FILM

Nightmare Alley (1947)

悪魔の往く町
Nightmare Alley

20世紀フォックス配給
1947

君たちは一度『死の接吻』と『悪魔の往く町』の脚本を読んでみたらいいと思う。特に会話と丁寧に練られた出来事の展開という点において参考になるはずだ。
―― ダリル・F・ザナック、『出獄』のプロデューサーと脚本家にあてたメモ

Synopsis

スタン(タイロン・パワー)は旅回りのカーニバルで、ジーナ(ジョーン・ブロンデル)とピート(イアン・キース)と透視術のショーをやっていた。野心に満ちたスタンは、ジーナとピートがかつて特別な暗号を使って読心術のショーで大儲けをしていたと知って興味を持つ。ところがピートがアルコール浸りになってしまって、その術ができなくなってしまったのだ。ある晩、酒を欲しがるピートに、スタンは誤ってメタノールを与えてしまい、ピートは死んでしまう。出し物に困ったジーナは、スタンに読心術の暗号を教え、かつての人気を取り戻し始める。ところが、スタンと若いモリーとの仲がカーニバルの仲間たちにばれてしまい、二人はカーニバルを追い出されてしまう。しばらくして、シカゴの高級ナイトクラブで「グレート・スタントン」の読心術のショーが大人気になった。スタンとモリーの二人はジーナの暗号を使って一躍有名になっていたのだ。

Quotes

Carnival Owner: You know what a geek is, don’t you?
Stanton Carlisle: Yeah. Sure, I… I know what a geek is.
Carnival Owner: Do you think you can handle it?
Stanton Carlisle: Mister, I was made for it.

カーニバル団長:「ギーク」がどんなものかは知ってるだろ?
スタン:ええ・・・もちろん知っています。
カーニバル団長:やれるか?
スタン:ええ、私にぴったりですよ。

Production

暗鬱な原作の世界

原作はウィリアム・リンゼイ・グリシャムの同名の小説である。グリシャムは高校卒業後、様々な職業を転々としたが、1940年代にニューヨークのコニーアイランドのディキシー・ホテルに滞在して、カーニバルの世界を取材、ノンフィクションの「モンスター・ミッドウェイ」とフィクションの「ナイトメア・アレイ」を発表した。「ナイトメア・アレイ」は発表当初からその陰惨で救いのない描写が話題となったが、グリシャムはその後はめぼしい作品を発表することができず、それに伴ってアルコール依存症もひどくなっていた。妻のジョイ・デヴィッドソンに対して暴力をふるい、離婚(デヴィッドソンはその後C・S・ルイスと再婚)したのち、フーディーニの伝記を出版するなどしていたがほとんど注目されず、1962年に「ナイトメア・アレイ」を執筆したディキシー・ホテルで自殺した。まるで、自らの作品に登場する、「ギーク」のような人生を送ったといえるかもしれない。彼の作品は、英語圏でもいまだに「ナイトメア・アレイ」以外、ほとんどが絶版になったままである。

この作品を理解するうえで重要な鍵となるのは、「ギーク(geek)」という見世物である。現代の英語では、「geek」は「変人」「変わり者」くらいの意味で、いわゆる「nerd」と近い意味をもつ言葉である。しかし、原作が発表された1940年代当時においては、カーニバル、サーカスなどの巡業型の興行の業界において、「ギーク」は全く別の意味を持っていた。一説には19世紀から存在したと言われる見世物の一種で、囲いのなかに動物と閉じ込められた人間(ギーク)が、その動物の首を食いちぎる様子を見せる、ショッキングなものである。当初は、この動物は蛇だったのだが、入手の容易さなどの理由で、鶏を使用するようになっていたらしい。この見世物が、いわゆる他のフリークスと相違する点は、他のフリークスがシャム双生児や小頭症のように、身体的な「畸形」を見世物にしたのに対し、このギークは一見「普通の(身体的畸形がない)」人間の見世物であったことである。見物人は、シャム双生児を「自分はあのようにはならない」という認識のもとに見物するが、ギークは見物人自身と地続きであり、「自分もあのようになるかもしれない」という恐怖を生み出すのだという。

実際には、ギークはアルコール中毒などで生活を放棄してしまった者がなる場合がほとんどだったと言われている。カーニバルのなかでも最も低い賃金で、酒を餌にして「飼いならし」、興行していたらしい。代わりになる者はたくさんいるので(その点、身体的畸形を有するフリークスと異なる)、カーニバル仲間からも最も蔑まれた。

この、ギークとの地続きの感覚こそ、この映画の基礎となる部分である。

タイロン・パワーの冒険

1930年代にスターダムにのし上がった男性俳優たちは、第二次世界大戦を契機に起きた観客の嗜好の変化に敏感に反応していた。特にコメディやミュージカルで売っていた俳優たちは、もはや若くないことも手伝って、自分たちが「演技もできる」ことを証明しようとし始めていたのである。『深夜の告白(Double Indemnity, 1944)』のフレッド・マクマレー、『ブロンドの殺人者(Murder, My Sweet, 1944)』のディック・パウエル、『出獄(Call Northside 777, 1947)』のジェームズ・スチュワートなど、ここでも取り上げたが、ハードボイルドのタフガイを演じてキャリアの転換を図った人気俳優は多い。その流れのなかでも、『悪魔の往く町』のタイロン・パワーの試みはひときわ異彩を放っている。

タイロン・パワーは、18世紀から続く演劇一族の血をひく、生まれながらの俳優である。彼の曽祖父から「タイロン・パワー」を名乗り、彼の父もタイロン・パワーという名であったため、便宜上、デビュー当時彼は「タイロン・パワー・ジュニア」、彼の父は「タイロン・パワー・シニア」と呼ばれていた。ジュニアが取れて「タイロン・パワー」となった頃には、ハリウッドでは、『怪傑ゾロ(The Mark of Zorro, 1940)』『血と砂(Blood and Sand, 1941)』『海の征服者(Black Swan, 1942)』などの剣戟アクションや歴史映画に数多く出演し、20世紀フォックスの稼ぎ頭の一人となっていた。ヘンリー・キングは、パワーのハンサムな風貌と身のこなしを高く評価して、幾度も彼を主演にした作品を監督している。

パワーは1946年にサマーセット・モーム原作、エドマンド・グールディング監督の『剃刀の刃(The Razor’s Edge, 1946)』の主人公、ラリー・ダレルを好演し、彼の出演する作品の興行成績も伸びていた。タイロン・パワー自身がスタンの役を演じることを念頭に、20世紀フォックスに「ナイトメア・アレイ」の映画化権を$50,000で購入させたという説もある。しかし、映画化権を購入した際にはマーク・スティーブンスが主演として発表されており、真偽のほどははっきりしない。いずれにせよ、タイロン・パワーは、この作品によって今までの自らのスクリーン・イメージを変革することに挑戦したのは間違いない。

「ハリウッドには、これをプリントするセルロイドがない」

1946年の11月に、20世紀フォックスはウィリアム・キーリーを監督に迎えて「ナイトメア・アレイ」の映画化にとりかかることを発表した。その後幾度かスタッフ・キャスティング変更を重ねて、1947年3月に、エドマンド・グールディング監督、タイロン・パワー主演が固まった。脚本は、ジョセフ・フォン・スタンバーグの作品を数多く手がけてきたジュールズ・ファースマンが担当することになった。

もちろん、この作品の映画化は決して楽なものにはならなかった。原作の陰湿な世界観とそれを表現する言語、また性的描写や差別表現、残酷なシーンなど、そのまま使用すると、当時のPCAのルールではとても配給を許可されるものにはなりそうになかった。

出版社は、こんな強烈な作品を印刷できる紙を見つけてくるのだが、映画のプロデューサー達はこれをプリントできるセルロイドを見つけることはできないだろう。「ナイトメア・アレイ」映画化に対する、オーソン・ウェルズのコメント

各シーンの描写は抑制されたものになり、プロダクション・コードが描写を禁止していた近親相姦、不倫、違法中絶をほのめかすプロットもほぼすべて取り除かれた。一方で、出来上がってきた脚本を見てザナックが懸念し始めたのは、キャラクター達の描写である。主役のスタンにしても、モリーにしても、共感を呼びにくいキャラクター造形になってしまっていた。ザナックは、観客が寄り添うことのできるキャラクターが必要だと考えていた。

観客が同情する人物が一人必要だ。観客が、物語の最後には困難に打ち勝ってほしい、と願う、そういう人物だ。ダリル・F・ザナック、1946年11月のアウトラインに対するコメント

ザナックは当初、このキャラクターはモリーだと考えていた。ところが、稿を重ねていくうちに、要所要所においてスタンも観客が同情を持ちうるキャラクターとして変貌していった。

スタンに関して言えば、そのひどい悪行にも関わらず、同情できるキャラクターにおおかた仕立て上げることができたと思う。 ダリル・F・ザナック、1947年2月の稿に対するコメント

特にザナックは、スタンがピートの死に罪悪感を感じていることを盛り込んでいくよう、念を押した。最終的には、スタンは心理術詐欺で一儲けしようとしているだけの利己的な男でなく、罪悪感に苛まれ、それでも妻の行く末に気をかける、立体的なキャラクターとして描かれた。

カーニバルがやってきた

記録によると、20世紀フォックスは、『悪魔の往く町』のために撮影所内に90ものセットを作らせた。その面積は10エーカーにも及んだという。1947年8月には、東海岸からカーニバル団を二団体(フェイマス・フェリスショーとパターソン・ヤンキー・サーカス)呼んで、実際のカーニバルの様子をバックグランドとして撮影した。このとき、数多くのハリウッドのスター達が見物にあらわれ、それこそ「町にカーニバルがやってきた」といった具合の盛り上がりようだったらしい。ジョーン・クロフォードはキューピー人形を獲ろうと輪投げに挑戦し、グレゴリー・ペックは力比べマシーンに夢中になり、レックス・ハリソンは火食い術を習っていた。グールディング達はホットドッグの出店も用意して、ハリウッドのパーティーに飢えた連中に話題を提供し、20世紀フォックスのジョン・キング(ヘンリー・キング監督の息子)はゴシップ記者を撮影に連れて行って記事を書かせていた。

エドマンド・グールディングは、その長いキャリアにもかかわらず、『グランド・ホテル(Grand Hotel, 1932)』ばかりが取り上げられる、やや不幸な監督である。ベティ・デイビスの作品においてもその確かで堅実な演出は活かされているし、あらゆるジャンルの映画をそつなくこなすベテランであった。『悪魔の往く町』では、やはりベテランの撮影監督、リー・ガームスと組んでいる。ガームスによれば、グールディングは撮影中は演技指導に集中していて、カメラは常に演者を追っかけるかたちになっていたという。

私の知っているなかで、グールディングは、役者をフレームから出たり入ったりさせない、唯一の監督だった。リー・ガームス

「役者をフレームから出たり入ったりさせない」というのは、役者が場面に登場したり退場したりするときには必ずフレームに映っているドアを開けて入ってくる/出て行く、階段から降りてくる/上がっていく、何かの背後から現れる/隠れる、といった具合に、その人物が登場/退場する様子をフレーム内でとらえている、ということである。ガームスは、「フレームに突然誰かが入ってきたり、フレームの外に消えたり」する演出法よりも気に入っていたようだ。

実際に出演していた俳優達も、演技指導に集中するグールディングの演出スタイルに馴染んでいた。

グールディングは、辛抱強く、(演技について)丁寧に指導してくれる。私たちがキャラクターを理解し、動機を理解できるように。マイク・マズルキ

モリー役のコリーン・グレイは、後年のインタビューで、撮影中のことを語っている。スタンに詐欺の話を持ちかけられてモリーが動揺する重要なシーンで、彼女の演技がやや硬くなってしまっていた。グールディングはそのとき彼女に「キャベツのことを考えなさい」と指導したという。「キャベツのことなんか、考えられません」と彼女が反論すると、「いや、それでもキャベツのことを考えるんだよ」とグールディングは言うのである。実際にその通りにすると、OKが出た。彼女が「やりすぎている」のを修正するためのグールディングなりの演出方法だった。

撮影は1947年7月に終了。グールディングは作曲するのが好きで、この映画でも数曲短いメロディーを提供している。

Reception

『悪魔の往く町』は、公開時、芳しい反応を得られなかった。

この映画が横断的に見せるのは悪趣味な物語の世界であり、エンターテイメントとしては、中身のあるものをほとんど提供できていない。New York Times

出演者の演技に関してはおしなべて好評価であった。

この作品には特に同情できるキャラクターも感心する人物も登場しないが、演技、演出、そして製作が優れているお陰で、心に残るドラマに仕上がっている。Variety

興行的には失敗したが、ザナックはそれでもこの作品の脚本を優れたものとして他のプロデューサー達に研究するように勧めている。

『悪魔の往く町』が再評価されるようになったのは、公開後10年以上経過してからである。チャールズ・ハイアムとジョエル・グリーンバーグの著書「ハリウッド40年代(Hollywood in Forties, 1968)」は『悪魔の往く町』を取り上げ、グールディングの演出を「稀に見る切れ味の鋭さ」と高く評価している。ただ、この作品は、プロデューサーのジョージ・ジェセルと20世紀フォックスのあいだの著作権係争のために、長いあいだ流通が制限されてしまっていた。FoxやEureka!のDVD販売とともに、アラン・シルバー、ジェームズ・ウルシニ、ウディ・ハウトの詳細な分析が広く知られるようになり、それまでの「変わり種ノワール」の位置づけから、極めて深い心の闇を抉り出そうとした作品として再々評価され始めている。

Analysis

繰り返し登場するセリフとモチーフ

フィルム・ノワールの研究家、アラン・シルバーとジェームズ・ウルシニが『悪魔の往く町』について指摘したことのひとつに、「繰り返し登場するセリフとモチーフ」がある。そのなかでも最も重要な軸を形成しているのが、スタンのこのセリフだ。

I was made for it.

これは、映画の冒頭で、スタンがジーナに「この仕事、好きなんでしょう」と聞かれて答えるセリフである。彼は、今まで散々色んな仕事に就いてきたが、カーニバルで見世物の呼び込みをやっているのが最も性に合っているという。「自分はこのために生まれてきたようなもんさ」「自分にはこれがぴったりだ」という意味合いのこのセリフは、スタンがこのジーナの呼び込みを実に活発に行なっている様子を裏付けている。

一方、映画のラストでは、再度スタンがこのセリフを言うことになる。アル中になり、廃人となってしまったスタンに、カーニバルの団長が仕事をオファー、「ギークの仕事をやれるか」と聞いてくる。それに対して、彼は「ああ、そのために生まれてきたようなものさ」と答えるのである。この繰り返しは、物語の大きな弧のなかで変化したスタンの境遇と彼の心理の変化を表す、見事な仕掛けだ。同じ人物が同じセリフを言っているが、そのあいだに彼自身は野心を打ち砕かれ、身体と心を蝕まれてしまった。

違う人物が同じセリフを言う、という仕掛けもある。

太古の昔から、人間はヴェールの向こうを覗いて未来を知りたがった。そして、太古の昔から、水晶を覗いて、未来を視た者がいた。それは水晶の性質なのか?それとも未来を視る者は、水晶を使って自らの心の中を覗き込んだのか?どうだろう?だが、見えてくる。形を少しずつ現しはじめている・・・見えてくる。ほら、ハッキリとしてきた。草原が見える。丘もみえる。少年だ。丘を少年が裸足で走っている。少年の犬も一緒だ。犬が一緒に・・・

まず、物語のはじめのほうで、ピートがスタンに、このエセ霊視を見せる。そして、ピートは、驚いたスタンにその仕掛けを教えるのだ。「子供のときには誰だって犬を飼ってただろ?」と、誰にでもありそうな話をあたかも「視た」ように語る手口である。ピートは、かつてジーナと組んで「霊視」「透視」トリックで人気だったのだが、すっかりアルコールの悪魔に取り憑かれてしまっていた。彼がカーニバルでギークまで堕ちていないのは、ジーナが面倒を見ているおかげだ。

物語の終盤、スタンが落ちぶれ、浮浪者たちの仲間入りをしたのち、彼がこのトリックを浮浪者たちに披露する。彼はピートと同じセリフを言い、そして同じように種明かしをする。だが、ピートが披露したときとは違う結末を迎える。ピートには、そのトリックに感銘を受け、その騙しの技術に魅了された、スタンがいた。しかし、スタンの聞き手の浮浪者達は、ピートの話などには興味はなく、愚弄した挙句に残っていたウィスキーをぶん取っていってしまう。この繰り返されるセリフは、相似形ではあるものの、同一ではなく、スタンの境遇の悲惨さをより際だたせるために効果的に変形させられている。

ビジュアルなモチーフも繰り返される。特に、透明な液体の入ったガラス瓶のモチーフは重要だ。これは、ジーナの出し物のシーンで観客が書いたメモを焼くための「木精(メチルアルコール)」の瓶として登場する。透明なガラスの瓶に透明な液体が入っている。全体的に暗鬱な画面のなかで、この透明な瓶と透明な液体は際立った輪郭と光彩を放っていて、印象的だ。深夜、みんな寝静まったカーニバルの一行のなかで、ひとり眠れないでいるスタンは、密造酒を手に入れる。この密造酒も透明な瓶に入った透明な液体だ。この「透明な瓶のなかの透明な液体」が悲劇をもたらしてしまう。スタンが木精と密造酒を取り違えてしまったことが原因で、ピートは死んでしまう。闇に囲まれたこの世界では、透明で煌めくものは死を呼ぶらしい。このビジュアルモチーフは、スタンが酒に溺れるきっかけとなる、「最初の一口」のときにも登場する。

ジーナが使うタロットカードは、プロットの進む方向を暗示する重要なモチーフである。ピートの死を予言するかのごとく現れた「吊るされた男」のイメージが、スタンの人気が最高潮に達している時に再度現れる。このイメージは、スタンの底なしの没落を暗示するものになるのだろう、という予感を観る者に起こさせる。タロットは運命を示唆し、彼の「I was made for it」というセリフと呼応する。果たして、スタンの彷徨は、彼が選んだものなのか、それとも定められた運命をなぞっているのか。物語は重層的に運命と自由意志をオーバーラップさせて問いかけてくる。

サイレンの音

シカゴのナイトクラブで「透視術師」として一躍人気者になったスタンとモリー。だが、スタンはそこで知り合った精神科医のリリスと親しくなっていく。スタンが興味をもったのは、リリスが密かに録音している患者とのセッションの内容だ。これを使えば、いくらでも金持ちを騙せると考えたスタンは、リリスを説き伏せて、患者の一人で金持ちのグリンドルの情報を引き出させる。グリンドルが若い頃に失った恋人の霊に会いたがっていることを知り、モリーに霊を演じさせて一儲けしようと企む。ところが、良心の呵責に耐えかねたモリーが幽霊を演じきれず、失敗。スタンとモリーは高飛びしようとするが、スタンはリリスから受け取った封筒にたった150ドルしか入っていないことに気づく。彼は、リリスの部屋へ忍び込み問い詰めるが、リリスのメイドが拳銃をもって現れ、形勢は逆転してしまう。

リリスはスタンだけが詐欺を働こうとしたこと、スタンの主張など誰も聞かないことを、得々と説明し、勝ち誇ったようにスタンを追い詰める。ビルの外でサイレンの音が聞こえ、スタンはリリスに「警察を呼んだのか」と尋ねる。

リリスは答える。

何も聞こえないわ。

このセリフは驚異的な破壊力を持っている。

サイレンの音は、観客にはハッキリと聞こえている。我々は、ビルの外に警察のパトカーが近づいてきているのだと考える。それはスタンも同じだ。だが、リリスは「何も聞こえない」というのだ。

リリスは嘘をついているのだろうか。もちろん、その可能性はある。リリスはスタンに病院に行くことを示唆する。邪魔者を精神病患者扱いしようとしているのかもしれない。

だが、このサイレンの音は本当に存在しないのかもしれない。スタンが心のなかで聞いている音なのかもしれない。

サイレンの音の存在の不安定さ―――アラン・シルバー/ジェームズ・ウルシニ、そしてデビッド・ボードウェルも指摘している―――は、フィルムの虚構と観客の意識の境を打ち消してしまう仕掛けとして極めて興味深い。フィルム・ノワールにおける「自意識の物語」の仕掛けのなかでも特に異質なものだろう。「観客が聞いている」ということが、フィルムの中の虚構の世界における現実なのか、妄想なのかがはっきりしないまま、私達はスタンの存在が崩壊していくさまを見る。

さらに、ボールドウェルも指摘しているが、「役者をフレームから出たり入ったりさせない」グールディングの演出において、このシーンにおけるメイドは例外的に「フレームから外へ出ていって消える」のである。もし、人物が退場する際には必ずそれを画面内で示すのなら、この場合のメイドは退場していない(部屋から退出していない)ことになる。つまり、メイドはこのリリスとスタンとの間のやり取りを一部始終聞いているのだ。メイドはこれをどう捉えたのだろうか。そして、その後もリリスのやることに一切介入せずに聞いているだけなのだろうか。

このシーンには、実に多種多様のパラレルワールドが存在し、その各々が微妙に違う悪意に満ちている。

観客が寄り添う視線

サイレンの音を聞くとき、観客の意識はスタンに近接している。この作品が機能している最大のポイントは、スタンという男が、他人を嫌悪し、差別し、人をだますような、モラルに欠ける人間にもかかわらず、観客が同情することのできるギリギリの「弱さ」を有している点である。これは前述したように、ザナックが脚本の段階で主張した点であった。さらにザナックが、スタンの罪の意識について指示したことも重要だ。

スタンは、ピートの死にひどく動揺しているべきだ ダリル・F・ザナック

ピートの死は不幸な事故だ。スタンは、ピートに酒を飲ませるべきではないと思いつつも、下心も働いて自分の密造酒を飲ませてしまう。ところが、それは別の瓶だった。次の朝、ピートの死の知らせを聞き、そしてその原因となった瓶を眼にした時のスタンは、得体の知れない罪を背負うことになった弱い男、そのものである。物語が進むに連れて、スタンを蝕んでいくのは、この罪の意識が源泉にあることが分かる。

ザナックは、「ピートの死に対する罪の意識から、スタンはジーナと関係を持てなくなってしまう」という点を盛り込むように指示している。スタンの女性との関係は、他のノワール作品と比べても非常に特異である。スタンにとって、ジーナは当初は愛人だったが、途中から母親のような存在になっていく。リリスは明らかにファム・ファタールであるが、スタンとリリスのあいだに性的関係がほとんど認められない。スタンはリリスに関しては、性的対象としてではなく、詐欺の仲間という意識で接しているのが明らかだ。リリス自身は、スーツを着たり、モーターボートを乗りこなしたりと、アンドロジェナスな存在として描かれており、いわゆる「女性的な」アピールでスタンを破滅に導いたわけではない。スタンは妻のモリーを詐欺で利用しようとはしたが、それでもモリーに対しては誠実であり、最後の僅かな金もモリーに渡してしまう。

フィルム・ノワールでは、女性に執着して自分の欲望を投影したうえで破滅する男性の姿を描き、セックスが破滅の物語の動力となっていることが多い。ところが『悪魔の往く町』はそういった「男性の女性に対する執着」から離れて、もっと根深い罪の意識にさいなまれる男の話である。悪事や嘘をつくことは平気な一方で、不慮の事故で亡くした友人への罪悪感がゆっくりと追いついてきてしまうスタン。ザナックが「観客が同情できるキャラクター」を追求したことで生まれた物語である。

Links

『悪魔の往く町』についてのデビッド・ボールドウェルの分析は、決して典型的とはいえないこの作品を読み解く重要な手がかりを提供している。

ウッディ・ハウトの分析も非常に興味深い。

DVD Beaverは、現在市場で購入できるDVD、ブルーレイの画像品質を比較している。購入を検討している人は必見。

ギレルモ・デル・トロがつい最近(2017年12月)この作品のリメイクを発表した。

Data

20世紀フォックス・ピクチャーズ配給 10/9/1947公開
B&W, 1/37:1
110分

製作ジョージ・ジェセル
George Jessel
出演タイロン・パワー
Tyrone Power
監督エドマンド・グールディング
Edomund Goulding
ジョーン・ブロンデル
Joan Blondell
脚本ジュールズ・ファースマン
Jules Furthman
コリーン・グレイ
Coleen Gray
原作ウィリアム・リンゼイ・グレシャム
William Lindsay Gresham
ヘレン・ウォーカー
Helen Walker
撮影リー・ガームス
Lee Garmes
マイク・マズルキ
Mike Mazurki
音楽シリル・J・モックリッジ
Cyril J. Mockridge
編集バーバラ・マクリーン
Barbara McLean

References

[1] M. Kennedy, Edmund Goulding’s Dark Victory: Hollywood’s Genius Bad Boy. Terrace Books, 2004.
[2] R. Behlmer, Memo from Darryl F. Zanuck: The Golden Years at Twentieth Century-Fox. Grove Press, 1995.