深夜復讐便
Thieves’ Highway

20世紀フォックス配給
1949

どうしてこの映画がフィルム・ノワールと呼ばれているのか、正直、よく分からない
ジュールズ・ダッシン

Synopsis

ヨーロッパ戦線での従軍を終えて除隊したニック(リチャード・コンテ)は、カリフォルニアにある実家に戻ってきた。一見、幸せそうに見えた両親だったが、ニックが兵役についているあいだに、父親は忌まわしい事故にみまわれて不自由な身体になっていた。悪徳の青果業者のフィグリア(リー・J・コッブ)の罠にかかって、生活の糧もトラックもそして両脚も失ってしまったのだった。復讐心に燃えるニックは、父のトラックを譲り受けたエド(ミラード・ミッチェル)とともに、フレズノの農園からサンフランシスコにリンゴの初物を運ぶ仕事にとりかかる。貧しい農家の足元を見てりんごを買い叩くエドを、ニックは諌める。エドは、ユニバーサル・ジョイントが壊れる寸前のトラックをだましだまし乗りこなし、ニックは軍の払い下げトラックで道に乗り出す。夜のサンフランシスコ青果市場に積荷を積んだトラックを乗り付けたニックは、そこでフィグリアの悪辣さに翻弄される。ニックは夜の女リカ(ヴァレンティナ・コルティーズ)と知り合いになるのだが、彼女はフィグリアの差し金だった。一方エドはトラックが故障を繰り返すなか、ついに長く厳しい坂道にさしかかる。

Quotes

女ってのはホントに素晴らしいわね リカ

Production

A・I・ベゼリデス

この作品は、A・I・ベゼリデスが1949年に発表した小説「Thieves’ Market」が下敷きになっている。この小説の初版は数週間で売り切れ、その後ペーパーバック版が発売された [1]。

アルバート・イサーク・ベゼリデス(1908 – 2007)は、トルコのサムスン生まれ。ギリシア系の父親とアルメニア系の母親を両親に持つ。家族は彼が2歳のときにカリフォルニア州フレズノにある、アルメニア人のコミュニティを頼って移住して来た [2]。ベゼリデスは、カリフォルニア大学バークレー校を卒業後、エンジニアとしてロサンゼルス水道電気局に勤めるかたわら、雑誌に小説を発表していた。1938年に発表した「Long Haul」がワーナー・ブラザーズに2000ドルで買い上げられ、それを機に週300ドルで脚本部に雇われて映画界に入る。

「Long Haul」も「Thieves’ Market」も、カリフォルニアのトラック運転手たちの苦境を描いた作品だ。ベゼリデスは、大学に入るまえにフリーランスのトラック運転手をしていた父親の手伝いをしていた。カリフォリニアの農場で作られる青果をストックトン、オークランド、サンフランシスコ、ロサンゼルスの青果市場にトラックで運ぶ仕事だった。そのときに経験した苛酷な労働環境と無慈悲な業界構造を題材としてこれらの小説を手がけている。不誠実で詐欺まがいの取引を生業とする青果卸業者に対するベゼリデスの憎しみは相当なものだった [3]。

むかしむかし、青果業者がやっていることを見たとき、この世界は終わると思った A・I・ベゼリデス

「Long Haul」は、ジョージ・ラフト、ハンフリー・ボガート出演、ラウール・ウォルシュ監督で『夜までドライブ(They Drive by Night, 1940)』として映画化された。これは、ワーナー・ブラザーズ特有の、マチズモあふれるメロドラマに社会問題のスパイスを少しばかりふりかけた、消化に良いエンターテイメントだった。そして「Thieves’ Market」は、20世紀フォックスのダリル・ザナックが豪腕をふるって『深夜復讐便(Thieves’ Highway)』という映画になった。題名の「Market」が「Highway」になったのは、サンフランシスコ青果市場が「まるで市場全体が盗人のように聞こえる」と文句を言ってきたからだという [4]。

ベゼリデスは、この他にも『危険な場所で(On Dangerous Ground, 1951)』、『キッスで殺せ(Kiss Me Deadly, 1958)』といった、フィルム・ノワールの作品群の中でも特にシニカルで荒涼とした物語を生み出している。彼の作品は、移民の貧困を背景に、アメリカン・ドリームの虚偽と欺瞞を暴いてみせ、その根底にはペシミズムに覆われた怒りがある。当然、ベゼリデスは赤狩りのブラックリストに載っていたと言われている。しかし、1950年代を通じて、ベゼリデスは仕事を失うこともなく継続的に脚本を書き続けていた。彼が仕事を失わずにいられた理由ははっきりとはわかっていない。

資本主義社会のなかでも、もっとも華やかで最も容赦ないのがハリウッド・スタジオだ。著名な脚本家のなかにはそんなハリウッド・スタジオに「雇用」されているのが奇跡と思えるような者もいた。レイモンド・チャンドラーはアルコール中毒に戻らないと書けないといって駄々をこね、ダシール・ハメットはMGMからのオファーも断って共産党に入ったものの、陸軍に入隊、そしてアリューシャン列島で心の平和を見つける、といった具合だ(その後、アンカレッジに配属された途端に酒と娼婦の日々に戻る)。1949年にノーベル文学賞を受賞したウィリアム・フォークナーは金に困ってハリウッドに来たものの、アルコール依存症に依存している、というのが適切なくらい、酒浸りだった。そしてほとんど仕事ができなかった。酒で正体不明になっていたフォークナーの世話をしていたのがベゼリデスだ。ベゼリデスはフォークナーの小説をこよなく愛し、フォークナーを深く尊敬していた。彼は度々泥酔状態のフォークナーを介抱して、酒がないとヘアトニックを飲むという彼の悪い癖をなんとか食い止めていた。ベゼリデス自身もかなり奇矯な人物なのだが、それがかすんでしまうほど、フォークナーの存在は強烈だった。

また、ベゼリデスは、売れっ子だった1950年代に俳優のアルバート・デッカーから「ヴァン・デッカー・ハウス」と呼ばれるR・M・シンドラー設計の巨大な邸宅を購入した [5]。ロサンゼルスの外れ、ウッドランド・ヒルズに建つこのモダニズム建築は、3754平方フィート、7つのベッドルームに4つのトイレといった具合にハリウッドのパーティー文化を受容するにはもってこいの建物だった。しかし、彼はここでひたすら執筆をつづけ、家を全く手入れすることなく、崩壊するにまかせていた。1980年代以降、全くの廃墟のようになったこの家で、ベゼリデスは幾度かインタビューを受けている。エキセントリックな作家の、エキセントリックな背景としてはこれ以上ピッタリなものはないだろう。

作家の手からハリウッドへ

『深夜復讐便』は、製作開始時の仮題が「Hard Bargain」、それから「Collision」だった。アメリカン・フィルム・インスティチュート(AFI)のカタログによれば、20世紀フォックスは1948年にベゼリデスの未発表の小説「The Red of My Blood」に37500ドル支払い、ベゼリデスをこの映画化脚本のために週1000ドルで10週間雇っているという [4]。この未発表の小説を「Thieves’ Market」として刊行することになり、映画のタイトルも同題にすることをザナックは考えていた 。一方、1997年に再販された「Thieves’ Market」ペーパーバック版のまえがき(ギャレット・ホワイト)によれば [4]、ベゼリデスのエージェントは1948年に「Thieves’ Market」を当時としては破格の8万ドルという高額でフォックスに買わせたことになっている。「The Red of My Blood」のアイディアがどの程度まで出版された小説に残っていたのかははっきりとしない。

当初、主人公のニック役には、ダナ・アンドリュース、ヴィクター・マチュア等があがっていた。ニック役に選ばれたリチャード・コンテは『出獄(Call Northside 777, 1947)』で冤罪で服役するポーランド系移民を演じ、この当たり役のおかげで、その後20世紀フォックスの看板としてオファーがなだれ込むようになった。彼自身、映画俳優になる前にトラック運転手をしていたこともあり、この映画のニック役は、彼のハードボイルドだが真面目なスクリーン・ペルソナにもぴったりだった。

撮影の開始は1948年の11月。ベゼリデス自身が、ロケーション・ハンティングに乗り出して、ハイウェイ99号線、サンフランシスコ、オークランド、セバストポル、カリストガ、サンタ・ロザ、ヒューネーメー、そしてオックスナード等の各地を回っている。サンフランシスコの青果市場をロケ地として撮影に臨もうとしていたその矢先、前述の通り、当地の果物青果卸売業者たちが、「Thieves’ Market」というタイトルに難色を示した。

1980年代にインタビューを受けたベゼリデスは、『深夜復讐便』は彼が書いたものとはほど遠く、ダリル・ザナックとジュールズ・ダッシンによって大幅に変更されてしまった、と語っている。まず、ザナックは、主人公のニックが悪辣商売人フィグリアに復讐を果たす話にすべきだ、と強く要求した。しかし、ベゼリデスが目指していたのは、正義漢の主人公が悪者に復讐を果たすメロドラマではない。原作では、普通の労働者が普通に働いてもまともに稼げない、それどころか搾取されてしまうシステムの膿を暴き出そうとしていたのである。しかし、スタジオ側はサンフランシスコの青果市場の卸業者たちのクレームを恐れた。映画では青果や果物の流通に実在する搾取の仕組みは結局描かれず、代わりにニックが悪辣なフィグリアを殴り倒すクライマックスが用意されることになった [1]。

さらにザナックは原作に漂っていた強烈な絶望感とシニシズムも洗い流してしまう。原作の冒頭ではニックの父親は事故で死んでしまっている。この父親の生命保険金をめぐって、ニックと母親は醜く対立するのだ。ニックは母親が独り占めしようと隠していた4000ドルを盗み出してトラック運転手になる元手にする。ハリウッド映画が繰り返し描いてきた温和で賢明な母親と親孝行の息子はいない。欲と不信によって崩壊している家族を描くことがベゼリデスの目論見だったのだが、ハリウッドのスタジオシステムではそれは無理だった。映画では、ニックの父親は、悪人フィグリアの罠にかかって両脚を失い、車椅子生活を余儀なくされている。それを見たニックが正義感と復讐心に燃えて立ち上がるという筋書きだ。母親は父親の横で弱々しい笑顔を浮かべているに過ぎない。

一方、ダッシンは配役でごり押しをする。当初、リカの役はシェリー・ウィンターズが演じる予定だったのだが、ダッシンは当時つきあっていたヴァレンティナ・コルティーズを連れてきてリカの役にするといい出した。そのためにベゼリデスはリカの役を書き直さなければならなかった。

コルティーズはイタリア出身の女優で1941年からイタリアで映画に出演していた。1949年にハリウッドに移ってからはエキゾチックな役柄で助演することが多かった。『テレグラフ・ヒルの家(The House on Telegraph Hill, 1951)』で共演したリチャード・ベースハート(『夜歩く男(He Walked by Night, 1949)』)と結婚。フランソワ・トリュフォーの『アメリカの夜(La nuit américaine, 1973)』では、アル中の女優セヴリーヌを見事に演じて、多くの映画賞を受賞した。

悪どい青果卸売業者、フィグリアを演じているのは、リー・J・コッブである。この映画に出演するまでは端役ばかりだった。当時はむしろ、アーサー・ミラーの戯曲「セールスマンの死」のウィリー・ロマンを舞台で初めて演じた俳優として有名だった。この舞台はエリア・カザンが演出している [6]。コッブ、カザンのその後のHUACでの証言や後述する『セールスマンの死』の映画化公開のいきさつを考えると、当時の政治的状況の変化がいかに急激なものであったかが理解される。

ニックの幼馴染の婚約者、ポリーはバーバラ・ローレンスが演じている。20世紀フォックスの契約俳優としてプレストン・スタージェス監督の『殺人幻想曲(Unfaithfully Yours, 1948)』、『三人の妻への手紙(A Letter to Three Wives, 1949)』などに出演している。

新物のゴールデンデリシャスアップルでニックと一儲けをねらうエドを演じたのはベテランのミラード・ミッチェルだ。『雨に唄えば(Singin’ in the Rain, 1952)』のプロデューサー役から『裸の拍車(Naked Spur, 1953)』のジェシーまで幅広い役をこなせる俳優だった。

エドをつけて回る二人のトラック運転手、スロブとピートは、ジャック・オーキーとジョセフ・ペヴニーが演じている。ジャック・オーキーはトーキー初期、プレコード時代にブレイクしたコメディアンで、どこのスタジオとも契約せず、常にフリーランスで活動した。チャーリー・チャップリンの『独裁者(The Great Dictator, 1940)』で、バクテリア国の独裁者ナポリーニ(ムッソリーニのパロディ)を演じたが、主演のチャップリンを食わんばかりの名演だった。トーキーで活躍した俳優としては皮肉なことに、彼は少年時代に聴覚を失っていた。ジュールズ・ダッシンは、オーキーがほとんど耳が聞こえず、読唇もそれほど得意でないということを撮影に入るまで知らなかったと語っている。にもかかわらず、他の役者が見えない位置に立っていても、オーキーは自分のセリフが入るタイミングを見逃したことはなかったという [7]。

撮影監督のノーバート・ブロディンは、サイレント期から活躍しているベテランだ。1937年までハル・ローチ・スタジオで、その後は20世紀フォックスに移籍して『Gメン対間諜(The House on 92nd Street, 1945)』、『記憶の代償(Somewhere in the Night, 1946)』、『影なき殺人(Boomerang!, 1947)』、『死の接吻(Kiss of Death, 1948)』など、ロケーション撮影を特徴とした「セミドキュメンタリー」のフィルム・ノワール作品に多く貢献した。

ロバート・バスラーは、パラマウントで編集を担当していたが、フォックスに移籍してからプロデューサーとなった。彼は、ジョン・ブラーム監督、レアード・クリーガー出演の『謎の下宿人(The Lodgeer, 1944)』、『戦慄の調べ(Hanover Square, 1945)』など堅調なミステリーを手がけていた。バスラーはこの後、TVに活躍の舞台を移し、ジュールズ・ダッシン監督の『裸の町(The Naked City, 1947)』に着想を得たTV番組『Naked City』の製作にたずさわる。

PCAと赤狩り

いつもの通り、プロダクション・コード・アドミニストレーション(PCA)はこの映画を承認することは不可能だと通達してくる。1949年2月のことだ。PCAが最も反対したのは、リカの描写である。

リカが売春婦として描かれている限り、現在の形ではこの映画を承認する訳にはいかない。いくつかのシーンを削り、シーンをいくつか追加する必要があるだろう。PCA

プロデューサーのロバート・バスラーはPCAに同意して、リカには占い師という定職があるというシーンを新たに加えた。そして、ニックとリカの会話のシーンをいくつか削除した。PCAは6月に承認するが、公開されたバージョンがこの承認されたものなのかは不明である。AFIカタログも指摘しているとおり、リカは映画全編を通して結局売春婦として描かれていて、最後のバーのシーンでようやく彼女がカード占いをしてみせている様子が映される。これをPCAが認めたかどうかは疑問が残る。

1947年の後半にはハリウッド・テンがHUACの公聴会で吊るし上げられており、いよいよ赤狩りが本格化してきた。ジュールズ・ダッシンは自らもHUACの調査の対象になるのではないかと恐れ始めていた。ダリル・ザナックはブラックリストの運用に対して消極的だったと言われており、ハリウッド・テンの一人であるアルバート・マルツの小説「The Journey of Simon McKeever」をジュールズ・ダッシン監督で映画化する計画を立てた。(ダッシンによれば、この小説を持ち込んだのはダッシン自身だという。)ザナックはニューヨークの取締役たちが了承すれば、ブラックリストに載っている人物でも雇うことができると考えていた。ところが、マルツが記者会見を開いて彼の小説の映画化が進んでいてブラックリストは破られたと時期尚早の暴露をしてしまった。これですっかり計画は反故になってしまった [7]。

結局、ザナックはダッシンに「君にハリウッドでの居場所はなくなった」と告げ、ハリウッドから離れることを勧める。当時、20世紀フォックスはロンドンに撮影スタジオを持っており、ダッシンは『街の野獣(Night and City, 1950)』を撮影するためにロンドンに向かう[8]。こうして国外に移動してHUACの召喚を免れたダッシンは、その後ヨーロッパを転々としながら映画を撮り続けた。

『深夜復讐便』に出演しているリー・J・コッブは、のちにHUACに協力した。ダッシンは、エリア・カザン、クリフォード・オデッツ、そしてコッブとは旧知の仲だったが、この3人がHUACに「友人を売った(naming the names)」ことには落胆し、最後まで許さなかった。

ダッシンが国外へ脱出したのは、『深夜復讐便』が完成する前だったとダッシンは述べている。彼は、後年のインタビューで、渡欧したあと「ザナックがエンディングを変えた」と語っている。カフェでのニックとフィグリアの殴り合いのシーンが挿入され、映画のテーマは「殴り合いで解決できる」ものになってしまったのだ。しかし、アーカイブ資料の調査によれば殴り合いのシーンは初期の脚本からすでに描かれていたという。ピーター・レヴによれば、脚本の変遷から分析して、ザナックが入れたのは、警察がニックを諭すセリフだけのようだ。

おい、君、だからって人を殴ってもいいということにはならないぞ。自らの手で人を裁いてはいけないんだ フィグリアを逮捕する警官

製作費は130万ドルだった。

Reception

公開時は興行的にも堅実な作品として好評だった。

このロバート・バスラー製作の映画は、馴染み深い設定のなかにも緊張感と威力がみなぎっている Motion Picture Daily

ニューヨーク・タイムズのボズリー・クローサーは、このあと、りんごを食べるたびにエドのトラックが崖を転げ落ちていく情景を思い出したのだろうか。

りんごを食べるたびに、詐欺、混乱、破壊、そして酷い死を思い出さずにはいられないだろう。第一級のメロドラマだが、傑作と言うにはいま一歩 ── そう、いま一歩 ── 届かなった。 New York Times

興行収入は150万ドルだった。

映画批評家のトム・アンダーセンは、第二次世界大戦後のハリウッドでの赤狩りと映画製作の歴史を論じた「Red Hollywood(1985)」のなかで、1947年10月のHUACの第1回公聴会から1951年5月の第2回公聴会のあいだに発表された映画群のなかで新しいジャンルが生まれていたと指摘している [9]。ふつうはフィルム・ノワールとして分類されているそれらの作品には、ある共通の特質があり、彼はそれを「フィルム・グリス(film gris, 灰色の映画)」と呼んだ。その共通の特質とは、アメリカン・ドリームへの否定的な態度、資本主義システムへの批判、などが挙げられる。製作に関わっているのは、1930年代から共産党に加わっていたプロデューサー、監督、脚本家たちで、彼ら・彼女らの多くはこのあとブラックリストに載って仕事を干されたり、アメリカを逃れてヨーロッパに機会を求めて移住したりしている。アンダーセンはフィルム・グリスの例として『悪の力(Force of Evil, 1948)』、『夜の人々(They Live by Night, 1948)』、『暴力の街(The Lawless, 1950)』、『その男を逃すな(He Ran All the Way,1951)』などをあげているが、『深夜復讐便』もそのひとつである。

当時赤狩りの対象だった映画人たちが、1980年代以降にインタビューや著作を通して、HUACの公聴会とハリウッドのブラックリストが、いかに彼らの創造的活動を砕いていったかを語るようになった。フィルム・グリスというジャンル分けが正当かどうかはしばしおくとしても、ダッシン自身が『深夜復讐便』をフィルム・ノワールと呼ぶことに異議を申し立てつつ、原作が「プロレタリアート文学」であることを認めている点は、この作品をとらえ直すよい契機だと思われる。

Analysis

アメリカン・ドリームの喪失

ニックが帰郷してくるオープニングのシーンと果樹園でのシーンは、明るい陽光のもと、ドキュメンタリー・スタイルで撮影されている。それとは対照的に、市場へ向かう長い運転のシーンと市場そのものは、バーや安宿、暗い裏道といった、ノワールの厳しく暴力に満ちた世界を背景とした、陰影に満ちた暗黒街の夜を舞台としている。 トム・リオール [10]

『深夜復讐便』のオープニングは、当時のハリウッドの慣例的な映像を意図的に転覆させるために用意された、実に丁寧に演出されたシーンである。明るいカリフォルニアの陽光のもと、陸軍に従軍していたニックが実家に戻ってくる。実家のキッチンでは父親が陽気に歌を歌いながらピクルスを作っている。久しぶりに会う息子に、父も母も満面の笑みを浮かべ、ニックもジョークを飛ばしつつ、再開を喜んでいる。ここには理想的な(移民の)家族像が描かれている。さらにニックの幼馴染のガールフレンド、ポリーも加わり、「Girl Next Door」との幸せな将来が示唆される。ここに登場しているのは1930年代から40年代にかけて、MGMやパラマウントといったハリウッドの大手スタジオが、予算の大小に関わらず描いてきたアメリカの家族の理想的な姿である。明るい陽光が差し込む庭をのぞむキッチンで家族が集まり、お茶を飲み、母親の食事を平らげ、子供が夢を語る。MGMのアンディ・ハーディーをはじめ、数限りないプログラム・ピクチャーで、「平和な家庭」といえばこのように描かれていた。

ここでは、セットや小道具、照明も、構図、編集もそれらのプログラム・ピクチャーが作り続けていたシーンを踏襲している。もともとは飾り気のない単調なデザインの部屋なのだが、チェックのテーブルクロスとレースのカーテンでアクセントを置き、調理台や棚を背景に配置して「母親が作り出す家庭」を演出している。この幸せなキッチンは当時のハリウッド映画のクリシェのひとつである。家族をフレームにおさめるときは「アメリカン・ショット(plan américain)」を基本とし、すべての俳優を膝から上の構図でおさめている。想定線は常に終始一貫して変わらず、会話と切り返しが正確に反復されている。画面は全体的に明るい色調でまとめてあり、照明はフラットにまんべんなく当てられている。

そのシーンが、突如変貌する。きっかけは、ニックが父親へのプレゼントとして取り出したスリッパである。ニックの両親とポリーはそれを見て黙ってしまう。そして、ニックは初めて自分の父親が車椅子で生活していることを知る。父親は自ら車椅子を後ろに引いて、動かなくなった両脚を見せる。観客は、オープニングからずっと、父親の不自然さには気づいている。父親は、息子の帰還を喜んでいるにもかかわらず席を立とうとしない。ここにきて我々はその理由を知ることになる。それまでアメリカン・ショットの構図であったのも、膝から下はあえて映さないという意図があったことが明らかになる。

また、父親が事件を語るところは、フィルム・ノワールの入り口にもなっている。ここで、ニックが身に着けているコートとネクタイが暗色であることの効果が現れる。父親の車椅子のもとに跪いて話を聞くニックを若干俯角気味にカメラがとらえると、いままで明るい色調だったフレームがここで一気に暗色に沈む。

1930年代にハリウッドのメジャースタジオが量産していたアメリカン・ドリームが、1940年代のフィルム・ノワールに飲み込まれていく。

ジュールス・ダッシンは、1941年から1946年までMGMでプログラム・ピクチャーの監督をしていた。例えばダッシンが監督したマーシャ・ハント主演のコメディ『マーサの出来事(The Affiar of Martha, 1942)』には、明るいキッチンと他愛のない会話が頻繁に登場する。ダッシンはこういったプログラム・ピクチャーを作り続けることが苦痛になり、MGMとの契約をなんとかして終わらせようと必死になっていたという。

ヒロシマのあと、ルーズベルトが死んだあと、そして赤狩りが始まったあと、はじめてアメリカン・ドリームの完全な非現実性に目覚めたのです ジョセフ・ロージー [9]

ダッシンがMGMから抜け出そうとしていたのは、このアメリカン・ドリームの喪失とは無関係ではないはずだ。大量生産によるアメリカ的な資本主義が軌道に乗り始めた20世紀前半に、「アメリカン・ドリーム」は、それまでのフロンティア精神から現代的な幸福の追求へと変貌する。ジェームズ・トラスロー・アダムズはその著書「アメリカの叙事詩(1930)」のなかで、現代的なアメリカン・ドリームを定義づけている。

しかし、「アメリカン・ドリーム」というものがあった。すべての人にとって人生がより良く、より豊かで、能力や業績に応じて機会が与えられる、そういった場所の夢だ。ジェームズ・トラスロー・アダムス

ここだけを読むと、財産や名声を得ることがアメリカン・ドリームであり、主に白人男性社会のなかで描かれる夢、という印象を持ってしまうかもしれない。しかし、アダムスはフロンティア開拓の「アメリカン・ドリーム」が、先住民や奴隷の様々な権利や財産の収奪によって達成されたことなどを含め、そのモラルの問題点を指摘している。そして新しい時代のアメリカン・ドリームも物欲と経済的な成功に絡め取られてしまうおそれがある、と警鐘を鳴らしていた。にも関わらず、アダムスが呼び起こした「アメリカン・ドリーム」という言葉は、物質的、俗世的な豊かさに直結しているものだと誰しもが思っていた。そして、農業が背景に後退し、サービス業や製造業が主流になっていく社会では、アメリカン・ドリームの最も重要な要素は「自分が自分のボスであること───自分がビジネスのオーナーであること」だった。ニックの父親はその夢を打ち砕かれ、その喪失の象徴として不自由になってしまった両足がある。このオープニングでは、ハリウッドが隠蔽し続けてきた「悪夢」があばかれている。

1920年代からインディアナ州の小さな町を定点観測してアメリカ社会の変化を分析したロバート・リンドとヘレン・リンドの研究は、恐慌当時のハリウッドが描かなかった、あるいは描いても最後にハッピーエンドで打ち消した、アメリカの民衆の言葉がつづられている。

私の父はいい人間だよ。一生懸命働いて、蓄えられるだけのものを蓄えた。でも、それでどうなったというのさ。「ミドルタウン」の若者

これは父親の脚を見たときのニックの心の声だろう。

恐慌の時代から戦後へ

恐慌の時代が残した傷跡は、エドという男の物語でも語られる。

それはエドが乗るトラックが象徴的に表している。

エドのトラックはMack社のABモデルと同定されているが、これは1914年から生産されていた最も古い型のトラックのひとつである。もし、これに似たトラックをどこかで見たことがあると感じたならば、それはジョン・フォード監督の『怒りの葡萄(Grapes of Wrath, 1940)』でジョード一家が運転していたトラックではないだろうか。こちらは1926年製のハドソン・スーパー・シックス・セダン。どちらも戦前に農家が収穫した農産物を市場まで運び込むために使っていたトラックである。この自動車社会黎明期のあまりにも頼りないトラックは、ダストボウル、大恐慌に翻弄され、そして消えていった民衆そのものだ。考えてみれば、『深夜復讐便』のエドは、『怒りの葡萄』のトム・ジョードの「その後」とは言えないだろうか。エドとトムは、同じニューズボーイ・キャップをかぶり、どこか世間ずれしておらず、だからこそその身の内に焦燥と怒りを抱えている。エドを演じたミラード・ミッチェルは1903年生まれ、トム・ジョードを演じたヘンリー・フォンダは1905年生まれ、と実は同じ世代でさえある。カリフォルニアの果樹園で生きる意志をくじかれそうになったトムは、戦争の時代を経て、エドとなり、今度はその農園主たちからりんごを安く買い叩こうとしているのだ。

しかし、エドは結局この時代遅れのトラックとともに灰となってしまう。

これとは対照的に、ニックが運転するのは、見るからに頑丈そうな軍払い下げのトラック、スチュードベーカーUS6である。スチュードベーカーは軍からの要請を受けて20万台もこのトラックを生産し、そのおよそ半分はレンドリース法に従って、ソ連に譲渡された。しかし、戦争の終結とともに出荷停止、大量の車両が倉庫で滞留してしまった。政府はこの余剰の車両を躊躇なく市場に放出したのである。戦争の影響でトラックが入手困難になって困っていた農業従事者たちがこぞって買い漁ったという。そのため、戦後長くの間アメリカの農場では塗り替えられたスチュードベーカーが活躍していた。この頑丈な車体は、第二次世界大戦という殺戮と破壊の飽和状態を生き延びてきたアメリカ兵───すなわち、ニック───の象徴だ。ニック自身、連合軍が苦戦の末にローマを解放に導いたアンツイオの戦いに従軍していた。そこを生き延びた男は、トラックに押しつぶされそうになっても、悪どいフィグリアの餌食になろうとも、再び生き延びて最後は自らの手でフィグリアに鉄槌を下す。『深夜復讐便』のラストシーンは、数多の西部劇やアクション映画で繰り返された「酒場での決闘」を非常に引き締まった演出で見せている。

この映画はハリウッドのクリシェで始まり、ハリウッドのクリシェで終わる。1930年代のハリウッドが夢想した平和で夢に満ちたキッチンのシーンに、戦争から戻ってきた1948年の男が迷い込み、その平和で夢に満ちた構図には映っていない、醜悪なものがあったことを思い知らされる。彼は恐慌の時代に行き場を失った男と知り合い、もう一度アメリカン・ドリームを追いかけようとする。しかし、夢は破れ、男は相棒を失う。堪忍袋の緒が切れた主人公は、映画の世界にいつも君臨している悪者を昔ながらの酒場で殴り倒す。30年代の映画に登場するようなきれいな英語を話す「隣の幼馴染の女の子」は実は愛情よりも世間体が大事な退屈な女で、ニックが選ぶのは、強い訛りで話すけれど愛情深い「夜の女」だった。

主流に安住する者たちと周縁に住む者たちの物語

この映画にも出演しているリー・J・コッブが主人公ウィリーを演じた「セールスマンの死(1949)」は、多くの一般人にとってアメリカン・ドリームは無惨な皮肉でしかないことを容赦ない心理描写で暴いた作品だ。この戯曲は、セールスマンという、最も独立精神から遠い職業にうんざりしているウィリーが、精神的に崩壊していくさまを描いている。しかし、アーサー・ミラーのこの視線は、少なくともハリウッドのプロデューサーたちには辛辣すぎた。1951年にコロンビア・ピクチャーズがこの作品を映画化した際、現代人の凡庸さ(そしてそれを作り出すアメリカの企業社会)への容赦ない攻撃を和らげるために『セールスマンのキャリア(Carrier of a Salesman)』という短編映画を製作している。この10分ほどの短編の中で、スタンリー・クレーマーは、「セールスマンの死」に登場するウィリーは絶滅寸前のセールスマンであり、若い人たちは「新しいタイプの」セールスマンになるように教育されている、と言わされている。コロンビアはこの短編を『セールスマンの死』と併映するつもりだった。しかし、アーサー・ミラーが激怒し、この短編はそのままお蔵入りしてしまった [10]。ミラーが暴き出そうとしていたのは、セールスマンのセールス・テクニックなどではなく、消費者でありつつもアメリカン・ドリームを追いかける、混乱して矛盾に耐えられなくなった精神の話である。「アメリカの叙事詩」のなかで、アダムスは、20世紀のアメリカが「従業員」の国へ変貌しつつあるという興味深い指摘をしている。雇われた身で、いかに個人としての高潔さを失わないでいられるのだろうか。

今日、企業の社員や役員として「安楽な暮らし」を送っている大部分の者が、現在の経済システムの完成度について、口を揃えて穏便なことしか言わないが、その状況はますます目を覆うばかりになっている。それは、自分がいつクビになってもおかしくないという状況と無関係ではない。ジェームズ・トラスロー・アダムス

一方で、『深夜復讐便』で我々が遭遇するのは、まだ訛りの抜けない移民の家族が夢見る、「自分が自分のボス」という典型的なアメリカン・ドリームが打ち砕かれるさまである。ここで登場するトラック運転手たちは、アーサー・ミラーの描いたセールスマン、ウィリーのように企業というシステムに込みこまれていない。だが、そういった者たちはどこから来たのだろうか。

B.賃金
北部の運転手及び熟練労働者については、(a) 人口200万人以上の都市及びその周辺商業地域においては時給55セント以上、(b) 人口20万人~200万人の都市及びその周辺商業地域においては時給45セント以上、(c) 人口1万5千人~20万人の都市及びその周辺商業地域においては時給40セント以上、(d) 人口1万5千人以下の地域では時給37.5セント以上、が支払われるものとする。1934年ルーズベルト大統領によって承認された運輸業界の公正競争規約

大恐慌のさなか、産業と労働市場の活性化はアメリカ政府にとって急務となった。ニューディール政策のひとつに、政府主導で各産業分野ごとに公正競争規約を策定して運営するというものがあった。これは競争規約に労働条件を盛り込んで企業に遵守させるのが目的だったが、一部の企業による市場独占を黙認するという側面もあった。トラック業界も例外ではない。しかし、この規約に署名した30万社の運送会社のうち、少なくとも7万5千社はその規約を守らなかったという。つまり、この規約は企業による市場独占の道具として有効に機能したものの、労働者の労働条件については劣悪なまま、というケースも少なからずあったのである。

さらにこの規約には例外事項があった。この規約は青果を市場に運ぶ農家には適用されないのである。これが、「ジプシー」運転手───企業に雇われていないフリーのトラック運転手───たちが生計をたてる隙間を作ったようだ。『深夜復讐便』で描かれているのは、このジプシー運転手たちである。

1930年代から40年代のトラック運転手たちをとらえた一連の写真がある。彼らが運転しているトラックもいっしょにフレームにおさまっているが、『深夜復讐便』でエドが修理をしながら乗りこなしていたような壊れそうな骨董品のトラックから、流線型のボディーに運送会社のロゴの入った現代的なものまである。

トラック運転手たちの多くはそれぞれ好き勝手な身なりをしているが、なかに制服を着ている者たちがいる。彼らは運送会社に雇われているトラック運転手たちだ。帽子をかぶり、清潔な作業服を身につけたトラック運転手たちは、夜のハイウェイを爆走する気ままなドライバーではなく、おとなしく会社の方針に従って黙って働き給料をもらう「従業員」になっている。アダムスが指摘した「従業員の国」への変貌の一端がここに見て取れる。『怒りの葡萄』でも制服を着た「従業員」が登場する。ジョード一家がカリフォルニアに向けて砂漠を横断するときに立ち寄るガソリンスタンドの二人の「従業員」。揃いの白い帽子に白いシャツに蝶ネクタイ。彼らはジョード一家のトラックを見送りながら「あれは、人間じゃないな。人間だったらあんな悲惨さには耐えられないからね。」と言い放つ。

『深夜復讐便』には制服を着た企業の従業員は登場しない。運転手たちはもちろん、フィグリアとその一味も自営業の男たちだ。前述したようにこの青果を運ぶトラック運転手たちは、運輸業界の活性化というニュー・ディール政策の隙間から生えだした雑草のような存在だ。「従業員の国」が「システム」から排除し異端視した存在だ。

さらにこの作品では、「システム」が排除するもう一つの集団が描かれている。訛った英語を話す者たち、興奮すると自分の故郷の国の言葉を話し始める者たち───そう、移民だ。青果市場では、男たちがフィグリアの名前を聞いただけで興奮してイタリア語で罵り始める。リカもイタリア訛りだ。リカの対局にいるのがポリー、訛りのない英語を話し、20世紀後半のアメリカを支配する中流階級のモラル(そんなものがあれば、だが)に支配された女性である。私達は「移民」が「アメリカ人」になっていくさまを見る。強い外国語アクセントを話すニックの両親と(なぜかイタリア系)アメリカ人のアクセントで話す息子のニック。外国のアクセントが国内のアクセントに昇華されていく。移民の存在を、強い外国語訛りで表現するのは、ベゼリデスの脚本の特徴かもしれない。ベゼリデスが作り出したキャラクターのなかでもっとも印象的な、あのギリシャ人を思い出してほしい。『キッスで殺せ』のニック・ヴァ・ヴァ・ヴゥーンはひどい訛りでまくし立てていたが、そういえばこのニックも車の下敷きになっていた。

ジュールス・ダッシンも、A・I・ベゼリデスも、社会の中心、居心地の良い中流階級、教育を受けて訛りのない英語を話す者たちから遠く離れた、周縁の者たちを描くことを得意としている。誰かに雇われて仮死状態に陥っている人間ではない。制服を着て貧乏人を見下す人間たちではない。生き残ることがひどく難しい状況に放り込まれた人間たちだ。いじめを受け続ける囚人たち、ロンドンの街を這いずり回るチンピラ、格好ばかりで頭の回転の鈍い私立探偵、すぐに暴力を振るう警官、雪深い村に住む盲目の女。こういった周縁の人間が、アメリカン・ドリームの最後の砦だったのかもしれない。ニックが迷い込んでしまったのは、その砦さえも破壊されてしまったアメリカン・ナイトメアの世界だった。

ナイトメア・マーケット

ニックが運転するスチュードベーカーが到着するのは、電球や蛍光灯やネオンに彩られ、裏切りや脅しや暴力が充満している夜の青果市場である。ニックと同じようなトラック運転手が持ち込んだカブやキャベツやトウモロコシの木箱が舗道を埋め尽くし、野菜を洗う男や気のいいパトロール警官や買値を値切る女であふれかえっている。到着したとき、ニックは長時間の運転で疲弊しきっており睡魔と戦っている。この場所を初めて訪れる人間は、覚醒した状態で臨んではいけないのだ。この場所は、悪夢が支配する空間だからだ。

ジュールズ・ダッシンと撮影監督のノーバート・ブローディンは、夜の市場を描く際にドラマチックな陰影をつけることなく、ひたすら光源のありかが自然に見えるように工夫している。そのアプローチがもたらす演劇的効果は実に多彩で、かつ巧みだ。全体的に照明は後方側面からのキーライトが強く、顔は影に沈みがちだが、決して暗くなりすぎず、顔の彫りが浮かび上がるように組まれている。主人公のニックには適度な光量が当てられ、どんな場面でも顔の特徴がわかりやすい。ところが、フィグリアには強いキーライトがあてられ、顔の陰影のコントラストが強調される。要所で前景と後景のあいだでニックとフィグリアを配し、それぞれの思惑が浮き彫りになるような構図にしている。市場の背景は、トラックや荷車を押す男たちを常に動かして流動的なタブローを作り出している。

前述したように、この市場のシーンは、サンフランシスコの青果市場でロケーション撮影が行われている。『死の接吻(Kiss of Death, 1947)』の分析でも述べたが、1947年を境にロケーション撮影がハリウッド映画の一技法として確立されていく。ジュールズ・ダッシンは『裸の町(The Naked City, 1948)』でニューヨークのロケーション撮影を敢行し、都市のリアルなポートレートを撮ることのできる監督として注目されていた。『裸の町』はプロデューサーのマーク・ヘリンジャーのもとRKOに配給された作品だったが、『深夜復讐便』はダリル・ザナックのもとで二十世紀フォックスが製作・配給となる。そして、当時の二十世紀フォックスはロケーション撮影を主体としたスタイルをセールスポイントのひとつとしていた。

ロケ撮影の技法が重要な役割を果たした初期の二十世紀フォックス作品、『Gメン対間諜(The House on 92nd Street, 1945)』や『影なき殺人(Boomerang!, 1947)』ではルイ・ド・ロシュモン(1899 – 1978)がプロデューサーになっている。当時、このスタジオは、この二作品のように実話に題材をとり、実際に事件が起きた場所でロケーション撮影をするスタイル ───現在「セミドキュメンタリー的手法」と呼ばれているスタイルである─── を取り入れた先駆けであると自負していた。

こんな物語を果たして作家が書けるだろうか ─
─ 実際に起きたとおりのことを
─ 実際に起きたとおりに撮影した映画だ!
二十世紀フォックス、『Gメン対間諜』や『鮮血の情報』で話題になったテクニックを遂に『影なき殺人』で完成!Motion Picture Dailyに掲載された『影なき殺人』の広告

ド・ロシュモンがハリウッド映画におけるリアリズム的手法に与えた影響はもっと認知されてもよいだろう。ド・ロシュモンはユグノー教徒を先祖に持ち、19世紀はじめにニューイングランドに定住した一族の血を引く。マサチューセッツの小さな町で育ったが、少年時代から映画、特にニュース映画のドキュメンタリー的手法がもつ魔力に取り憑かれていた。ティーンエイージャーの頃に近所の人々の暮らしの様子をフィルムに撮影し、『他人が見る自分(See Yourself As Others See You)』というタイトルで町の映画館に売っていたという [21]。そのなかには今で言う「再現フィルム」のように起きた事件の様子を、関係者にカメラの前で演技させたものもあった。ハリウッドに移った彼は、1936~43年のあいだタイムズ社のラジオ番組から派生した『ザ・マーチ・オブ・タイム(The March of Time, 1935 – 1951)』のプロデューサーをつとめている。この『ザ・マーチ・オブ・タイム』はニュース映画ではなく、ジャーナリスティックな「作品」と考えられている。すなわち、「視点」があり、その視点をもとに時事問題や世界情勢が物語られる。役者による再現もいとわなかった。

アメリカの映画館の観客に、ドキュメンタリーの形式を紹介し、地位を確立して成功したのは、『マーチ・オブ・タイム』に他ならない。これは、ピーター・ローレンツ、ヨリス・イヴェンス、ウィラード・ヴァン・ダイク、それにハーバート・クラインと言った人たちが登場する前のことである。レイモンド・フィールディング

ド・ロシュモンが二十世紀フォックスに移ったとき、彼は『マーチ・オブ・タイム』の様々な手法を持ち込んだ。威厳と大袈裟の入り混じったボイスオーバー・ナレーション、事件や背景の綿密な調査、現地でのロケーション撮影、そして捜査や調査に関わった政府当局に協力を取り付けること、などである 。『Gメン対間諜』では、FBI、特にフーバー長官の全面的なバックアップを得て、戦時中に起きたスパイ事件を描いている。こういったアプローチは、スタジオ内部ですぐに広まり、ダリル・ザナックは『死の接吻』、『鮮血の情報』、『情無用の街(The Street With No Name, 1948)』などの作品を立て続けに製作させている。当初は実際の事件に基づいた作品が多かったが、そのうちにフィクションの要素が強くなっていき、『深夜復讐便』にいたっては、原作者の経験に基づいているものの、完全なフィクションである。『影なき殺人』の広告で謳われていた「テクニック」は、咀嚼され、消化され、エンターテイメントの一手法として確立されたのである。
こういった、いわゆるセミドキュメンタリー・スタイルが、フィルム・ノワールの「定義」と相容れないという議論もあるが、それはあまりに大雑把な捉え方だ。個々の作品がいかに「テクニック」をサブテクストに埋め込んで、それによってどのような効果を引き出しているかが議論の焦点となるべきだ。『深夜復讐便』では、ニックの見る悪夢と、エドの儚い夢が描き出される背景として、ロケーション撮影が実に効果的に利用されている。夜の青果市場の風景は、その猥雑な活気のせいで、ニックの判断力はどんどん鈍り、フィグリアの歪んだ暗黒世界に引きずり込まれていく。ニックが暴漢に襲われるのは、貨物列車の引き込み車線だ。青果を運搬する正規のルートは鉄道である。鈍く光る鉄道の軌道は、ジプシー運転手が悪の力に対する敗北を喫する場所としてこれ以上適切な場所はないだろう。フィグリアのオフィスは明るい蛍光灯で照らされていて、すべての表面を無機質にする。この不自然な光量が、フィグリアの奸計を覆い隠してしまう。一方、昼間の市場の風景は、一転して静謐で穏やかである。男たちがのんびりとスイカを頬張っている横で、ニックが夜の闇に植え付けられた怒りをぶちまける。
エドの最期は、ナパヴァレーで撮影された。急なカーブで飛び散るリンゴの箱。緩やかな斜面を転がり落ちていく大量のリンゴ。この乱雑さと切迫感はロケーション撮影だからこそ生まれた。
『深夜復讐便』は、「トラック運転手と悪徳ビジネスマンのフィルム・ノワール」として見て終わりにしてしまうには、もったいない作品だ。「ギグ・エコノミー」が行き詰まり始めている今現在だからこそ、この作品の持つポテンシャルが再評価されても良いと思う。

Links

ジェシー・シュロッターベックは『深夜復讐便』をフランク・ボザージ監督の『ムーンライズ』やニコラス・レイ監督の『夜の人々』とともに「非都市部のノワール」として論じている。

現在、フィルム・ノワール紹介でもっとも人気のあるエディ・ミューラーはインタビューで、『深夜復讐便』が最初に衝撃を受けたフィルム・ノワールであると語っている。

A・I・ベゼリデスの伝記ドキュメンタリー「The Long Haul of A. I. Bezzerides (d. Fay Efrosini Lellios, 2005)」はここで見ることができる。

Data

二十世紀フォックス 配給 9/20/1949公開
B&W 1.37:1
93 min.

製作総指揮ダリル・F・ザナック
Darryl F. Zanuck
出演リチャード・コンテ
Richard Conte
製作ロバート・バスラー
Robert Bassler
ヴァレンティナ・コルティーズ
Valentina Cortese
監督ジュールズ・ダッシン
Jules Dassin
リー・J・コッブ
Lee J. Cobb
脚本・原作A・I・ベゼリデス
A. I. Bezzerides
バーバラ・ローレンス
Barbara Lawrence
撮影ノーバート・ブロディン
Norbert Brodine
ジャック・オーキー
Jack Oakie
音楽アルフレッド・ニューマン
Alfred Newman
ミラード・ミッチェル
Millard Mitchell
編集ニック・ディマジオ
Nick DeMaggio
ジョセフ・ペブニー
Joseph Pevney

Reference

[1]    A. I. Bezzerides, “Foreword,” in Thieves’ Market, University of California Press, 1997.
[2]    W. Haut and E. Muller, Heartbreak and Vine: The Fate of Hardboiled Writers in Hollywood. BookBaby, 2014.
[3]    L. Server, Screenwriter : words become pictures. Pittstown, N.J. : Main Street Press, 1987.
[4]    “AFI|Catalog – Thieves’ Highway.” [Online]. Available: http://catalog.afi.com/Catalog/MovieDetails/26147.
[5]    F. Gamwell, “The Van Dekker House.” [Online]. Available: http://vandekkerhouse.com/home.html.
[6]    D. Dewey, Lee J. Cobb: Characters of an Actor. Rowman & Littlefield, 2014.
[7]    P. Shelley, Jules Dassin: The Life and Films. Jefferson, N.C: McFarland Publishing, 2011.
[8]    J. Klinowski, J. K. & A. Garbicz, and A. Garbicz, Feature Cinema in the 20th Century: Volume One: 1913-1950: a Comprehensive Guide. Planet RGB Limited, 2012.
[9]    J. Dassin, “Jules Dassin at LACMA (Interview),” 2004.
[10]    A. Silver and J. Ursini, Film Noir: The Directors. Milwaukee, WI: Limelight Editions, 2012.
[11]    P. Lev, Twentieth Century-Fox: The Zanuck-Skouras Years, 1935–1965. University of Texas Press, 2013.
[12]    T. Andersen, “Red Hollywwod,” in Un-american Hollywood: Politics and Film in the Blacklist Era, None版., F. Krutnik, S. Neale, B. Neve, and P. Stanfield, Eds. New Brunswick, N.J: Rutgers Univ Pr, 2008.
[13]    J T Adams, The Epic Of America. .
[14]    Helen Merrell Lynd, Middletown In Transition A Study In Cultural Conflicts. 1937.
[15]    “IMCDb.org: ‘Thieves’’ Highway, 1949″: cars, bikes, trucks and other vehicles.’” [Online]. Available: https://www.imcdb.org/m41958.html.
[16]    C. G. Ballard, “History Lesson on a Studebaker Truck Dashboard – Equipment,” Farm Collector. [Online]. Available: https://www.farmcollector.com/equipment/studebaker-trucks-zmcz15aprzhur.
[17]    “Studebaker Drivers Club.” [Online]. Available: http://www.studebakerdriversclub.com/studebakertruckhistory.asp.
[18]    United States.: National Recovery Administration, Code of fair competition for the trucking industry as approved on February 10, 1934 by President Roosevelt. Washington, D.C. : United States Government Printing Office, 1934.
[19]    S. Hamilton, Trucking Country: The Road to America’s Wal-Mart Economy. Princeton University Press, 2008.
[20]    “Photos of American truck drivers from the 1930’s and 1940’s,” The Vintage News, 25-Mar-2016. .[21]    C. Delage, Caught on Camera: Film in the Courtroom from the Nuremberg Trials to the Trials of the Khmer Rouge. University of Pennsylvania Press, 2014.