をワンショットで撮影し、そこに必要なインサートや切り返しをいくつか撮って、一挙に済ませてしまったのである。これはウェルズに対して懐疑的なスタジオを驚かせて感心させるための、ウェルズ特有のパフォーマンスの側面もあった。事実、この手際良さに感心したスタジオでは、その後ウェルズに干渉しなくなったようである。

ヴァルガス(チャールトン・ヘストン)がオープン仕様の1955年製プリマス・デソトを運転しながら、助手席のシュワルツ(モート・ミルズ)と会話をするシーンがある。当時のハリウッド映画製作では、こういったシーンはバック・プロジェクションで行うのが定石だ。しかし、ウェルズはこのシーンをロケーション撮影する。カメラをボンネットの上に渡したプラットフォームに固定し、バッテリーを車の後部に搭載し、ケーブルをテープで留めて、マイクをダッシュボードに仕込んだ。カメラマンも監督も車には乗らず、ヘストンがスイッチを入れてカメラを回し、車をトップギアに入れて走りながら「アクション!」と叫んだ。結果は「シーンが本当に必要とするよりかなり多いアドレナリンが噴出する(サイモン・カロー)」ショットとなった。

『黒い罠』でも撮影監督のラッセル・メティの撮影は冴えており、滑らかなグラインドするカメラの軌跡、傾いた水平線、コントラストの強弱を使い分けなど、ウェルズが思い描く、歪で蠱惑的な世界を見事に写しとっている。もちろん、ウェルズは撮影監督と緊密な関係を維持しつつ、ヴィジュアルの決定権は彼にあった。ウェルズは、大部分の撮影を18.5mmの広角レンズで行ったのも自分のアイディアだとアンドレ・バザンとのインタビューで述べている。

別に18.5mmが好きなわけじゃないんだ。このレンズの可能性を追求しているのが私だけなんだよ。オーソン・ウェルズ

ここまで焦点距離が短いと、視野角が広く、狭いエレベーターやアパートでの撮影でも威力を発揮している。また、仰角のアングルでは、その強調されたパースペクティブのおかげで歪みと威圧が増幅されて表現されている。このレンズの強みが『黒い罠』という作品の描く世界を見事に定義している。

映画史上でもっとも有名なオープニングのひとつ、クレーンを使った3分にわたるワンショットは、ウェルズによれば、メティのアイディアだという。ウェルズはもともと、「目立ちたがりの監督」として注目を浴びるのは本望ではない、と語っており、このいかにも「監督の手」を見せつけるオープニングには少し不安になっていたようだ。しかし、物語の語り始めとしてこれ以外の方法はないと確信し、技術的にも非常に困難なこのショットを採用した。時限爆弾のクローズアップから、通りを見下ろすロングショットへの移行、クレーンの制御とそれに同期した演者や車の動き、夜間撮影のため照明の制御、とすべての要素のタイミングを合わせる必要がある。国境の税関の役人を演じていた役者は、余りにも緊張してしまって何度も何度もセリフを間違えてしまい、その度に撮り直しになった。彼の立場になれば、そのプレッシャーも分かるだろう。スタッフ、キャスト、カメラ、照明、クレーン、すべてが見事にコリオグラフされて、徐々に自分に近づいてくるのを見ているのである。余りに取り直しが重なり、ウェルズが「セリフを言わなくていいよ。口だけ動かして。」と緊張とプレッシャーでどうにもならなくなってしまったその役者に指示した。なぜ、別の役者にしなかったのか?ジャネット・リーによれば、ウェルズは「そんなことしたら、彼は立ち直れないだろう?」と答えたという。撮影は徹夜になり、現在のプリントで見られるのは最後のテイクである。よく見ると、空が白んできているのが分かる。

また、ヴァルガスがアデア検事らを自分のホテルの部屋に呼ぶシーンの撮影も当時としては非常に困難なものだった。検事ら3人をエレベーターに入れたあと、ヴァルガス自身は階段で上って、2階でまたエレベーターを開けて彼らを迎えるのだが、カメラは狭いエレベーターの中に据えられ、検事たちの不安げな会話をとらえる。照明やカメラ駆動のために3階からエレベーターシャフト内に電源ケーブルを下ろして撮影したという。

その撮影をした深夜、メンジーズ(ジョセフ・カレイア)がヴァルガスに杖を見せるシーンも撮影されている。ヘストンとウェルズが、ホテルの地下のトイレで用を足しているとき、「このホテルの地下は、あのシーンにぴったりじゃないか」とウェルズが言い出したのである。実はユニバーサルでセットが準備される予定だったのだが、「ここがいい」とウェルズが深夜の2時にカレイアを叩き起こして撮影した。

こういった具合に、ウェルズは浮かんだアイディアを即興的に実現する一方で、入念に演技をリハーサルし、カメラワークや照明をベテランのスタッフの技術力に頼りながら、撮影を進めていったのである。

撮影は4月1日に終了した。最後に撮影したのは、映画のラスト、クインランが川のなかで死ぬシーンであった。予定よりも1週間のオーバーしただけであった。

『黒い罠』

編集の地獄、そして公開へ

撮影が始まってから3週間後には、ウェルズは編集作業にとりかかっている。ウェルズの指揮のもと、ヴァージル・ヴォーゲルが編集を担当していたが、6月にウェルズがTVの仕事でニューヨークに行っている間に、編集の担当がアーロン・ステルに交代していた。このステルの編集バージョンがユニバーサルのお偉方の前で試写されたが、評判が悪く、更にアーネスト・ニムズが編集担当として投入される。ニムズは『ストレンジャー』を20分近くも短くした張本人だった。そのことにウェルズはもっと警戒すべきだったのだが、かねてからのお気に入りのプロジェクトだった『ドン・キホーテ』に注意が向き始めていた。『ドン・キホーテ』は、もともとTV番組だったものを長編映画にするつもりだった作品だ。しかし、資金難で何度も暗礁に乗り上げていた。そこへ、フランク・シナトラらから出資の目処がつき、ウェルズの関心はついこの自主製作のほうへ行ってしまったのである。7月に、彼は『ドン・キホーテ』のリハーサルのためにメキシコに飛んでいる。

7月22日、メキシコにいたウェルズは、ユニバーサルの製作のトップ、エドワード・ムールに「『黒い罠』をスタジオが私から取り上げた」と怒りの胸の内を伝える。ムールは、その2日後にウェルズに手紙を送っている。ここには、メキシコから戻ってきて話し合いを持ってほしいこと、もし他の案があれば提案してほしいことなどが記されていた。だが、ウェルズがメキシコから戻ってくるのは、8月の末である。そこでようやくニムズのバージョンを、ニムズ同席のもと見た。これを見て憤慨したウェルズは「変更の指示」のメモを送ると伝えたようだ。しかし、このメモがユニバーサルに届くのは11月4日だった(ウェルズは、この間、9月にもう一度メキシコに行っている)。

スタジオ側は、届くと思っていたウェルズのメモが届かないこと、「映画を分かりやすくするために」追加のシーンが必要と考え始めたこと、すでに編集だけで予算を30万ドルもオーバーしてしまったこと、から焦り始め、追加のシーンの撮影のスケジュールを立て始める。ヘストンによれば、11月4日の段階でも、「音楽もセリフも入っておらず、テンポもバラバラで、オープニングはよくわからない」といった状態だった。ウェルズは、「タダで撮り直しをしてやってもいい」と言い、ムールには「夜にはニムズの編集を手伝ってもいい」と手紙を送っている。それに対してムールは「ニムズは毎晩空いているから、いつでも」と返信しているのだが、ウェルズが夜に編集室を訪れた形跡はないらしい。

私はウェルズに道義的な責任を感じている。だが、ユニバーサルに対しても少し感じている。チャールトン・ヘストン 1957年11月5日の日記より

ウェルズとヘストンの蜜月はこの頃に終わる。ウェルズは、ヘストンに「撮り直しを他の監督でやるつもりか?元々、私が監督をするという条件で、この映画を受けたんだろう?」と手紙を送っている。ウェルズは、ヘストンを梃子にしてスタジオを動かせると思ったのだろうか。しかし、ヘストンは「監督オーソン・ウェルズ」を「条件」としていた訳ではなく、「提案」しただけだった。この頃には、ユニバーサルはウェルズとは関わりたくない、撮り直しもウェルズ以外の監督を使う、と考え始めていた。ウェルズはヘストンに手紙を送っている(11月17日)。「他の監督など使ったら、この映画は無残なものになって、自分が批評家からこき下ろされる」「そうしたら復讐してやる」「これは誰もが負ける闘いだ、それを止められるのは君だけだ。」次の日に、ヘストンは、エージェントや弁護士と相談、契約上も撮り直しは避けられないと悟る。ヘストンは撮り直しが遅れた分の費用8000ドルを自ら払って、ハリー・ケラー監督のもと、撮り直しを行った(11月19日)。

私は今まで今日よりもひどい演技をしたことはある。しかし、今日より嫌な気持ちになったことはない。チャールトン・ヘストン 1957年11月19日の日記より

ウェルズはその後もヘストンとリーを裏切り者のようになじった。

撮り直しを含むバージョンの試写を見たウェルズは、12月5日に有名な58ページのメモをユニバーサルに送った。この頃にはウェルズはかなり落ち着いてきていて、非難や諧謔のトーンは鳴りをひそめている。実に細かくフレームを分析し、いまある材料で最善を尽くそうとしているのがうかがえる。オープニングの音楽とタイトルを除くことを提案し、代わりに街の音、車のラジオの音や、店から聞こえるバンドの音などが立ち現れては消えていく、そういった音響の設計を説明している。また、ウェルズ自身が当初から入れていたセリフやシーンを削ることさえ提案している。当初のウェルズの編集で、スタジオから特に不評だったのは、最初の導入部における、ヘストンの物語とリーの物語のカットバックだった。スタジオはカットバックは「観客が混乱するだろう」と考え、一つにまとめてしまった。ウェルズはそれを元に戻すように示唆している。更に撮り直しをした部分は一貫性がないから、取り除くようにも指示している。彼の意図は、スタジオが「わかりやすく」しようとした部分が、かえって分かりにくくしているから、今ある材料でそれを救済しようとしているのだった。

エドワード・ムールは、「君の指摘や提案は大部分取り入れよう、水曜日に音取りをするが来れるか?」という旨の電報をウェルズに打っている。これを見たウェルズは、これは何かの罠だとまた思い始める。ムールの言葉を信じて、作品を良くできるなんて、そんな美味しい話があるわけがない。彼は陰謀論者のようにすべては自分を潰すためのトリックだと考え、それを出し抜く方法を考え始めた。ユニバーサルはいま会社が危ない。ムールだって首が飛ぶんじゃないか?それを武器にしてやる、とヘストンに言っている。この映画は大金がかかっているにも関わらず、「スタジオの連中が無能なせいで、興行的な価値が落ちてしまった、という議論」をユニバーサルの株主にすれば、ムールとその仲間達をギャフンと言わせられると考えたらしい。この余りに幼稚で、他人をなめきった世界観と、58ページのメモに見られるような鋭い映像分析能力とが、一人の人間のなかに同居しているのがオーソン・ウェルズなのだ。

結局、12月にウェルズは渡欧したまま戻らなかった。翌年、1958年1月のパシフィック・パリサデス劇場でのプレビューは、ウェルズの58ページの指摘のうちの半分ほどを取り入れ、108分となったが、惨めな結果だった。プレビュー後、一人の女性が「こんないかがわしい映画、見たことがない」とロビーにいたユニバーサルの重役をバッグでぶった、という逸話もある。ユニバーサルは、ハリー・ケラー監督の撮り直し部分は結局取り除き、94分の長さにして劇場公開した。ハリー・ケラー監督、ラッセル・メティ撮影監督、アルバート・ザグスミスの製作『フィーメール・アニマル(The Female Animal, 1958)』の添え物だった。

ユニバーサルの首脳陣の無理解、特にウェルズの映像スタイルに対する無理解は、この作品が成功する可能性を潰してしまった。しかし、ウェルズ自身の行動に問題があったこと、特にこの作品が彼の介入を最も必要とする瞬間において彼が不在であったために、スタジオシステムの歯車に押しつぶされてしまったことは、否めない。

Reception

公開当初の業界紙では、どの評者もほぼ同じ反応を示している。映像の凄さには感心するが、肝心のストーリーがよく分からない、というものだ。

方向づけもほとんどなければ、十分な説明もないために、大部分の出来事が混乱していて、プロットとどうつながるのか分からない。 Variety

 

ウェルズは、物語よりもスタイルやムードや背景に重きを置いていて、観客が受け取るのはリアリズムよりも(映像の)印象だ。 Motion Picture Daily

ピーター・ボグダノヴィッチも、この映画を繰り返し見たが、最初の5回くらいは「ストーリーなんて気にもしなかった」と述べている。

New York Timesはハワード・トンプソンがレビュー、「この作品の途中で寝る人間は誰ひとりいないだろう」と好意的な評を寄せている。

『黒い罠』が公開後はじめて注目を浴びたのは、ブリュッセルで開かれていた国際博覧会のなかの国際映画祭である。ユニバーサルの予想に反し、この映画が国際批評家賞を受賞したのだ。「カイエ・デュ・シネマ」の批評家達(アンドレ・バザン、そしてフランソワ・トリュフォーやジャン=リュック・ゴダールら、後のヌーヴェル・ヴァーグの中心となった人物たち)が絶賛し、一般の観客にも受けが良かった。これは、博覧会のアメリカ側のオーガナイザーにとっては非常に不愉快な出来事であったようだ。アイゼンハワー大統領は、「国の外交政策の強みとして文化を使うことができるまたとない機会」として、この博覧会のための緊急予算を議会から取り付けていた。そして、政府がアメリカ合衆国を代表する映像文化として推薦していたのが、ウォルト・ディズニー製作の『アメリカ・ザ・ビューティフル(America the Beautiful, 1958)』だった。これは、ディズニーが開発した「サーカラマ(Circarama)」という円筒形スクリーンの内側に360度全方向に投影するシステムによる映画で、アメリカ国内の見どころを網羅した、いわゆるトラベローグである。これを差し置いて、アメリカ国内の差別や退廃を描いた『黒い罠』が評価されたことは、冷戦下のプロパガンダに敏感な当時の政治家たちには我慢ならないことだった。

その後も『黒い罠』は映画批評家、ファンの間では、天才がハリウッドのスタジオシステム、特に低予算映画の製作システムを最大限に利用して手がけた、ウェルズの才気に満ち溢れる作品として高く評価され続けてきた。

これは、私たちを謙遜な気持ちにさせる。なぜなら、この作品は、私たちよりもすばやく思考し、より優れた思考能力をもち、まだ前作に打ちのめされている時に新しい作品をぶつけてくる、そんな男が作ったからだ。フランソワ・トリュフォー

そして、スタジオの決定によって、「バラバラにされた」ウェルズのヴィジョンは、映画史の新しい神話として繰り返し語られることになる。

映画史で最も素晴らしいオープニングのショットにタイトルをプリントしたユニバーサルの悪党は、地獄で永遠の責苦に苛まれろ。デイヴ・カー

1970年代に、ユニバーサルで108分の「プレビュー・バージョン」が発見された。これは、前述の1958年1月のプレビューのもので、ハリー・ケラーの監督した追加シーンも含まれている。これを「ディレクターズ・カット」と呼んでいたこともあったが、もちろんウェルズの編集したものではない。VHSが発売されたときには、95分の劇場公開版とこのプレビュー・バージョンをつなぎ合わせたハイブリッド版が使用されている。

1992年にジョナサン・ローゼンバウムが「This is Orson Welles」を出版する。その際にローゼンバウムは、ウェルズがユニバーサルに送った58ページのメモを入手していた。プロデューサーのリック・シュミドリンが中心となり、編集にウォルター・マーチ、コンサルタントにローゼンバウムがついて、このメモを使ってウェルズの意図に沿って「再構成」したバージョンが製作された。メモには最早入手不可能なフッテージやサウンドトラックに関する言及などもあり、ウェルズ自身がそのバージョンを作成したわけでもないので「修復」「ディレクターズ・カット」ではなく、あくまでウェルズの意図を最大限反映したバージョンである。しかし、これがポスト・プロダクションとしてあるべき姿を伝える最良のバージョンとなった。このバージョンは、ウェルズの娘とのあいだで幾度もトラブルがあり、上映中止の憂き目に何度もあったが、現在ユニバーサルから発売されているブルーレイに、劇場公開版、プレビュー版とともに収録されている。

 

Analysis

「秘められた優位性」

オーソン・ウェルズの「天才」については数多くの言葉が費やされてきた。ハリウッドのスタジオシステムに反抗しつつ、芸術を成し遂げようとした男、彼が描く世界の中心に位置する「謎」の神秘性と世俗性、平板なモラルに挑戦するシェイクスピア的人物造形。そういった評価が、繰り返し生産され、繰り返し再生産されてきた。そして彼の作品の真価を理解できるのは、エンターテイメントに溺れる民衆ではなく、芸術を解する一部の人間のみだという点も、常に強調されてきた。アンドレ・バザンは、『黒い罠』と『キッスで殺せ(Kiss Me Deadly, 1956)』は、いずれもスリラーのエトスに題材をとりながら、テンションを耐えられないほどまで高め、今まで見られなかったような性的なサディズムも容赦なく映し出している点において類似した「時期と精神」で製作されたものだとしながらも、『黒い罠』は師匠の作品であり、『キッスで殺せ』はその弟子の作品である、と述べた。フランソワ・トリュフォーはウェルズを「移り気の天才」と呼び、カンヌ映画祭が『長く熱い夜(The Long Hot Night, 1958)』なんかよりも『黒い罠』を呼ぶだけの知恵があれば、と嘆いている。

ウェルズの才能を絶賛する者もあれば、一方でその作品の真価に疑問を呈したり、ウェルズの監督作品の優れた点をウェルズの才能だけに帰する傾向を批判したりする者も現れる。そして、それは極端に双極化した議論を生み出すことがあった。ジャン=ポール・サルトルが、『市民ケーン』を「根なし草で大衆から切り離されている」インテリの作品だと呼ぶと、アンドレ・バザンが、ウェルズが映画のなかの諸手法の「意味を再発明」したのだと反論する。扇動的な伝記作家、チャールズ・ハイアムが、「ウェルズは映画を完成させることを怖れているのだ」とウェルズの未完成作品群について指摘すると、ピーター・ボグダノヴィッチは、ハイアムの著書は間違いだらけで「芸術家の人生を破滅させる方法の教科書」と呼んだ。最も有名な論争は、1971年に出版された「The Citizen Kane Book」に、ポーリン・ケイルが寄せた「Raising Kane」(日本では『スキャンダルの祝祭』というタイトルで出版された)を取り巻く一件だろう。元々はニューヨーカー誌に掲載されたこの長文は、『市民ケーン』の「真の作者」はジョセフ・L・マンキーウィッツであって、ウェルズはマンキーウィッツの脚本クレジットを何とか阻止しようと策略をした、という内容だった。これに対し、ピーター・ボグダノヴィッチ、アンドリュー・サリス、ジョナサン・ローゼンバウムらが強硬に反論、ケイルの取材手法の不備や事実関係の間違い、さらには虚偽の文面などを徹底的に暴いた。結局、この一件で、ポーリン・ケイルの批評家としての威信は失墜し、特に彼女の死後の評価に暗い影を落としている。

一方で、このような議論はオーソン・ウェルズを過度に神話化することに歯止めをかけ、彼の作品のハリウッド・システムにおける位置付けを再考させるきっかけとなった。「彼の作品が興行成績に苦しむのは、彼が映画の詩人だからだ(フランソワ・トリュフォー)」といった応援演説が氾濫していた時代から、批評のスタンスが少しずつ変貌していく。上述の論争でも、両陣営の議論自体は噛み合っていない。チャールズ・ハイアムの「なぜウェルズは映画を完成させることが出来ないのか」という問題意識に対して、「ハイアムの本は間違いだらけ」という反論は答えになっていないし、ポーリン・ケイルの「『市民ケーン』はコラボレーションから生まれた」というテーゼに対して、「ケイルは主要人物をインタビューしていない」という指摘は、ケイルの信用を落とすことはできても、ケイルのテーゼを否定しているわけではない。実際、ケイルの暴論のおかげで、その後の反論や調査を通して『市民ケーン』におけるマンキーウィッツの貢献も明瞭になってきたし、その他の側面においてもRKOのスタッフの貢献が議論されるようになった。長いあいだ、「ウェルズとグレッグ・トーランドが駆使したディープ・フォーカス」の映像こそ、『市民ケーン』のトレードマークのように言われてきたが、従来ディープ・フォーカスと呼ばれていた場面の大部分がオプティカル・プロセスや多重露光によるものだという事実は、撮影監督や特殊効果のスタッフのあいだでは、公開当時から周知の事柄であった。グレッグ・トーランドの、あまりに節操のない自己宣伝に少しばかり反感を抱いたASC(American Society of Cinematographers, 全米撮影監督協会)は、『市民ケーン』の特殊効果を担当したRKOのリンウッド・ダンの特集をその機関誌で組んだほどである。ところが、メインストリームの映画批評、特にフランスとアメリカを中心とした作家主義批評はそういった側面を都合よく削ぎ落として、ウェルズを「映画の詩人」と呼んできた。今でも多くの映画史の入門書や「大衆向け」書籍がそういった論述を受け継いでいる。そういった風潮も、この20年ほどようやく変わり始め、ロバート・L・キャリンガーやロジャー・イバートらの調査、批評によって、『キング・コング(King Kong, 1930)』から続くRKOの特殊効果部門の貢献がいかに大きいかが、より広く知られるようになったのである。

『黒い罠』についても、編集過程におけるウェルズの「不在」が、ウェルズ自身が主張したように「スタジオが私の手から取り上げた」からだというのが、事態の経緯のより正確な表現かというのは疑問である。チャールトン・ヘストンがインタビューで「(編集作業の途中に、現場を離れて他の映画の撮影に行くなんて)この業界では、絶対にやってはいけない」と言っているように、ウェルズ自身が「離れた」側面もあるのではないか。特に製作部長のエドワード・ムールとのやり取りをみる限り、ウェルズには、メキシコから帰ってきてからでさえも、幾度も介入するきっかけが与えられていたように見える。それをウェルズが「スタジオが私の手から取り上げた」という主張をするのは、いささか自己弁護が過ぎるという印象を受ける。問題は、そのウェルズの言葉をそのまま取り上げて、「天才 vs. 天才を理解しないスタジオ」という構図で解釈することである。

また、フランスの50~60年代の批評家たちは、ウェルズへの贔屓を引き倒して、ウェルズが演じるキャラクターにさえも詩的特権を与えてしまっていた。例えば、『黒い罠』の批評において、ヴァルガスとの対置を通して、クインランを実存的に昇華した存在として評価した。そしてそこにウェルズの「道徳/モラル」への挑戦を読解しようとしていた。

クインランは身体的にも怪物のようだが、道徳的にも怪物なのか?答えはイエスであり、ノーである。クインランは道徳的に怪物だが、それは彼が自らを守るために犯罪を犯すからである。しかし、ある種の側面において、クインランは、正直で、正義感に満ちて、知的なヴァルガス――私がシェークスピア的と呼んでいる人生の意味を徹底的に欠いている男――よりも高い位置にいる。だから道徳的には怪物ではない。アンドレ・バザン

トリュフォーは「(ヴァルガスの)コソコソとした卑劣さや凡庸さが、(クインランの)直感と絶対的な正義に勝ち誇る」結末を「(世界は)その道徳において不誠実であり、公平さの概念において不純であること」を表現したのだと述べている。

これは、恐らくバザンやトリュフォーが「クインランの直感は結局当たっていた」と思っていることに由来するのであろう。クインランはサンチェスを真犯人と睨んで、証拠を仕込んで逮捕させた。映画のクライマックスで、そのサンチェスが爆破殺人を自白したことを観客は知らされる。

「自白」がどのようにして冤罪を作ってきたかを散々見てきた21世紀の我々には、到底信じられないことだが、1960年代のフランスでは、このような素朴な認識は仕方のないことだったのだろうか。あの「サンチェスが自白した」と白人の刑事や検察が告げる場面を見て、私達の多くは、その自白に至るまでサンチェスが受けたであろう残酷なプロセスを想像する。殺された白人の有力者の娘と付き合っていたサンチェスのアパートからダイナマイトが見つかったこと、神格化されていたベテラン刑事がサンチェスをクロとみていたこと、捜査権のないヴァルガス以外、誰一人、サンチェスの人権を顧みる素振りを見せていないこと、その条件下で取り調べが行われていたのだ。反語的に、トリュフォーのような「素朴な認識」が当時の状況をさらに浮き彫りにしているのかもしれない。マジョリティの側から見えている「正義」と裏腹の、差別や嫌悪が権力と結託していく力学への無知である。物語を通して正義のあり方について懐疑的な姿勢を示すメキシコ人を胡散臭い卑怯者と断罪しながら、最後に突然出てきた白人が「サンチェスはクロ」というと、ころっと信じてしまう観客。

この作品は、あまりにも開かれたテクストであり、その読解は、私たちを暴き出すプロセスとなる。

『黒い罠』はそういった暴露に満ちている。クインランのメキシコ人への嫌悪はもちろんのこと、人種間での結婚で不透明化される不均衡、スーザンに潜在的に潜む人種差別、グランディ一家の描写、人種と性の関係が増幅される場所としての国境、どこか薄い見えない膜が存在する「メキシコ」と「アメリカ」――そういった異様なありさまを過剰な映像で描くことがウェルズの企みであったことは間違いない。だが、その企みは余りに重層的で、捻れていて、統一されることを拒んでいる。メキシコ人の設定の白人俳優たち、ヴァルガスの話す訛りのない(東海岸の教育を受けた者の)英語に土着の刑事の崩れた英語を配置させる構図、国境の町という設定に人種や性の過剰さのパラドックスが投影されること、そしてクインランの人種差別には理由があるという一種のロマンチシズムに潜む欺瞞――そのバロックな構築物を作ることがウェルズの意図だったかどうかは、今となってはわからないが、少なくともその不安定な構築物を、今の視点で読み替えることが必要である。

『黒い罠』

人種の表象

「グランディはパンチョとスペイン語で話し、彼の外見は『メキシコ人っぽさ(Mexican-ness)』にあふれている」とステフェン・ヒースは述べている。ほら、また『メキシコ人っぽさ』だ。この『メキシコ人っぽさ』という記号は何を指しているのだろう? ウィリアム・アンソニー・ネリッチオ

チャールトン・ヘストンは、日記のなかで、撮影前の衣装準備の際にビバリーヒルズのテイラーではなく、メキシコのテイラーにスーツをオーダーした経緯を綴っている。テイラーの仕立て方が全く違うことを知って、「こういった観客の目に見えないところに気を配ること」が創作には必要なのだ、と後日のメモに記している。不思議なことに、観客の目に見える「彼自身」がメキシコ生まれではないことには言及がない。

白人ではない役柄に白人をあてることを「ホワイトウォッシュ」と呼ぶが、ここでヴァルガスが白人のメキシコ人であるかどうかは定かではない。映画のなかで問題になっているのは、人種というよりも「メキシコ人」か「アメリカ人」かという点である。メキシコ人のヴァルガスは、アメリカ人のスーザンと結婚しており、クインランが憎悪するのはメキシコ人、特に混血(halfbleed)である。グランディは繰り返し自分がアメリカ市民であることを強調する。クインランは、サンチェスとヴァルガスに向かって、「英語」ではなく「アメリカ語を話せ(Speak American!)」と怒鳴る。だが、クインランというキャラクターに関して多くの批評家が使う言葉は「人種差別主義者」であって、「国籍差別主義者」ではない。

一体、誰がどこの国籍のキャラクターを演じたのか。ステフェン・ヒースが「外見がメキシコ人」と呼ぶ、「パンチョ」を演じた俳優ヴァレンティン・ド・ヴァルガスはれっきとしたアメリカ人だ。同じく「外見がメキシコ人」のグランディを演じたのはアキム・タミロフ。アゼルバイジャン生まれでアメリカに帰化した人物である。ジプシー(ロマ系メキシコ人)のターニャを演じたマレーネ・ディートリヒはドイツ人で1939年にアメリカ国籍を取得している。ヴィクター・ミランはイーストLA生まれの「バリオ」だが、哀れな「メキシコ人」サンチェスを演じている。メキシコ生まれの俳優としてはリストを演じたラロ・リオスがいるくらいである。

ここまでメキシコ生まれの俳優を使わなかったのは、当時ハリウッドにいなかったからだろうか。それは違う。アンソニー・クイン、ギルバート・ローランド、ドロレス・デル・リオと挙げればキリがない。もちろん、スタジオとの契約の問題や役柄や人間関係の問題もある。なぜ、メキシコ生まれ、あるいはメキシコ国籍の俳優を使用しなかったか、の真相はわからないが、決して無理ではなかった。

1958年に国籍と人種に関わる問題をとり上げることは非常にセンシティブで、多くの障害があり、オーソン・ウェルズはむしろその先陣と切ったリベラリストだから、このような制限のなかで演出をしたのだろうか。それも必ずしもそうではない。カリフォルニアに住む貧しいイタリア移民を取り上げた『ベニイの勲章(A Medal for Benny, 1945)』、メキシコ系アメリカ人の差別を描いた『ザ・リング(The Ring, 1952)』、テキサスのメキシコ系アメリカ人をサブプロットで扱った『ジャイアンツ(Giant, 1956)』など、「白人のアメリカ人」から見て「異国の感じの人」の疎外を扱った作品はあった。また人種差別の問題として、有色人種の社会的地位をテーマやサブプロットとする作品も1950年代には登場する。だが一方で、ハリウッドのなかで、人種やエスニシティの問題を不可視化する傾向もあった。ダグラス・サークの『悲しみは空の彼方に(Imitation of Life, 1959)』が、1934年の作品のリメイクではなく、焦点をシフトさせたメロドラマとして製作されたことは、特に慎重に議論されなければならない。『黒い罠』はそういった広いスペクトラムの中で、リベラリズムに根ざした線形的な読解がほとんど不可能な作品である。

問題は、この「メキシコ人」という「見え方」である。観客は、この映画の流れを追ううちに、「メキシコ人」と「アメリカ人」という「見え方」に慣らされていく。出てくる登場人物を、どちらかに分類するように見始めてしまう。ヒースが、恐らくほぼ無意識に「メキシコ人っぽい」とラベル付けしてしまったことに見られるように、外見がWASPでない人間をメキシコ人だと分類してしまう仕掛けが用意されている。さらに酷いことには、この「メキシコ人」たちは、人間/キャラクターとして全く謎のまま終わってしまう。ギャングのグランディはどんな組織犯罪を運営していたのか?パンチョの本当の名前は何なのか?彼らは何がしたかったのか?そう言えば、ヴァルガスにしても、彼がメキシコでどんな刑事かということは何も分からず、ただ国境のアメリカ側では無力でフラストレーションをためているということだけが見えている。つまり、ウェルズ演じたクインランだけが大きな「エニグマ」のようなふりをしながら、それでも彼の意図や目的が我々には見えるように設計されている。結局観客に見えてくるのは、クインランの歪んだ差別の意識だけであり、いったい誰を差別しているのかは分からずじまいなのだ。

反/汎ディズニー

『黒い罠』がベルギーの万国博覧会で絶賛された時に、ディズニーが出品していたのは『アメリカ・ザ・ビューティフル』という360度映画(Circarama)だった。この短編映画は、その後幾度も再製作され、ディズニーランドのアトラクションとして20年近く存在していた。これは11台の映写機が円筒状のスクリーンの内側全体に360度のビューを投射するもので、その中にいる観客にサラウンド映像の体験を提供するものだ。映像は、アメリカの様々な景観や生活を映しとり、それらを縦横無尽に駆け巡るものだったという。「モンタナの麦畑がイエロー・ストーン公園に変貌し、ピッツバーグの鉄工所からサンタフェ鉄道へ続く(フレッド・ターナー)」19分の短編映画は、グランド・キャニオンからゴールデン・ゲート・ブリッジへ飛んで締めくくられる。このアメリカの美しさと偉大さを観る者に叩き込む体験は、アメリカ合衆国という国家のイデオロギーを観る者に叩き込むための装置として機能していた。その映像は、11台のカメラからなる360度全景撮影装置を、自動車と爆撃機B-52という20世紀アメリカを代表する機械に搭載して得られたものである。「アメリカ合衆国」にとって、これほど適切なカメラ搭載機械はないだろう。

(この『アメリカ・ザ・ビューティフル』は)観る者に個人としての体験を提供するのではなく、観客の感覚を鋼鉄の力でコントロールするものだった。フレッド・ターナー

巨大で、強力で、膨大な富を加速度的に生み出す土地と国民、それがアイゼンハワーが緊急に予算を組んででも輸出を望んだアメリカのイメージだった。

それと対照的に、法の番人であるべき男が、不正義と偏見を暴走させた挙げ句、ゴミだらけの川で死んでいく―――そんな物語のアメリカ映画がヨーロッパの映画評論家たちによって絶賛されたのである。一見、ディズニーがひたすら隠そうとしたアメリカの恥部を暴いているように見えるが、果たしてそうだろうか。海外の評論家達が絶賛した『黒い罠』のオープニングの長回しは、その浮遊するような自在のムーブメントに陶酔するかもしれないが、それはB52から撮影されたアメリカの広大な風景に酔うことと、どの点において相違「した」のか。当時の観客が、それまで経験したことがないような浮遊感や次々と現れては消えていく風景への驚きを、一方は爆撃機で、もう一方はチャプマンのクレーンで体験した、ということではないだろうか。この時代のオーソン・ウェルズとウォルト・ディズニーは、常に「アメリカ」を中心に表裏一体の関係にあると言えないだろうか。

この『黒い罠』のロケ地ヴェニスが、ディスニーランドの登場によって廃れていった場所だということも非常に興味深い。どちらも「人工の楽園」をロサンジェルスという土地に作ろうとしていたのだ。そして考えてほしい。「ロサンジェルス(Los Angeles)」というスペイン語に由来する土地名に、「ヴェニス」「ディズニーランド」という縁もゆかりもない言語の名前がつけられたことを。アメリカの西部から南部にかけては、土地の名前でスペイン語に由来しないものを見つけ出すほうが難しい。ロサンジェルス、サクラメント、サンフランシスコ、サンノゼ、サンディエゴ、プエブロ・・・・ここはメキシコと地続きだったのだ。そこに国境が引かれ、「アメリカ」が存在する。ディズニーが虚構の「アメリカの楽園」を作るために選択と排除を繰り返していく。そこには鮮やかなカラーの世界が広がり、すべての人は幸福で、強力な富と資源が保証されている。だが、その虚構から排除された「アメリカ」がある。ウェルズは、その排除された「アメリカ」で彼の虚構を作っていた。虚構の国境の町は「ロス・ロブルス」というスペイン語の名前が与えられたが、その実態は「ヴェニス」である。

かつてウォルト・ディズニーも、オーソン・ウェルズも、国境を越えて南へ飛び、「アメリカ合衆国文明」の使者となったことがあった。1940年にアメリカ政府の組織、OCIAA(Office of the Coordinator of Inter-American Affairs)は、国際的に知名度の高い文化人を南米各国に派遣し、文化的な影響力を波及させることを目論んだ。これは南米各国と文化的・経済的な交流を推し進めることと同時に、当時南米に外交的戦略を展開し始めていた枢軸国、特にナチス・ドイツの浸透を阻むことを目的としていた。派遣された文化人には、ビング・クロスビー、ウォルト・ディズニー、アーロン・コープランド、オーソン・ウェルズ、リタ・ヘイワース、ジョン・フォード、グレッグ・トーランドらがいる。

オーソン・ウェルズが、ブラジルに飛んで『イッツ・オール・トゥルー(It’s All True、未完)』を製作しようとして頓挫した経緯については、ここでは詳しく述べない。このプロジェクトは、その計画段階から失敗することが明らかだった。テクニカラーの機材を飛行機で輸送して、リオのカーニバルを撮影する、ということ以外、大したアイディアはなかったのである。

一方、ディズニーはこの活動の結果として『ラテン・アメリカの旅(Saludos Amigos, 1942)』と『三人の騎士(The Three Caballeros, 1944)』を世に送り出す。前者はリオデジャネイロで、後者はメキシコ・シティでプレミア上映された。ディズニーはアメリカ合衆国の人気映画人として、南米を舞台とした作品を南米に向けて製作するという目的を果たしたのだ。だが、これらの作品は決して「ラテン・アメリカ」の立場を理解して作られたものではない。あくまで、アメリカ合衆国の立場で、ラテン・アメリカを描いたものだ。それは『ラテン・アメリカの旅』の主人公たちがいつものディズニーのキャラクターばかりで、そうでないキャラクター(チリの「ペドロ」)はチリで反感を買ってしまった、というエピソードにも伺える。ディズニーが明確に「アメリカ合衆国」と「ラテン・アメリカ」を自らの立場で表現できたとしたならば、ウェルズはそれをしなかった。あるいは、できなかった。ウェルズは、リオデジャネイロで熱病のように享楽にうなされ、ハリウッドやワシントンから遠く離れたビーチで、好きなようにカメラを回していた。だが、ウェルズもディズニーと表裏一体の「アメリカ合衆国文明の使者」として機能した。ウェルズの破天荒で破廉恥なさまが、まさしく「アメリカ合衆国文明」の一部であるからだ。

国境の表象

ここは本当のメキシコじゃない、そのことは分かるだろう?国境の町というのはその国の一番悪いところがでるものなんだよ ミゲル/マイク・ヴァルガス

このセリフは、『黒い罠』が、観客や批評家を幾重にも欺いてきたメカニズムを最も端的に現している。

『黒い罠』の原作では、舞台となるのは南カリフォルニアの小さな町であって、アメリカ/メキシコ国境の町ではない。主人公はミッチ・ホルトという白人のアメリカ人刑事であり、彼の妻はメキシコ人だ。小説全体としては、人種/国籍差別――「一番悪いところ」――はオーソン・ウェルズの描く物語ほどクリティカルな要素ではない。換言すれば、映画化におけるウェルズの目論見は、殺人事件を背景に、国境という増幅器を用いて人種/国籍と性の歪んだ構造を見せることだったと言える。だが、国境はなぜ増幅器として機能するのか?

ジェームズ・ナレモアは、この映画のロケーションは、実際の国境の町、例えばティフアナやマタモロスのような町とは似ていないが、「国境の町のエッセンスに忠実」と述べている。町で見られるのは、貧しいメキシコ人やアメリカ人の旅行者ばかりで、町自体は「ヤンキーに悪徳を売って」栄えている。そして物語が進むにつれて、ほとんどすべての登場人物が国境の町ロス・ロブルスの悪に触れてしまう。ここでナレモアが「国境の町のエッセンス」と呼んでいるものは、国境をはさんで存在する不均衡とそれから生まれる数々の悪徳や憎悪のことを指しているようだ。テリー・コミトは、ロス・ロブルスを「私たちの世界の周縁に見出される気味の悪い見知らぬ土地」と呼び、ステファン・ヒースは「国境のパリ、ロス・ロブルスへようこそ!」というポスターが登場していることを指摘し、国境を「アメリカとメキシコの戯れ(play)」と呼んでいる。特にヒースは、ヴァルガス/スーザンの人種/性の関係を通して、『黒い罠』の国境を「純粋(purity)」と「混在/混血(mixture)」、そして「法(Law)」と「欲望(desire)」の対立をもたらす場として解釈している。

『黒い罠』のオープニング・ショットの見取り図(ステファン・ヒース)

こうした異界としての国境を想像して、そこに「性と人種」の緊張を一元的に見て取る批評について、ポストコロニアル批評の立場から再解釈がなされてきた。

ウィリアム・アンソニー・ネリッチオは、ジョセフ・マクブライドの『黒い罠』批評における無自覚な人種差別意識を暴き、ナレモアの「国境」に関する平板な読解を「ハリウッド映画に登場する「国境」のステレオタイプ」だと批判した。

ホミ・バーバは、ヒースの解釈について、人種や性についてのステレオタイプに基づいた従来の解釈とは一線を画しているとしながらも、「国境」における戯れを純粋/混血、あるいは法/欲望とみなすのは、人種や性の差の明瞭化を、差異のスパイラルでなく、(平面的な)円に還元するものだと批判した。すなわち、アメリカの文化的植民地主義とメキシコの依存、混血への恐怖と欲望、そして、国境を「男性的アメリカン・スピリットが国境の向こうの人種や文化によって危機にさらされているというシニフィアン」として位置づける、多面的な分析へ向かうことが必要だと述べている。

矛盾だらけの物語世界を、さらに増幅しているのが「虚構の国境」という装置だとして、いかにそれを解きほぐしていくべきか。

パンチョと呼ばれる男

この謎と矛盾に満ちた物語世界の解きほぐす鍵を握るのが、グランディの手下、パンチョであろう。彼は、物語を通してスーザンを脅かす存在として描かれているように見える。だが、ネリッチオも指摘しているように、彼が脅威として「描かれていること」には非常に慎重になるべきだ。

まず、我々は彼の名前を知ることはない。スーザンが彼を「パンチョ」と侮蔑的に呼んだにすぎない。だが、すべての存在するものがそうであるように、名前を与えられることで彼は存在するようになる。正確にはこの物語世界で「パンチョ」として存在するようになる。

アメリカ人が、メキシコ人を適当に呼びつける時に使うのが「パンチョ」であり、このコンテクストでは見下した響きがある。スーザンがこの呼名を使うのも、このコンテクストだ。彼女は、通りで執拗に絡んでくる、この(英語を解さない)メキシコ人の若い男が、自分に色目を使っていると勘違いしていたのだが、結局グランディからの伝言を伝えに来たことが分かる。そこで「じゃあ、連れてってよ、パンチョ!」と英語で言う。そして、彼は「パンチョ」になってしまうのだ。

1950年に国境の町ティフアナで撮影された一枚の写真がある。おそらく旅行者であろう白人の男の子の記念写真だ。彼はシマウマにまたがり、「PANCHO」とかかれたソンブレロをかぶっている。その横には、同じデザインの他のソンブレロ――「LOCO」「KISS MY ASS」などと書かれている――が並んでいる。メキシコのことなどほとんど何も知らずに旅行で遊びに来たアメリカ人達が、これらをかぶって記念撮影をするのだ。「PANCHO」は、隣国に関して無関心なアメリカ人が、「国境」の記号として「戯れ」る名前なのだ。だが、問題は、スーザンはメキシコ人であるヴァルガスと結婚しているにもかかわらず、この「記号」を使ったことである。

スーザンの二重性(多重性)については、ヒースやネリッチオも指摘しているが、彼女が表現する異国のものに対する欲望/恐怖が、彼女の夫、ミゲル・ヴァルガス(マイクではない)と「パンチョ」に投影されていると考えてよいだろう。だが、ネリッチオも指摘しているように「メキシコ的なるもの」を「性的なもの」として平板に解釈するのは、多くのことを取りこぼす。スーザンの「メキシコ的なるもの」への関わり方はずっと多層的だ。

例えば、なぜ「マイク/ミゲル・ヴァルガス」なのか。スーザンがこの映画全編を通して夫のことを「ミゲル」と呼ぶのは1回だけだ。避難先のモーテルのベッドに横たわってヴァルガスと電話で話しているときである。このプライベートな瞬間に、なぜメキシコ名を呼んだのか。

聞いてるわよ。私の愛しいミゲル。スーザン

この発言の解釈は様々だ。プライベートな瞬間に、欲望の対象としての「異国の異性」をスーザンの無意識が選択したと考えることもできる。一方で会話の流れから、スーザンが軽くミゲルをからかったとも解釈できる。「ハネムーンなのに自分の職業のせいで別々に過ごすことになってしまった」というマイク/ミゲルの罪悪感を、スーザンは聞き取ったのだ。ここでもスーザンの「からかい」が「メキシコ名」を誘い出しているのかもしれない。

マイク/ミゲル・ヴァルガスを演じる前に、チャールトン・ヘストンはウェルズと「ヴァルガスなる男」のキャラクタリゼーションについて話し合っている。そこで、ウェルズはヴァルガスを「東海岸の名門校、ハーバードかコロンビア大学の法学部を卒業した優秀な男で、訛りのない英語を話す」と描写している。これは、明らかに「マイク」だ。換言すれば、ウェルズがスクリーンに投影したのは「マイク」だけで、メキシコ人「ミゲル」は隠されたままなのだ。このスーザンとの電話のやりとりは、その隠されたメキシコ人「ミゲル」の存在を示唆しているのだろうか。ヴァルガスのこの「マイク/ミゲル」の分裂は、スーザンにはどう投影されているのだろうか?

スーザンは、人種/国籍差別を文化的に(言語的に)内面化してしまっており、それを無意識に発現させてしまう人物である。「アメリカ語」でメキシコ人を誰彼構わず「パンチョ」と呼ぶのと、メキシコ人がホセ・ドロテオ・アランゴ・アランブラを「パンチョ」と呼ぶのとは、まったく違う。彼女はその違いに気づくことができずにいるのだ。だが、彼女は同時に、マイクとミゲルの差異を何らかのかたちで内面化している。そのすべてが差別意識とも言えず、かと言ってすべてが欲望でもなければ、愛情とも言い切れない。彼女の内面化された像は、その時々の状況に応じて微妙に形を変えながら現れてくる。

では、『黒い罠』の「パンチョと呼ばれる男」はどんな男として私たちの前に立ち現れているのだろうか。彼は得体の知れない脅威を身に纏ってスーザンを追い回しているように見える。突然、スーザンをグランディに引き合わせたり、隣のビルからホテルの部屋にいるスーザンを覗き見たりしている。そして、ミラドア・モーテルでは彼女に襲いかかる集団を指揮しているようだ。だが、ネリッチオも指摘しているように、「パンチョと呼ばれる男」がスーザンを「フィジカルに」すなわち直接触って暴力を振るうシーンは(示唆はされているが)「映って」いない。しかも、モーテルで彼女がどのような暴力を受けたのか、ドラッグを無理やり投与された以外は明らかにされないままだ。

「パンチョと呼ばれる男」に何を観るかは、実は観る側の投影でもある。

越境者たち

オーソン・ウェルズは、この作品の舞台を国境という増幅器になぜ移動したのだろうか。もちろん、その真意を知ることはできないが、当時のアメリカとメキシコとの「国境(実際の国境と比喩的な国境)」の文化的/歴史的な位相を把握することは必要だろう。

前述したように、アメリカ合衆国にとって、第二次世界大戦前後の南米各国との外交は戦略的な意味において非常に重要であった。特にネルソン・ロックフェラーは、ナチス・ドイツによるプロパガンダ政策が南米各国に及ぶ懸念をルーズベルトに説き、南米への政治的介入をそれまで以上に強めることを推進した。この政策は、ファシズムから共産主義にターゲットが変更されたものの、戦後になっても継続され、アルゼンチンなどの経済的に有利だった国を漸次的に弱体化させる一方で、メキシコの相対的な地位を向上させる結果となった。一方で、20世紀初頭から続く密輸、違法取引、人身売買などがアメリカーメキシコ国境を跨いで活発化していたのも事実である。

1913年にカリフォルニア州が売春を実質的に禁止する法律を施行し、サンディエゴの売春宿街は壊滅的なダメージを受けた。そこでアメリカの実業家達がメキシコとの国境の町、ティフアナにカジノ、ダンスホール、キャバレーといった遊興施設を建設して、カリフォルニアの法律の手が及ばない場所で悪徳を売り始めたのである。このなかでも最も人気があったのが「フォーリン・クラブ(Foreign Club Cafe de Luxe)」という名のナイトクラブであった。これは比較的裕福なアメリカ人が食事をし、ショーを見に来ることを目当てにした場所であり、メキシコ人の従業員もほとんどいない高級クラブである。もちろんアフリカン・アメリカンなどの有色人種は近寄れない。このナイトクラブで最も人気だった出演者は、エデュアルド・カンシーノとマルガリータ・カンシーノの父娘によるダンス・ショーだった。1922年頃のことである。娘のマルガリータは、カリフォルニアでダンサーになろうとしたが、未成年だったため、ナイトクラブに出演することができなかった。そこで、父と国境の町に来たのである。スペイン人の父とアイルランド人の母の間に生まれた「混血」のマルガリータは、国境の町に遊びに来たフォックスの重役の目にとまり、ハリウッドへ呼ばれる。母の姓をとってリタ・ヘイワースと名乗ったときには、父親はひどく落胆したという。

リタ・ヘイワースとオーソン・ウェルズの彷徨についてはここでは述べない。だが、彼が、国境の町で混血(half-bleed)を憎悪する男を描き演じたことは、ヘイワースとの関係を考えると非常に興味深い。

マイケル・デニングは、『黒い罠』のエスニシティの問題の分析のなかで、オーソン・ウェルズが1942年ごろから「スリーピー・ラグーン事件運動」のメンバーの一人だったことに注目している。スリーピー・ラグーン事件とは、1942年にロサンジェルスで起きた殺人事件だが、市警は証拠が不十分であるにも関わらず、17人のメキシコ系アメリカ人を殺人容疑で逮捕した。裁判でも結局9人は第二級殺人で有罪となってしまう。オーソン・ウェルズは、この事件の捜査において不正があったとして追求するグループのメンバーの一人であった。逮捕の際に、警察が容疑者宅に証拠を仕込んだと言われており、まさしくクインランの所業を彷彿とさせる。この事件を下敷きにして考えてみれば、『黒い罠』における「犯人が自白して有罪が確定する」という解釈が非常に危ういものであることが浮き彫りになるだろう。

実際には、『黒い罠』に登場するチカノ――「パンチョと呼ばれる男」や「アメリカ市民であることを主張するグランディ」、メキシコ系アメリカ人――は、国境の町だけでなく、アメリカ国内のいたるところに存在していた。だが、チカノは(そしてチカノだけでなく、マイノリティは)密集した住宅の影や路地裏に隠れていて、白人の世界では可視化されていなかったのである。いったん可視化されてしまうと、憎悪や迫害の対象になりかねないからだ。それが第二次世界大戦を経て1950年代後半には、社会的権力構造に変化の兆しが見え始めていた。

この3年後、ケント・マッケンジー監督『越境者たち(The Exiles, 1961)』では、ロサンジェルスに住むマイノリティ(ネイティブ・アメリカン)の若者たちの生活が描かれている。彼らも、白人の世界からは自ら距離を置きつつも、その行き場のない閉塞感から逃げ出すことを願っている。彼らが住んでいる世界は、エンジェルズ・フライトが音を立てて昇っていくバンカーヒル付近だ。イヴォンヌ・ウィリアムズはいつも長い階段を昇っていかなければ部屋にたどり着けない。ここは、他のロサンジェルスとは地続きではない、常に「離れた」世界。同じ国土のなかにいながらも「越境している」感覚を抱いている者たちの話である。この作品で、この「越境者たち」がガソリンスタンドを訪れるシーンがある。若い白人のアテンダントの視線が持つ強烈なメッセージが、彼らを越境者たらしめているのが明らかだ。

『黒い罠』は地続きの世界の話である。それはオープニングのショットで明示される。国境のメキシコ側からアメリカ側へ、チョコレート・ソーダを探しに二人は歩いてやってくる。そこには息切れする階段もなければ、待たなければいけない信号もない。この地続きの町には中心がない。「パンチョと呼ばれる男」もグランディもヴァルガスも自由に動き回っている。マイノリティが、「混血」が、「越境者」が、「いるべき場所」という枷を持たずに動きまわること、それを描けるのが「国境という虚構」でしかなかった、というのは穿った見方だろうか。

だが、前述の1950年のティフアナの写真をもう一度見てほしい。その写真に写っているメキシコ人の表情を言語化するのは甚だ難しい。「PANCHO」「LOCO」「KISS MY ASS」と書かれた帽子を白人のアメリカ人にかぶせる仕事。これを見ると、やはり『黒い罠』の国境は、虚構に過ぎないことが痛烈に感じられる。

メキシコは我々の愚かな移民法を笑っている。今すぐ大量のドラッグと人間の流入を止めさせないと、金を止めるぞ!NAFTAだ!壁が必要だ!ドナルド・トランプ

2018年の今、またアメリカとメキシコの「国境」が記号として起動している。60年前とは全く違う記号だが、私たちが何かを学んだようにも思えない。

Links

Cinephile & Beyondの『黒い罠』に関する記事は、撮影中のスチル写真なども豊富で読み応えがある。

『黒い罠』のテクスト分析において最も重要なステファン・ヒースの論考はArchive.org(第一部第二部)で読むことができる。

ジョナサン・ローゼンバウムによる『黒い罠』の再編集の過程は「TOUCH OF EVIL Retouched」という文章(書籍よりの抜粋)にまとめられている。

Data

ユニバーサル・インターナショナル配給 4/23/1958公開
B&W, 1.37:1(ネガ)1.85:1(上映)

製作アルバート・ザグスミス
Albert Zugsmith
出演チャールトン・ヘストン
Charlton Heston
監督オーソン・ウェルズ
Orson Welles
ジャネット・リー
Janet Leigh
脚本オーソン・ウェルズ
Orson Welles
オーソン・ウェルズ
Orson Welles
原作ウィット・マスターソン
Whit Masterson
ジョセフ・カレイア
Joseph Calleia
撮影ラッセル・メティ
Russell Metty
アキム・タミロフ
Akim Tamiroff
音楽ヘンリー・マンシーニ
Henry Mancini
レイ・コリンズ
Ray Collins
編集アーロン・ステル
Aaron Stell
マレーネ・ディートリッヒ
Marlene Dietrich

References

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Top Image: Orson Welles from the film’s trailer (public domian)