FILM

The Big Combo (1955)

ビッグ・コンボ (暴力団)
The Big Combo

アライド・アーチスツ配給
1955年

この男が、この女性の下半身の方へ消えていく場面、
こんな下品なものを、アメリカの観客に見せるわけにはいかない。
― ジーン・ウォーレスとリチャード・コンテのシーンを見たPCAのメンバーの発言

それは、あなたの想像力が下品なんでしょう?
実際、彼はどこに行ったんですか?
水を飲みに行ったのかもしれないじゃないですか。
― ジョセフ・H・ルイスの返答

Synopsis

組織犯罪担当の刑事、レオナルド・ダイアモンド(コーネル・ワイルド)は、ギャングのボス、ミスター・ブラウン(リチャード・コンテ)の捜査に手を焼いていた。ブラウンは全く尻尾を出さず、ダイヤモンドの短絡的な捜査をあざ笑っていた。さらにダイヤモンドはブラウンの情婦、スーザン(ジーン・ウォーレス)に密かに思いを寄せるようになる。日に日にスーザンは精神的に不安定になっていき、遂に自殺を図ってしまう。一命をとりとめたスーザンは、聞き込みに来たダイアモンド刑事に、ある女性の名前を告げる。それは、ブラウンが隠している過去への入り口だった。

Quotes

First is first, second is nobody.
一番は一番だ。二番になっても何の意味はない。
― ミスター・ブラウン(リチャード・コンテ)

 

Production

製作者たち

この作品は、フィリップ・ヨーダンの短編が元になっていると言われている。しかし、フィリップ・ヨーダンという人物を考えると、この話はかなり眉に唾をつけながら聞かなければならない。

ヨーダンは、1930年代に「Anna Lucasta」の脚本でブロードウェイで注目を集めたが、まず、この脚本自体がユージン・オニールの「アナ・クリスティ」の焼き直しだったと言われている。その後、ハリウッドに移って、そこで数々の脚本に関わるが、スクリプト・ドクターと呼ばれる「脚本の救済係」という役割が多かったようだ。製作の最終段階になって呼ばれて、脚本の修正やオチの落とし方の相談を受けるのである。その特異な才能を買われて各スタジオから重宝され、彼の仕事は「ヨーダン・タッチ」とさえ呼ばれた(らしい)。彼自身には、オリジナルの脚本を書きあげる能力はなく、「脚本を話す(売り込む)」能力に長けていて、実際の執筆作業は安く雇った無名の作家や脚本家達にやらせていた。こういった風習は、当時のハリウッドでは特に奇異なことはなく、あのベン・ヘクトでさえもそういった無名の部下を何人も抱えていて、彼らに「ヘクト風」の脚本を書かせていた。

だが、ヨーダンは1950年代に「フロント」として重要な役割を果たすようになる。フロントとは、HUACによって名指しされたり、「レッド・チャンネルズ」のような文書にリストされて、ブラックリスト入りした脚本家の渉外担当役となる人物のことである。脚本家は、映画製作の現場に顔をだす必要が特にないため、このフロントを介した仕事が可能だったのだ。ただし、ブラックリストに入っている名前はクレジットされない。フィリップ・ヨーダンは、ダルトン・トランボやベン・バルツマンと言った優秀な脚本家の書いた脚本をスタジオに「自分のものとして」持ち込んで、映画化に参加し、もらった脚本料の一部を実際の脚本家に戻す、ということをしていた。そして、公式には、例えばフロントのヨーダンがクレジットされ、バルツマンはクレジットされない。ヨーダンは、多くのブラックリストされた脚本家達をこのようにして経済的な危機からは救いつつ、一方でその功績を奪い、相当な数の「本当の脚本家」の名前を闇に葬った。ゆえに、この作品もヨーダンの短編とはいうものの、その信憑性は疑ってかかるしかない。

『ビッグ・コンボ』の製作はテオドーラ・プロダクションズとセキュリティ・ピクチャーズである。テオドーラ・プロダクションズは、主演のコーネル・ワイルドとジーン・ウォーレス夫妻の製作会社、セキュリティ・ピクチャーズは、フィリップ・ヨーダンの製作会社であり、この作品が主演の二人とストーリーを持ち込んだ人間によって製作されたものであることが分かる。このように映画スターが自ら製作の中心になる作品は、1950年代以降に数多く現れている。こういった作品は、配給がボトルネックになることが多く、それにともなって製作費もネーム・バリューの割には控えめになってしまう。『ビッグ・コンボ』も当初はカラーで撮影する予定だったが、予算の関係で白黒撮影になった。

監督とカメラマン

『ビッグ・コンボ』が、特に注目されるのは、フィルム・ノワールで最も重要な監督と撮影監督が組んだ作品だという点だ。監督のジョセフ・H・ルイスはフィルム・ノワールを語る上では、欠かせない人物である。1940年代にPRCで低予算の作品を量産していたが、『私の名前はジュリア・ロス(My Name is Julia Ross, 1945)』で好評価を得た後、独立系の製作会社や低予算の製作ユニットで佳作を撮り続けた。『拳銃魔(Gun Crazy, 1949)』は彼のフィルモグラフィーのなかでも傑出した作品である。この『ビッグ・コンボ』は彼の最後のフィルム・ノワールであり、白黒映画でもある。この後はカラーの西部劇映画とTVの西部劇番組を担当した。

ジョン・オルトンは『T-メン(T-Men, 1947)』、『夜歩く男(He Walked by Night, 1948)』などの作品でも有名なフィルム・ノワールのビジュアルを体現する撮影監督である。そして、この作品のラストシーンは、フィルム・ノワールの情景を最もよく具現化したイメージとして、書籍の表紙やネットのバナーなどで繰り返し使われてきた。しかし、当時のハリウッドの業界では、ジョン・オルトンは「厄介者」扱いされていたのである。1940年代後半にイーグル・ライオンでアンソニー・マンと数々の秀作を世に送り出していたが、そこに目をつけたMGMがマンとオルトンをセットで引き抜いた。実はオルトンは過去にMGMにいたこともあるのだが、どうもメジャー・スタジオの環境には合わないようだった。『巴里のアメリカ人(An American in Paris, 1950)』の撮影中、ヴィンセント・ミネリは撮影監督のアルフレッド・ギルクスの仕事に不満を抱き、『可愛い配当(Father’s Little Dividend, 1951)』で一緒に仕事をしたジョン・オルトンを連れてきた。そこで、バレエのシークエンスをオルトンが撮影するのだが、現場で問題が起きてしまう。オルトンは照明を最小限にしてしまい、照明用の足場も要らない、と言い出したのだ。

60あった照明のうち、オルトンは3つか4つしか使わなかった。これは随分と労働力を減らすことになった。よく、彼の上に照明が落ちなかったもんだ。 キーオ・グリーソン(『巴里のアメリカ人』の美術担当)

そういった彼の態度が嫌われて、オルトンは、周囲から「気難しい男」、「協調性のない変人」とレッテルが貼られてしまった。1953年までにはMGMでの仕事から離れて、独立系の製作を転々としている。だから、この作品の製作当時、彼は決して「名撮影監督」として呼ばれたわけではなく、「低予算で手早く見た目のいい絵を撮る」撮影監督として雇われたと考えるのが妥当だろう。

 

俳優たち、そして検閲

当初、ギャングのボス、ミスター・ブラウン役はジャック・パランスが予定されていた。しかし、撮影が始まる頃には、パランスの不遜な態度がスタッフ達の不興を買い、現場の空気は最悪になっていた。撮影開始前日、パランスは役を降ろされ、代わりに、ルイス監督のテニス仲間だったリチャード・コンテが浮かび上がる。ちょうどテニスをしていたコンテのところに台本が届けられ、そのまま彼がミスター・ブラウン役を引き受けることになった。

出演俳優がプロデューサーも兼ねる、というのは、この時代のハリウッドでは頻繁に行われていたが、トラブルも起きやすい。ここでも、コーネル・ワイルドが妻と一緒に出演しつつ、プロデューサーも兼ねていたことが現場でトラブルになった。有名なコンテとジーン・ウォーレスのシーン、コンテがウォーレスを愛撫しているうちに、ウォーレスの恍惚とした表情がクローズアップされるシーンである。

監督のルイスは、妻にそのようなシーンを演じさせることにワイルドは強く反対するだろうと最初から予想していた。そのため、ルイスは、ワイルドに用事を作って撮影現場に立ち寄れないようにし、このシーンを撮影したという。後になって撮影されたものを見たワイルドは激怒した。

俺の妻にあんなことをさせるなんてどういうつもりだ? コーネル・ワイルド

そして、このシーンはプロダクション・コードを運用しているPCA(ブリーン・オフィス)でも問題になった。ブリーン・オフィスのメンバーの一人は、ルイス監督に向かって「この男が、この女性の下半身の方へ消えていく場面、こんな下品なものを、アメリカの観客に見せるわけにはいかない」と言ったという。ルイス監督は「それは、あなたの想像力が下品なんでしょう?」と言い放ち、結局このシーンは公開バージョンにも含まれている。

その他にもブリーン・オフィスは、数多くの暴力シーンに難癖をつけたようである。特に、ミスター・ブラウン一味による、ダイアモンド刑事の拷問のシーンは物議をかもした。ここで、ミスター・ブラウンは、暴力の痕跡を残さないようにしつつ、巧妙な手口でダイアモンド刑事を痛めつける。補聴器をダイアモンド刑事につけ、補聴器に向かって大声で叫んだり、大音量のラジオを聞かせたりするのだ。さらに、泥酔させるためにヘアトニックを無理やり飲ませる。この奇怪なサディズムの描写は、当時のハリウッドの規範からはかなり逸脱していた。これらのシーンも問題にされたものの、削除されずに公開バージョンに含まれている。

脇役たち

ミスター・ブラウンの部下たちは、実に多彩なキャラクターが集まっている。(おそらくゲイの)殺し屋カップル、ファンテとミンゴは、それぞれリー・ヴァン・クリーフとアール・ホリマンが演じている。クリーフの始祖鳥のような顔は、オルトンの照明に見事に照らし出され、ホリマンの時折見せる少年のような無邪気と無垢は、この二人の救いのない未来をより切ないものにする。こういった役柄を演じることにかけては比肩するものがない脇役俳優たちだ。そして、いつも補聴器をつけているマクルーアは、ブライアン・ドンレヴィが演じている。彼も数多くの低予算ノワールに出演しているが、この役どころは絶妙だ。彼の押しの強そうな躯体が、ミスター・ブラウンのサディズムに敗北していく、その無様さによって、このギャングの力関係の源泉が見て取れるのである。この作品で、ドンレヴィはどこか間の抜けた話し方をしている。マクルーアの知恵の無さをよく表しているのが、ダイアモンド刑事を拷問するシーンだ。最初に彼が平手で刑事を打ちながら聞く質問が「どうして、おれを逮捕したんだ」。このあまりにも情けない二流のギャングの、気の抜けたような知恵のない話し方と、ドンレヴィ自身の身なりや型位とのギャップが、マクルーアという行き場のない男を、視覚的に、かつ音声的に的確に表現している。

ミスター・ブラウンの過去を知る、スェーデン人を演じたのは、生粋のアメリカ人、ジョン・ホイト、同じく、ミスター・ブラウンの過去を知っているがために隠遁生活を送る、ベッティーニを『裸の町(The Naked City, 1947)』で追われる犯人を演じたテッド・デ・コルシアが演じている。

音楽家たち

この作品は、フィルム・ノワールの映像の視点から議論されることが多いが、音楽の面からも貴重なメンバーが集っている。スコアを担当したのは、『ローラ殺人事件(Laura, 1944)』でも音楽を担当したデヴィッド・ラクシン。オープニングの「場末の」ジャズを彷彿とさせる曲は、見事にこの映画の背景を描ききっている。ちなみにこの曲は一度も独立した楽曲として録音されたことはなく、「作り捨て」の曲として作曲したとラクシン自身が語っていたという。

映画の中盤、ピアノコンサートでピアノ・ソロを聞かせるのはポーランド生まれのヤコブ・キンペルである。音楽一家に生まれたキンペルは、弟のバイオリニストのブロニスワフと共に、名演奏家として戦前のヨーロッパでは注目される存在だった。1937年にアメリカに移住、ハリウッドで映画 音楽の仕事を数多く引き受ける。『ガス燈(Gaslight, 1944)』や『皇帝円舞曲(The Emperor Waltz, 1948)』などの長編映画や、バッグス・バニーがピアノを披露する『ラビット狂騒曲(Rhapsody Rabbit, 1946)』などのアニメーション音楽も担当した。

前述の拷問のシーンで使用されたのは、当時ロサンジェルスで人気があったジャズ・バンド、ショーティ・ロジャーズ&ヒズ・ジャイアンツの演奏で、ドラムはシェリー・マン。この曲もレコードとしてリリースされたことはないようだ。ラクシンが「The Most Goes West」というタイトルで呼んでいたという話がある。

製作費はわずか$500,000、公開前のプロモーションは、TV、ラジオを使って最大限の露出が試みられた。

Reception

この作品は、低予算映画として市場に現れ、そして消えていくという、当時の独立系製作会社の作品に典型的な末路をたどる。

業界紙の一部では、好評価ではあったが、あくまでプログラム・ピクチャーとしての評価であって、決してそれ以上のものではない。

フィリップ・ヨーダンの脚本は、ギャングスタイズムと驚きと危ない会話に満ちており、この作品のテーマそれ自体は大衆向けには違いないが、大人向けの作品に仕上がっている。 Motion Picture Daily

ニューヨーク・タイムズは、いつものように低予算の犯罪映画には厳しい。

スロットル全開で乱痴気騒ぎを一本調子に見せるという愚行については、フィリップ・ヨーダンと監督のジョセフ・ルイスの両方に責任があるだろう。 New York Times

実際の興行の反応は、決して芳しいものではなかったようだ。Motion Picture Heraldの興行レーティング「Film Buyer Rating」(映画配給のバイヤーによる観客の反応レーティング)で、『ビッグ・コンボ』は21件の回答中、「平均」が1件、「平均以下」が5件、「悪い」が15件と散々な結果に終わっている。同じ時の『キッスで殺せ(Kiss Me Deadly, 1955)』が全9件の回答中、「平均」1件、「平均以下」1件、「悪い」7件、という、これまた悲惨な結果で、1955年を代表するフィルム・ノワールの2作品の興行時の惨敗ぶりがうかがえよう。ちなみにこの時の最高評価作品はビング・クロスビー主演、マイケル・カーチス監督の『ホワイト・クリスマス(White Christmas, 1955)』で、全119件回答中、なんと48件が「好評」、41件が「平均以上」である。当時の大衆娯楽の方向性や嗜好が見事に象徴されているのだろう。

1970年代のフィルム・ノワール再評価の波のなかで、『ビッグ・コンボ』は再発見されていく。レイモンド・ダーグナットの論文”Paint It Black: The Family Tree of Film Noir (1970)”では、ギャング映画が1950年代に再興した際に現れた一群の映画のなかの一本として取り上げられ、ポール・シュレーダーの”Notes on Film Noir (1972)”で、ジョン・オルトンの卓越した技術の例として挙げられている。ジョセフ・H・ルイスの「作家」としての見直しの過程で、『拳銃魔』とともに彼のフィルモグラフィのなかで最も重要な作品として位置づけられるようになった。もちろん、手放しで絶賛する批評ばかりではない。ジェームズ・ナレモアは、同年に公開されたスタンリー・キューブリック監督の『非情の罠(Killer’s Kiss, 1955)』に比べてみれば、『ビッグ・コンボ』は過去の遺物であって、「公開時でさえ古臭く見えた」とニューヨーク・タイムズの評をなぞったような批判を行なっている。また、低予算フィルム・ノワールの製作形態とその後のエクスプロイテーション・フィルムの相関関係を分析するうえで、この作品は重要な位置を占めている。クリス・ヒューゴは、当時の映画製作の環境を視野に入れて、なぜアライド・アーチスツが、同じような製作環境にあり、ロジャー・コーマンらが活躍していたAIPとは違った戦略を採用したか、そしてそれが『ビッグ・コンボ』にいかに現出しているかを論じている。

前述したように、この映画のラストシーンの霧に覆われたジーン・ウォーレスとコーネル・ワイドのシルエットは、フィルム・ノワールの最もアイコニックなイメージとして多くのファンに愛されている。しかし、この作品がそのような象徴的な役割を担うようになったのは、比較的最近のことなのである。

Analysis

交わらない視線の構図

この作品の見どころは数多くあるが、興味深い点のひとつに「視線が交わらない会話」がある。ひとつひとつのシーンには、会話をリードする人物がいるが、話し手と聞き手との視線が交わることがないのだ。話し手はまっすぐカメラの方に向き滔々と喋っているが、聞き手はその後ろに立って、話し手の肩越しに映し出される。

特にミスター・ブラウンを中心に考えた時、この構図は重要な意味を持つ。彼が視線を向ける相手、そして視線が交錯する相手は、いずれ彼が「捨てる」相手である。ボクサーのジョー、マクルーア、ファンテとミンゴ、いずれも彼と眼を合わせて会話をするが、最後はブラウンに捨てられる(殺される)。彼の視線のもつ恐怖を知っているのは、アリーシャである。彼女はダイアモンド刑事に促されてブラウン逮捕に協力しようとするが、ブラウンの視線を見た瞬間にまた「死んで」しまう。

だが、一方でブラウンは、ダイアモンド刑事に対しては背を向けて会話するシーンが多い。あたかも彼が殺せない相手であることを、最初から察知していたかのようだ。そして、ブラウンが視線を向けても返さないのがスーザンである。この二人によって、最後はブラウンは法の網に絡め取られていく。

この不思議な「聞き手を避ける話者」の構図は、もともとは経済的な要請から来るものだったのであろう。ハリウッドで確立されたショット/リバースショットによる組立ては、「バーチャルな視点」を観客と共有する効果的な方法だ。だが、一方で、カメラ、照明、音響、時には衣装やセットなどの設置変更を余儀なくする不経済な方法でもある。この作品における経済的な制約とルイス監督の長回しへの偏好が、この聞き手の視線を避ける話者の構図を生んだのかもしれない。

実はこの構図での焦点深度はそれほど深くない。『ビッグ・コンボ』は全体的にディープ・フォーカスのショットが少なく、特にこの視線の交わらない構図では、焦点の位置はほぼ話者に絞られている。例えば、ブラウンとスーザンの会話の際には、手前のスーザンには焦点が合っているが、画面奥に配置されたブラウンは頻繁にぼやけて映し出される。この焦点の位置は、最後まで隠されていたスーザンとブラウンの力関係を暗示するものかもしれない。一見ブラウンがスーザンを支配しているかのように見えるのだが、ラストで明らかになるように、スーザンが意志を持てばブラウンを破滅させることができるという、彼女のファム・ファタールとしてのポテンシャルを暗示していたとも解釈できよう。

古臭さの風化

公開当時のNew York Timesの批評は、低予算映画に対する典型的な軽蔑が表れているのだが、ここで指摘されている「古臭さ」については一考する価値があると思う。

NYTの批評では、「この作品に登場する凶暴さと暴力は禁酒法の時代とともに風化したものだ」とされているが、実際はどうだろうか。ミスター・ブラウンの組織は、表向きはまっとうなビジネスを営む企業をフロントにして、陰で犯罪行為を犯していることが示唆されている。その犯罪行為で観客が実際に目撃するのが、ファンテとミンゴによる殺人とダイヤモンド刑事への拷問である。これが「禁酒法の時代とともに風化した」ものというのは本当にそうなのだろうか。当時のPCAの反応を見る限り、少なくとも映画スクリーンではかなり斬新な暴力表現だったようだ。さらに、20世紀中盤には、マフィアは合法的にカシノを経営したり、労働組合を通じて企業へ介入するなど、アメリカの資本主義に同化(寄生)しつつあった。こういった側面を考えるならば、ミスター・ブラウンの組織がそれほど時代遅れなわけでもない。むしろ、問題があるとすれば、その描き方であろう。具体的な業態を描くことなく、「ボロマック社といえば、ミスター・ブラウン、ミスター・ブラウンといえばボロマック社」という抽象的な描き方が、要領を得ないものになっているのは否めない。

これを『オーシャン通り711(1950)』や、『事件の死角(Shield for Murder, 1954)』と較べてみると、『ビッグ・コンボ』の問題がはっきりと分かる。『オーシャン通り711』に登場するマフィアたちは、アメリカ全土にはりめぐらしたギャンブルのネットワークを運営し、それには電信のリースをもとにした競馬中継も含まれていた。主人公は技術的知識と知恵をもってその組織に挑んでいく。ここに登場するマフィアとそれに対立する一匹狼の所業は、具体的に詳細に描かれていて、『ビッグ・コンボ』のような抽象的な概念ではない。

『事件の死角』では、刑事たちの経済的な立場と、自分が逮捕しようとしている悪者たちの裕福さとのギャップが描かれていた。このギャップは『ビッグ・コンボ』でもより明確に描かれる。ブラウンは平気で「週給96ドル」とダイヤモンド刑事の安月給をののしる。『事件の死角』の犯罪警官、グランジャーとほぼ同じレンジの月給(年5000ドル)である。しかし、グランジャーとダイヤモンドでは、見えている世界が明らかに違うのだ。『事件の死角』のグランジャーは郊外に一軒家をもつことが夢である。ここには、当時登場し始めたアメリカの郊外という場所についての描写がある。それに対して、ダイヤモンド刑事の執拗な捜査は、スーザンへの執着が原動力になっている。一方は郊外文化の端緒を見ながらそれに加わっていくことを夢見ているが、ダイヤモンドに見えているのは、同時代ではなくて「マフィアの女」なのだ。当時の批評家のなかに、これを古臭いと感じたものがいても不思議ではないのかもしれない。

ところが、それらの時代の文脈から開放されると、『ビッグ・コンボ』の、具体性を欠いたお伽噺の世界は、その古臭さそのものが風化しているのかもしれない。時代の文脈に縛られていた作品群たちよりも、より長寿なのかもしれないのは、それが理由なのだろうか。

製作モードの変貌

前述のスーザンへの焦点の当て方に関しては、演じるジーン・ウォーレスの夫、ワイルドが製作全般の指揮を執っていたこととも無関係ではないだろう。この作品においては、他にもウォーレスを真正面から撮る構図が頻繁に登場する。彼女を「美しく」撮影することが強く要請されていたのは一目瞭然だ。

『ビッグ・コンボ』は「B級ノワール」と呼ばれることもしばしばあるが、「B級」の定義があやふやであることや、時代とともに低予算映画製作へのアプローチが多様に変貌していったことも視野に入れなければならないだろう。クリス・ヒューゴは、『ビッグ・コンボ』はその製作において、高価なセットやロケーション撮影よりもスターのネームバリューに予算の重点が置かれたことを指摘している。特にジーン・ウォーレスが32歳、当時のハリウッドのキャリアパスから考えても岐路に立っていたことは間違いなく、それも手伝ってコーネル・ワイルドとのカップルというネームバリューに作品の重心をかけたのであろう。ジャック・パランスやリチャード・コンテといった少なくともセカンド・ビリングを張れる俳優を起用している点も重要だ。当時のハリウッド映画業界において、この製作陣と同じような位置にいたアメリカン・インターナショナル・ピクチャーズが、無名の俳優たちを活用してエクスプロテーションに特化した映画作りをしていたことと比較すると、実に対照的である。

撮影の大部分は、アライド・アーチスツ(旧モノグラム)のスタジオを使って行われた。ここではほぼ同じ時期にドン・シーゲル監督の『ボディ・スナッチャー/恐怖の街(Invasion of Body Snatchers, 1956)』も撮影されているが、『ビッグ・コンボ』と比較するとセットが豪華に見えるくらいである。『ボディー・スナッチャー』のほうが製作費が少ない($417,911)ことも考慮すると、『ビッグ・コンボ』のアプローチがかなり特異であったことがわかるだろう。

同時代の製作状況を重ね合わせてみると、『ビッグ・コンボ』に対する現在の評価、特にそのビジュアルに対する評価は、かなり偏向した評価軸であることが分かる。ロケーション撮影やセットを使った空間表現とは別の次元の、ほぼ演出と照明だけに依存したビジュアル評価である。一方で、当初の目論見であった「それなりのスター性」はすっかり失われている。時代とともに映画批評のトレンド、嗜好の流れが変わってしまえば、また忘れ去られてしまうこともありうる作品なのかもしれない。

Links

TCMのサイトでは、『ビッグ・コンボ』の製作に関わる事情が説明されている。特にPCAとのやり取りが詳細に記述されている。

星の数は2.5と少ないが、これはOlive FilmsのDVDリリースに特典が何も入っていなかったため。SlantのChuck Bowenによる評は一読の価値あり。

この作品は、DVD/ブルーレイも何種類か発売されているものの、映像がやはり気になるところ。どのDVD/ブルーレイを購入しようか迷っている方は、DVDBeaverの比較を見るのがおすすめ。

Data

アライド・アーチスツ配給 2/13/1955公開
B&W 1.85:1
87分

製作シドニー・ハーモンSidney Harmon出演コーネル・ワイルド
Cornel Wilde
監督ジョセフ・H・ルイス
Joseph H. Lewis
リチャード・コンテ
Richard Conte
脚本フィリップ・ヨーダン
Philip Yordan
ジーン・ウォーレス
Jean Wallace
撮影ジョン・オルトン
John Alton
ブライアン・ドンレヴィ
Brain Donlevy
音楽デヴィッド・ラクシン
David Raksin
リー・ヴァン・クリーフ
Lee Van Cleef
編集ロバート・S・アイゼン
Robert S. Eisen
アール・ホリマン
Earl Holliman

Reference

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